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  11. 石川啄木

石川啄木

ジャパンナレッジで閲覧できる『石川啄木』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

石川〓
いしかわたくぼく
一八八六 - 一九一二
明治時代の歌人、詩人。名は一、中学時代翠江・麦羊・白蘋(はくひん)と号した。明治十九年(一八八六)二月二十日岩手県南岩手郡日戸村(岩手郡玉山村)に生まれた。父一禎(いってい)は曹洞宗常光寺の住職、母かつは南部藩士工藤条作常房の娘で、一禎の師僧葛原対月の妹。啄木は二歳の春父親が渋民村宝徳寺の住職に栄転したのでこの村で成長した。同二十八年三月渋民尋常小学校を首席で卒業して盛岡市立高等小学校に進み、十三歳のとき盛岡尋常中学校に十番の成績で入学した。しかしその後上級学年に進むにつれて文学と恋愛に熱中して学業を怠り、二回にわたるカンニング事件を起して五年生の同三十五年十月二十七日中学校を退学した。やむなく彼は文学をもって身を立てるという美名のもとに上京したが失敗に終り、翌年二月帰郷して病苦と敗残の身を故郷の禅房に養った。その後与謝野鉄幹の知遇を得て東京新詩社の同人となり、明星派の詩人として活躍、二十歳のとき処女詩集『あこがれ』を東京の小田島書房より出版、その前途が嘱望された。しかしこの年の春父親が宗費滞納を理由に宝徳寺の住職をやめさせられたので一家扶養の責任を負い、年来の愛人である堀合節子と結婚、盛岡市内に新居を構えたが、生活難のため渋民村に帰り、母校の代用教員となりかたわら小説『雲は天才である』や『葬列』を書いた。四十年五月、宝徳寺復帰運動の失敗から北海道に渡り、函館・札幌・小樽・釧路と一年にわたる漂泊生活を続けた。この間『小樽日報』や『釧路新聞』の記者をつとめたが、再び上京して創作生活にはいり、自然主義風の小説を書いたが認められず、窮乏の生活を送るうちにその創作意欲は短歌によって表現され、歌人としての新生面をひらいた。四十二年三月一日東京朝日新聞に校正係として就職、本郷弓町の喜之床という床屋の二階に家族との間借生活を始める。翌年の秋朝日歌壇の選者となり、十二月一日東雲堂書店より三行書の歌集『一握の砂』を出版して歌壇内外から注目された。この年六月幸徳秋水らの大逆事件に衝撃を受けて社会主義思想に接近、青年の自覚を促すことによって新しい時代にそなえようとし、土岐哀果(善麿)と提携して文芸思想雑誌『樹木と果実』の発行を計画するが実現せず、四十五年四月十三日肺結核のため小石川区久堅町の借家に波乱に富む二十七年の生涯を終えた。墓は函館市の立待岬にある。東京時代の啄木は大逆事件後の「冬の時代」の中で、その閉ざされた現状への批判と、当面の生活の中に磨滅してゆく自己への哀惜をモチーフとしながら多くの名作を書いた。その主なものは歌集『一握の砂』『悲しき玩具』、詩集『呼子と口笛』、評論「時代閉塞の現状」で、その火花のような人生を綴った日記とともに現在『啄木全集』全八巻に収められており、時代に先駆した文学者のおもかげを伝えている。
[参考文献]
岩城之徳『石川啄木』(『人物叢書』六二)、国崎望久太郎『啄木論序説』
(岩城 之徳)


日本大百科全書(ニッポニカ)

石川啄木
いしかわたくぼく
[1886―1912]

歌人、詩人。本名一 (はじめ)。明治19年2月20日、岩手県南岩手郡日戸 (ひのと)村(現、盛岡 (もりおか)市玉山 (たまやま))に生まれる。父はこの村の曹洞 (そうとう)宗常光寺住職石川一禎 (いってい)。母カツは一禎の師僧葛原 (かつらはら)対月の妹。1887年(明治20)の春一禎は北岩手郡渋民 (しぶたみ)村(現、盛岡市渋民)宝徳寺の住職になったので一家はこの村に移った。啄木が生涯「ふるさと」とよんで懐かしがったのはこの渋民村で、現在石川啄木記念館がある。

