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  11. 西郷隆盛

西郷隆盛

ジャパンナレッジで閲覧できる『西郷隆盛』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
西郷隆盛
さいごうたかもり
一八二七 - 七七
明治維新の指導的政治家。文政十年(一八二七)十二月七日鹿児島城下加治屋町で、父吉兵衛隆盛・母マサの長男として生まれた。諱は隆永。維新後は隆盛と改めた。幼名小吉、のち吉之介・善兵衛・吉兵衛・吉之助と称し、号は止水、のち南洲とした。家格は城下士の下級の御小性組。安政元年(一八五四)正月中御小性となり、薩摩藩主島津斉彬の参勤に従って江戸に行き、庭方役として政界の裏面工作に従った。同四年徒目付となり、斉彬の意をうけて将軍徳川家定の継嗣に一橋慶喜を擁立する運動をし、越前藩士橋本左内とともに内勅降下を実現すべく京都で暗躍した。同五年、安政の大獄が始まると、同志僧月照を捕吏の手から保護するため鹿児島に帰ったが、斉彬死後の藩地の情況はこれを許さず、処置に窮して十一月月照と相抱いて鹿児島湾海中に投身したが、西郷だけは蘇生した。藩庁は菊池源吾と改名させて大島に潜居させた。幽囚生活三年。文久二年(一八六二)正月召還され、大島三右衛門と改名、徒目付、庭方兼務に復した。時に藩地でも京都でも尊攘派が進出したが、藩政の実権をにぎっていた藩主の父、島津久光は、藩内尊攘派をおさえながら、他面でその活動を利用して、朝廷・幕府に対する自藩の勢力を張ろうと企図し、このため対外折衝の経験をもつ西郷を必要とした。西郷は、久光が意図する上京は尊攘激派に乗ぜられるとして、その延期を建言したが、久光は拒否した。西郷は、下関で待てとの久光の命令を無視して上京し、諸藩の志士と交わった。彼の意図は激派の蜂起を慰撫するにあったが、久光は浪士を煽動していると見、主命に従わぬ罪をもって、六月徳之島、ついで沖永良部島へ流罪に処し、知行・家財を没収した。元治元年(一八六四)二月召還の命を受けた。三月上京して軍賦役・小納戸頭取となり、七月の禁門の変では、藩兵参謀として長州軍と戦った。この直後には、長州征討に積極的であったが、十月には長州処分を寛大にすべしとの論に変わった。大坂で幕府軍艦奉行勝海舟(義邦)と会い、雄藩連合論を説得されたためといわれている。このころ大島姓から西郷姓にもどった。彼は征長総督徳川慶勝の軍議に加わり、長州処分を委ねられ、みずから岩国にのりこみ、禁門の変の責任者として長州藩家老三人を切腹させ、戦闘なしに事態を収拾した。これ以後、急速に反幕の態度を明確にし、慶応元年(一八六五)、幕府の企てる長州再征に反対の藩論をまとめ、翌年正月、土佐藩脱藩士坂本竜馬の仲介によって、長州藩の木戸孝允との間で、倒幕の薩長盟約を結んだ。七月薩摩藩は、藩主父子の名で朝廷に長州再征反対と政体変革を建白し、藩主名で幕府に出兵拒否を通告したが、これは西郷と大久保利通の策謀にもとづいていた。慶応三年に入ると、西郷の活動は、公武合体策を持し西郷に好意をもたぬ久光をかかえて、策謀・かけひきをきわめる。六月には、大政奉還をもくろむ土佐藩の後藤象二郎らと盟約(薩土盟約)をむすぶ一方、十月には長州藩・芸州藩の倒幕派との間に討幕挙兵の盟約を交わし、大久保とともに岩倉具視とむすんで討幕の詔勅降下を工作した。この結果十月十四日前土佐藩主山内豊信の建白にもとづき将軍徳川慶喜の大政奉還の上表が朝廷に出された前日、薩摩藩主父子あての討幕の密勅が出た。十二月九日の王政復古の大号令が出た時は、このクーデター計画の主謀者西郷は諸藩兵を指揮して宮門警備にあたり、大久保は宮中にあって小御所会議での公卿・大名を監視威圧した。