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  11. 伏見稲荷大社

伏見稲荷大社

ジャパンナレッジで閲覧できる『伏見稲荷大社』の日本歴史地名大系・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

日本歴史地名大系
伏見稲荷大社
ふしみいなりたいしや

[現]伏見区深草藪之内町

稲荷山の西麓に鎮座。式内社で「延喜式」神名帳の紀伊きい郡に「稲荷神三社並名神、大、月次、新嘗」とみえ、旧官幣大社である。祭神は古くから種々の説があるが、現在は宇迦之御魂うかのみたま大神(中央・下社)佐田彦さだひこ大神(北座・中社)大宮能売おおみやのめ大神(南座・上社)であり、「延喜式」にいう三社はこの三神という。ただし稲荷五社と称する時は、この三神に古くから本殿に合祀された摂社田中たなか大神・四大神しだいじんを含む。背後にある稲荷山は神奈備の遺跡として知られ、全山が稲荷信仰の対象となっていることからすると、山城国に造都される以前、稲荷山は先住の人々から神奈備として信仰され、この神奈備信仰を継承して秦氏がこの地に祭祀したものであろう。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔創祠〕

「二十二社註式」は「元明天皇和銅四年辛亥、始顕坐伊奈利山三箇峰平処、是秦氏祖中家等、抜木殖蘇也、秦氏人等為禰宜祝供仕春秋祭、依其霊験有被奉臨時御幣」と、和銅四年(七一一)のこととするが確定できない。秦氏が稲荷山に祭祀した理由について「山城国風土記」逸文に、秦中家忌寸らの遠祖伊呂具が稲を積んで富裕となり、そのため餅を用いて的としたところ、餅が白鳥となって山峰に飛去り、稲がなって子を生む「伊禰奈利生之」になったため、それを社名としたとある。餅が新たな稲を生むというところに稲荷神の農耕神たる神格が浮び上がるが、これをいっそう明確に物語るのは、先の逸話に続いて「而抜社之木殖家祷祭之、其木蘇者得殖(福)、木枯者不移(福)」という「しるしの杉」の占いであろう。この占いは、各地の農村にみられる年占行事に基づくといわれている。稲荷は伊禰奈利いねなり(稲生)の農耕神として出発し、秦氏によって祭祀され、秦氏の後裔が当社の有力祀官となっていった。

「山城国風土記」の逸話にもあるように、稲荷社が最初に鎮座した地は、稲荷山の山頂三ヶ峰であり、上中下の三社あった。それが山上から現在地に移ったのは、永享一〇年(一四三八)と伝える。「稲荷谷響記」に「当社下山ノ年紀未詳也、或記云、永享十年正月五日、依将軍義教公之命、稲荷社ヲ自山上今ノ地ニ被遷云々」と述べ、「花洛名所図会」「都名所図会」など江戸時代の案内書もこれを踏襲する。

〔信仰〕

農耕神であるにもかかわらず、平安京の住人によって支えられてきた。これは当社の氏子圏が、平安京の五条以南に設定されていたことと深い関連があろう。稲荷社がなぜ京内に氏子圏を設定し、それがいつ頃からのことであるのかは不明だが、一つには稲荷社が鎮座する一帯は、古くから藤森ふじのもり(現伏見区)の氏子圏となっており、またもう一つには、後に述べる東寺(教王護国寺)との密接な関係を考慮せねばなるまい。そして五条以南が稲荷社の氏子圏となったのは、少なくとも平安時代のことであり、それを傍証する逸話が「今昔物語集」巻三〇に「七条辺ニテ産レタリケレバ、産神ニ御ストテ、二月ノ初午ノ日稲荷ヘ参ラムトテ、大和ヨリ京ニ上テ、其ノ日歩ニテ稲荷ニ詣デタリケルニ」とみえる。これによれば七条辺りに生れた者は稲荷社を産土神としており、このことは五条以南を氏子圏としたことの証左でもある。ちなみに「京都御役所向大概覚書」には「北ハ松原通南側限、南ハ洛外凡九条村辺、西ハ傾城町、中堂寺村限、但南ニテハ六孫王権現氏子入組アリ洛外分、北ハ宮川筋五町目南側限、東ハ大仏境遊行前町、巽ハ同境内石塔町石橋限、南ハ同本町七町目南之端限」とみえて、一部にかも川東岸を含んでいることが知られる。

