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  11. 吉田兼好

吉田兼好

ジャパンナレッジで閲覧できる『吉田兼好』の国史大辞典のサンプルページ

吉田兼好
よしだけんこう
生没年不詳
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての歌人・随筆家・遁世者。本名、卜部兼好(うらべのかねよし)。『尊卑分脈』によれば、卜部家は天児屋根命(あめのこやねのみこと)の子孫で、神祇官として代々朝廷に仕えたが、平安時代中期の兼延の時に、一条院から御名の懐仁(かねひと)の「懐」と通ずる「兼」の字を賜わってからは、それを系字として代々名乗るようになった。そして、兼名に至って、卜部家の本流から分かれて支流となり、朝廷の官吏となったが、兼好は兼名の孫にあたり、長兄に天台宗の大僧正慈遍、次兄に民部大輔兼雄がいた(卜部家が吉田と称するようになったのは、室町時代の兼熙(かねひろ)からであって、吉田兼好という呼称は、鎌倉時代・南北朝時代のいかなる史料にも全くみえず、また、卜部家の本流の姓をさかのぼって支流の出である兼好にまで及ぼす必要もない。したがって、江戸時代に捏造された「吉田兼好」という俗称は学問的には否定されるべきである)。なお、林瑞栄により、兼好は武蔵国金沢(かねざわ)家の御内伺候人の子弟であり、したがって関東の生まれであること、『金沢文庫古文書』中にみえる倉栖兼雄は兼好の兄であることなどが主張されている(『兼好発掘』)。風巻景次郎は、成長した兼好が久我家(こがけ)の家司(けいし)を勤めたことを推定している。その後、朝廷に仕え、官は蔵人を経て左兵衛佐に至っているが、仕官中、大覚寺統の歌道師範たる二条為世について和歌を学び、多くの公卿・廷臣に接して、有職故実の知識を得、また、恋愛をも経験している。しかし、彼の内に熟して来た出家・遁世の意志は、『大徳寺文書』によると、正和二年(一三一三)九月には、六条三位家から水田一町を九十貫文で買い取った田地売券のなかに、すでに「兼好御房」とみえているので、この時までに実現していたものと推定される。『兼好法師家集』のなかに、「さても猶(なほ)世を卯(う)の花のかげなれや遁(のが)れて入りし小野(をの)の山里」の一首があることによって、遁世後、居住した所が京都の東郊、山城国山科小野荘の地(京都市山科区山科)であることがわかり、そこは、六条三位家から買い取った水田一町の所在地でもある。彼は退職宮廷官吏としての経済的地盤をそこに置いたものといえよう。小野荘において、彼は『徒然草』の第一部(第三十二段まで)を元応元年(一三一九)に執筆し、勅撰の『続千載和歌集』『続後拾遺和歌集』、私撰の『続現葉和歌集』に入集し、二条派の歌人として世に認められているし、二度も関東に下り、鎌倉および金沢(横浜市金沢区)に住んでいる。『金沢文庫古文書』には、兼好自筆の幾つかの文書や関係史料がみいだされる。元弘の乱以後の時代に入ると、彼は北朝側に属して京にとどまり、『徒然草』の第二部(第三十三段から末尾まで)を元徳二年(一三三〇)から翌年にかけて執筆し、建武三年(一三三六)ごろから上・下二巻に編成して、その際、いくつかの段を補入・添加したらしい。また頓阿(とんな)・浄弁(じょうべん)・慶運(きょううん)とともに、二条派の和歌四天王と呼ばれ、勅撰の『風雅和歌集』『新千載和歌集』『新拾遺和歌集』、私撰の『藤葉(とうよう)和歌集』にそれぞれ入集し、二条派の歌学者・歌人として次第に世に認められるに至った。康永三年(一三四四)に、足利尊氏が多くの人々に働きかけてまとめた『宝積経要品(ほうしゃくきょうようぼん)短冊和歌』の中に、和歌四天王のほかの三人とともに、五首を詠じて収められている。また、『太平記』巻二一の「塩谷判官讒死事」の中に、塩谷判官の妻、顔世に横恋慕した、北朝の権力者で足利尊氏家の執事たる高武蔵守師直が、「兼好と云ひける、能書(のうじょ)の遁世者」に艶書の代作を命じた記事があり、洞院公賢(とういんきんかた)の日記『園太暦(えんたいりゃく)』には、二度、兼好来訪の記事があって、「和歌ノ数寄者(すきもの)也」と書いているので、歌人・能書家・有職故実家として世に認められていたことが推定される。また、観応三年(一三五二)には、二条良基作の『後普光園院殿御百首』に合点(がってん)を付しているので、このごろまで生存していたことがわかる。没年月・没処が不明なのは、京都以外の地で世を去ったためと思われる。著作には、建武三年ごろ、現在の形のごとくまとめられた随筆『徒然草』二巻と、『風雅和歌集』(貞和四年(一三四八)成立)撰進のための資料として集成した、自筆の『兼好法師家集』一巻(尊経閣文庫蔵)がある。公武の対立する時代の動きに対して、時勢に随順して生きた文化人たるところに、しかも、公武のそれぞれに批判的であることによって、二つのものの止揚・統一を『徒然草』の中にめざしているところに、彼の中世人としての真面目が見いだせる。→兼好法師家集(けんこうほうしかしゅう),→徒然草(つれづれぐさ)
