『日本近代文学大事典』と私

刊行から40年以上を経て、増補改訂デジタル版としてジャパンナレッジで公開した『日本近代文学大事典』。その改訂作業に携わった編集委員や、旧版の項目執筆者、愛用者のみなさまが “大事典への思い” を綴ってくれました。

「作品」から「コンテンツ」へ

ぶちのりつぐごみぶちのりつぐ

自分の不勉強を打ち明けるようで恥ずかしいのだが、『日本近代文学大事典』でいちばんお世話になったのは附録の地図だったように思う。
最初に勤めた高校の授業で漱石の『坊っちやん』や『門』を教材としたときは、同僚が退勤したあとの教科室で、窮屈に折り畳まれた二枚の地図を何度も広げては見入ったり、折り目のクセがついた部分を押さえながらコピーを取ったりした。
『東京府管内地図(明治十三年)』と『東京市全図(明治三十年代前半)』がなぜ選ばれたかはわからない。しかし、語り手が一八八二(明治一五)年生まれ、物語現在が一九〇五(明治三八)年頃と推測できる『坊っちやん』の世界を考える上では、格好の手がかりとなってくれた。
そんな思い出があったので、日本近代文学館での企画展「文学事典のこれまでとこれから」で「編集会議の様子」として紹介されたのが、テーブルいっぱいに地図を広げた場面だったことに妙な感慨を覚えてしまった。

講談社版『大事典』の編集の裏側を伝える展示も、じつに興味深いものだった。事典/辞典である以上形式上の統一は不可避だが、わたしの乏しい経験からしても、編集担当者の重要な仕事は型にはまらない(?)執筆者とやりとりすることだった。
今回展示された『大事典』の原稿でも、多くの作家・批評家が律儀に記事を整えている中で、欄外に〇・五枚オーバー、一枚オーバーと書き込まれたものがあった。書き直しが届いたので没原稿にするという注記も見られた。
小川国夫が書いた「島尾敏雄」の原稿には、大正六年四月横浜市に生まれた、という文のあとに「蒲柳の質だったらしく、六歳で大病をした際には、医者に助からないと言われたこともあった」と記され、一文で人物像を立ち上げていく作家の凄みを感じさせてくれる。
現在の『大事典』で、この記述の前に「小説家」という肩書きと「長崎高商を経て、九州帝大の東洋史科卒業」という学歴が書き込まれたのは、編集作業の中で補われたのだろう。
だが、いま読みなおすと、こうした「自由さ」が、『大事典』の個性と見えてくるから面白い。名だたる文学者たちが多く署名入り原稿を寄稿した『大事典』は、それぞれの項目が一つの魅力的な「作品」ともなっていた。

しかし、そのような楽しみ方は、書物という形態ならではのものだろう。デジタル化によって、ランダムにページをめくり、隣り合った項目を読むことから新たな気づきを得る、という楽しみは失われる。
JapanKnowledge の他のコンテンツと横並びに表示される中で、情報としての価値の方が問われることになる。だがそれは、オンライン化を選んだ必然として受け入れるべき変化なのだと思う。
その代わり『大事典』は、同じ土台を共有する情報の海と接続する可能性を持つことになった。例えば、冒頭で触れた地図はどうだろう。現在は『歴史地名大系』コンテンツにgoogle map へのリンクがある程度だが、ここに各時代の歴史地図が加わると、作家の生きた時代の土地をより視覚的に思い描けるようになるはずだ。
かつて筑摩書房が刊行した『明治大正図誌』のように、当時の人々の身のまわりにあったモノたちが画像で確認できるようになると、なおすばらしい。

コンテンツが増えるほど、接続可能性が広がっていくのがオンラインの利点である。信頼できるプラットフォームから複数の良質な情報にアクセスできることは、高校や大学の学習者たちにとって何より価値があることだ。夢はどんどん広がる。

(早稲田大学教授)

『日本近代文学館』館報 No.307 2022.5.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

二〇〇字項目は研究者育成の道場

やまざきかずひでやまざきかずひで

「長井金風」(二〇〇字)の手掛りが無く困っていた折、勤務先の跡見学園女子大学の国文学科教授で学長でもあった伊藤嘉夫先生(歌人・西行の研究家)から『萬葉集』の評釈をした人で、佐佐木信綱先生が『明治文学の片影』(昭和九年十月、中央公論社)で、その風貌を記しているとの助言を得た。

そして先生は『明治文学の片影』に次の文章を書いて下さった。

顧みればすでに四十余年の昔である。私が佐佐木信綱先生の許に在つた頃、この書のために、書状、短冊を持つて銀座の写場に行き製版のための写真を、数日にわたつて撮つた。立ち会つたのが山本健吉氏であつたと思う。原稿の清書や校正をした思い出の書である。私の最も敬愛する明治文学研究の学兄山崎君に贈る。 昭和五十年正月 伊藤嘉夫

