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  11. 坂本竜馬(坂本龍馬)

坂本竜馬(坂本龍馬)

ジャパンナレッジで閲覧できる『坂本竜馬(坂本龍馬)』の国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典のサンプルページ

国史大辞典
坂本竜馬
さかもとりょうま
一八三五 - 六七
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰(なおかげ)のちに直柔(なおなり)と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として、高知城下本町(高知市本丁筋一丁目)に生まれる。町人郷士坂本家は城下の豪商才谷屋の分家で、八平は三代目。城下の日根野弁治道場で剣を学んだが、嘉永六年(一八五三)江戸へ出て、北辰一刀流千葉定吉の門に入る。江戸滞在中ペリー来航に直面して攘夷思想の影響をうけたが、翌安政元年(一八五四)帰国後、薩摩藩反射炉を藩命で視察した絵師河田小竜から海運の必要などについて教示される。その後武市瑞山との交流を深め、文久元年(一八六一)武市が土佐勤王党を結成するや、竜馬も早速加盟し、その活動に参加した。翌年二月、「草莽志士」の糾合を求める久坂玄瑞の武市宛の書状を持ち帰ったことは有名。そのころ薩摩藩の率兵上京に呼応する西国志士の挙兵計画が伝わり、同志の脱藩が相ついだ。竜馬も呼応するかのように三月二十四日に脱藩したが、挙兵計画には参加せず、各地遊歴後、夏すぎに江戸に赴く。その後、松平春岳に接し、さらに勝海舟の門に入る。その下で幕府の近代海軍創設計画に参加し、そのなかで脱藩の罪も許された。文久三年四月二十四日幕府が神戸海軍操練所建設を決定するや、勝の右腕として東奔西走する。このように竜馬は、開化的傾向を示し始めたのであるが、このことは尊攘運動からの絶縁を意味するものではなかった。それは、同年六月二十九日付書状で、攘夷を決行した長州藩を弁護しながら「日本を今一度せんたくいたし」たいと書いていたことに伺える。したがって土佐藩が勤王党弾圧を強め始めるや、同年十二月、再度脱藩の身となった。また勝が翌元治元年(一八六四)十月江戸に召喚されることになったので、操練所に集まった竜馬以下は薩摩藩に預けられた。この結果、慶応元年(一八六五)四月鹿児島に赴くこととなったが、一方では薩摩藩に支援されて長崎の亀山に社中を開き、他方では三条実美らを太宰府に訪ね、閏五月六日には下関で木戸孝允と会談する。中岡慎太郎・土方久元らの動きに協力し、薩長同盟のために努力することとなった。この結果社中が、長崎で外国の艦船銃砲を購入することを幕府に禁ぜられていた長州藩のために、薩摩藩の名義で購入するなどの周旋を通じて薩長の関係を深め、ついで慶応二年正月二十二日(二十一日説もある)、京都薩摩藩邸で竜馬の仲介による薩長同盟を成立させた。その翌日、伏見の船宿寺田屋で幕吏に襲撃されたが、妻お竜(元治元年五月ごろ結婚、医師楢崎将作女)の活躍もあって助かる。その後お竜を鹿児島に伴い、傷を癒して長崎を中心に活動を再開した。社中で航海術の稽古をしながら運輸業などに従い、さらに商社経営を企画する。他方薩長土三藩連合を画策し、慶応三年正月中旬、長崎で土佐藩参政後藤象二郎と会談した。こうして土佐藩は、竜馬と中岡慎太郎の罪を許し、四月初旬に竜馬を海援隊長、中岡を陸援隊長に任命したのである。これは、藩主流が佐幕的立場を脱却したことの反映であった。その後竜馬は、藩の支援をうけて社中以来の海援隊の業務を拡大するとともに、割拠論と公議政体論とをむすびつけた竜馬の独自の国家構想である「船中八策」(筆記は長岡謙吉)を、六月後藤に提示した。後藤がこの構想にもとづいて大政奉還を実現させるが、竜馬は、それを支持しながらもライフル銃千挺を土佐藩に購入させるなど、割拠論的「藩」強化策を重視した。このように新しい政権構築には積極的に参画したが、新政府への参加は辞退している。だが海援隊員三百人を率いて上京してきたとの噂がたち、しかも前年の伏見の事件で幕吏を傷つけていたこともあって幕府に狙われ、十一月十五日京都の近江屋で見廻組に襲撃され闘死した。三十三歳。三日後、ともに遭難した中岡・下男山田藤吉と東山の霊山(現京都市東山区京都霊山護国神社域内)に埋葬される。『坂本竜馬関係文書』(『日本史籍協会叢書』)、書翰・関係史料・詠草などを収めた宮地佐一郎編『坂本竜馬全集』全一巻がある。
[参考文献]
平尾道雄編『坂本竜馬のすべて』、池田敬正『坂本竜馬』(『中公新書』六九)
(池田 敬正)
©Yoshikawa kobunkan Inc.


