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中原中也

ジャパンナレッジで閲覧できる『中原中也』の日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

日本近代文学大事典

人名
中原 中也
なかはら ちゅうや
明治40・4・29~昭和12・10・22
1907~1937
本文:既存

詩人。山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村生れ。父謙助、母福の長男。父は陸軍軍医であった。生後まもなく父の勤務地であった旅順に赴き、父の転任にしたがい、その後、山口、広島、金沢に移り住み、大正三年、母、弟とともに山口に帰って下宇野令小学校に入学。六年父謙助予備役編入により湯田医院(のちに中原医院という)で家業の医者をつぐ。七年、山口師範付属小学校に転校、九年、県立山口中学に入学。入学時はよい成績であったが、しだいに文学に親しんで学業を怠けるようになり、一二年落第。その結果、京都の立命館中学に転校、家族と離れて下宿した。これ以前から短歌を「婦人画報」や「防長新聞」に投稿し、また、級友とともに歌集『末黒野』を刊行していたが、一二年秋、『ダダイスト新吉の詩』を読み、その中の数編に感激したという。この前後に年長の女性長谷川泰子と知り、翌一三年四月に同棲をはじめた。たまたま京大国文科の学生冨倉徳次郎が立命館中学の教師であったことから、冨倉の旧制二高時代の友人冨永太郎に紹介され、さらに富永の東京府立一中時代の友人小林秀雄らと知ることとなった。ダダイストを自認し、冨倉らから「ダダさん」とよばれていたが、富永らからフランス象徴派の詩人たち、ボードレールやランボーを学んで、徐々にダダイズムの混乱からぬけだすこととなった。

 大正一四年三月、泰子とともに上京、一一月富永太郎が死に、同じ月、泰子が小林秀雄の許へ去るという事件がおこった。翌年日本大学予科に入学、半年で退学、その後、アテネ・フランセに通ったりしているが、昭和六年東京外語専修科に入学し、八年三月修了しているのが唯一の学歴である。昭和二年から三年へかけて、河上徹太郎、諸井三郎、大岡昇平、安原喜弘らと知り、初期作品の代表作『朝の歌』(大15・5作)が諸井の作曲により三年発表され、四年四月には、河上、大岡らとともに同人誌「白痴群」を創刊、五年四月の終刊号にいたるまで、『寒い夜の自我像』(一号)をはじめとする作品を毎号つぎつぎに発表した。

 大正一四年小林秀雄のもとに去った長谷川泰子はまもなく小林が奈良へ出奔したため、独身に戻ったので、中原は泰子との愛情の復活を期待したが、泰子は二度と中原の許へは戻らなかった。「白痴群」には泰子も小林佐規子の筆名で詩を発表していたし、この当時、中原との交渉は深かったが、昭和五年一二月には別の男の子を生み、中原はその名付け親となっている。こうした愛情の屈折が中原の初期から中期へかけての詩作の重要な動機となったことは疑いない。

 昭和八年一二月、遠縁にあたる上野孝子と結婚、翌九年一二月、処女詩集『山羊の歌』が刊行され、この前後から季刊「四季」「紀元」「半仙戯」に詩を発表、一〇年には「文学界」に詩を発表しはじめ、また、「四季」や「歴程」の同人になり、ようやく詩人として知られるにいたった。しかし、主として小林、河上ら文学界同人たちから評価されたというに止まり、詩壇的にはほとんどつねに傍流にいた。のちに詩集『在りし日の歌』に収められた作品、『含羞』『曇天』『一つのメルヘン』などの晩年の代表作の大部分は「文学界」に発表された。

 昭和九年長子文也を得たが、一一年一一月文也の死に遭い、そのころから神経衰弱が昂じ、一二年一月、千葉市の精神病院に入院、約一ヵ月で退院して鎌倉に転居し、郷里山口に引揚げることを考えたりしながら、第二詩集『在りし日の歌』を編集したが、その刊行をみないまま、一二年一〇月、結核性脳膜炎のため三〇歳で死亡した。