先生は本を渡された時、ご息女が「婦人公論」の記者であったと話された。先生の話を手掛りとして訪ね歩き、長井金風の息女村上早苗氏(筆名大江飛鳥(あすか)、歌人前川佐美雄に師事)を荻窪のお宅へお訪ねした。

亡くなるまでほぼ十年余交流が続いた。事典の二〇〇字原稿は、のちに早苗さんから頂戴した資料を基に同人誌「評言と構想」に『鷗外ゆかりの人々 その二 長井金風』と題して八十枚の伝記に変貌した。

早苗さんは「婦人公論」の記者(昭和九—十四年)として、ライカのカメラを持って取材をしていたという。林達夫氏、岩崎旭氏らが贔屓にしていた。大柄で長身で美人であった。雑誌「銀座」(昭和九年五月号)の《銀座美人譜Ⅰ 長井早苗さん》に写真が載り、推薦者大仏次郎氏が文章を書いている。

夫君村上済州氏は戦前新築地劇団員として活動(芸名新田(にった)地作)し、戦後は声優村上冬樹として活躍された方で、私などNHKの「鐘の鳴る丘」でその声に接していた。

お二人ともお亡くなりになられたが、忘れ得ぬ人である。

事典の原稿の締切りが過ぎても沈黙している私たち早大関係者五、六名が紅野敏郎先生から高田馬場の「大都会」へ呼び出され、原稿を書かない存念を問われ、油を絞られた。

二〇〇字の項目で苦慮している仲間たちは奇妙な連帯感があって、書かないのではなく書けない弁解と屁理屈を並べ立てた。先生は一呼吸置いて、遅れた原稿をそのまま送付するとは何事か。持参して詫びる心が無いのかと問われ、一瞬沈黙があった。先生の言葉は私の心に痛く刺った。

以後私は遅れた原稿を講談社の中島和夫氏に届け、面識を得た。中島氏はいつも三十分程作家との交流を話された。楽しいひとときであった。松本清張の鷗外論については、のちのちまで話題にのぼった。

雑誌「講談倶楽部」が〈浪花節特集号〉を発行した。立腹した講談師が「講談倶楽部」へ口演の速記講談の提供を拒絶した。ここから「書き講談」が生まれる。その経緯を大学の研究誌に書く時、「講談倶楽部」閲覧に講談社内図書室へ紹介して下さったのは中島さんである。感謝している。紅野先生が中島さんとの出会いを作って下さったことになる。

大事典の執筆は、私の三十代後半から四十代初めであった。二〇〇字の項目執筆は、人と出会い、資料と出会い、人との交流が広がり、世界が拓かれ、研究者として育てられた。二〇〇字執筆は、研究者を育てる道場である。

(跡見学園女子大学名誉教授・日本近代文学館理事)

『日本近代文学館』館報 No.306 2022.3.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

執筆を辞退してから半世紀後に

ぐさみつえぐさみつこ

ほぼ半世紀前、研究者としては海のものとも山のものともつかない私に、『日本近代文学大事典』(以下『大事典』と略)の執筆依頼が届きました。女性作家の二〇〇字項目が一つだけ。本来なら喜んで受諾したはずです。
けれども折も折、非常勤から専任に年度途中で切り替わったばかりのところに、転居や保育園の送迎なども重なっていて、とうてい締め切り日には無理と判断し、やむなく辞退しました。

辞退した直後、当の作家の自殺が報じられました。当時私がこの作家について知っていたことはごくわずか、作家自身が精神病院に出入りし、その体験をもとにした作品で高い評価を得ていること、また中上健次の話題作でモデルにされ、その描き方に不服を申し立てているらしいということくらいです。
そこに自殺です。万一依頼を受諾していたらどうなっていただろう、きっと精神的にかなりまいっただろうな、と思ったことを今でも覚えています。

ところが、その作家の名が思い出せません。『大事典』所収の五六〇〇名の中から探し出せるはずもなく、かりに〈逆引き〉機能が備わっていたとしても、私のわずかな情報では検索の術もないでしょう。
ふと、手元に渡邊澄子著『負けない女の生き方』(二〇一四)があったことを思い出し、その表紙には「明治大正」の女性作家とうたってありましたが、かまわず最初からめくっていくと、真ん中辺で「小林美代子」の名が出てきました。

さっそく生前の小林の作品集『髪の花』(一九七一・八)と没後発表の遺作「蝕まれた虹」(一九七三・一一「群像」)を取り寄せて丁寧に読みました。
狂気と正気がいともたやすくスライドし合うこれらの作品たちは、どれも穏やかな筆致で平易に書かれているのに、読むにつれだんだん気持ちが揺らぎだし、粟立つ不安や怒りをおさめるために、何度か本を閉じました。おそらく、私の読書歴でもいちばん怖い作家に出遭ったような気がします。