世界大百科事典
坂本竜馬
さかもとりょうま
1835-67(天保6-慶応3)

幕末の志士。本名は直柔(なおなり),別名は才谷梅太郎。高知城下の町人郷士の家に生まれ,維新の指導者としてその前夜に暗殺されるまでの軌跡には曲折があった。第1は尊攘志士に成長する時代である。町人郷士の次男でありながら,19歳のとき(1853)江戸へ剣術修業に赴き,ペリー来航に直面して政治にも目ざめ,1861年(文久1)武市瑞山が勤王党を結成するやただちにこれに加盟し,尊攘志士として活躍を開始した。ところが翌年3月脱藩するや,勝海舟の下で,第2の近代航海術を修業する時代へと方向は変化した。このことは,彼が町人社会の雰囲気(坂本家の本家は豪商才谷屋)と無縁でなかったこと,海外知識にくわしい画家河田小竜とつながりのあったことなどによる。勝の下で神戸海軍操練所の塾頭になった竜馬は,大久保忠寛,横井小楠,由利公正らとの交渉を深め,その政治思想を成長させた。しかし勝や大久保が幕府内で失脚し,竜馬が薩摩藩に依存せざるをえなくなったころから第3の時代に入る。1865年(慶応1)から翌年にかけての薩長同盟,その翌年の薩土盟約を実現させるための政治活動,それとこの間の亀山社中(1865成立)および海援隊における海運・貿易に従事しながらの航海術の修業は,他の維新の指導者にはみられない行動様式であった。この新国家構想を進める政治家の時代は,後藤象二郎の大政奉還論に利用される〈船中八策〉に代表される。そこでは,幕藩制的秩序にこだわらない中央集権的な統一国家が構想されている。もちろんそれは,近代国家ではなく絶対主義国家ではあったが,当時の対外的危機の下ではこの統一が必要であった。町人的現実主義を身につけ,封建的藩閥意識から脱却しつつあった竜馬だからこそ,この構想が可能となったといえよう。しかしこの構想実現の途中,竜馬は,京都河原町蛸薬師の近江屋にて,幕府見廻組に暗殺される。
[池田 敬正]

