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  11. 東洲斎写楽

東洲斎写楽

ジャパンナレッジで閲覧できる『東洲斎写楽』の日本架空伝承人名事典・新版 歌舞伎事典・国史大辞典のサンプルページ

新版 日本架空伝承人名事典

東洲斎写楽
とうしゅうさいしゃらく
 江戸時代の浮世絵師。生没年不詳。一七九四年(寛政六)五月から翌九五年一月までの正味一〇カ月間(途中閏月がはさまる)を活躍時期として、役者絵、相撲絵の版画一四〇余図という多くを発表。当時おおいに人気を得たらしいが、その後は浮世絵界との交渉をまったく絶ってしまった謎の絵師。『増補浮世絵類考』(斎藤月岑編)によれば「俗称斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀 阿波侯の能役者也」とされているところから、一時阿波蜂須賀公お抱えの能役者説が行われたが、その後これを否定する見解が支配的となり、葛飾北斎など当時の知名人に仮託する諸説(現代までに三十人を超える人物が写楽に擬され、伝説の人としての写楽像をふくらませてきた)が提出されてきた。ところが近年「写楽斎」と号する浮世絵師が八丁堀の地蔵橋辺に居住していたことが知られるようになり(『諸家人名江戸方角分』)、再び旧説への関心が高まってきた。一九九七年(平成九)に、斎藤十郎兵衛の過去帳が埼玉県越谷市の法光寺で発見され、一八二〇年(文政三)三月七日に行年五七歳で没したことが分かった。この説が正しいとすれば生年は一七六三年(宝暦一三)となり、写楽が活躍した当時は数えで三二、三歳ということになる。大名家お抱えの能役者が格下の歌舞伎役者の姿絵を描き、しかも町人の娯楽のための浮世絵版画として刊行したことが表沙汰となれば、かんばしくないスキャンダルであり、突然の引退も納得されるところがある。
 ともあれ写楽の役者絵、相撲絵は、すべて蔦屋重三郎(蔦重)を版元として刊行されており、喜多川歌磨や十返舎一九を育てたと同じように、蔦重の炯眼なればこそ発掘し得た異色の新人であった。その作風は、写実的な役者絵表現の基本を勝川派に学び、これに流光斎など上方絵の作風も参考として、役者の似顔と演技の特徴とを大胆に、印象深くとらえるものであった。理想的な様式美を追う従来の役者絵とは異なり、役者の素顔の上に作中人物としての性格描写を重ねる残酷なまでのリアルな表現は、当時の歌舞伎ファンに衝撃を与え一時的に歓迎されたが、やがて急速に人気は離反した。その間の事情を大田南畝原撰の『浮世絵類考』は「歌舞妓役者の似顔を写せしが、あまりに真をかゝんとて、あらぬさまに書なせしかば、長く世に行はれず、一両年にて止ム」と伝えている。
[小林 忠]
号東洲斎、俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也。歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまり真を画んとてあらぬさまを書なせしかば長く世に行れず、一両年にして止む。五代目白猿、幸四郎、〔割註〕後京十郎と改む。」半四郎、菊之丞、仲蔵、富十郎、広治、助五郎、鬼治の類を半身に画き回り、雲母を摺たるもの多し。俗に雲母絵と云。
新増補浮世絵類考