幕府への武力行使をもくろむ西郷と大久保は、幕府側を挑発して、明治元年(一八六八)正月鳥羽・伏見の戦を惹起し、西郷は二月東征大総督府下参謀に任命されて東征軍を指揮し、三月旧幕府陸軍総裁勝海舟との腹芸的会談で江戸開城を無血のうちに実現した。十一月藩地に帰った彼は、王政復古の功臣第一として、翌明治二年六月賞典禄永世二千石を賜わり、九月正三位に叙せられた。明治三年二月参議大久保は西郷に朝廷出仕を促したが、西郷は断わり、執務役(大参事)として、凱旋藩兵の強く要求する門閥打破の藩政改革を久光派の反対を抑えて実施した。版籍奉還後の維新政府は、薩長協力の強化を企て、三年十二月勅使岩倉具視と大久保・山県有朋が鹿児島を訪れ、久光と西郷に上京の詔勅を伝えた。西郷は四年二月上京し、薩長土三藩からの親兵編成を提議して実現、六月参議に任ぜられ、七月の廃藩置県の断行に協力した。十月岩倉を全権とする遣外使節団が出発すると、留守政府の筆頭参議として、学制・徴兵制・地租改正の改革着手の最高責任者となった。この間五年七月参議兼陸軍元帥となり近衛都督に任ぜられ(六年五月元帥が廃止され陸軍大将となる)、徴兵制に不満をもつ士族出身軍人を慰撫統制する役割をもたされた。廃藩置県後の統一国家建設について主体的意見をもちえなかった彼は、政府の改革政策に不満をもつ藩地および全国の不平士族の動きに引きずられるようになった。六年六月、かねて政府が試みてきた朝鮮との国交樹立の交渉が暗礁にのりあげ征韓の議が閣議にのぼった時、非常な熱心さで自分を遣韓大使に任命してほしいと説いた。彼の真意は、あくまで交渉をつくして戦争を避けるにあったか、士族の不平を外にそらすための外征の名義を整えるにあったか、研究者の間に解釈の相違がある。八月十七日の閣議は、西郷の朝鮮派遣を決定、岩倉が帰朝したのちの十月十五日あらためてこれを決めたが、これに反対する木戸・大久保・大隈重信・大木喬任の諸参議は辞表を提出した。同月十八日策に窮した太政大臣三条実美は急病となり、岩倉がその代理となるや、二十三日天皇に上奏して遣使を無期延期とした。西郷は即日病を理由に辞職と位記返上を申し出た(参議・近衛都督の辞表は受理されたが、陸軍大将と正三位の位記はそのままとなる)。ついで副島種臣・後藤象二郎・板垣退助・江藤新平の征韓派も参議を辞し野に下った。西郷は鹿児島に帰り、七年六月私学校をつくり士族子弟の教育にあたり、また農耕と狩猟に悠々自適の生活を送っているが、内外政局にどう対処しようとしていたかを説明する史料は欠けている。十年一月西郷が薫陶した私学校生徒が鹿児島の陸軍省火薬庫を襲うや、西郷は二月県令大山綱良に、政府へ尋問のため上京するとの届け出をし、士族子弟一万五千の兵を率いて熊本城攻撃に出発した。しかし戦いに敗れ、九月鹿児島にのがれ帰り、同月二十四日城山で負傷し自刃した。五十一歳。鹿児島の浄光明寺跡(鹿児島市上竜尾町、南洲墓地)に葬られた。彼は朝敵の汚名をうけたが、その死の直後、福沢諭吉は、専制権力に対する西郷の抵抗精神をたたえる「明治十年丁丑公論」を書き、内村鑑三も、日清戦争の最中の著書『代表的日本人』で、武士の最大なものと賞揚した。明治二十二年二月憲法発布の大赦で正三位を追贈され、三十一年高村光雲作の銅像が東京上野に建てられ、三十五年六月嗣子寅太郎は侯爵を授けられた。大陸政策の先駆者として、あるいは名利を求めぬ悲劇の英雄として、国民の中に信奉者を集めた。死後も再三にわたって、その生存説が世に流布され、いわゆる「西郷伝説」を生んだが、とりわけ明治二十四年ロシア皇太子の来日に際して、ロシアに逃れた西郷がロシア皇太子の一行とともに日本に帰ってくるという噂話がささやかれたことは有名である。書簡・漢詩・遺訓・関係文書・年譜などを収める『西郷隆盛全集』全六巻がある。→征韓論問題(せいかんろんもんだい),→西南戦争(せいなんせんそう)
[参考文献]
勝田孫弥『西郷隆盛伝』、井上清『西郷隆盛』(『中公新書』二二三・二二八)、毛利敏彦『明治六年政変の研究』
(遠山 茂樹)