[索引語]
船中八策


新版 日本架空伝承人名事典

坂本竜馬
さかもとりょうま
1835‐67(天保6‐慶応3)
 幕末の志士。土佐藩の郷士の出身。少年時代は泣き虫で、よく寝小便をもらしたという。一九歳で江戸に出、千葉周作門下となって剣を学んだが、ペリー来航により時局に目覚め、一八六一年(文久一)土佐勤王党に加盟、尊攘派の志士として活動した。だが翌年脱藩し、江戸に出て勝海舟の門に入り、幕府の神戸海軍操練所設立に尽力。操練所閉鎖後、海援隊を組織し海運に従事しつつ、六六年(慶応二)薩長同盟を仲介、倒幕勢力を結集させた。また新国家構想(船中八策)を説き、大政奉還を側面からリードしたが、その直後、京都の近江屋で中岡慎太郎とともに、幕府の京都見廻組に暗殺された。下手人に関しては多くの説があるが今もって謎である。
 西郷隆盛らとともに最も人気の高い志士の一人で、多くの伝説・伝承に彩られる。あるとき土佐勤王党の剣の遣い手檜垣清治が、長刀を腰に闊歩していたところ、竜馬はそれを見て、短めの刀こそ敏捷に対応できるといって自らの佩刀を示した。檜垣はなるほどと思い短めの刀に替え、しばらくして竜馬に会うと、竜馬は懐からピストルを取り出し、もはや刀の時代は終わったという。さらに何カ月か経て、ピストルを入手した檜垣が竜馬に会うと、今度は懐から一冊の本『万国公法』を取り出し、「これからの世は剣や銃ではだめだ」といった。
 また、中江兆民は一九歳のころ、長崎で竜馬に命じられよく煙草を買いに行ったという。
[高橋 千劔破]
龍馬も遂に鞆子(即ちお良の事)の望のまゝに任する事となりて、其母にも暫しの別をつげさせて都を跡に舟出したるは、自と彼の西洋人が新婚の時には、「ホネー、ムーン」と呼びなして、花婿花嫁互ひに手に手を取りて伊太利等の山水に逍遙するに叶ひたりとや謂はん。鞆子は幸に滊船に酔ひなやむことなくして、何も甲板の上に在りて世界第一との公評ある裏海の風景を眺めくらし、彼方は何島此方は何山など、夫の指し教ゆるまゝに其面白さ謂ん方なく、其身の八重の潮路を渡る旅人なるを打ち忘れ、と睦しく語ひて、只見る一双の釵尖帽角逢ふが如く離るが如くなるは、彼の范蠡が西施を載せて五湖に浮むの故事も、其風流の情趣を比ぶるに足らぬとまで思はるばかりなれば、余所に見る乗合の人々は、其癖として窃かに、アナ心悪き振舞なんどつぶやきあひ居たり。
汗血千里駒(坂崎紫瀾篇)
○当時長崎の地は、独り西欧文明の中心として、書生の留学する者多きのみならず、故坂本竜馬君等の組織する所の海援隊、亦運動の根拠を此地に置き、土佐藩士の来往極めて頻繁なりき。先生曾て坂本君の状を述べて曰く、豪傑は自ら人をして崇拝の念を生ぜしむ、予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐訛りの方言もて、『中江のニイさん煙艸を買ふて来てオーセ、』などゝ命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屡々なりき。彼の眼は細くして其額は梅毒の為め抜上がり居たりきと。
兆民先生(幸徳秋水篇)
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1.坂本龍馬画像
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幕末の志士。天保(てんぽう)6年11月15日、土佐国(高知県)高知城下本丁(ほんちょう)一丁目に郷士坂本八平の次男に生まれた。実名は直柔(なおなり)、変名は才谷 ... ...
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4.さかもと‐りょうま【坂本竜馬】画像
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[1836〜1867]幕末の志士。土佐藩士。名は直柔(なおなり)。千葉周作道場に剣を学び、のち脱藩し、勝海舟に師事。慶応2年(1866)薩長同盟成立に尽力。前土 ... ...
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江戸末期の尊攘派の志士。海援隊長。土佐藩出身。一九歳で江戸に出て北辰一刀流を学ぶ。文久二年(一八六二)脱藩して勝海舟の門にはいり、彼を助けて幕府神戸海軍操練所の ... ...
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1836*−1867 幕末の武士。天保(てんぽう)6年11月15日生まれ。家は土佐高知城下の郷士。文久元年土佐勤王党にくわわり,翌年脱藩して勝海舟の門にはいって ... ...
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10.坂本龍馬
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汗血千里駒(坂崎紫瀾篇)○当時長崎の地は、独り西欧文明の中心として、書生の留学する者多きのみならず、故坂本竜馬君等の組織する所の海援隊、亦運動の根拠を此地に置き ... ...
12.坂本竜馬[文献目録]
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13.坂本竜馬・坂本龍馬
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14.SakamotoRyōma【坂本竜馬】画像
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15.さかもとりょうまあんさつじけん【坂本竜馬暗殺事件】
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16.坂本龍馬記念乗車券
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17.坂本龍馬殺人事件
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18.坂本龍馬像[百科マルチメディア]
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19.坂本龍馬年賀状[新語流行語]
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高知県立坂本龍馬記念館が坂本龍馬に関する情報などを集めたポータルサイト「龍馬街道」と共同で企画した2010年用の年賀状セット。龍馬の写真と龍馬直筆の木戸孝允に ... ...
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宝塚歌劇団による舞台演目のひとつ。作:石田昌也。2006年、宝塚大劇場にて宙組が初演。坂本竜馬をモデルとした作品。 2013年02月 ... ...
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22.あやかり‐しょうひん【肖り商品】
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23.伊木三猿斎