 その初期においては、「天井に 朱きいろいで/戸の隙を 洩れ入る光」、とはじまる『朝の歌』において、近代の生の倦怠を一四行詩五七調文語詩という古典的形式の中に造型したが、こうした古典的抒情の系譜は、晩年の『冬の長門峡』における、「長門峡に、水は流れてありにけり。/寒い寒い日なりき」などにみられるごとき生の寂寥にいたっている。そしてまた、「幾時代かがありまして/茶色い戦争ありました」とはじまる初期作品『サーカス』の「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」というリフレーンで知られるような投げやりで自棄的なリズム感は中原の個性であって、こうした独得の声調は、晩年の『春日狂想』における、「愛するものが死んだ時には、/自殺しなけあなりません」などにまで続いている。彼の詩作をつらぬいていたものは真率な魂の告白であり、その告白の調べであり歌であった。それは、言葉の調べよりはイメージの主知的な構築を目ざし、あるい静謐で典雅な日本的抒情の美を求め、あるいは生のアナーキーな爆発的表現を志した、昭和期の詩壇の主要な流れのどれにもなじまぬものであった。しかし、孤独な魂の真率な歌は、戦時下から戦後の青年たちの心に訴えること強く、今日にいたっては、昭和期の最も代表的な詩人として、また、最もひろい読者をもつ詩人のひとりとして、評価が定まった感がある。

 未刊詩編約二五〇編を含め、評論、日記、散文、書簡等を収めた『中原中也全集』全五巻、別巻一(昭42~46 角川書店)が刊行された。訳詩集として、昭和八年一一月刊行の『ランボオ詩集(学校時代の詩)』(三笠書房)および一一年六月刊行の『ランボオ詩抄』(山本文庫)、一二年二月刊行の『ランボオ詩集』(野田書房)がある。

(中村 稔 1984記)

代表作

代表作:既存
山羊の歌
やぎのうた
詩集。昭和九・一二、文圃堂刊。『春の日の歌』以下『いのちの声』にいたる四四編を収めている。全巻は「初期詩篇」「少年時」「みちこ」「秋」および「羊の歌」の五章に分かれ、「初期詩篇」には前述『春の日の歌』以下『宿酔』までの二二編が収められ、すなわち、『山羊の歌』の半数を占めている。いわば、「少年時」以下がほぼ同人誌「白痴群」時代の作品であり、「初期詩篇」は「白痴群」以前の作品であって、たとえば『春の日の歌』は大正一三年一七歳の作品であって、ダダイズムの残滓が濃い。ただ「初期詩篇」中にも既述の『朝の歌』をはじめ、『臨終』『冬の雨の夜』『帰郷』『夕照』など佳作が多く、けっして詩人若年の習作に止まるわけではない。『朝の歌』を書いて「ほぼ方針立つ」と中原自身が書残しているとおり、彼にとっても、これらは充分自信作であった。これらを「初期詩篇」として一括したことは、『少年時』以降の作品における詩法の自覚的な違いによるものと思われる。つまり、『少年時』や『寒い夜の自我像』などの詩編において、中原中也は、自覚的な詩法を獲得したのであった。それは、『寒い夜の自我像』の末尾における、「陽気で、坦々として、而も己を売らないことをと、/わが魂の願ふことであつた!」という二行にみられるような、生の信条の告白が詩作の動機であった。生の信条の告白とは、いかに生きるべきかという決意の表現にとどまらず、いかに生きてきたか、また、いかに生きているか、ということを含めた生への問いかけのすべてであった。そして、こうした姿勢が『山羊の歌』巻末の『いのちの声』の第Ⅳ章、「ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ」の一行に結晶し、さらに、『在りし日の歌』の詩作に続いてゆくのである。
 ただ、そうはいっても、けっして直線的につながっているわけではない。ときには、過去の追憶の氾濫に溺れ、ときには泰子とのふたしかな愛に揺れ、ときには神あるいは絶対者への祈りと怖れに近づき、また、遠のきながら、さまざまの詩作が生れたのであった。ばあいによっては、これらの詩作は、くだくだしい愚痴にすぎなかったり、性急な祈りの断片であったりもしたけれども、そういう意味で詩としての完成度に乏しい作品も多かったが、それらの全体から、中原中也という強烈な個性の、気まぐれな愛や無理解な「俗人」たちの間で格闘し、のたうちまわる叫びが、読者にじかに訴えるのである。
在りし日の歌
ありしひのうた
詩集。昭和一三・四、創元社。中原中也が生前編集を終え、その原稿を托された小林秀雄の手により刊行された第二詩集。『含羞』以下『蛙声』にいたる五八編を収めている。全巻は『在りし日の歌』および『永訣の秋』の二章に分かれ、前者に『含羞』から『蜻蛉に寄す』までの四二編が、後者に『ゆきてかへらぬ』から『蛙声』までの一六編が収められている。その後記によれば、『山羊の歌』には「大正十三年春の作から昭和五年春迄」の作品を収め、この『在りし日の歌』には「最も古いものは大正十四年のもの、最も新しいものでは昭和十二年のもの」までを収めたという。それゆえ、部分的には『山羊の歌』と同時期の作品も収められているわけであるが、大部分は『山羊の歌』以後の作品である。
 この詩集に特徴的な詩風は、生から離脱した地点で、もう一度生をふりかえってみるごとき視点にある。『骨』において、「ホラホラ、これが僕の骨だ、/生きてゐた時の苦労にみちた/あのけがらはしい肉を破つて、しらじらと雨に洗はれ/ヌックと出た、骨のさき」とその第一節をうたっているが、これもその例であって、肉体が、あるいは生がいやおうなしに背負っている醜悪さをすっかり洗いながしたあとの死をひえびえとみつめている、ある種の祈りと悲しみとがこの作品にはあふれているのである。
 一方で中原は、「これが手だ」、と、「手」という「名辞」を口にする前に感じている手、「その手が深く感じられてゐればよい」、とその『芸術論覚え書』に記したような、言葉への不信、しかもその言葉をもってしか表現が許されないという矛盾を感じていた。それは、詩をどう書くかという問いであると同時に、詩人はいかに生きるかという問いでもあった。こうした地点から、「あれはとほいい処にあるのだけれど/おれは此処で待つてゐなくてはならない」とはじまる『言葉なき歌』や、『一つのメルヘン』の美しい幻想が生れ、生の回復への祈り、社会との和解の姿勢があらわれ、「愛するものが死んだときには、/自殺しなけあなりません」とはじまる『春日狂想』や、「あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ/ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ」とはじまる『正午』など、最晩年の佳作がうたわれることになったのである。
(中村 稔 1984記)