いささか私的な感懐にこだわり過ぎました。完成した『大事典』との付き合いは、もっぱら一冊本になった机上版(一九八四)でした。六巻本を縮刷増補したこの机上版には、昭和五〇年代を総括する「現代文学」の諸論考が加えられ、現代文学史の見取り図を描くうえで何度も参照しました。
また巻末には十九のトピックを集めた「リテラリー・フォーラム」が設けられ、「サルトルからマルケスまで」「核状況下の文学」「“大学紛争”と新時代」「女流文学の時代」等々、一九八〇年代初期の活力に満ちた文学状況に迫った気鋭の発言が続いていました。同時代を歩んできた者には、いまや懐かしいページでもあります。

『大事典』の本篇をなす作家項目は、ゼミの指導には必須でした。三、四年生が連続受講する四〇名ほどの学生の研究題目は毎年限りなく拡散し、担当者にとっては骨でしたが、同時に楽しみでもありました。
夏休みには恒例のゼミ合宿を行い、そこへもこの重たい一冊を持参して学生たちの供覧に付したものです。

最後に、このたびの電子版では〈増補〉項目を二つ担当しました。この半世紀間に日本の作家も文学もどれほど変貌したか、改めて痛感しました。変化の要因には、まちがいなく一九六〇年代半ばからのウーマンリブや第二波フェミニズムの世界的な潮流があげられます。
今なおその波は動き続けているのを実感しますが、かの小林美代子という小粒で無類に怖い作家でさえ、この潮流なくしては誕生し得なかったのではないかと思います。

(日本近代文学館理事・文教大学名誉教授)

『日本近代文学館』館報 No.305 2022.1.1掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

大事典が検索できることの意義

こうとばこうじ

私が『日本近代文学大事典』(以下、大事典と略記)を購入したのは、博士後期課程に入って半年、一九九六年九月のことだった。早稲田通りで行きつけの平野書店などに大事典の在庫はなく、渋谷の中村書店で見つけて、店でも使っているからあまり売りたくないという四万五千円のセット(附録地図欠)を購入したのだった。
以来、新聞で作家の訃報を見つけると切り抜いて大事典に挟み、個人的なレファレンスとして重宝していた。しかし、検索ツールが便利になるにつれ、大事典を使う機会は減っていった。
現在、作家や雑誌について調べる時には、大事典を収録する予定のJapanKnowledgeをはじめとするオンライン資料で当たりをつけてから、図書館の書庫に入るのが習慣である。

大事典の索引と『明治文学全集』の総索引は、紙のカードで作られた時代の末期の労作だが、今回のデジタル版には、紙の事典以上の可能性が見出せる。
例えば「安部公房」で検索した場合、人名では、関係する芥川比呂志、安部公房、石川利光、磯田光一、大島栄三郎、奥野健男、倉橋健、千田是也、高野斗志美、野間宏、長谷川龍生、花田清輝、真鍋呉夫、村松剛、それに新規項目のドナルド・キーンがヒットする(下線は第六巻の人名索引採録分、以下同様)。意外なところでは、耕治人が「戦後いち早く作家活動を開始、いわゆる「第二の新人」、第二次戦後派とよばれた堀田善衛、安部公房らと同時に文壇に登場した」(遠藤祐)ということなど、今日では忘れられた事実であろう。
また、永山一郎の「作風は島尾敏雄、安部公房的な超現実主義と暗い土着とを統一的に表現しようとしたユニークさにみち」(奥野健男)ていたという評価なども歴史的なものだ。

事項でのアヴァンギャルド、SF、外国の日本近代文學研究(戦後)、記録藝術の会近代劇近代文學と映画、劇団雲、劇団青俳、実験小説、戦後の文學、戦後派文學、叢書、日本近代文學とカフカ、日本近代文學とブレヒト、日本近代文學にあたえた中国文學の影響、日本近代文學にあたえたドイツ文學の影響、日本近代文學の欧米への影響、俳優座、民主主義文學あたりのヒットは予想の範囲内だろう。
思いがけないのは「近代文學と明治維新」で、「安部公房の『榎本武揚』(小説・戯曲)、大岡昇平の『天誅組』も指を屈すべき作品であろう」(稲垣達郎)とされている点である。また、「日本近代文學とヘンリー=ミラー」で、「「ミラーは性的であろうと欲したのではなく、ただ全人的であろうと欲しただけだ」という安部公房の批評(『被告席から』昭40 講談社刊『沙漠の思想』所収)は最も的確にミラーと日本現代文学との交流関係を代表するものであろう」(田中西二郎)とされているのも面白い(『沙漠の思想』とあるのは、『砂漠の思想』が正しい)。

