NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1900冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史上の人物
  8. >
  9. 世界史上の人物
  10. >
  11. シェークスピア

シェークスピア

ジャパンナレッジで閲覧できる『シェークスピア』のデジタル版 集英社世界文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

デジタル版 集英社世界文学大事典

シェイクスピア ウィリアム
William Shakespeare
イギリス 1564.4.23?-1616.4.23
イギリスの劇作家,詩人。中部イングランド,ウォリックシャーの小さな町ストラトフォード=アポン=エイヴォンに生まれた。誕生日は4月23日とされるが,それは記録に残る受洗日の4月26日から逆算して,後世がそのように定めたものである。父親ジョンは,近隣の牧農産品の集散地であったこの市場町で,皮革業,手袋製造業を営み,羊毛,木材,大麦の売買も手がけた。近在の裕福な農家の娘メアリー・アーデンと結婚して,4男4女をもうけたが,その第3子の長男がウィリアムであった。ジョンは1559年ごろから,町の役職に就くようになり,参事会員などを経て,68年には町長にあたる地位に至っている。彼は,当時珍しくないことであったが,無筆であったらしい。ウィリアムはこの町にあったグラマースクール(文法学校)に通ったと推定される。これは8歳から15歳ぐらいまでの男子の教育機関で,それ以前の初等教育で英語,算数の初歩を習得した生徒にラテン語を中心とする古典教育(文法,古典の読解,作文,論理学,修辞学,さらにはある程度のギリシャ語)を施した。ウィリアムは,その際,詩文のほかに,テレンティウスプラウトゥスなどローマの劇作家の戯曲を知る機会があった。また,当時ロンドンの劇団は地方巡業に出ると,それぞれの町で町長の許可を得て上演をしたが,そのような劇団がストラトフォードや近くの町で上演を何回も行っているから,ウィリアムにはそれらを観(み)る機会があったろうし,さらに,近くの町コヴェントリーなどでは中世以来の聖史劇の上演もまだ行われていたから,そういう土着の演劇を観る機会もあったと考えられる。この間,父親のジョンは,なんらかの理由で経済的に窮迫し,羽振りがわるくなったらしい。
 1582年ウスター主教区法院はウィリアムと8歳年上のアン・ハサウェイ(ストラトフォード近くの村ショッタリーの農家の娘)との婚姻を11月27日付で認可している。次いで翌年5月末には長女スザンナが誕生している。この日付から,シェイクスピアの結婚について想像をめぐらす余地はあるが,当時の習慣として教会法によらない婚姻方式も広く存在したことを考慮に入れる必要がある。次いで85年には,長男ハムネットと次女ジュディスの双生児が生まれている。この2人の名前は,近所の友人夫婦の名をもらってつけたものである。これらウィリアムの妻子は,彼がロンドンに出たのちも,ストラトフォードで生活したと考えられるから,彼は故郷との縁を完全に切ることは生涯に一度もなかったことになる。その後,92年にロンドンでシェイクスピアへの言及と見られる文章が現れるまでの彼の動静はわからない。ランカシャーで家庭教師をしていたというかなり有力な説があるが,確実ではない。近所の豪族の庭苑から鹿泥棒をしたのが露顕して出奔したとか,ロンドンに出て劇場の馬番からはじめたというような言い伝えが古くからあるが,いずれも伝説の域にとどまる。ロンドンの劇団になんらかのつながりができて出て来たと考えるのが自然であるが,はっきりした証拠は何もない。この期間のことは一般に〈失われた年月〉と呼ばれる。
 ロンドンでのシェイクスピアへの最初の言及とみられる記録は,ロバート・グリーンという先輩劇作家が書き残したものである。そこでは,状況証拠から推してシェイクスピアと思われる人物が,俳優でありながら劇作にも手を染め,演劇界で頭角を現しかけている様子が嫉視(しつし)の角度から「一羽の成り上がり者の烏(からす)がいる……」と記されている。このころすでにシェイクスピアは劇の各ジャンルにわたって,劇作を開始しているのであるが,どのような劇場や劇団のためにそれらを書いたのかは,必ずしも明らかではない。グリーンの『一文の知恵』が著された92年の夏から94年初頭まで,ロンドンは当時周期的に頻発していた疫病流行のうちかなり大規模なものに見舞われた。ペストが流行すると,伝染を恐れて劇場は閉鎖を命じられるので,劇団は財政的に苦しい状況におかれる。この時のそれは,在ロンドンの各劇団に大きな打撃を与え,その再編成を促すことになった。この間に,シェイクスピアは詩作に手を染めて,サウサンプトン伯ヘンリー・リズリーに捧げたりしている。疫病の流行が収束した94年にロンドンには再編成後2つの劇団が残ったが,その1つが当時の宮内大臣ハンズドン卿(きよう)ヘンリー・ケアリーの庇護(ひご)をうけた劇団で,宮内大臣一座と呼ばれるようになった。この時すでにシェイクスピアはその幹部の一人になっていることが記録によって明らかである。この一座は,ジェイムズ・バーベッジに率いられ,その息子リチャード・バーベッジを看板俳優とし,シェイクスピアを座付き作者として,これよりのちロンドンの演劇界をしだいに席捲(せつけん)していくこととなる。