 啄木は岩手郡渋民尋常小学校を卒業後、盛岡高等小学校に進み、1898年4月13歳のとき、128名中10番の好成績で岩手県盛岡尋常中学校に入学した。しかし上級学年に進むにつれて文学と恋愛に熱中して学業を怠り、4年生の学年末と5年生の1学期の試験にカンニング事件を起こし、これが原因となって盛岡中学校を退学した。やむなく彼は文学をもって身をたてるという美名のもとに1902年(明治35)の秋上京、新運命を開こうとするが失敗、年末、神田の日本力行会 (りっこうかい)に勤務する友人の奔走で、金港堂の雑誌『文芸界』の主筆佐々醒雪 (さっさせいせつ)を頼って雑誌の編集員として就職を希望するが実現せず、翌1903年2月帰郷して故郷の禅房に病苦と敗残の身を養った。

 1902年の夏、アメリカの海の詩集『Surf and Wave』の影響を受けて詩作に志した啄木は、その後与謝野鉄幹 (よさのてっかん)(寛 (ひろし))の知遇を得て東京新詩社の同人となって『明星』誌上で活躍、1905年5月には東京の小田島書房より処女詩集『あこがれ』を刊行、明星派の詩人としてその前途が嘱望された。しかし前年の暮れ、啄木の父が宗費滞納を理由に曹洞宗宗務局より宝徳寺の住職を罷免されたので、一家はこの年の春盛岡に移り、啄木はやがて堀合節子(1886―1913)と結婚して一家扶養の責任を負うことになる。まもなく生活に行き詰まったため1906年の春渋民村に帰り、母校の代用教員となった。彼は勤務のかたわら再起を図るため小説家を志し、『雲は天才である』『面影』『葬列 (そうれつ)』を書き、また曹洞宗宗憲の発布で特赦となった一禎の宝徳寺復帰に努力した。しかし1年後、小説にも父の再住にも失敗して故郷を去り、北海道に移住するのである。

「石をもて追はるるごとく/ふるさとを出でしかなしみ/消ゆる時なし」
 1908年(明治41)の晩春、北海道より上京した啄木は創作生活に没頭、上京後1か月余に『菊池君』『病院の窓』『母』『天鵞絨 (ビロード)』『二筋の血』など五つの作品300余枚の原稿を書き、その小説の売り込みに奔走したが失敗、ために収入なく生活は困窮した。1909年の春彼を窮地から救い東京朝日新聞社の校正係に採用したのは、盛岡出身の同社編集部長佐藤北江 (ほっこう)(真一)で、啄木はようやく定職を得て、東京・本郷区弓町二丁目(現、文京区本郷)の喜之床 (きのとこ)(新井 (あらい)こう)の2階に家族を迎えて新生活を始めることができた。1910年9月社会部長渋川柳次郎の厚意で「朝日歌壇」の選者となり、この年の暮れ処女歌集『一握 (いちあく)の砂』を刊行。その特異な三行書きの表記法と、「生活を歌う」主題の新鮮さは歌壇内外の注目を浴び、第一線歌人としての地位を確立した。またこの年6月の大逆事件に衝撃を受けて社会主義思想に接近、幸徳秋水やロシアの思想家クロポトキンの著作を愛読して、未来のソシアリスティックな日本を思い描いたが、東京時代につくられた歌集『一握の砂』『悲しき玩具 (がんぐ)』、詩集『呼子 (よぶこ)と口笛』、評論『時代閉塞 (へいそく)の現状』などの代表作は、そうした晩年の思想や生活のなかから生まれたもので、天才啄木の名を不朽のものとした。明治45年4月13日、小石川区久堅 (ひさかた)町74番地(現、文京区小石川5-11-7)の借家で肺結核で死んだ。享年27歳。文字どおり薄幸にして流亡の生涯であった。

[岩城之徳]2017年1月19日

 呼吸 (いき)すれば、/胸の中 (うち)にて鳴る音あり。/凩 (こがらし)よりもさびしきその音!



世界大百科事典

石川啄木
いしかわたくぼく
1886-1912(明治19-大正1)

明治期の歌人,詩人,評論家。岩手県生れ。本名一(はじめ)。北岩手郡渋民村の宝徳寺に育った。県立盛岡中学中退。在学中に《明星》系の浪漫主義文学に触れて詩人を志し,1905年,愛の至上性を歌う詩集《あこがれ》を刊行し,天才少年詩人の名をはせた。しかし同じころ結婚し,また父が失職して生活難に直面させられ,詩情に衰えをきたし,小説に筆を転じた。07年に北海道に渡り各地を流転したが,翌年には単身上京し創作に専念しようとした。結局,小説は成功しなかったが,この時期の苦闘を綴る09年春の《ローマ字日記》が,自然主義的私小説以上の鋭い自己凝視をみせている。その年秋,家庭に対する啄木の無配慮にたえかねて妻が家出した。その衝撃から生活を人生の第一義と考えるようになり,その立場による評論や短歌を制作していった。続いて起こった大逆事件を契機に,貧しい生活の出口を社会主義に求め,《時代閉塞の現状》(1913刊)等を書いて尖鋭な社会批判を示す一方,短歌をば,現実を改変できない者の悲しい代償行為とみなすにいたった。《一握の砂》(1910)と《悲しき玩具》(1912)にまとめられたその短歌は,冷笑的諧謔性や深い哀傷感をもって日常の感情を率直に歌い,歌壇に画期の新風を呼んだ。11年,慢性腹膜炎と診断され,ついで妻も母も罹病。時代の悪化もあって絶望を深めつつも,なお遺稿の文語自由詩《呼子と口笛》に現実飛翔の夢を歌いあげ,12年4月,貧窮の底で死んだ。〈東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる〉(《一握の砂》)。
[今井 泰子]