新聞雑誌では、「希望」(エスポワール)、「近代文學」、「現在」、「現代藝術」、「個性」、「次元」、「人民文學」、「世界」、「世界文學」、「総合」、「綜合文化」、「波」、「人間」、「表現」、「文學季刊」、「文學評論」、「列島」と執筆誌が並ぶが、「詩人」で「安部公房らの作品特集紹介を組んだりした」(原崎孝)とされるのは誤りである。
ともあれ、以上のヒット項目を手がかりにすれば、この作家への様々なアプローチが考えられるだろう。

もちろん、大事典での調査はそれで完結するようなものではない。ただ、検索可能になることによって、今まで見えなかったつながりが見えやすくなってくる。デジタル検索によって、アナログ資料の探索可能範囲と活用の可能性は確実に広がっているのだ。

(早稲田大学教授)

『日本近代文学館』館報 No.304 2021.11.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

宝庫

たつろうでくねたつろう

『日本近代文学大事典』とのつきあいは、一九七七年十二月三十一日以来である。
どうして日付を覚えているか、というと、この日、客からくだんの事典を買い入れたからだ。しかも第一巻だけ、端本で。

四年前、私は杉並区高円寺に、五坪の古書店を開業した。立地が悪く、全く売れない。バス通りに面していて、人の往来が無い。
その代わり本の買い物がある。処分品を車で運んで来る。前記の大晦日は朝から持ち込みの本で、店の通路は塞がってしまった。
古本商売は売るよりも買い入れの方が儲かる。しかし、文学事典の端本はこまる。

この事典は先月発行されたばかりだった。第一巻から三巻が人名篇で、四巻が事項、五巻が新聞・雑誌篇、六巻が索引その他である。六巻のみ未刊で(翌年八月に出た)、他はいっぺんに発売された。事典の構成上、端本はありえないのである。

客が気がつかず、一冊だけ運んできたのだろう。指摘すると、探して持参する、それは預かってくれと言った。承知して帳場の脇に取り置いた。ところが、それきり音沙汰が無い。
売るわけにいかず(もっとも売れない)、勝手に処分もできず、客の住所に問い合わせたら、引っ越したあとだった。別に損したわけでないので、そのまま忘れてしまった。

ある日、年輩の客から木村毅の著作を一括で買った。まとまったコレクションは珍らしく、本だけでなく新聞雑誌の切り抜きもある。まず調べてから売り方を考えよう。
思いだしたのが、例の端本だった。さいわい、第一巻は「あ」から「け」の姓の人が収められている。木村毅の項は、意外にも約一頁半ある。詳密な記述で、高く評価されている。
筆者は谷沢永一だった。私は思わず快哉を叫んだ。儲かった、と興奮したのである。

谷沢氏は古書界で著名なかただった。氏から注文を受けたことのない古本屋は、モグリと笑われるくらい買い漁った。それも人が買わない本ばかり買う。
不思議にも氏が漁る本は、のちに脚光を浴び高額で取引される。だから氏の買取内容は、古本屋の注目の的だった。

私も氏の収集の傾向から、古い出版見本を集めて大儲けした。

それは()いて、私が『日本近代文学大事典』に親しんだのは、かくの如く商売がらみであった。木村毅の項がきっかけで、暇を見ては第一巻を拾い読みした。
「か」のところに、神田豊穂が出ている。この名に覚えがあった。木村毅の項で読んだ。神田は茨城県麻生藩の家老の家に生まれた、とある。
麻生は私の田舎で、藩主新庄氏の子孫はわが中学の担任だった。神田は直木三十五らと日本最初の『トルストイ全集』を刊行した人である。出版者として事典で紹介している筆者を見ると、木村毅その人だった。

私は『文学大事典』が全巻ほしくなった。第六巻を新刊で求め、既刊分を同業者から譲ってもらった。当時は結構な値段だった。
毎日、少しずつ読んだ。事典は読み物として最上だった。いろんな発見がある。

独学の士が多い。郵便局勤めや、郵政関係者が多い。昔は貧しくて学費の無い者は、逓信修技学校を選んだ。幸田露伴しかり。
郵便局に関わった人は壺井栄、川口松太郎、平木白星、平林たい子、高須梅渓、中村吉蔵、小島烏水、柳沢健、前田鉄之助、楠田匡介……思いだす人だけでもこれだけいる。
『日本近代文学大事典』は、研究材料の宝庫であって、商売人に言わせれば、儲け口の大穴なのである。

(作家)

『日本近代文学館』館報 No.303 2021.9.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

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