こうして平安京の尊崇を集めた当社は、平安時代以来、二月の初午の日に参詣する人々で賑わった。この日は稲荷神が稲荷山の三ヶ峰に降臨した日といわれ、初午祭として今に伝えられるが、先の「今昔物語集」巻三〇や、さらに巻二八(近衛舎人共稲荷詣、重方値女語)にある「今昔、衣曝ノ始午ノ日ハ、昔ヨリ京中ニ上中下ノ人稲荷詣トテ参リ集ノ日也」とあるものや、「枕草子」の「うらやましげなるもの」の段などは、そうした初午の日の稲荷参詣を物語るものであろう。この日には稲荷山の杉を持帰り、自庭に植えて吉凶を占う「験の杉」の風習があり、「蜻蛉日記」にも「いなりやまおほくのとしぞこえにけりいのるしるしの杉をたのみて」の歌が記されている。当社は東寺の鎮守神として特別な関係をもっていたが、これは天長四年(八二七)からのことで、前年、造東寺別当空海は塔造営の用材を稲荷社の神木に求めたが、神木伐採の祟りで天皇が病気となり、朝廷は当社に従五位下の神階を贈り謝した(同年正月一九日「詔」類聚国史)。御旅所が東寺の近くにあるのも、このことと無関係ではあるまい。

〔祭礼・御旅所〕

稲荷詣は時代を経るとともに盛んとなっていったが、都の人々と当社をよりいっそう結び付けたのは稲荷祭であった。祭は三月中の午の日に御旅所への神幸があり、四月上の卯の日に当社へ遷幸する(ただし四月に三卯ある時は、中卯を遷幸日とする)。祭礼行列の道順は、神幸の時には稲荷社を出て伏見街道を北上し、鴨川を渡って七条通を西行し、さめ通を経て八条堀川ほりかわの御旅所(現京都市南区)に入る。遷幸の時は、御旅所を出た神輿は東寺南大門から境内に入って八幡宮前に至り、東寺から神輿への御供の儀をうけた後、南大門から九条通を東に向かい、大宮おおみや通を北上して現松原まつばら通に出る。そして再び東行して寺町てらまち通に向かい、これを南下して現五条通に至り、ここで鴨川を渡って伏見街道に出て帰座する。したがってこの巡行路は、氏子圏の堀川以東をほぼ一巡するかたちをとることになる。

御旅所は現在はあぶら小路東寺とうじ(現南区)北西にあるが、かつては八条坊門猪熊ぼうもんいのくま(現京都市下京区)と七条油小路(現同区)の両所にあり、それぞれ上(中)旅所・下旅所と称されていた。八条坊門猪熊については「百錬抄」嘉禄二年(一二二六)二月一三日条に「稲荷上中両社旅所八条坊門猪熊焼亡、是大行事則正旅所神主被改易之間、則正愁望之余参籠下殿焼死云々」とその焼亡記事を掲載している。ここは古御旅所といわれ、現在この近くに「古御旅町」の地名が残り、その由緒が伝えられる。これに対し七条油小路の御旅所については「雍州府志」に次のように記す。

稲荷御旅所在油小路七条南、弘法大師営東寺時、八幡為土地神、而後稲荷神現出、暫寓芝守長者家、歴年月移稲荷山、今旅所則芝守之宅地也、祭祀時神輿在〓二十日、斯遺風也、見于東寺縁起、