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24.いぎさんえんさい【伊木三猿斎】
国史大辞典
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25.いぐち-しんすけ【井口新助】
日本人名大辞典
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27.維新[流行語大賞2012]
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橋下徹 地域政党「大阪維新の会」が「日本維新の会 」を結成、国政政党として国政選挙へ乗り出し、坂本龍馬の「船中八策」に倣って、「維新八策」を発表した。 ... ...
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習となり、漸進して大目付役軍使兼帯寺社奉行となる。慶応二年(一八六六)冬、藩命で長崎に行き、坂本竜馬・五代友厚・本木昌造らを知り、また海外事情に通じた。このころ ... ...
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歴史随筆としては『江戸の備忘録』(朝日新聞出版)がある。10年には『龍馬史』(文芸春秋)を著し、坂本龍馬の生涯を社会経済史の観点から解説。龍馬の実像に迫った。龍 ... ...
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日本大百科全書
大坂の真鍋(まなべ)豊平が新作を多くつくり、その奏法も大きな発展を遂げ、いよいよ盛んになった。坂本龍馬(りょうま)など幕末の志士たちも弾いたという。明治末年から ... ...
32.いまい-のぶお【今井信郎】
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慶応3年京都見廻組与力頭。戊辰(ぼしん)戦争では東北各地で新政府軍とたたかい,明治2年五稜郭で降伏。翌年坂本竜馬暗殺にかかわったと供述した。5年特赦。のち静岡県 ... ...
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34.いまむらいづみ
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で、万延元年(一八六〇)頃の郷乙名は本河内郷を兼帯した。晧台寺後山に林官梅両家の墓地があり、坂本龍馬が率いる亀山社中が隠れ住んだという家屋跡が残されている。慶応 ... ...
36.岩崎弥太郎
世界大百科事典
境に落ち,新田開発や官林伐採を行う。67年(慶応3)に土佐藩の開成館長崎出張所の下役となり,坂本竜馬やT.B.グラバーらの外国商人と交渉,明治維新後の69年(明 ... ...
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世界大百科事典
自製,62年長崎に日本最初の営業写真館を開設し,コロジオン湿板を使って写真を撮影して好評を博し,坂本竜馬,高杉晋作,伊藤博文ら維新の志士たちも長崎に赴いて肖像を ... ...
39.うえの‐ひこま【上野彦馬】画像
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40.うえのひこま【上野彦馬】
国史大辞典
彼は交友内外にきわめて広く、勝海舟や榎本武揚らはかつての同窓であり、また維新の際には高杉普作・坂本竜馬・西郷隆盛・伊藤博文らと頻繁に往来して、彼らを撮影していた ... ...
41.うえの-ひこま【上野彦馬】画像
日本人名大辞典
オランダ人の医師ポンペに化学を,フランス人ロッシュに写真術をまなぶ。文久2年長崎にわが国初の写真館を開業。坂本竜馬,高杉晋作や金星観測,西南戦争などの写真をのこ ... ...
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44.えのはまむら【江之浜村】長崎県:南松浦郡/有川町
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近江(おうみ)(滋賀県)の儒者下坂篁斎の子。京都の醍醐(だいご)家につかえ,板倉を名のる。私塾文武館をひらき,坂本竜馬らとまじわる。天誅(てんちゅう)組の挙兵の ... ...
46.近江屋
日本史年表
1867年〈慶応3 丁卯〉 11・15( 12・10 ) 坂本竜馬・中岡慎太郎、京都河原町 近江屋 で京都見廻組に襲撃され、坂本は即死、中岡は17日死亡(維新 ... ...
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土佐高知藩家老深尾氏の家臣。土佐勤王党に属し,元治(げんじ)元年脱藩して萩(はぎ)藩をたよる。慶応2年坂本竜馬(りょうま)らを岩倉具視(ともみ)に紹介する。3年 ... ...
50.おかうちしげとし【岡内重俊】
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天正三年(一五七五)五月二十一日織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を三河国設楽原(したらがはら、愛知県新城(しんしろ)市)で破った合戦。天正元年四月武田信玄が没し武田軍の上洛遠征が中断されると、徳川家康は再び北三河の奪回を図り、七月二十一日長篠城
姉川の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという
平成(国史大辞典)
現在の天皇の年号(一九八九―)。昭和六十四年一月七日天皇(昭和天皇)の崩御、皇太子明仁親王の皇位継承に伴い、元号法の規定により元号(年号)を平成と改める政令が公布され、翌一月八日より施行された。これは、日本国憲法のもとでの最初の改元であった。出典は
河原者(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
江戸時代に、歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。河原乞食ともいった。元来、河原者とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は、原則として非課税の土地だったので、天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を
平安京(国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書)
延暦十三年(七九四)に奠(さだ)められた日本の首都。形式的に、それは明治二年(一八六九)の東京遷都まで首府であり続けたが、律令制的な宮都として繁栄したのは、承久二年(一二二〇)ころまでであって、その時代から京都という名称が平安京の語に替わってもっぱら
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