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ライト兄弟(日本大百科全書・世界大百科事典)
兄ウィルバーWilbur Wright(1867―1912)、弟オービルOrville Wright(1871―1948)。アメリカの発明家。人類初の動力飛行機を開発した。オハイオ州デイトンで自転車製造販売業を営み、かなりの成功を収めていたが、1896年ドイツ人リリエンタールがグライダーの墜落で死亡
ナポレオン1世(日本大百科全書・世界大百科事典)
フランス第一帝政の皇帝(在位1804~14、15)。本名ナポレオン・ボナパルトNapoléonBonaparte。[井上幸治]▲生い立ちコルシカ島は14世紀以来、イタリアのジェノバ領であったが、18世紀初期から住民は独立運動を開始し、同世紀中ごろから
沖田総司(日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
新撰組隊士。白河藩士の子として生まれる。天然理心流近藤周助の試衛館で剣を学び、同門の近藤勇とともに、新撰組に加わった。剣の才能は抜群であったものの、結核を患い、池田屋事件では、近藤らとともにわずか五名で、一番先に斬り込んだが、喀血して昏倒した。
ガンジーの実像(文庫クセジュ)
はじめにガンジーが二十世紀をかたち作った偉大な人物の一人であることを否定する人は誰もいないだろう。時が経過するにつれ、その人となりは神話となり、その話は伝説となった。伝記の多くは何よりも聖人伝であり、そのほかのものは直接子供を対象に賞讃されるべき人物
榊原康政(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五四八-一六〇六安土桃山時代の武将。徳川家康の四天王の一人で、武功派の中心的存在で勇名を大いに喧伝された功臣である。幼名小平太。式部大輔。天文十七年(一五四八)三河国上野に生まれる。長政の次子、母は道家氏の女。榊原氏は、先祖が伊勢国壱志郡榊原に住居
鳥居元忠(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五三九-一六〇〇戦国・安土桃山時代の武将。天文八年(一五三九)生まれ。鳥居忠吉の子で、徳川家康が今川氏の人質となったとき駿府に随従し,のち,家康の三河統一、遠江経略の戦に従軍する。元亀三年(一五七二)の三方原の戦で負傷して跛になったという。天正十年
平岩親吉(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五四二-一六一一戦国時代末期徳川家康に仕えた武将で、江戸時代初頭に譜代大名となる。天文十一年(一五四二)三河国に生まれる。父は松平宗家譜代の親重。母は天野清右衛門貞親の女。幼時より徳川家康に仕え、家康が幼名竹千代のころ、人質として駿府の今川義元のも
松平信康(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五九-七九戦国時代の武将。竹千代、次郎三郎。永禄二年(一五五九)三月六日駿府で誕生。徳川家康の長男。母は関口義広女(築山殿)。桶狭間の戦後も駿府に抑留されていたが、同五年人質交換で母とともに岡崎へ引き取られた。六年三月、織田信長の女五徳(徳姫)と
小谷の方(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
?-一五八三安土桃山時代の女性。名は市、織田信長の妹。永禄十年(一五六七)末か翌年の初めごろ、近江浅井郡小谷城主浅井長政のもとに嫁し、長政が天正元年(一五七三)八月信長に滅ぼされた時城を脱出して織田氏のもとへ帰った。『総見記』によれば、信長は妹という
ガンディー(日本大百科全書・世界大百科事典)
インドの政治指導者で思想家。「マハートマー(偉大なる魂)」「ラーシュトラ・ピター(国の父)」「バープー(父)」などいくつかの呼称をもち、今日なおインド人大衆の尊敬と親愛の的となっている。[内藤雅雄]▲アフリカ時代インド西部カーティアワール半島にあった
春日局(国史大辞典・世界大百科事典)
一五七九-一六四三徳川三代将軍家光の乳母。お福ともいう。天正七年(一五七九)に生まる。父は明智光秀の重臣斎藤利三、母は稲葉通明女。父利三が山崎合戦で自刃(一説に磔刑)ののち、母方の一族稲葉重通の養女となり、その養子正成に嫁し、四男(正勝・正定・岩松