新版 歌舞伎事典

東洲斎写楽
とうしゅうさいしゃらく
 江戸時代の浮世絵師。生没年不詳。寛政六(1794)年五月から翌七年一月までの正味一〇ヵ月間(途中閏月がはさまる)を活躍時期として、役者絵、相撲絵の版画一四〇余図という多くを発表。当時大いに人気を得たらしいが、その後は浮世絵界との交渉をまったく絶ってしまった謎の絵師。《増補浮世絵類考》(斎藤月岑編)に「俗称斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀 阿波侯の能役者也」と記されているところから、一時阿波蜂須賀侯お抱えの能役者説が行われたが、その後これを否定する見解が支配的となり、葛飾北斎など当時の知名人に仮託する諸説が提出されてきた。ところが近年〈写楽斎〉と号する浮世絵師が八丁堀の地蔵橋辺に居住していたことが知られるようになり(《諸家人名江戸方角分》)、旧説への関心が高まりつつある。ともあれ写楽の役者絵、相撲絵は、すべて蔦屋重三郎(蔦重)を版元として刊行されており、喜多川歌麿や十返舎一九を育てたと同じように、蔦重の炯眼なればこそ発掘し得た異色の新人であった。その作風は、写実的な役者絵表現の基本を勝川派に学び、これに流光斎など上方絵の作風も参考として、役者の似顔と演技の特徴とを大胆に、印象深くとらえるものであった。短い作画期はさらに次のように四期に区分されるが、そのうち第一期の雲母摺大首絵きらずりおおくびえ(半身像)が最もすぐれ、第二期の全身像がこれにつぐ。理想的な様式美を追う従来の役者絵とは異なり、役者の素顔の上に作中人物としての性格描写を重ねる残酷なまでのリアルな表現は、当時の歌舞伎ファンに衝撃を与え、一時的に歓迎されたが、やがて急速に人気は離反した。その間の事情を大田南畝原撰の《浮世絵類考》は「歌舞妓役者の似顔を写せしが、あまりに真をかゝんとて、あらぬさまに書なせしかば、長く世に行はれず、一両年にて止ム」と伝えている。
【作画期】第一期=寛政六年五月都・桐・河原崎各座の狂言に取材した大判雲母摺の大首絵二八図。第二期=同年七月都・河原崎両座、同年八月桐座の狂言に取材した、全身像二人立ふたりだちの大判雲母摺七図、同種一人立一図、一人立細判三〇図。第三期=同年一一月前記三座の顔見世狂言と閏一一月の都座の狂言に取材した五八図(細判四七、間判一一)と役者(二世市川門之助、一〇月没)追善絵二図(間判)、相撲絵四図(間判一、大判三)。第四期=寛政七年正月の都・桐両座の狂言を描いた細判一〇図に相撲絵間判二図。以上合計一四二図(第四期の作かとする武者絵二点を入れ一四四図とする説もあり)の版画のほか、版下絵とされる役者群像九点と相撲絵一〇点の素描、および若干の肉筆画が報告されているが、写楽真筆と公認されるまでには至っていない。
[小林 忠]


国史大辞典

東洲斎写楽
とうしゅうさいしゃらく
生没年不詳
江戸時代後期の浮世絵師。寛政六年(一七九四)五月から翌年正月まで、当時江戸で上演された歌舞伎の舞台に取材して多くの役者絵版画(一部相撲絵)を集中的に制作、その後は浮世絵界との関係を絶って、消息はほとんど伝わらない。ドイツ人クルトJulius Kurthをはじめ欧米人の高い評価を受け、大正年間(一九一二―二六)以降日本でも関心を集めるが、伝記研究の成果はほとんど上がっていない。「謎の浮世絵師」と名ざされて同世代の有名・無名の人物に仮託する説が数多く提出されてきたが、いずれも根拠が薄弱で、仮説の域を出ていない。在世期かそれに近い文献資料としては、大田南畝原撰の『浮世絵類考』にみえる「これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行はれず、一両年にして止む」の記事や、八丁堀地蔵橋居住と文政元年(一八一八)以前に死没の事実を伝える『(諸家人名)江戸方角分(ほうがくわけ)』の報告例が、わずかにあげられるにすぎない。幕末の考証家斎藤月岑(げっしん)は「俗称斎藤十郎兵衛、居江戸八丁堀に住す、阿波侯の能役者也」と考察しており(『(増補)浮世絵類考』)、注目されるが、いまだ確認されていない。版画作品は総計百四十二枚(あるいは百四十三~百四十五枚と諸説ある)が現存しており、いずれも蔦屋重三郎(蔦重)を板元として出版された。それらの作画期は、取材した歌舞伎狂言の上演時期に応じて、四期に区別される。