全集

  • 『中原中也全集』全5巻・別巻1(1967~71 角川書店)
  • 『新編中原中也全集』全5巻・別巻1(2000~04 角川書店)
  • 分類:詩人
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    日本大百科全書(ニッポニカ)

    中原中也
    なかはらちゅうや
    [1907―1937]

    詩人。明治40年4月29日、山口県吉敷 (よしき)郡山口町下宇野令 (しもうのりょう)村(現山口市湯田温泉1丁目)に陸軍軍医の父柏村謙助、母フクの長男として出生。満8歳のとき、謙助がフクの原籍中原の人となり、湯田で医院を開業していた政熊・コマ夫妻との養子縁組を決め、中原姓となった。結核性の脳症によって1937年(昭和12)10月22日、帰郷計画の直前に鎌倉の寿福寺境内の寓居 (ぐうきょ)に没した。

     詩人としての中也は、1923年(大正12)ごろ詩を本職とする覚悟を、また1925年の夏にいよいよ詩に専心しようと決意し、その翌年「「朝の歌」にてほぼ方針立つ」という段階(「詩的履歴書」による)を経て誕生、30歳6か月で没した詩人としての生涯は、おおよそ10年余であった。そして、詩人中原中也の名がその抒情性の受容とともに詩壇、文壇の内側を越え、広く昭和時代を代表する詩人の一人として読み継がれるようになったのはほとんどその死後のこと、ことに創元社版全集刊行以後のことといってよい。

     第一詩集『山羊 (やぎ)の歌』(1934年12月、文圃堂刊)は、限定200部、そのうちに知人友人たちへの寄贈も多くあり、第二詩集『在りし日の歌』の刊行(1938年4月、創元社刊)も、没後半年を経てのことであったが、『歌』として宣言された二つの詩集題、また「つみびとの歌」「生ひたちの歌」「幼獣の歌」「頑是ない歌」「お道化うた」「言葉なき歌」などの詩題における「歌 (うた)」の提示には、中也の芸術的本質と詩法の特質がよく示されている。

     中也は、生い立ちにおいて、信仰心の厚いクリスチャンであった養祖父母政熊、コマの2人からキリスト教への親和性を、また父母からは文学好きの素養を受け継いで育ったとみえる。両親は確かな将来を願うゆえの熱心な教育方針で結婚後7年を経て得たこの後継に接し、それによって幼い中也を神童に仕立てあげ得たものの、その心に、「わが生は、下手な植木師らにあまりに早く、手を入れられた悲しさよ」(「つみびとの歌 阿部六郎に」)と述懐させ、また、「学校に入りましてからの家庭生活は、実に蟻地獄 (ありじごく)のようでございました」(「千葉寺雑記」)とまで感じさせる過酷な現実をもたらしてもいた。