これによれば七条油小路に御旅所が設けられたのは東寺との密接な関係があったわけだが、「山槐記」仁安二年(一一六七)四月二三日条に「今夜為御方違行幸鳥羽北殿、先々幸八条堀河顕長卿家、而彼近辺有稲荷旅所」とあるのは、この御旅所をさしてのことであろう。二つの御旅所がいつ頃現在地に移されたのかはつまびらかでないが、社伝によれば天正年間(一五七三―九二)豊臣秀吉の願によって移座されたという。この稲荷祭は華麗な行装に身を固めた馬長とともに、都人の注目を集めたが、「雲州消息」はその祭の様子を

今日稲荷祭也、密々欲見物如何、不能固辞〓以饗応、相共同乗到、七条大路、内外蔵人町村相挑之間、濫吹殊甚、頭中将小舎人童・行事・後乗之者、太以衆多也、町清太黒(歓)寿之属也、外村欲争鋒之処、清太等瞋目相叱、彼輩人馬倶以辟易、爰知其力不敵也、件馬長等所為甚以非常也、或策浮雲不執轡、或御遺風不顧身、馳騁之蹄何南何北、又鏤金銀餝衣装、剪錦繍綴領袖、誠推一身之弊殆及十家之産、甚以無益事也、

と記す。

祭礼の日には人々は七条大路に桟敷を設けて見物したが、同書が語るように、行列の一方の主役は先頭を行く馬長であり、彼らは「十家之産」に及ばんとするほどの財を傾けた金銀ちりばむ衣装をまとい、華麗さを競った。馬長とは、朝廷や院からの仰せによって殿上人が献じ、小舎人童などが務めたものであって、祇園会などにもみることができる。ところが一方では民間からひそかに出す馬長もあり、同書の語る馬長はどの馬長であったのかは判然としないが、「十家之産」を傾けるほどのものであったところをみると、舎人の身分を獲得していた市中の商工業者であったと考えられる。そしていつしか馬長(馬上)を一定地域の者に限定して勤仕させるようになった。「明月記」寛喜元年(一二二九)三月一四日条に「稲荷祭馬頭、毎年五月五日、指六条以南富有下郎云々」とみるごとく、少なくとも鎌倉時代初頭から六条以南に住む富有の下郎から、馬頭(馬上)を選び勤仕させるようになっていたのである。六条以南の住人が馬上役差定の条件になっていたことは、「天台座主記」寛元五年(一二四七)の「惣持院楽器寄人、以謂六条以南之住人、依点定稲荷社馬上役」との記述によっても明らかである。

祭礼には馬長のほかに鉾や山があり、それらには風流の構えが施されていた。本来農耕祭として出発したと思われるこの祭は、都市住民と深い関係を結んだことで都市の祭礼へと変貌し、御霊会へと変化していったものと思われる。「中右記」寛治八年(一〇九四)四月九日条には「今日稲荷御霊会也」とみえる。平安時代中期の藤原明衡の「新猿楽記」には、御旅所近辺での呪師のろんじ侏儒舞ひきひとまい傀儡子くぐつまわし・唐術・品玉・輪鼓りゆうご・八ツ玉・独相撲・独双六といったさまざまな芸能が生き生きと描かれている。祭礼費用の多くは、京都の五条以南の氏子に課せられた。時代は下るが「続史愚抄」康応元年(一三八九)二月一六日条の「稲荷二階五社敷地、五条以南祭礼役事、任例可宛催者」によっても知られる。したがって氏子によって支えられた祭は、その様相においても都人の注目を集め、室町時代ともなると「稲荷祭、結構殊之外也、ホク三十六本、作山十、ホク毎ニ作山ヲシテ渡之」(「東寺執行日記」嘉吉元年四月一三日条)や「稲荷祭礼、山鉾五十色斗有之、七条ニハ立車、二条殿様、其外車多、鉾ノ内ニテ色々ノ舞有之」(同書嘉吉二年四月一三日条)といった多くの山鉾が氏子区内に建てられ、鉾のうちで舞も催されるという殷賑なものであった。