〔第一期〕

寛政六年五月。計二十八枚。大判の黒雲母摺(くろきらずり)による役者大首絵(おおくびえ、半身像)二十八枚(うち二十七枚が重要文化財、東京国立博物館蔵)。署名は「東洲斎写楽画」。

〔第二期〕

寛政六年七―八月。計三十八枚。大判雲母摺八枚と細判三十枚はすべて全身像の役者絵。署名は「東洲斎写楽画」。

〔第三期〕

寛政六年十一―閏十一月。計六十四枚。役者絵としては細判全身像が四十七枚、間判(あいばん)大首絵が十一枚、間判追善絵が二枚。相撲絵として間判が一枚、大判が三枚(三枚続)。署名は原則として「写楽画」となる。

〔第四期〕

寛政七年正月。計十二枚。細判全身像役者絵十枚、間判相撲絵二枚。署名は「写楽画」。これらのうち、もっとも質高い内容をもつのは第一期の大首絵連作であり、戯画的な誇張を加えた似顔表現と、役柄にふさわしい深刻な心理描写とが同時に実現された、画期的な役者絵となっている。和泉屋市兵衛(泉市(せんいち))の推す歌川豊国と競作し、世の不評にもかかわらずかえって出版点数を増大させていくが、作品の質は急速に衰え、わずか十ヵ月間の活躍にとどまり浮世絵界から敗退した。大胆なデフォルメを利かせた写楽の個性的な役者似顔絵は、歌舞伎堂艶鏡(歌舞伎狂言作者二代目中村重助の画名)によって形式的に模倣されるが、むしろ本質的な理解は、ライバルの歌川豊国や勝川春英、さらには美人画家の喜多川歌麿らにより深められている。
[参考文献]
鈴木重三『写楽』、瀬木慎一『浮世絵師写楽』、山口桂三郎編『写楽』(『浮世絵大系』七)、小林忠編『写楽』(至文堂『日本の美術』一三九)
(小林 忠)
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検索コンテンツ
1. 東洲斎写楽画像
日本大百科全書
(半身像)28枚。落款らっかんは「東洲斎写楽画」。〔第2期〕寛政6年7~8月 計38枚8枚の大判雲母摺と30枚の細判はすべて全身像の役者絵。落款は「東洲斎写楽
2. 東洲斎写楽
世界大百科事典
江戸時代の浮世絵師。生没年不詳。1794年(寛政6)5月から翌95年1月までの正味10ヵ月間(途中閏月がはさまる)を活躍時期として,役者絵,相撲絵の版画140余
3. とうしゅうさいしゃらく【東洲斎写楽】
国史大辞典
財、東京国立博物館蔵)。署名は「東洲斎写楽画」。 〔第二期〕 寛政六年七―八月。計三十八枚。大判雲母摺八枚と細判三十枚はすべて全身像の役者絵。署名は「東洲斎写楽
4. とうしゅうさい-しゃらく【東洲斎写楽】
日本人名大辞典
?−? 江戸時代後期の浮世絵師。寛政6年(1794)5月から翌年1月まで,江戸で上演されていた歌舞伎を題材にえがいた役者絵などを140枚余りのこした。版元はすべ
5. とうしゅうさいしゃらく【東洲斎写楽】
日本架空伝承人名事典
江戸時代の浮世絵師。生没年不詳。一七九四年(寛政六)五月から翌九五年一月までの正味一〇カ月間(途中閏月がはさまる)を活躍時期として、役者絵、相撲絵の版画一四〇余
6. とうしゅうさいしゃらく【東洲斎写楽】
歌舞伎事典
 江戸時代の浮世絵師。生没年不詳。寛政六(1794)年五月から翌七年一月までの正味一〇ヵ月間(途中閏月がはさまる)を活躍時期として、役者絵、相撲絵の版画一四〇余
7. 東洲斎写楽[文献目録]
日本人物文献目録
MER」の魔術 写楽』平塚運一『東洲斎写楽』竹内梅松『東洲斎写楽』仲田勝之助『東洲斎写楽』藤懸静也『東洲斎写楽』吉田暎二『東洲斎写楽覚書』吉田暎二『東洲斎写楽