     中也は、やがて、文学にのめりこんで学業を破綻 (はたん)させ、京都生活を経て、東京へ出、医家の後継としてもまた実生活者としても挫折 (ざせつ)しながら、この間短歌・小説の創作を離れ、ダダイズムを離れ、フランス象徴詩との出会いを経て、特質的な抒情の詩才を一筋に開花させていった。二つの詩集のほか、未発表の詩篇 (しへん)をあわせて生涯350篇ほどの詩作品の魅力と、「芸術論覚え書」を中心に認められる名辞以前の世界を体感した詩論は、その純粋な詩精神とともに、今日も多くの人をとらえてやまない。

     没後半世紀をこえる中也研究は、現在『解題篇』を伴う新編の角川書店 (かどかわしょてん)版が、その詩業のほか、小説、評論、翻訳、日記などをあわせた中也の全貌 (ぜんぼう)を明らかにし、基礎研究、作家論、作品論の基盤を支えている。

     なお、多くの知友による回想などのほか、母フクに『私の上に降る雪は わが子中原中也を語る』、四弟思郎に『兄中原中也と祖先たち』、五弟呉郎に『海の旅路 中也、山頭火のこと』、長谷川泰子 (やすこ)に『ゆきてかへらぬ 中原中也との愛』、野田真吉に『中原中也 我が青春の漂白』などがある。1994年(平成6)、山口市湯田温泉1-11の生家跡地に中原中也記念館が開館した。

    [岡崎和夫]



    世界大百科事典

    中原中也
    なかはらちゅうや
    1907-37(明治40-昭和12)

    詩人。山口県生れ。東京外語専修科仏語部修了。山口中学在学中,友人と共著で歌集《末黒野(すぐろの)》(1922)を刊行して才能を示したが,学業成績不良のため落第,1923年京都の立命館中学に転じた。高橋新吉の影響を受けてダダイスト風の詩を試作し,また富永太郎との交遊を通じてフランス詩にも目を開かれている。25年愛人長谷川泰子とともに上京,小林秀雄を知ったが,泰子が小林と同棲するという事件が起こり,深い傷を受けた。しかし〈朝の歌〉(1926)によって詩人としての方向を自覚し,29年には河上徹太郎,大岡昇平らと《白痴群》を創刊,〈寒い夜の自我像〉などを発表して,魂の全体的な調和への希望と,それが果たされない人間の悲しみを歌った。34年,初期・中期の作品を収めた《山羊の歌》を刊行,以後小林秀雄らの《文学界》を自由な発表の舞台とし,また《四季》《歴程》の同人として活動,30年代後半の詩壇における声価をしだいに高めていった。とくに死の前年の36年には,〈一つのメルヘン〉〈言葉なき歌〉など,後期の代表作が集中的に書かれている。しかし36年11月,長男を失って精神的に変調をきたして療養,退院後鎌倉に転居して〈春日狂想〉(1937)などを書いたが,依然心身の疲労がはなはだしく,ついに帰郷を決意し,第2詩集《在りし日の歌》(1938)の編纂を終えたところで結核性脳膜炎を発病,まもなく没した。
    [吉田 凞生]

