『日本近代文学大事典』と私

刊行から40年以上を経て、増補改訂デジタル版としてジャパンナレッジで公開した『日本近代文学大事典』。その改訂作業に携わった編集委員や、旧版の項目執筆者、愛用者のみなさまが “大事典への思い” を綴ってくれました。

二〇〇字項目は研究者育成の道場

やまざきかずひでやまざきかずひで

「長井金風」(二〇〇字)の手掛りが無く困っていた折、勤務先の跡見学園女子大学の国文学科教授で学長でもあった伊藤嘉夫先生(歌人・西行の研究家)から『萬葉集』の評釈をした人で、佐佐木信綱先生が『明治文学の片影』(昭和九年十月、中央公論社)で、その風貌を記しているとの助言を得た。

そして先生は『明治文学の片影』に次の文章を書いて下さった。

顧みればすでに四十余年の昔である。私が佐佐木信綱先生の許に在つた頃、この書のために、書状、短冊を持つて銀座の写場に行き製版のための写真を、数日にわたつて撮つた。立ち会つたのが山本健吉氏であつたと思う。原稿の清書や校正をした思い出の書である。私の最も敬愛する明治文学研究の学兄山崎君に贈る。 昭和五十年正月 伊藤嘉夫

先生は本を渡された時、ご息女が「婦人公論」の記者であったと話された。先生の話を手掛りとして訪ね歩き、長井金風の息女村上早苗氏(筆名大江飛鳥(あすか)、歌人前川佐美雄に師事)を荻窪のお宅へお訪ねした。

亡くなるまでほぼ十年余交流が続いた。事典の二〇〇字原稿は、のちに早苗さんから頂戴した資料を基に同人誌「評言と構想」に『鷗外ゆかりの人々 その二 長井金風』と題して八十枚の伝記に変貌した。

早苗さんは「婦人公論」の記者(昭和九—十四年)として、ライカのカメラを持って取材をしていたという。林達夫氏、岩崎旭氏らが贔屓にしていた。大柄で長身で美人であった。雑誌「銀座」(昭和九年五月号)の《銀座美人譜Ⅰ 長井早苗さん》に写真が載り、推薦者大仏次郎氏が文章を書いている。

夫君村上済州氏は戦前新築地劇団員として活動(芸名新田(にった)地作)し、戦後は声優村上冬樹として活躍された方で、私などNHKの「鐘の鳴る丘」でその声に接していた。

お二人ともお亡くなりになられたが、忘れ得ぬ人である。

事典の原稿の締切りが過ぎても沈黙している私たち早大関係者五、六名が紅野敏郎先生から高田馬場の「大都会」へ呼び出され、原稿を書かない存念を問われ、油を絞られた。

二〇〇字の項目で苦慮している仲間たちは奇妙な連帯感があって、書かないのではなく書けない弁解と屁理屈を並べ立てた。先生は一呼吸置いて、遅れた原稿をそのまま送付するとは何事か。持参して詫びる心が無いのかと問われ、一瞬沈黙があった。先生の言葉は私の心に痛く刺った。

以後私は遅れた原稿を講談社の中島和夫氏に届け、面識を得た。中島氏はいつも三十分程作家との交流を話された。楽しいひとときであった。松本清張の鷗外論については、のちのちまで話題にのぼった。

雑誌「講談倶楽部」が〈浪花節特集号〉を発行した。立腹した講談師が「講談倶楽部」へ口演の速記講談の提供を拒絶した。ここから「書き講談」が生まれる。その経緯を大学の研究誌に書く時、「講談倶楽部」閲覧に講談社内図書室へ紹介して下さったのは中島さんである。感謝している。紅野先生が中島さんとの出会いを作って下さったことになる。

大事典の執筆は、私の三十代後半から四十代初めであった。二〇〇字の項目執筆は、人と出会い、資料と出会い、人との交流が広がり、世界が拓かれ、研究者として育てられた。二〇〇字執筆は、研究者を育てる道場である。

(跡見学園女子大学名誉教授・日本近代文学館理事)

『日本近代文学館』館報 No.306 2022.3.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

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