[参考文献]
『大日本史料』六ノ一三 観応元年四月八日条、安良岡康作『徒然草全注釈』(『日本古典評釈・全注釈叢書』)、西尾実『つれづれ草文学の世界』、冨倉徳次郎『卜部兼好』(『人物叢書』一一五)、風巻景次郎「家司兼好の社会圏」(『風巻景次郎全集』八所収)
(安良岡 康作)
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検索ヒット数 112
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検索コンテンツ
1. よしだけんかう【吉田兼好】
全文全訳古語辞典
[人名]鎌倉末期の歌人・随筆家。一二八三年(弘安六)?~一三五二年(正平七)?。本名はト部兼好。京都吉田神社の神職の家に生まれ、宮廷に出仕して和歌の才をもって世 ...
2. 吉田兼好
世界大百科事典
1283?-1353?(弘安6?-正平8?・文和2?) 鎌倉末~南北朝期の歌人,随筆家。本名は卜部兼好(うらべのかねよし)。出家ののち俗名を兼好(けんこう)と音 ...
3. よしだ‐けんこう【吉田兼好】
日本国語大辞典
れ、「兼好自撰家集」がある。なお、卜部家が吉田を称するようになったのは後の時代であるから、「吉田兼好」は近世以降の俗称と考えられる。弘安六頃〜観応三年以後(一二 ...
4. よしだけんこう【吉田兼好】
国史大辞典
次兄に民部大輔兼雄がいた(卜部家が吉田と称するようになったのは、室町時代の兼熙(かねひろ)からであって、吉田兼好という呼称は、鎌倉時代・南北朝時代のいかなる史料 ...
5. よしだ-けんこう【吉田兼好】
日本人名大辞典
1283ごろ−? 鎌倉-南北朝時代の歌人,随筆家。弘安(こうあん)6年ごろの生まれ。生家は京都吉田神社の神職。卜部兼顕(うらべ-かねあき)の子。慈遍の弟。卜堀川 ...
6. 吉田兼好[文献目録]
日本人物文献目録
最近に得たる兼好法師家集』野村八良『吉田兼好』唐木順三『吉田兼好』平田禿木『吉田兼好小伝』井上嬉内『吉田兼好の人間観 「徒然草」の一研究』宮西一積『吉田兼好論』 ...
7. Yoshida Kenkō 【吉田兼好】
Encyclopedia of Japan
ca 1283−ca 1352 Also known as Urabe Kenko. Author best known for his Tsurezuregu ...
8. 吉田兼好
日本大百科全書
→兼好 ...
9. よしだ‐けんこう【吉田兼好】
デジタル大辞泉
⇒兼好(けんこう)  ...
10. 徒然草
日本古典文学全集
〉思いつくまま書き記したという卜部兼好(うらべかねよし)による随筆。江戸時代になって広く読まれるようになり、吉田兼好という俗称が一般的になった。全244段で構成 ...
11. 吉田兼好花押[図版]
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
12. es・say音声
ランダムハウス英和
Pope 作の教訓詩(1733-34)[文学・著作物]Essays in Idleness『徒然草』吉田兼好の随筆(1331)[文学・著作物]Essays of ...
13. あがぐん【英賀郡】岡山県:備中国
日本歴史地名大系
包摂する広域の庄園で、当初は京都金剛心院領、のち山科家の根本所領となった。正和二年(一三一三)吉田兼好へ売却された田地の抵当地に「中津井庄田地」があり、その後中 ...
14. いせしんとう【伊勢神道】
国史大辞典
著わした『神懐論』『旧事本紀玄義』『豊葦原神風和記』をあげねばならない。慈遍は卜部氏の出で、吉田兼好の兄弟にあたる。その神道説には伊勢神道の影響が強くあらわれて ...