伝通院(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の生母、お大(だい)の方。三河(愛知県)刈屋城主水野忠政女。1541年(天文10)岡崎城主松平広忠(ひろただ)に嫁し、翌年竹千代(たけちよ)(家康)を生む。ところがその翌43年父忠政が死去すると、兄信元は尾張(おわり)の織田(おだ)方につき
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
松平広忠(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五二六-四九戦国時代の三河国の武将。徳川家康の父。千松丸、仙千代、次郎三郎。父は清康、母は青木貞景女。大永六年(一五二六)岡崎生まれ。天文四年(一五三五)十二月に清康が尾張守山で死んだ時は十歳。織田信秀の来襲は撃退したが、桜井松平家の信定に追われて
武田勝頼(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五四六-八二戦国・安土桃山時代の武将。甲斐の武田信玄の四男。母は諏訪頼重の娘。天文十年(一五四一)六月、父晴信(信玄)が武田家当主となり、翌十一年信濃国諏訪郡を攻め、諏訪頼重を誅殺した際、その娘を側室として同十五年勝頼が生誕した。四男なので諏訪氏の
徳川家康(国史大辞典・世界大百科事典)
一五四二-一六一六江戸幕府初代将軍。一六〇三―〇五在職。太政大臣。三河国岡崎の城主松平広忠の子として、天文十一年(一五四二)十二月二十六日に生まれた。幼名は竹千代。母は同国刈谷の城主水野忠政の娘で、名はお大(没後に江戸の伝通院に葬られ、法名を伝通院殿
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一五三四-八二戦国・安土桃山時代の武将。幼名を吉法師といい、天文三年(一五三四)尾張那古野城に生まれる。父は尾張下四郡を支配する清洲城の織田家の家老織田弾正忠信秀。同十五年元服して織田三郎信長と名乗り、同二十年信秀が死ぬと、十八歳で家をつぎ、みずから
石田三成(国史大辞典・世界大百科事典)
安土桃山時代の武将。幼名は佐吉、はじめ三也と名乗る。永禄三年(一五六〇)近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)に生まれる。父は隠岐守正継。長浜城主であった羽柴秀吉にその俊敏さを認められ、年少のころから近侍として仕えた。秀吉の中国征伐・山崎の戦にも従い
千利休(国史大辞典・世界大百科事典)
室町時代末期・安土桃山時代に出た茶の湯の大成者。抛筌斎利休宗易居士。堺の納屋衆の一人千与兵衛の子として大永二年(一五二二)に生まれ与四郎と称し、天文四年(一五三五)十四歳の時にはすでに千家の当主となっていた。彼は当時堺の町衆の間に流行していた茶の湯に興味を抱き
豊臣秀吉(国史大辞典・世界大百科事典)
一五三七-九八安土桃山時代の武将。天文六年(一五三七)生まれる。『太閤素生記』によれば尾張国愛知郡中村(名古屋市)の木下弥右衛門の子という。弥右衛門は織田信秀の足軽であったが負傷して村に帰り百姓となった。秀吉の母なか(大政所、天瑞院)は弥右衛門との間
持統天皇(国史大辞典・世界大百科事典)
六四五-七〇二。六八六―九七在位。ただし正式即位は六九〇年。白鳳時代の女帝。諱は高天原広野姫、大倭根子天之広野日女ともいう。天智天皇の第二女、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘。大化元年(六四五)誕生。斉明天皇三年(六五七)十三歳で叔父の大海人皇子(天武天皇)と結婚。
源頼朝(世界大百科事典・国史大辞典・日本架空伝承人名事典)
源頼朝みなもとのよりとも一一四七-九九鎌倉幕府の創始者。初代将軍。一一九二―九九在職。久安三年(一一四七)源義朝の三男として生まれる。母は熱田大宮司藤原季範の女。熱田大宮司家は鳥羽法皇・待賢門院(鳥羽の中宮璋子)・後白河天皇・上西門院
松平定信(国史大辞典・世界大百科事典)
一七五八-一八二九。江戸時代後期の将軍補佐兼老中。幼名は賢丸、字は貞卿、号は旭峯・楽翁・風月翁・花月翁など。徳川(田安)宗武の第三子(八代将軍徳川吉宗の孫)。宝暦八年(一七五八)十二月二十七日江戸田安邸に生まる。田安家血統の絶える恐れがあるにもかかわらず安永三年(一七七四)白河藩松平定邦の養子を命じられた。
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