 この劇団は当初シアター座を中心に公演していたが,ジェイムズ・バーベッジが没した97年ごろから,この劇場の借地契約のことで地主との間に悶着(もんちやく)が起こり,99年この劇場を解体して,テムズ南岸バンクサイドに移築し,グローブ座と名づけて,そこを用いるようになった。以後1608年ごろまで,シェイクスピアはもっぱらこの劇場での上演のために一座に戯曲を提供することになる。この劇場の開場時までに,彼がすでに劇作家として名をなしていたことは,1598年に出版されたフランシス・ミアズの雑録集『知恵の宝庫』に,シェイクスピアが喜劇と悲劇の両分野においてイギリスで最も優れていると述べられ,いくつかの戯曲の名が挙げられていることからも,うかがえる。また,劇場経営者としても成功を収めていたことは,96年に父親がかねてから望んでいた紳士の紋章を認可されたこと,翌97年ストラトフォードに〈ニュー・プレイス〉と称される立派な邸(やしき)を購入したことからもわかる。しかし96年には一人息子のハムネット(享年11歳)を喪(うしな)ってもいる。
 この一座には,その後いくつかの出来事——世紀の変わり目ごろに少年劇団がロンドンで活動しはじめて成人劇団との間で激しい競争が行われたとか,1601年のエセックス伯の反乱に一座が多少の関わりをもったとか,あるいはまた,1603年にエリザベス女王が没してスコットランド王ジェイムズが王位を継いだのち,一座が国王一座と名を改めたとか——が起こったが,劇団そのものは順調に発展して,ジェイムズ1世の宮廷での御前公演も他の劇団を圧倒して頻繁に行うようになった。その間,シェイクスピア自身は1602年に郷里の近郊に100エーカー以上の耕地を購入し,さらに1605年にはやはり郷里近郊の3つの村落の10分の1税徴税権の半分を買い取るなど,着々と財をふやしている。また,1607年には長女スザンナが故郷の医者ジョン・ホールと結婚している。
 1608年,国王一座はシティの内側にあって少年劇団が使用していたブラックフライヤーズ座を借り受け,冬期にはそこで上演するようになった。これは入場料が高い屋内の小劇場で,観客の階層もグローブ座とは異なっていたから,夏期にはグローブ座で冬期と同じような演目による上演を依然つづけていたのではあるが,一座の上演方針はある程度の影響を受けたと考えられ,したがってシェイクスピアの戯曲も変化せざるを得なくなったと考えてよかろう。ともかく,10年ごろから,国王一座のレパートリーには宮廷好みの新しい作風をもつジョン・フレッチャーの戯曲が組み入れられはじめ,シェイクスピアとも合作を行ったりするようになったらしい。また,このころシェイクスピアは生活の本拠を故郷に移し,しだいに悠々自適の境地に入っていったと思われる。もっとも,この時期のストラトフォードの記録から推すと,近郊に生じた土地の〈囲い込み〉enclosure問題で,彼が周囲から批判されるような態度をとったらしいこと,また,次女ジュディスの結婚直後にその夫の性的不品行が明るみに出たため,すでに作成していた遺言書の書き直しをしていることなどがあり,世俗のことに全く悩まされなかったわけではない。この書き直された遺言書は1616年3月25日の日付をもち,すでに体力が衰えたことがうかがえる筆跡の署名のあるものであるが,当時の慣例どおりのさまざまな文言の中に,妻アンへの遺贈が「二番目によいベッド」とだけ記されている点は,さまざまな推測や議論の種となっているが,いまだに妥当な解釈が見つかっていない。
 シェイクスピアは1616年4月23日に没した。ちょうど満52歳であった。友人の作家たちと酒を飲みすぎて熱病にかかったのが原因であるとする逸話が残っているが,これも伝説に属する話かもしれない。遺体はストラトフォードのホーリー・トリニティ教会に葬られた。直系の子孫は70年までにすべて死に絶えている。
〔演劇人として〕
 上記の生涯の概略からもうかがえるように,シェイクスピアはある時期に詩を作ることもあったが,その主要な活動領域は演劇人としてのものであった。それは,(1)劇団運営者または劇場経営者,(2)俳優,(3)座付き作者の3つの役割を含む。彼の名が今日に残っているのは,(3)の役割においてであるが,それは他の2つの側面と密接に絡むものであった。