しかし応仁の乱によって京の町々が破壊されたことにより、氏子は祭礼役を負担しきれなくなり、稲荷祭は衰微していく。やがて江戸時代には従前の華麗さとは比較にならないが「山口幸充日次記」延享四年(一七四七)四月八日条に「稲荷祭礼也、従午刻出歩、路次所々ニ而練物・造物見之会悦目」とあるように、造物などが再び人々の目を楽しませ、また新たに練物などが行列に付き従うようになっていた。年中行事としては、このほか一月五日に催される大山祭がある。山上の神跡七ヵ所に注連縄を張るため「注連縄張神事」ともよばれる。また一一月八日には御火焚祭ともよばれる鞴祭がある。「日次紀事」によると一条天皇の時、三条小鍛冶宗近が刀剣を鋳る時、稲荷神が出現してこれを助けた故事にちなむといわれ、古い年中行事の一つで、現在も火を使う職業の人々によって信仰されている。

〔社領〕

「三代実録」貞観七年(八六五)四月一七日条に「稲荷三段(中略)並以山城国愛宕・紀伊・乙訓・葛野等郡、得度除帳田充之」とあるのを初めとして、洛中散在田・加賀国・備後国などに社領をもっていたが、その全貌については不明。加賀国については稲荷神社古文書に建武元年(一三三四)九月四日の雑訴決断所牒があり、「味智郷内水田二十町」が寿永二年(一一八三)九月日の院庁下文などに任せて管領が認められている。また同国針道はりみち荘については応永三年(一三九六)三月足利義持、長禄二年(一四五八)一二月同義政によって安堵されている(同古文書)。洛中散在田については、「稲荷社領洛中散在田畠林名主職以下事、任文永帳、於当知行之在所者、社家領掌不可有相違之状」という応永三年三月二二日の足利義満袖判御教書(同古文書)がみられるが、所在地は不明。また明応二年(一四九三)閏四月一六日の小早川美作守敬平代官職請文(大西文書)に「預申、稲荷御神領備後国杭庄地頭領家代官職之事」とみえる。このほか紀伊郡や山科郷に若干の散在田畑を所有していたようだが、応仁の乱から戦国期にかけて退転したようで、天正一七年(一五八九)一二月一〇日豊臣秀吉によって改めてその所領(山城国為山科郷替地、以稲荷廻出米十七石九斗、当知行八十八石引集、合百六石)が確認・安堵された(稲荷神社古文書)。この一〇六石が以後、代々の徳川将軍家によって安堵され、また境内諸役免除がなされていく。元和元年(一六一五)の徳川家康朱印状(同文書)に「稲荷廻百六石」とみえるように、すべて稲荷社近在であった。

〔社殿・文化財〕

社殿の造営について「二十二社註式」は、「相次延喜八年、故贈太政大臣藤原朝臣修造件三箇社者也」と記し、この延喜八年(九〇八)修造説は、「国花万葉記」など、のちの書物にも踏襲されている。しかし平安時代における社殿については明らかではない。文治三年(一一八七)八月、修造のための具体的方策が練られたのをはじめとして(吾妻鏡)、鎌倉時代にはしばしば記録上に遷宮などの記事が現れるが、修造についての具体的な様子は、「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)二月一〇日条に載せる安田義定申状によって知られる。

(前略)
一、造稲荷社造畢覆勘事
右上中下社正殿、為宗之諸神々殿、合期造畢、無事令遂御遷宮候畢、自余舎屋等事、又以非無其営勤候、行事季遠懈緩之上奸濫、仍雖相副俊宗法師候、云六条殿門築垣事、云大内修造、彼此相累候之間、自然遅々、更以不存忽緒之議候、已於不足材木分、悉交量直米、令沙汰充都鄙之間候畢、件注文同以進覧候、此外、材木檜皮并作料已下雑々用途米等、任損色支度、先運上已畢、
以前条々言上如件、可然之様可有計御沙汰候、恐惶謹言
(文治六年)二月十日 義定
進上 中納言殿