15. 一休ばなし(仮名草子集) 230ページ
日本古典文学全集
「おぼしき事いはぬははらふくるるわざなれば」(徒然・十九段)。「住む」と「済む」の意をかける。この序文は吉田兼好の『徒然草』の文章の影響をかなり受けている。 ...
16. 隠者
日本大百科全書
さまざまである。慶滋保胤(よししげのやすたね)や西行(さいぎょう)、鴨長明(かものちょうめい)、吉田兼好(けんこう)などが知られるが、藤原道長(みちなが)や平清 ...
17. うらべ‐かねよし【卜部兼好】
日本国語大辞典
〓よしだけんこう(吉田兼好) ...
18. うらべ-かねよし【卜部兼好】
日本人名大辞典
吉田兼好(よしだ-けんこう) ...
19. うらべけんこう【卜部兼好】
国史大辞典
吉田兼好(よしだけんこう)  ...
20. うらべ-けんこう【卜部兼好】
日本人名大辞典
吉田兼好(よしだ-けんこう) ...
21. うらべのかねよし【卜部兼好】
全文全訳古語辞典
[人名]⇒吉田兼好  ...
22. エッセイ
日本大百科全書
かものちょうめい)の『方丈記』が生まれた。鎌倉時代後期には「日本のモンテーニュ」ともいうべき吉田兼好が、『徒然草(つれづれぐさ)』を著して隠遁(いんとん)者とし ...
23. 江戸小咄集 1 138ページ
東洋文庫
食傷でもするだろふ」(一)汝には (二)小々癩にさわることが多くて (三)『つれづれ草』なる書物、吉田兼好の著作で、思索的随筆や見聞記をまとめた内容 ㊧頁をくる ...
24. 江戸小咄集 1 163ページ
東洋文庫
本ばかり見て、ろくな者にはなるまい、しまいには吉田のけんぎやう」(一)吉田兼好を間違っていった。検校であれば盲人である。吉田兼好は『つれづれ草』の作者〔富〕富の ...
25. おぐら-さねのり【小倉実教】
日本人名大辞典
二条派の歌人で,歌は「新後撰和歌集」以下の勅撰集に71首とられている。「藤葉和歌集」の撰者であり,吉田兼好と親交があった。貞和(じょうわ)5=正平(しょうへい) ...
28. 仮名手本忠臣蔵(浄瑠璃集) 18ページ
日本古典文学全集
攻め滅す〈其頃、吉田の兼好と云人、師直に頼まれてかの艶書を書くと云へり〉」。この師直の艶書を吉田兼好が代筆したことは『太平記』二十一「塩冶判官讒死事」にあり、近 ...
29. かわきすなご【乾砂子】
国史大辞典
鎌倉の中書王(宗尊親王)邸での蹴鞠の折、雨後のため鋸屑をまいたのに対する吉田中納言(藤原冬方)の言に関連して吉田兼好も、「庭の儀を奉行する人、乾き砂子を設くるは ...
30. きのさきおんせん【城崎温泉】兵庫県:城崎郡/城崎町/湯島村
日本歴史地名大系
丹後の天の橋立御覧じにとておはします、それより但馬の城の崎のいで湯めしに下らせ給ふ」とある。吉田兼好も訪れており、「花のさかりたしまのゆよりかへるみちにてあめに ...
31. きびだいじんにっとうえまき【吉備大臣入唐絵巻】
国史大辞典
れにあたる。この一巻は全長二四メートル余の長巻であったが、近年四巻に改装された。巻尾に詞書を吉田兼好筆と鑑した烏丸光広の識語がある。ほかに詞書飛鳥井雅経、絵常盤 ...
32. きんらいふうていしょう[キンライフウテイセウ]【近来風体抄】
日本国語大辞典
(「きんらいふうたいしょう」とも)南北朝時代の歌論書。一巻。二条良基著。嘉慶元年(一三八七)成立。頓阿、慶運、吉田兼好、藤原為忠、藤原為秀ら当時の歌人についての ...
33. 義経記 1 275ページ
東洋文庫
『平家』がいつの時代に何人によって作られたかということは、まだ完全に解明されてはいない。しかし、吉田兼好は『徒然草』(第二百二十六段)に、信濃前司行長という人が ...
34. 擬古文
世界大百科事典
った。文字どおり古になぞらえる文の意で,この場合の古とは平安時代をさしている。広義に解すれば吉田兼好の《徒然草》なども擬古文の一種といえるが,ふつうは江戸時代中 ...