    [索引語]
    高橋新吉 長谷川泰子 小林秀雄 白痴群 山羊の歌
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    1. 中原中也
    日本大百科全書
    は わが子中原中也を語る』、四弟思郎に『兄中原中也と祖先たち』、五弟呉郎に『海の旅路 中也、山頭火のこと』、長谷川泰子やすこに『ゆきてかへらぬ 中原中也との愛』
    2. 中原中也
    世界大百科事典
    1907-37(明治40-昭和12) 詩人。山口県生れ。東京外語専修科仏語部修了。山口中学在学中,友人と共著で歌集《末黒野(すぐろの)》(1922)を刊行して才
    3. なかはら‐ちゅうや【中原中也】
    日本国語大辞典
    詩人。山口県出身。ランボーやベルレーヌに傾倒し、象徴的手法で生の倦怠や虚無感などをうたい、独自の世界を築いた。詩集「山羊の歌」「在りし日の歌」など。明治四〇~昭
    4. なかはらちゅうや【中原中也】
    国史大辞典
    墓は山口市の長楽寺にある。法名放光院賢空文心居士。『中原中也全集』全五巻別巻一がある。 [参考文献]中村稔『言葉なき歌―中原中也―』、大岡昇平『中原中也』、吉田
    5. なかはら-ちゅうや【中原中也】画像
    日本人名大辞典
    1907−1937 昭和時代前期の詩人。明治40年4月29日生まれ。高橋新吉の影響で詩作をはじめ,富永太郎を通じてフランス象徴派の詩人を知る。大正14年上京し,
    6. 中原 中也
    日本近代文学大事典
    午』など、最晩年の佳作がうたわれることになったのである。 『中原中也全集』全5巻・別巻1(1967~71 角川書店) 『新編中原中也全集』全5巻・別巻1(200
    7. 中原中也[文献目録]
    日本人物文献目録
    中也』藤原定『中原中也研究特集』-『中原中也頌』遠藤安美『中原中也素描』淵江淳一『中原中也断片』阿部六郎『中原中也追悼』-『中原中也追悼』-『中原中也追悼』-『
    8. 中原中也賞[イミダス編 文化・スポーツ]
    情報・知識 imidas
    された現代詩の詩集。受賞者には中原中也のブロンズ像と100万円が贈られる。過去にはアーサー・ビナードや川上未映子などが受賞した。10年2月13日、第15回中原中
    9. 「青い花」
    日本近代文学大事典
    し、伊馬鵜平、檀一雄、津村信夫、中原中也、山岸外史、小山祐士、木山捷平らを糾合、一八名の同人で創刊。太宰治『ロマネスク』、津村信夫『信濃ところどころ』、中原中也
    10. あおやま-じろう【青山二郎】
    日本人名大辞典
    陶器の鑑識にすぐれ,大正15年日本民芸美術館の設立準備にかかわる。文壇とも交流し,「文学界」の表紙や中原中也の「在りし日の歌」などの装丁を手がけた。昭和54年3
    11. 青山 二郎
    日本近代文学大事典
    識り、さらに河上徹太郎、大岡昇平、中原中也らとも交遊、その独自の美意識と人間観によって有形無形の影響を及ぼしている。「文学界」では表紙を担当して協力し、中原中也
    12. あざ‐や・ぐ【鮮─】
    日本国語大辞典
    あざやぎたれば、その裳をとり給ひて、君に着せ給ひて、御手水まゐらせ給ふ」*在りし日の歌〔1938〕〈中原中也〉含羞「ああ! 過ぎし日の 仄燃えあざやぐをりをりは
    13. 阿部 昭
    日本近代文学大事典
    質である。手法は私小説であるがかならずしも日常身辺の事実との対応に価値を置いていない。むしろ中原中也の日記から「散文といふものは、要するに自分の現象に執するもの
    14. 荒川 洋治
    日本近代文学大事典
    2003(平成15)~17(平成29)年、愛知淑徳大学創造表現学部教授。1996(平成8)年より中原中也賞、2009(平成21)年より太宰治賞、17(平成29)
    15. 在りし日の歌
    日本大百科全書
    中原中也の第二詩集。1937年(昭和12)、鎌倉の寓居ぐうきょで死の一月ほど前までに編集、浄書されて小林秀雄に託され、翌1938年4月、青山二郎の装丁で創元社か
    16. 在りし日の歌
    世界大百科事典
    中原中也の第2詩集。1938年(昭和13),創元社刊。1934-37年の作品を中心に,58編を収録。表題の〈在りし日〉は〈生前〉の意ではなく,〈過ぎし日〉と同義
    17. あん‐うん【暗雲】
    日本国語大辞典