[索引語]
あこがれ(文学) ローマ字日記 時代閉塞の現状 悲しき玩具 呼子と口笛
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日本人名大辞典
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8. あい[あひ]【間・合】
日本国語大辞典
〈略〉『トヲチテントヲチテン』『コリヨ 合 コリヨ 合 コリコリコリ』」*鳥影〔1908〕〈石川啄木〉一一・四「ドドドンと、先頭の太鼓が合(アヒ)を入れた」(6
9. あいそう‐わらい[アイサウわらひ]【愛想笑】
日本国語大辞典
〔名〕「あいそわらい(愛想笑)」に同じ。*道〔1910〕〈石川啄木〉「四十五六の男が立って、揉手をしながら愛相笑ひをしてゐた」*金〔1926〕〈宮嶋資夫〉八「『
10. あい‐どく【愛読】
日本国語大辞典
尤も愛読したのは、社説と漫録と其れから鉄嶺と云ふ人の巴里通信であった」*一握の砂〔1910〕〈石川啄木〉煙・一「そのかみの愛読(アイドク)の書よ 大方は今は 流
11. あい‐わ・す[あひ‥]【相和】
日本国語大辞典
互いに声を合わせる。特に、詩歌などを、互いに相手の詩歌に応じて作る。*雲は天才である〔1906〕〈石川啄木〉一「『鰻っ。』『蒲焼にするぞっ。』最後に『チェースト
12. あお‐ぬり[あを‥]【青塗】
日本国語大辞典
近衛公の内より陸へ来り更に陸より届ける来る、三尺程の青塗の箱なり」*悲しき玩具〔1912〕〈石川啄木〉「青塗(アヲヌリ)の瀬戸の火鉢によりかかり、眼(め)閉ぢ、
13. あお‐の[あを‥]【青野】
日本国語大辞典
〔名〕青々とした野原。《季・夏》*あこがれ〔1905〕〈石川啄木〉めしひの少女「丘をこえ、青野をこえて、ひむがしの海の上までまろらかに溢れわたりぬ」
14. あお‐び[あを‥]【青火】
日本国語大辞典
毎夜青火光る。此所昔寺也。其時金銀を埋をきたか、金銀の気、青火出と申伝る也」*あこがれ〔1905〕〈石川啄木〉錦木塚・梭の音の巻「夫(せ)が胸をい捲かむとや、罪
15. あお‐び・れる[あを‥]【青─】
日本国語大辞典
きて見れば、色あさましう青びれたる者どもの、やせ損じたる、あまた臥せり」*鳥影〔1908〕〈石川啄木〉一一・二「弱々しい星影が七つ八つ、青びれて瞬いてゐた」
16. あお‐ぶく・れる[あを‥]【青膨】
日本国語大辞典
する。*細君〔1889〕〈坪内逍遙〉三「さて母は落胆し、蒼膨れて家に帰れば」*赤痢〔1909〕〈石川啄木〉「鼻の低い、眼の濁った、青脹(アヲブク)れた女」
17. あお‐やぎ[あを‥]【青柳】
日本国語大辞典
風土記をとづる青柳の村〈才丸〉」〔四〕北海道函館市の地名。石川啄木が北海道流浪時代の一時期居住した地。*一握の砂〔1910〕〈石川啄木〉忘れがたき人々「函館の青
18. あおやぎちよう【青柳町】北海道:渡島支庁/函館市/旧函館区地区/函館
日本歴史地名大系
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19. あおり‐た・てる[あふり‥]【煽立】
日本国語大辞典
さきにとひくほとに、臆病神にあをりたてられて、太刀長刀をすてて迯ければ」*赤痢〔1909〕〈石川啄木〉「狐を信ずる住民(ひとびと)の迷信を煽(アフ)り立てた」*
20. あか‐ぎっぷ【赤切符】
日本国語大辞典
争四十八癖「的と云ふ癖〈略〉田舎的にして赤切符(アカキップ)的が宜しい」*鳥影〔1908〕〈石川啄木〉六・二「急いで盛岡行の赤切符を買って改札口へ出ると」*暗夜
21. あか‐げ【赤毛】
日本国語大辞典