35. 慶運
世界大百科事典
〓院に仕え,後に法印に至る。吉田兼好,頓阿,浄弁とともに二条派為世門の和歌四天王の一人。貴顕の信望を得て公武歌界で活躍したが,生 ...
36. けいうん【慶運】
日本人名大辞典
南北朝時代の歌人,僧。浄弁の子。天台宗。尊円,尊道の両入道親王につかえ,法印となる。頓阿(とんあ),吉田兼好,父浄弁とともに二条為世(ためよ)門下の和歌四天王と ...
37. けんかう【兼好】
全文全訳古語辞典
[人名]⇒吉田兼好  ...
38. 兼好
日本大百科全書
鎌倉後期の隠者で歌人、随筆家。俗名卜部兼好(うらべのかねよし)。その名を音読して法名とした。後世「吉田兼好」とよばれている。吉田社を預る家の庶流に生まれた。父は ...
39. 兼好
世界大百科事典
吉田兼好 ...
40. けんこう【兼好】
デジタル大辞泉
[1283ころ〜1352ころ]鎌倉後期から南北朝時代の歌人・随筆家。本名、卜部兼好(うらべかねよし)。吉田兼好は後世の俗称。後二条天皇に仕えて左兵衛佐(さひょう ...
41. けんこう[ケンカウ]【兼好】
日本国語大辞典
〓よしだけんこう(吉田兼好) ...
42. けんこう【兼好】
国史大辞典
吉田兼好(よしだけんこう)  ...
43. けんこう【兼好】
日本人名大辞典
吉田兼好(よしだ-けんこう) ...
44. けんな【釼阿】
国史大辞典
また金沢北条氏滅亡後は称名寺をしてただちに勅願寺になすなど、その活躍は著しいものがあった。その間吉田兼好との交友もみられ、強い影響を与えているが、暦応元年(一三 ...
45. けんな【釼阿】
日本人名大辞典
同寺の真言密教を大成した。金沢貞顕(かねざわ-さだあき)の助けをえて,七堂伽藍(がらん)の整備につとめた。吉田兼好と交流があった。暦応(りゃくおう)元=延元3年 ...
46. 言語遊戯
世界大百科事典
定の語を折り込んだ和歌の手法。友人に対する〈米(よね)たまへ銭(ぜに)も欲し〉という無心を,吉田兼好は優雅な秋の歌に折り込んでいる(図1)。西洋でこれに当たるの ...
47. 高師直
世界大百科事典
記》がよく伝えており,ことに彼が塩冶判官高貞(えんやはんがんたかさだ)の美貌の妻に横恋慕し,吉田兼好に代筆させた艶書(恋文)を届けたが思いのままにならず,高貞が ...
48. こうのもろなお【高師直】
国史大辞典
泰をはじめ高一族は、上杉能憲のため摂津武庫川で討たれた。師直が塩冶高貞の妻に艶書を送るために吉田兼好に代作させたという記事をはじめ、『太平記』には師直の行動を批 ...
49. こうのもろなお【高師直】
日本架空伝承人名事典
記』がよく伝えており、ことに彼が塩冶判官高貞(えんやはんがんたかさだ)の美貌の妻に横恋慕し、吉田兼好に代筆させた艶書(恋文)を届けたが思いのままにならず、高貞が ...
50. 子育ての書 3 330ページ
東洋文庫
全体人の親たる者は、子がお化けの事を云っても打ち消して通らなくてはならぬ筈であります。畢竟妖怪の一事は彼の吉田兼好ねしの「あやしみを見てあやしまざるときは、あや ...
「吉田兼好」の情報だけではなく、「吉田兼好」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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吉田兼好(国史大辞典)
生没年不詳。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての歌人・随筆家・遁世者。本名、卜部兼好。『尊卑分脈』によれば、卜部家は天児屋根命の子孫で、神祇官として代々朝廷に仕えたが、平安時代中期の兼延の時に、一条院から御名の懐仁の「懐」と通ずる「兼」の字を賜わってからは、それを系字として代々名乗るようになった。
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徒然草(国史大辞典・世界大百科事典)
鎌倉時代末期から南北朝時代の初めにかけて成立した随筆集。兼好(俗名卜部兼好)著。上下二巻。北村季吟の『徒然草文段抄』以後、序段以下二百四十三段に章段を分けて記すようになった。書名は、「つれづれ」、すなわち、することもない生活の退屈さ・寂しさを紛らわし


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