その後、寛元三年(一二四五)一一月二九日焼失し(百錬抄)、翌年造営があったものの、応仁の乱によって焼失した。「山科家礼記」応仁二年(一四六八)三月二〇日条に「稲荷社焼上、西方ヨリ沙汰、近所近郷在家寺社一宇無之、子細者細川殿ヨリ今度道見ト申目付ニ下京ヲヤカセラルヘキトテ、稲荷社取陣手衆五六百人在之、然処、西方ヨリ道見所押寄合戦也、道見則落行、道見被打、其外数十人如此候、言語道断次第也」と記され、骨皮道賢が陣として稲荷社に拠ったために罹災したことが知れる。

「稲荷社事実考証記」は「明応八年十一月、上下御殿造営成畢、同月廿三日遷宮也、按此時造営、依為用脚不足、始而為下中上社相殿」と、同年一一月二三日に遷宮が行われたことを述べているが、ここで留意されるのは、この再興によって、本来別殿であった三社が合殿となったことである。そして新たに田中大神・四大神が合祀され、今にみる五社合殿となった。これが現在の本殿(国指定重要文化財)であり、五間社流造の、世にいう稲荷造である。天正一七年豊臣秀吉による修復や回廊などの再興が行われ、かり殿もこの時のものである。このほか仙洞せんとう御所(現京都市上京区)にあったものを後水尾上皇から下賜されたという御茶屋(国指定重要文化財)が境内の南にあり、書院造風の数寄屋好みの意匠が施されている。のち元禄七年(一六九四)、修復料として一千五二五両と遷宮料米二〇〇石が幕府から下された(京都御役所向大概覚書)。このとき本社・礼拝所・若宮社・大黒天社・弁財天社・楼門など秀吉以来の大修復が施された。

境内には多くの石塔があるが、本殿の南にある石灯籠は鎌倉時代のもので、数ある石灯籠のなかでも最古のもの。また境内社として熊野社・藤尾ふじのお社・霊魂れいこん社・白狐びやつこ社・玉山たまやま社など数多くあり、楼門の南には江戸時代の国学者で当社の祠官であった荷田春満の旧宅(国指定史跡)があり、稲荷山の入口には命婦みようぶ社がある。

〔歌枕〕

当社は歌枕稲荷宮として「五代集歌枕」「八雲御抄」にあげられる。

稲荷にまうでてけさうし始めて侍りける女のこと人に逢ひ侍りければ 藤原長能
我といへば稲荷の神もつらき哉人の為とは祈らざりしを (拾遺集)
社頭霜
さ夜更て稲荷の宮の杉の上に白くも霜の置にけるかな 源 実朝(金槐集)


改訂新版・世界大百科事典
伏見稲荷大社
ふしみいなりたいしゃ

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  • 伏見稲荷大社

京都市伏見区に鎮座。伏見稲荷として知られ,単に稲荷大社ともいう。東に稲荷山を負い西に鴨川を控え,京都から伏見・淀方面に至る交通の要衝に位置する。全国3万余に上る稲荷神社の総本社で旧官幣大社。祭神は宇迦之御魂(うかのみたま)(下社),佐田彦大神(中社),大宮能売(おおみやのめ)大神(上社)の三柱を主神とし,相殿に田中大神と四大神(しのおおかみ)をまつる。もとは稲荷山上に下中上の三社があったが,のち山麓に神殿を造って移され,相殿の神とともに五座をまつることとなった。711年(和銅4)2月7日初午の日,秦中家忌寸(はたのなかつやのいみき)の遠祖秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)が初めて社を創建したと伝える。《山城国風土記》逸文によると伊呂具は富裕で,ある時,餅を的として弓を射たところ,それが白鳥と化し飛び去って稲荷山の峰に止まり,そこに稲が生じた。その霊異により社を建ててまつるようになった。子孫の中家忌寸は伊呂具の過ちを神に謝し,稲荷山の杉を植えて祈りまつったという。以後秦氏が代々禰宜(ねぎ)・祝(はふり)となって仕えた。世に〈験(しるし)の杉〉と称し,この神に祈る者がその木を植えてつけば福を得,枯れれば福がないという。