61〕「赤毛と物に書くは栗毛也」*伊京集〔室町〕「赤毛 アカゲ 鷹色也」*札幌〔1908〕〈石川啄木〉「赤毛の犬を伴(つ)れた男が行く」(3)稲の一品種。北海道
22. アカシア
日本国語大辞典
荳科の一常緑樹」(2)植物「はりえんじゅ(針槐)」の俗称。《季・花は夏》*札幌〔1908〕〈石川啄木〉「停車場通りの両側のアカシヤの街
23. あかちゃ・ける【赤茶】
日本国語大辞典
を塗って」*新世帯〔1908〕〈徳田秋声〉三七「赭(アカ)ちゃけた髪毛」*赤痢〔1909〕〈石川啄木〉「赤焦(アカチャ)けた黒繻子の袋袴を穿いた役場の助役」
24. あか‐つ・く【垢付】
日本国語大辞典
竹斎〔1621~23〕上「この小袖はあかつきてはづかしくは候へども」*病院の窓〔1908〕〈石川啄木〉「垢づいた首巻を巻いて居たが」
25. アカデミー
日本国語大辞典
広く学芸に関する研究教育団体、および施設の総称。*スバル‐明治四二年〔1909〕五月号・莫復問〈石川啄木〉「友は皆アカデミ出でて八方に散れり」*歴史の思想序説〔
26. あから・む【赤】
日本国語大辞典
上「日のあたる方はあからむ竹の色〈孤屋〉 只奇麗さに口すすぐ水〈利牛〉」*赤痢〔1909〕〈石川啄木〉「蚤(のみ)に攻められて一面に紅らんだ横腹を」【二】〔他マ
27. あか‐れんが[‥レングヮ]【赤煉瓦】
日本国語大辞典
に立派なお邸でげすぜ、先づ、塀は赤煉瓦で、御門は総欅(そうけやき)」*一握の砂〔1910〕〈石川啄木〉手套を脱ぐ時「赤煉瓦(アカレングヮ)遠くつづける高塀の む
28. あが・る【上・揚・挙・騰】
日本国語大辞典
木田独歩〉「僕が大島学校に上(アガ)ってから四五日目で御座いました」*二筋の血〔1908〕〈石川啄木〉「末児はまだ学校に上らなかったが」(9)(血が頭に上る意)
29. あき【明・空】
日本国語大辞典
君の死去が伯父の心(むね)にあけた其欠陥(アキ)を満すことは出来ない」*菊池君〔1908〕〈石川啄木〉二「四頁の新聞だけれど、広告が少くて第四面に空所(アキ)が
30. あき‐や【空家・空屋・明家】
日本国語大辞典
〈福沢諭吉〉老余の半生「生徒散じ教員去て塾が空屋(アキヤ)になれば」*一握の砂〔1910〕〈石川啄木〉我を愛する歌「空家(アキヤ)に入り 煙草のみたることありき
31. あく‐しゅ【悪酒】
日本国語大辞典
*書言字考節用集〔1717〕六「悪酒 アクシュ 浮蟻。浮蛆。茆菜。並仝」*一握の砂〔1910〕〈石川啄木〉忘れがたき人人・一「舞へといへば立ちて舞ひにき おのづ
32. あく‐せん【悪戦】
日本国語大辞典
「人は皆な其の愚な家庭の犠牲となって是非なく社会に悪戦するのじゃ無いか」*鳥影〔1908〕〈石川啄木〉一・四「黒溝台の悪戦に壮烈な戦死を遂げた」
33. あけぼの‐いろ【曙色】
日本国語大辞典
〔名〕曙の東の空のような色。黄色がかった淡紅色。*葬列〔1906〕〈石川啄木〉「十八歳で姿の好い女、曙色(アケボノイロ)か浅緑の簡単な洋服を着て」*上海〔192
34. あげ【上・揚】
日本国語大辞典
縫上(アゲ)が下りたのと、他(ひと)に世話ばかりやかせた児女(がき)の癖に」*鳥影〔1908〕〈石川啄木〉五・二「ソラ其処に縫込んだ揚(アゲ)があるぢゃないか。
35. あ・げる【上・揚・挙】
日本国語大辞典
挙げらるる事「九郎御曹子は〈略〉、佐殿すでに義兵をあげ給ふときこえしかば、打立ち給ふに」*葬列〔1906〕〈石川啄木〉「かの哀れなる亡国の民に愛国心を起さしめ、
36. あさ‐みどり【浅緑】
日本国語大辞典
〕若菜下「あさみどりの薄様(うすやう)なる文の、押し巻きたる端みゆるを」*葬列〔1906〕〈石川啄木〉「十八歳で姿の好い女、曙色か浅緑の簡単な洋服を着て」(2)
37. あざ・れる【〓〓