改訂新版・世界大百科事典
西郷隆盛
さいごうたかもり
1827-77(文政10-明治10)

幕末・明治期の政治家。大久保利通,木戸孝允とともに明治維新の三傑と称される。薩摩国鹿児島城下で下級藩士の子に生まれた。幼名は小吉,吉之介,吉兵衛,吉之助,名は隆永のち隆盛,号は南洲。1844年(弘化1)郡方書役助ついで郡方書役となり,その間,農政に関する意見書で藩主島津斉彬に見いだされて側近に抜擢され,一橋慶喜将軍継嗣問題で活躍,天下に広く知られるようになった。しかし,58年(安政5)大老井伊直弼の登場と斉彬の急死で窮地に陥り,同志僧月照と鹿児島湾に投身自殺を試みたが西郷のみ蘇生。そこで,菊池源吾と変名して奄美大島に潜居を余儀なくされた。62年(文久2)島津久光の公武合体運動着手にあたり召還されたが,尊攘派対策をめぐって久光と衝突,徳之島さらに沖永良部島に流された。しかし,64年(元治1)ふたたび召還され,軍賦役に復帰,禁門の変で薩軍を指揮して尊攘派長州軍の撃退に貢献,側役に昇進。まもなく第1次長州征伐の参謀に起用され,長州藩を無血降伏にみちびき,その手腕をうたわれた。やがて,幕薩関係が悪化すると,薩長同盟など反幕勢力の結集をはかり,67年(慶応3)には倒幕にふみきって王政復古クーデタに成功,江戸幕府打倒に大きな功績をあげた。

明治新政府発足とともに参与に就任,東征大総督府参謀となって戊辰戦争を指導,勝海舟との会談で江戸無血開城に成功した。戦後,藩の参政,大参事として藩政改革を指導。1871年(明治4)政府に入り,御親兵の設置に尽力,参議に就任,廃藩置県を断行した。同年末,特命全権大使岩倉具視一行が米欧諸国巡遊に出発後,いわゆる留守政府の中心となり,地租改正,徴兵制,学制,身分制解消,秩禄処分方針,司法制度整備,鉄道敷設など開明的政策を推進した。72年陸軍元帥,近衛都督。73年陸軍大将。同年,朝鮮国交問題の解決をもとめて使節就任を志願,閣議で決定したにもかかわらず,岩倉,大久保らの陰謀に阻止されて下野(明治6年の政変)。鹿児島に引退して子弟の教育につとめた。しかし,77年政府に挑発された私学校党が反乱(西南戦争)をおこすと,擁立されて九州各地を転戦,9月24日城山で自刃した。

西郷伝説

西郷は近代日本でもっとも人気のある政治家の一人である。彼の清廉潔白で無欲恬淡(てんたん)な人格,波乱万丈の生涯,悲劇的な最期などはひろく民衆のこころをとらえ,西郷崇拝熱を燃えあがらせた。それは,現実政治への不満や英雄待望の心理と結合した幾多の西郷生存説(西郷伝説)を生みだした。代表的なのは1891年に全国を風靡した噂,つまり,西郷は城山で死なずにシベリアへ渡り,ロシア軍の訓練に従事していたが,この年来日予定のロシア皇太子に同行して帰国,政界粛正を断行する云々との風聞である。この噂は朝野を刺激し,来日したロシア皇太子ニコライを巡査津田三蔵が傷つけた事件(大津事件)の一因にもなったといわれる。
[毛利 敏彦]

[索引語]
明治維新の三傑 西郷吉之介 南洲 月照 菊池源吾 西郷伝説
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23. あきづき-たねこと【秋月種事】
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国史大辞典
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33. アメリカ彦蔵自伝 2 130ページ
東洋文庫
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ドを政局の中心である大坂と兵庫に派遣した。彼らは幕府の大坂奉行、兵庫奉行、外国奉行や、薩摩の西郷隆盛、土佐の後藤象二郎、長州の伊藤俊輔らと会って情報を収集し、倒 ...
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97五榜の高札 99小村寿太郎 163五稜郭の戦 95コンタアラー号 48コンノート公アーサー 164さ西郷隆盛 74,111三枝蕩 99三国干渉 136サンダ ...
48. いくしま【幾島】
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境内墓地に徳川吉宗室の墓、山内寺院の南之院墓地に将軍家御用絵師狩野探幽の墓がある。江戸開城前に西郷隆盛(南洲)と勝海舟が会見したという松濤園も保存されている。ま ...
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日本人名大辞典
年生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。戊辰(ぼしん)戦争に参加。明治4年陸軍少佐となるが,6年西郷隆盛にしたがい帰郷。10年の西南戦争で西郷軍に加わり,熊本城攻撃 ...
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一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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