942年(天慶5)ころ正一位の神階が授与され,《延喜式》では名神大社に列し,祈年・月次・新嘗の案上ならびに祈雨の官幣にあずかり,後三条天皇以降歴代天皇の行幸があった。平安初期には東寺の鎮守となり,中世以降,還幸祭には御旅所より神輿が一時同寺に立ち寄り,寺では法会,神供,獅子舞を行ったが,その費用は京都下京の氏子に地子銭として課されていた。応仁の乱に荒廃し,1499年(明応8)ようやく社殿は復興し,1589年(天正17)さらに豊臣秀吉は社領106石を寄せ,社殿の修理を行った。

神使の狐に対する信仰が中世より盛んで,さらに密教の荼枳尼(だきに)天とも習合したのは東寺の真言密教の影響とみられる。近世には商業神として町人の信仰をあつめ,全国津々浦々に勧請され,稲荷講信者の稲荷山登山は絶えず,山中いたるところに信者の守護神(御眷属)が数千ヵ所もまつられて壮観を呈する。現在,おもな祭礼には稲荷祭のほか1月5日の大山祭(注連張(しめはり)神事),同12日の奉射祭,2月の初午大祭,11月8日の火焚祭,12月初申の御煤(すす)払祭があるが,とくに初午の祭はすでに平安朝より有名である。
→稲荷信仰
[村山 修一]

稲荷祭

毎年4月20日に最も近い日曜日に神幸祭があり,5月3日に還幸祭が行われる。神幸・還幸の両祭を称して稲荷祭というが,古くから還幸祭の方が重んじられた。もとは4月上卯日(3卯のときは中卯日)を祭日とし,まず3月中午日に御出とよばれる渡御祭がある。当日神霊を田中社,上社,中社,下社,四大神の5基の神輿に移し,神職や氏子が供奉して西九条の御旅所に着く。御旅所に20日間とどまったのち,4月上卯日,再び行列を組んで本社に向かう還幸祭が行われる。その途中,東寺の門前で僧侶による献供の儀式が行われ,神仏習合の儀礼を今日まで残している。

神輿渡御の神事として古くから都の人々によく知られ,行列の先頭に立つ馬上(馬長)役は中世には下京の裕福な町人がつとめ,七条大路には桟敷が設けられて人々はその華麗な行粧を見物した。行列は,江戸末期以後は現在に近い形に改められた。
[岡田 荘司]