8. とうしゅうさい‐しゃらく[トウシウサイ‥]【東洲斎写楽】
日本国語大辞典
(江戸時代の浮世絵師)〓しゃらく(写楽)
9. 東洲斎写楽『市川鰕蔵の竹村定之進』[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
『恋女房染分手綱こいにょうぼうそめわけたづな』で竹村定之進さだのしんを演じる市川鰕蔵えびぞう(5世市川団十郎)を描く役者大首絵。黒雲母摺くろきらずり 1794年
10. 東洲斎写楽の肉筆画発見[美術]
情報・知識 imidas
2008年7月、謎の浮世絵師として知られる東洲斎写楽の肉筆扇面画が、ギリシャ北西部のコルフ島にあるアジア美術館に所蔵されていることが分かった。写楽の肉筆画はき
11. 泡坂妻夫
日本大百科全書
推理風味を加えた現代小説も多く発表。そのほか『鬼女きじょの鱗うろこ』(1988) などの捕物帳、東洲斎写楽の正体をめぐる『写楽百面相』(1993)など時代小説の
12. 阿波国
世界大百科事典
井精古・池辺真榛(まはる)の国学があり,賀川玄悦の《産論》が実学面で注目される。浮世絵師の東洲斎写楽が阿波出身といわれ,民間では阿波浄瑠璃が盛行し,人形師として
13. あわのくに【阿波国】画像
国史大辞典
国学では吉井直道・永井精古・池辺真榛があり、実学面では『産論』の著者賀川玄悦(藩医)があった。浮世絵の東洲斎写楽が阿波出身といわれ、また庶民の間には阿波浄瑠璃が
14. 浮世絵画像
日本大百科全書
寛政6)正月から歌川豊国とよくにが『役者舞台之姿絵』と題する全身像のシリーズを、5月からは東洲斎写楽とうしゅうさいしゃらくが雲母摺大首絵きらずりおおくびえの連作
15. 浮世絵
世界大百科事典
94年(寛政6)から歌川豊国が〈役者舞台之姿絵〉と題する全身像のシリーズを,同年5月からは東洲斎写楽が雲母摺(きらずり)大首絵の連作をそれぞれ発表,華々しくデビ
16. うきよえ【浮世絵】
国史大辞典
寛政十二年(一八〇〇)ごろまでが風俗錦絵の黄金時代で、鈴木春信・勝川春章・鳥居清長・喜多川歌麿・鳥文斎栄之・東洲斎写楽・歌川豊春・歌川豊国・北尾重政はじめ多数の
17. うたがわとよくに【歌川豊国】
国史大辞典
とり入れて役者絵に精進し、寛政六(一七九四)、七年には名作「役者舞台之姿絵」を出版して注目された。時あたかも東洲斎写楽の役者似顔絵が一世を驚倒せしめていた。享和
18. 江戸時代(年表)
日本大百科全書
を絶版にし、林子平に蟄居を命ずる1796(寛政8)司馬江漢『和蘭天説』。このころ浮世絵師の東洲斎写楽活躍1798(寛政10)2月 女師匠が男に教えることを禁止。
19. 江戸時代美術画像
世界大百科事典
は高まり,江戸浮世絵界は天明から寛政(1781-1801)にかけて,鳥居清長,喜多川歌麿,東洲斎写楽らを輩出して黄金時代を迎えた。 寛政から文化・文政のころ(1
20. 大首絵画像
日本大百科全書
描かれた。そのなかでも、役者絵では、勝川春草かつかわしゅんそうをはじめとする勝川派の絵師や東洲斎写楽とうしゅうさいしゃらく、歌川豊国とよくに、歌川国政くにまさな
21. おおくび‐え[おほくびヱ]【大首絵】
日本国語大辞典
〔名〕浮世絵版画の一つ。役者、美人などの顔を強調して大きく描いた一枚摺り。歌川豊国、東洲斎写楽の作品が有名。大首。
22. おおくびえ【大首絵】