    墨」*柳湾漁唱‐三集〔1841〕白雨「黯雲忽見満天生、白雨斗疑銀漢傾」*在りし日の歌〔1938〕〈中原中也〉蛙声「その声は水面に走って暗雲に迫る」(2)危険、不
    18. アンダー‐スロー
    日本国語大辞典
    必用欠くべからざる、アンダースロー(下より投ぐる球)に熟達せざるべからず」*山羊の歌〔1934〕〈中原中也〉春の日の夕暮「トタンがセンベイ食べて 春の日の夕暮は
    19. 安東 次男
    日本近代文学大事典
    のてほどきをうけた。在学中、梶井基次郎、牧野信一の作品に親近感をもつ。三好達治の『春の岬』、中原中也の『在りし日の歌』、ついで『富永太郎詩集』を読んだ。富永の詩
    20. 飯島 耕一
    日本近代文学大事典
    、入校を五日後にひかえたとき、終戦。二一年四月、六高(現・岡山大)文科丙類に入学。このころ、中原中也、富永太郎、萩原朔太郎、ボードレールなどの詩を読む。永瀬清子
    21. 井坂 洋子
    日本近代文学大事典
    稿欄の選考を務め、詩歌文学館賞や高見順賞の選考委員を経て、2004(平成16)年の第9回より中原中也賞選考委員を務めている。  その他、自選詩集に『眠る青空』(
    22. いっ‐かい[‥クヮイ]【一塊】
    日本国語大辞典
    巖谷小波〉四回「一滴の水も飲まず、一塊(クヮイ)の食も喰はねば」*在りし日の歌〔1938〕〈中原中也〉幼獣の歌「雨後らしく思ひ出は一塊(イックヮイ)となって」
    23. 岩野泡鳴画像
    日本大百科全書
    主張したのは有名。1913年(大正2)にはA・シモンズの『表象派の文学運動』を訳し、小林秀雄ひでお、中原中也ちゅうやなどに多大な影響を与えた。評論集『近代思想と
    24. 江藤 淳
    日本近代文学大事典
    」に連載された『小林秀雄』(昭36・11 講談社)では、未発表書簡などの多くの資料を駆使して中原中也や富永太郎らとの若い日の交友関係を再現し、小林の批評の成立と
    25. 大岡昇平
    日本大百科全書
    青山学院中等部から成城中学へ転じ、成城高校文科へ進む。家庭教師となった小林秀雄を通して河上徹太郎や中原中也ちゅうや、中村光夫みつおらと知り合い、昭和文学の担い手
    26. 大岡昇平
    世界大百科事典
    1909-88(明治42-昭和63) 作家,評論家。東京生れ。京大フランス文学科卒。成城高校在学中に小林秀雄,中原中也,河上徹太郎らと知り合った。戦前は会社員生
    27. おおおかしょうへい【大岡昇平】
    国史大辞典
    経て京都帝国大学文学部文学科(仏文学専攻)卒業。高校時代に富永太郎の詩に魅せられ、また小林秀雄・中原中也・河上徹太郎らを知る。京大卒業後は国民新聞社・帝国酸素な
    28. おおおか-しょうへい【大岡昇平】画像
    日本人名大辞典
    20年復員。23年この体験を「俘虜記(ふりょき)」にかき,横光利一賞。「野火」「武蔵野夫人」「花影」「中原中也」など多彩な作品を発表。44年戦記文学の大作「レイ
    29. 大岡 昇平
    日本近代文学大事典
    口ずさんだのが機縁となって、『中原中也の思い出』(昭21)、中原中也伝の序章『揺籃』(昭24)などをかわきりに、その後二十数年を一貫する中原中也伝の作業を開始す
    30. 太田 静一
    日本近代文学大事典
    経て昭和二五年から山口女子短大教授。山口県出身の文学者、とくに中原中也、嘉村礒多研究に業績があり、いずれも独自の視角からする精細克明な論究が特色。著書『中原中也
    31. おかもと-けい【岡本啓】
    日本人名大辞典
    平成23年より「現代詩手帖」に投稿をはじめ,26年現代詩手帖賞。27年初めての詩集「グラフィティ」で中原中也賞,H氏賞を受賞。宮城県出身。東大卒。
    32. おし‐ばな【押花】
    日本国語大辞典
    そのようにすること。*俳諧・山水行〔1798〕「押花や心に画く処々〈羅城〉」*在りし日の歌〔1938〕〈中原中也〉秋日狂乱「その紫の押花はもうにじまないのか」
    33. オマル・ハイヤーム
    世界文学大事典
    ハイヤームの重要性は,彼が唯物的な言葉で宇宙の根源的な構造を説明し得る人間であったところにある。たとえば詩人中原中也も「宇宙の機構悉皆了知」と喝破したことがある
    34. 「海風」
    日本近代文学大事典
    瀬川健一郎らの、独自の魅力をもつ佳品もあった。詩では、杉山平一が、「四季」「海風」等の詩活動で第二回中原中也賞を受賞。評論では、小川正巳の芳賀檀宛エッセイ『追憶