[索引語]
秦公伊呂具 験(しるし)の杉 東寺 狐(信仰) 稲荷祭
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[現]伏見区深草藪之内町 稲荷山の西麓に鎮座。式内社で「延喜式」神名帳の紀伊郡に「稲荷神三社並名神、大、月次、新嘗」とみえ、旧官幣大社である。祭神は古くから種々 ...
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11. いなり‐こう【稲荷講】
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日本歴史地名大系
別当は修験大通院で、五戸年行事多門院の配下に属していた。享保一八年(一七三三)京都伏見稲荷(現伏見稲荷大社)からの勧請とされ、天明八年(一七八八)正一位の神位を ...
21. いなりじんじゃもんじょ【稲荷神社文書】
国史大辞典
京都市伏見稲荷大社の文書。元弘三年(一三三三)五月十日足利高氏書下以下、雑訴決断所牒、足利氏御教書、豊臣・徳川両氏朱印状などがある。昭和初年以降、同社は史料編 ...
22. 稲荷大社
世界大百科事典
伏見稲荷大社 ...
23. いなりたいしゃ【稲荷大社】
国史大辞典
京都市伏見区稲荷山西麓に鎮座。旧官幣大社。現在伏見稲荷大社と称する。全国三万余を数える稲荷神社の総本社。祭神は古来諸説があるが、現今は、宇迦之御魂大神(うかの ...
24. いなり‐てんそう【稲荷伝奏】
日本国語大辞典
〔名〕(「いなりでんそう」とも)京都の伏見稲荷大社のことを、天子に取り次ぐ職。*後中内記‐元祿七年〔1694〕一〇月二九日「稲荷社正遷宮日時定之事〈略〉然此僉議 ...
25. いなり‐にんぎょう[:ニンギャウ]【稲荷人形】
日本国語大辞典
〔名〕京都の伏見稲荷大社の境内で売る伏見焼のおもちゃ。土細工の狐鈴(これい)、布袋(ほてい)、西行、遊冶郎(ゆうやろう)、遊女、鳥獣、今様風の人形などがある。* ...
26. いなり の 大山祭(おおやままつり)
日本国語大辞典
京都の伏見稲荷大社で正月五日に行なう祭礼。社殿の背後の稲荷山の神跡七か所に注連縄(しめなわ)を張り、献饌、祝詞、神祭を行なう。御饌津台(みけつだい)という石の上 ...
27. いなり の 杉(すぎ)
日本国語大辞典
京都の伏見稲荷大社の境内にある杉。二月の初午(はつうま)の日、参詣人はその枝を手折ってお守りにしたり、また、持ち帰って植え、枯れるか枯れないかによって、禍福を占 ...
28. いなり の 奉射祭(ぶしゃさい)
日本国語大辞典
京都の伏見稲荷大社で正月一二日の午後に行なう弓始めの祭。御弓始祭(おんゆみはじめさい)。 ...
29. いなり‐まつり【稲荷祭(り)】
デジタル大辞泉
1 京都の伏見稲荷大社の祭礼。4月第2の午(うま)の日(古くは陰暦3月、中(なか)の午の日)の神幸祭(稲荷のお出(いで))、5月初卯(はつう)の日(古くは陰暦4 ...
30. いなりまつり【稲荷祭】
国史大辞典
京都市伏見稲荷大社の祭礼。古くは四月上卯日(三卯あれば中卯日)を式日とした。この祭礼は、まず三月中午日の御輿迎の儀に始まる(これを渡御祭または御出という)。当 ...
31. いなり‐まつり【稲荷祭】
日本国語大辞典
〔名〕(1)京都の伏見稲荷大社の祭礼。古くは、四月上卯(う)の日を式日とする。旧暦三月中(なか)の午日(うまのひ)に、神璽をうつした五基の神輿(みこし)が、京都 ...
32. いなりもうで【稲荷詣】
国史大辞典
年中行事の一つ。二月初午(はつうま)の日、稲荷神社(現伏見稲荷大社)に参詣すること。稲荷神が山城国稲荷山三ヶ峯に鎮座したと伝える和銅四年(七一一)二月壬午(七 ...
33. いなり‐やま【稲荷山】
日本国語大辞典
京都市伏見区にある東山三十六峰の南端の山。ふもとの西側に稲荷神社(伏見稲荷大社)がある。標高二三九メートル。山城国の歌枕。三ケ峰。御山。いなりのやま。*曾丹集〔 ...
34. いなりやまきょうづか【稲荷山経〓
国史大辞典
京都市伏見区深草開土口町所在。稲荷山の北斜面中腹に位置し、伏見稲荷大社の境内に属している。明治四十四年(一九一一)に採土中発見。遺構は板石で小石室を作り、蓋石 ...
35. うらかわじんじや【浦河神社】北海道:日高支庁/浦河町/浦河村