国史大辞典
社会風俗としてとらえた浮世絵では、全身像・群像の構図が通常描かれている。寛政期に入って喜多川歌麿や東洲斎写楽は、美人や役者を胸部から上だけの大うつしにした。それ
23. 化政文化画像
日本大百科全書
さて芝居に即していえば、浮世絵、役者絵の発達を先に指摘すべきであった。勝川春章かつかわしゅんしょう、東洲斎写楽とうしゅうさいしゃらく、歌川豊国うたがわとよくに、
24. 勝川春英画像
日本大百科全書
寛政かんせい(1789~1801)初・中期に数多く発表した大首おおくび絵は初世歌川豊国とよくにや東洲斎写楽とうしゅうさいしゃらくらに強い影響を与えている。永田生
25. かつかわ-しゅんえい【勝川春英】
日本人名大辞典
勝川春章の門人。役者絵,武者絵,相撲絵などを得意とし,黄表紙の挿絵なども手がける。初代歌川豊国や東洲斎写楽らに影響をあたえた。文政2年10月26日死去。58歳。
26. かぶきえ【歌舞伎絵】
国史大辞典
鳥居家はこれを専業として今日に至った。その形式的な画風に対する批判として起ったのが、勝川春章・東洲斎写楽・歌川豊国らの肖似性(似顔)描写である。歌舞伎絵の歴史は
27. かぶきどうえんきょう【歌舞伎堂艶鏡】
国史大辞典
一七四九―一八〇三 寛延二年(一七四九)に生まれる。伝記不明のため謎の絵師東洲斎写楽と同人ではないかなどいわれたが、大正十五年(一九二六)落合直成が、狂言作者
28. 雲母摺画像
日本大百科全書
1790年代(寛政期)前半に大流行をみ、なかでも、喜多川歌麿うたまろの美人大首絵おおくびえや東洲斎写楽とうしゅうさいしゃらくの役者大首絵の背景に用いられてその効
29. 偽作
世界大百科事典
日本でも偽作は,多くの作品を残した作家や特異な作風をもつ作家を中心に行われ,伊藤若冲,曾我蕭白,東洲斎写楽,葛飾北斎,田能村竹田,円空などにしばしばあらわれてい
30. 邦枝完二
日本大百科全書
帝劇文芸部に移り、脚本を執筆のかたわら帝劇女優学校長を務めた。23年以後、作家専業となり、『東洲斎写楽とうしゅうさいしゃらく』(1928)、『歌麿うたまろをめぐ
31. くにえだ-かんじ【邦枝完二】画像
日本人名大辞典
明治25年12月28日生まれ。永井荷風の影響をうける。時事新報社,帝劇文芸部勤務ののち文筆に専念。「東洲斎写楽」「歌麿をめぐる女達」「お伝地獄」など,江戸情緒と
32. 芝居絵画像
日本大百科全書
は勝川派や歌川派が版画の分野で主導権を握り、1794年(寛政6)から翌年にかけての一時期、東洲斎写楽とうしゅうさいしゃらくが役者似顔絵にがおえに新風を吹き込んだ
33. 写楽
日本大百科全書
東洲斎写楽
34. 写楽
世界大百科事典
東洲斎写楽
35. しゃらく【写楽】
国史大辞典
東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)
36. しゃらく【写楽】
日本人名大辞典
東洲斎写楽(とうしゅうさい-しゃらく)
37. 写楽の肉筆扇面画[イミダス編 文化・スポーツ]
情報・知識 imidas
役者の表情を大胆にとらえる「大首絵」で知られる江戸時代の絵師、東洲斎写楽が描いた扇面画「四代目松本幸四郎の加古川本蔵と松本米三郎の小浪」のこと。ギリシャの国立
38. すもうえ【相撲絵】
国史大辞典
主題とした風景版画など、各種の様式の作品が描かれている。代表作に勝川春章筆「谷風と小野川と行司木村庄之助」、東洲斎写楽筆「大童山」などがある。 [参考文献]酒井