    35. かく‐じつ【確実】
    日本国語大辞典
    外〉「まあ出来る丈確実な方法を取って置くといふ訣(わけ)なのだ」*在りし日の歌〔1938〕〈中原中也〉後記「私は、私の個性が詩に最も適することを、確実に確めた日
    36. カクテル
    日本国語大辞典
    スのカクテール』などと、混合されたものを指す代名詞となってゐる」*在りし日の歌〔1938〕〈中原中也〉冬の夜「犬のみ覚めたる冬の夜は 影と煙草と僕と犬 えもいは
    37. カッパ【合羽】画像
    日本国語大辞典
    父(〈注〉いなかもの)の横浜を回る也」*在りし日の歌〔1938〕〈中原中也〉夜更の雨「倉庫の 間にゃ 護謨合羽(カッパ)の 反射(ひかり)だ」(3)(桐油合羽に
    38. 金子みすゞ
    日本大百科全書
    口となろう。みすゞと同時期に山口という土地は、俳人種田山頭火、作家嘉村礒多かむらいそた、詩人中原中也という近代文学に絶大な影響を残した文学者を輩出している。彼ら
    39. 河上徹太郎
    世界大百科事典
    1902-80(明治35-昭和55) 昭和期の文芸評論家。長崎市生れ。東大経済学部卒。早くから小林秀雄,中原中也らと交遊,《山繭》《白痴群》に音楽論,ついで文学
    40. 河上 徹太郎
    日本近代文学大事典
    また小林秀雄のほか中原中也、大岡昇平、青山二郎、中島健蔵と識り、音楽団体「スルヤ」を通じて諸井三郎、今日出海らと交わった人間修業期でもあった。  昭和四年四月、
    41. 川上未映子[文芸]
    情報・知識 imidas
    を「乳と卵」で受賞し、09年2月には、詩集「先端で さすわさされるわ そらええわ」で第14回中原中也賞を受賞した。ミュージシャン、小説家、詩人として、マルチな活
    42. かわかみ-みえこ【川上未映子】
    日本人名大辞典
    )と卵(らん)」で芥川賞を受賞した。21年初詩集「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」で中原中也賞。22年映画「パンドラの匣(はこ)」でキネマ旬報ベスト・テ
    43. 川口重美[文献目録]
    日本人物文献目録
    【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:1件 『中原中也と川口重美』上野さち子
    44. かん‐たん【簡単・簡短・簡端】
    日本国語大辞典
    二「お銀のその時の態度は、友人の簡短な話で想像することが出来た」*在りし日の歌〔1938〕〈中原中也〉頑是ない歌「考へてみれば簡単だ 畢竟意志の問題だ」「改正増
    45. 蒲原有明[文献目録]
    日本人物文献目録
    有明』逸見猶吉『現代作家の人及作風』川島益太郎『蒲原有明研究』矢野峰人『蒲原有明・三好達治・中原中也』中村真一郎『現代日本文学全集 58』-『現代日本文学全集月
    46. き‐えい【機影】
    日本国語大辞典
    〔名〕飛んでいる飛行機のすがた。また、そのかげ。*在りし日の歌〔1938〕〈中原中也〉青い瞳「機影はもう永遠に消え去ってゐた」*日光室〔1938〕〈中里恒子〉「
    47. 「紀元」〈文芸雑誌〉
    日本近代文学大事典
    のち紀元社発行。はじめは若園清太郎、沖和一、宗像憲治、寺河俊雄、丸茂正治、宮川健一郎、山沢種樹、中原中也らが中心。若園は創刊号よりバルザックの研究を連載。中原も
    48. 北川透
    日本大百科全書
    『戦場ケ原まで』(1992)、『デモクリトスの井戸』(1995)、『黄果論』(2000)、評論に『中原中也ちゅうやの世界』(1968)、『詩と思想の自立』(19
    49. きたがわ-とおる【北川透】
    日本人名大辞典
    ,詩集「眼の韻律」,評論「北村透谷試論」「中原中也わが展開」「萩原朔太郎〈詩の原理〉論」など。20年「溶ける、目覚まし時計」で高見順賞。同年「中原中也論集成」で
    50. 北川 透
    日本近代文学大事典
    詩論集『詩と思想の自立』(思潮社)、四二年一〇月、詩論集『情況の詩』(思潮社)、四三年四月、『中原中也の世界』(紀伊國屋新書)、六月、詩集『眼の韻律』(岡田書店
    「中原中也」の情報だけではなく、「中原中也」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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