日本国語大辞典
集〔1676〕波「生魚の荷は時刻うつればあされるとてゆだんをせぬ事とそ」*漂泊〔1907〕〈石川啄木〉一「男共の背後(うしろ)には、腐(アザ)れた象の皮を被った
38. あし‐ざわり[‥ざはり]【足触】
日本国語大辞典
*俳諧・続猿蓑〔1698〕春「麓より足ざはりよき木の葉哉〈枳風〉」*刑余の叔父〔1908〕〈石川啄木〉三「板敷にも畳にも、足触りの悪い程土埃(ほこり)がたまって
39. あし‐ぶり【足振】
日本国語大辞典
〔名〕踊ったりする時などの足の動かし方。*鳥影〔1908〕〈石川啄木〉一一・三「手振足振面白く歌って廻る踊には」*東京年中行事〔1911〕〈若月紫蘭〉十月暦「踊
40. あし‐よどみ【足淀】
日本国語大辞典
〔名〕足の進みがにぶること。*二筋の血〔1908〕〈石川啄木〉「男は些と足淀(アシヨドミ)して、直ぐまた〈略〉医者の方へ駈け出した」
41. あし を 入(い)れる
日本国語大辞典
(1)はいり込む。ある場所に入ってゆく。*鳥影〔1908〕〈石川啄木〉四・一「教会に足を入れ初めたのは其頃で」*アパアトの女たちと僕と〔1928〕〈龍胆寺雄〉一
42. アセチレン‐ガス
日本国語大辞典
1903〕人事門「大さ一間半夜間はアセチリン瓦斯(グヮス)を点ず」*呼子と口笛〔1911〕〈石川啄木〉呼子の笛「青臭きアセチリン瓦斯の漂へる中」*鳥獣虫魚〔19
43. あせ‐びかり【汗光】
日本国語大辞典
〔名〕汗がしみついてよごれたところが、てらてらと光って見えること。*雲は天才である〔1906〕〈石川啄木〉一「黒く汗光りのする繻子の半襟がかかってある」
44. あたたか・い【暖・温】
日本国語大辞典
ている。*野分〔1907〕〈夏目漱石〉二「暖(アタタ)かい家庭に育った」*葉書〔1909〕〈石川啄木〉「落着いた温かい声である」*ブラリひょうたん〔1950〕〈
45. あたまっ‐から【頭─】
日本国語大辞典
*滑稽本・浮世風呂〔1809~13〕前・上「あたまっからおどかしをくふもんかへ」*雲は天才である〔1906〕〈石川啄木〉二「僕はモウ頭っから敬服してます」
46. あたまっ‐ぱり【頭張】
日本国語大辞典
〔名〕初めのうちだけがんばること。*我等の一団と彼〔1912〕〈石川啄木〉一「頭(アタマ)っ張(パ)りばかり強くて、結末(しまひ)に行って気の抜けるやうなことは
47. あっせい‐てき【圧制的】
日本国語大辞典
〔形動〕権力や暴力などで人の自由を束縛するさま。*鳥影〔1908〕〈石川啄木〉一・五「他から圧制的に結びつけようとするのは間違だ」*蓼喰ふ虫〔1928~29〕〈
48. あつさ‐ざかり【暑盛】
日本国語大辞典
*鳥影〔1908〕〈石川啄木〉一〇・二「暑熱(アツサ)盛りをうつらうつらと臥てゐたお柳は今し方起き出して、東向の縁側で静子に髪を結はしてる様子」*赤痢〔1909
49. あて が 付(つ)く
日本国語大辞典
決断・一「推測(アテ)が付かねば、お波は唯小さい胸を痛める計りであった」*札幌〔1908〕〈石川啄木〉「蓋許り沢山あって、中には甚麼美味い饅頭が入ってるんか、一
50. あて‐つけ【当付】
日本国語大辞典
〈長塚節〉六「勘次にはそれが当てつけにでもされるやうに心に響いた」*悲しき玩具〔1912〕〈石川啄木〉「本を買ひたし、本を買ひたしと、あてつけのつもりではなけれ
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安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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