日本歴史地名大系
享和元年)八月、場所請負人万屋(佐野氏)によるという。文化四年(一八〇七)の年紀をもつ京都伏見稲荷大社発行の東蝦夷地浦河鎮守宛正一位稲荷勧遷証書(浦河町史)は、 ...
36. 榎本弥左衛門覚書 近世初期商人の記録 169ページ
東洋文庫
神として創始。全国稲荷神社の総本社。近世以来各種産業の守護神として一般の信仰を集めた。今は伏見稲荷大社と称する。九 羅生門 また羅城門。平安京の正門。朱雀大路の ...
37. おおやまためおき【大山為起】
国史大辞典
一六五一―一七一三 江戸時代中期の神道家。京都市伏見稲荷大社の旧秦姓神主家松本氏の出で、上社神主為穀(ためよし)の三男として慶安四年(一六五一)に出生。初名を ...
38. おひたき【御火焚】
国史大辞典
奏した後、新たに作った浄火を笹に移し、神酒を火中に注ぎ、爆竹をならす。京都では、八坂神社や伏見稲荷大社等の御火焚がよく知られている。特に稲荷では鍛冶屋の鞴(ふい ...
39. お‐ひたき【御火焚・御火焼】
日本国語大辞典
るのは江戸時代になってから。(2)現行の御火焚神事としては、京都の八坂神社(一一月一日)、伏見稲荷大社(一一月八日)、白峰神宮(一一月二一日)等の諸社で行なわれ ...
40. 御火焼き
世界大百科事典
たり火をもって陽気をたすけるといわれている。茂木 貞純 御火焚き 火祭 八坂神社(京都) 伏見稲荷大社 白峯神宮 稲荷の御火焼き 愛染明王の御火焼き 不動尊の御 ...
41. おんしめまつり【御注連祭】
国史大辞典
標するに不可欠のものであるから、これを中心に神事が意味づけられる例は多く、各地にしめ張り祭(京都府伏見稲荷大社・島根県佐太神社のが有名)・しめ掛け神事・しめ焼き ...
42. かみあらそい【神争い】
国史大辞典
避けた。島内の武の宮の祭神が菅原道真と対立した藤原時平だったからである。京都の北野天満宮と伏見稲荷大社とは仲が悪いそうで、同日に両社へ参らぬものとした。東寺は稲 ...
43. 還幸祭
世界大百科事典
と。一般に出御の儀よりも事いそいで行われるが,むしろ還幸祭に重点をおく神社も多い。例えば,伏見稲荷大社の稲荷祭では出御の際は裏門からそっと出るが,還幸のときは正 ...
44. きいぐん【紀伊郡】
国史大辞典
稲荷山・大岩山付近には古墳も多く点在する。平安遷都後は京師の南郊として発展した。深草の稲荷神社(伏見稲荷大社)は朝廷の尊崇が篤く、近くには貞観寺・極楽寺・法性寺 ...
45. きいぐん【紀伊郡】京都市:山城国(京都市域)郡郷
日本歴史地名大系
のこととされる。この記事の真偽については確認できないが、早くより本郡は文献上にみえている。伏見稲荷大社(現伏見区)の祭祀遺跡や弥生時代の深草遺跡(現伏見区)の存 ...
46. 近世説美少年録 170ページ
日本古典文学全集
「這回コノタビ 〔白氏文集〕」(書言字考・二)。「首途カドイデ、カドデ〔文選〕」(書言字考・八)。伏見稲荷大社。現、京都市伏見区深草藪ノ内町。深草は、その門前町 ...
47. 建礼門院右京大夫集 28ページ
日本古典文学全集
二年(一一七六)までの春の催しかと想定する。「稲荷の社」は山城国、現在の京都市伏見区にある伏見稲荷大社。祭神は倉稲魂大神・佐田彦大神・大宮能売大神。衣装を着たま ...
48. こじき‐まつり【乞食祭】
日本国語大辞典
〔名〕京都市伏見区にある稲荷神社(伏見稲荷大社)で、陰暦四月卯の日に行なわれた稲荷祭(いなりまつり)の俗称。落ちた賽銭(さいせん)を拾おうと乞食が集まったところ ...
49. 今昔物語集 368ページ
日本古典文学全集
伝えたエピソードを記したすえに、「すぎむらならばなどよみたるは、そのをりの事なるべし」と注する。伏見稲荷大社(京都市伏見区深草藪之内町に鎮座)の神官の娘。伝未詳 ...
50. しほう‐まいり[シハウまゐり]【四方参】
日本国語大辞典
〔名〕京都で、節分の日に、東北方の吉田神社、東南方の伏見稲荷大社、西北方の北野天満宮、西南方の壬生寺(みぶでら)を巡拝すること。シホーマイリ ...
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東大寺(国史大辞典)
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