39. 増訂 武江年表 2 18ページ
東洋文庫
狂歌堂真顔、六樹園飯盛、蜀山人、葛薬亭長根。△浮世絵師 鳥文斎栄之、勝川春好、回春英(九徳斎)、東洲斎写楽、喜多川爵麿、北尾重政、同政演(京伝)、同政美(意斎)
40. ちょうにんぶんか【町人文化】
国史大辞典
題材とした浮世絵が菱川師宣らによって創始され、鳥居清満・清倍・清長、勝川春章、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川国貞、歌川広重、歌川国芳らの画家や彫師・摺師
41. 蔦屋重三郎
世界大百科事典
作家では大田南畝,恋川春町,山東京伝,曲亭馬琴など,浮世絵師では北尾重政,鍬形蕙斎,喜多川歌麿,葛飾北斎,東洲斎写楽などと組んで,黄表紙,洒落本,狂歌絵本,浮世
42. つたやじゅうざぶろう【蔦屋重三郎】
国史大辞典
庇護して大成させた。寛政三年(一七九一)京伝作の洒落本出版で身上半減の闕所処分をうけた。同六―七年の東洲斎写楽の絵百四十点余の刊行は特に有名。同九年五月六日没。
43. つたや-じゅうざぶろう【蔦屋重三郎】
日本人名大辞典
町に書店をひらき,大田南畝(なんぽ),山東京伝らの作家,喜多川歌麿,葛飾(かつしか)北斎,東洲斎写楽らの浮世絵師とくんで黄表紙,洒落(しゃれ)本,浮世絵版画など
44. とうしゅうさいしゃらく【東洲斎写楽】 : 東洲斎写楽/〔第一期〕
国史大辞典
首絵(おおくびえ、半身像)二十八枚(うち二十七枚が重要文化財、東京国立博物館蔵)。署名は「東洲斎写楽画」。
45. とうしゅうさいしゃらく【東洲斎写楽】 : 東洲斎写楽/〔第二期〕
国史大辞典
〔第二期〕 寛政六年七―八月。計三十八枚。大判雲母摺八枚と細判三十枚はすべて全身像の役者絵。署名は「東洲斎写楽画」。
46. とくしまはん【徳島藩】画像
国史大辞典
古・池辺真榛がおり、実学面では『産論』の著者産科医賀川玄悦が徳島藩医となっている。浮世絵の東洲斎写楽が阿波出身といわれ、庶民の間では人形浄瑠璃が盛行し、木偶の作
47. にがお‐え[にがほヱ]【似顔絵】
日本国語大辞典
似顔絵とか看板とかを描いてね」(2)浮世絵で、特定人物、特に役者の容姿面貌を似せて描いた絵。東洲斎写楽、歌川豊国などがこれをよくした。*黄表紙・御存商売物〔17
48. にがおえ【似顔絵】
国史大辞典
役者それぞれが工夫した扮装や色などを写実的に描写し、表現しようとしたのが、役者似顔絵である。そして東洲斎写楽の高度の印象描写の作風をもって、その芸術性の頂点を極
49. にしき‐え[‥ヱ]【錦絵】
日本国語大辞典
中心として発展した。浮世絵版画における技巧発達の最終段階を示す。勝川春章・鳥居清長・喜多川歌麿・東洲斎写楽・歌川豊国・葛飾北斎・歌川(安藤)広重など、明和期以後
50. 日本美術画像
日本大百科全書
う新様式を編み出した喜多川歌麿きたがわうたまろ、クローズ・アップによる特異な役者絵を描いた東洲斎写楽とうしゅうさいしゃらく、風景画で世界的な葛飾北斎かつしかほく
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ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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