 俳優としてのシェイクスピアについては知られていることは多くない。死後1623年に刊行された彼自身の戯曲全集に付せられた主要な出演俳優表の中で彼の名は筆頭におかれているし,また,やや後輩の劇作家ベン・ジョンソンの戯曲『気質くらべ』と『シジェイナスの没落』の出演俳優表にも彼の名が出ている。一方,彼が,自作の劇では,『ハムレット』の亡霊の役や『お気に召すまま』の老僕アダムの役をやったという伝説があるが,それは彼が少なくとも立役者ではなかったことを物語るものかもしれない。俳優の仕事と同時に,彼には劇団運営者としての仕事があった。当時の劇団の上演方式は,今日の言葉でいえば,レパートリー・システムによるもので,数人の幹部俳優が助演の俳優や少年俳優(主として女性の役柄を演じた)を使って,日替わりでさまざまな演目の興行を行った。原則的には平日の午後,明るいうちの数時間に,グローブ座のような大劇場では照明や書き割りなどはあまり用いない舞台で演じた。幹部は常時多数のレパートリーをいつでも舞台に出せるように用意しておくことのほかに,客を呼べるような台本の獲得に絶えず心を配っておかねばならなかった(また,その結果が自分たちの歩合収入に直ちにはね返ってきた)。台本の補給については,外部の劇作家に注文するという方式もあった(当時宮内大臣一座とライバル関係にあった海軍大臣一座という劇団はこの方法をとっていた)が,宮内大臣一座がとった方針は,シェイクスピアという幹部の一人を核となる演目の提供者にするという座付き作者制であった。このようにして,シェイクスピアは1590年ごろの数年は別として1594年ごろから1610年ごろまで,自己の属する劇団のために,年平均2本(厳密に言えば,初期において比較的多作であり,後期には少しゆっくりしたペースで書いているという多少の変化はある)の戯曲を生産し続けたのである。このような着実な創作ペースと活動期間の長さ,および単一の劇団への忠誠度をあわせもった劇作家は,この時代にほとんど他に例を見ない。破滅の道を歩むことの多かった同時代の劇場人の中で,彼のような成功した市民の生涯を送った例は比較的珍しいといえよう。
〔劇作活動〕
 彼の戯曲で現存するものは38本ある。これらの中には他の劇作家との合作とみられるものも数本ある。制作年代が確実にわかっているものは少ないが,過去の研究によって大体のところは学者のコンセンサスが得られている。一般に最も権威があるとされるE. K.チェインバーズの年代推定を基本としたものを以下に掲げておこう(なお,ここには主要な詩作品も含めておく)。
1590~91 『ヘンリー6世・第二部』2 Henry VI,『ヘンリー6世・第三部』3 Henry VI
1591~92 『ヘンリー6世・第一部』1 Henry VI
1592~93 『リチャード3世』Richard III,『間違いの喜劇』The Comedy of Errors,『ヴィーナスとアドーニス』Venus and Adonis(詩)
1593~94 『タイタス・アンドロニカス』Titus Andronicus,『じゃじゃ馬ならし』The Taming of the Shrew,『ルークリースの凌辱(りようじよく)』The Rape of Lucrece(詩)
1594~95 『ヴェローナの二紳士』The Two Gentlemen of Verona,『恋の骨折り損』Love's Labour's Lost,『ロミオとジュリエット』(解説後出)
1595~96 『リチャード2世』Richard II,『夏の夜の夢』(解説後出)
1596~97 『ジョン王』King John,『ヴェニスの商人』(解説後出)
1597~98 『ヘンリー4世・第一部』1 Henry IV,『ヘンリー4世・第二部』2 Henry IV
1598~99 『空騒ぎ』Much Ado About Nothing,『ヘンリー5世』Henry V
1599~1600 『ジュリアス・シーザー』Julius Caesar,『お気に召すまま』(解説後出),『十二夜』(解説後出)
1600~01 『ハムレット』(解説後出),『ウィンザーの陽気な女房』The Merry Wives of Windsor
1601~02 『トロイラスとクレシダ』Troilus and Cressida,『不死鳥と雉鳩(きじばと)』The Phoenix and the Turtle(詩,出版)
1602~03 『終わりよければすべてよし』All's Well That Ends Well
1604~05 『尺には尺を』Measure for Measure,『オセロー』(解説後出)
1605~06 『リア王』(解説後出),『マクベス』(解説後出)
1606~07 『アントニーとクレオパトラ』(解説後出)
1607~08 『コリオレイナス』Coriolanus,『アテネのタイモン』Timon of Athens
1608~09 『ペリクリーズ』Pericles
1609~10 『シンベリン』Cymbeline,『ソネット集』Sonnets(詩集,出版),『恋人の嘆き』A Lover's Complaint(詩,出版)
1610~11 『冬の夜ばなし』The Winter's Tale
1611~12 『あらし』(解説後出)
1612~13 『ヘンリー8世』Henry VIII,『二人の血縁の貴公子』The Two Noble Kinsmen
 以上から明らかなように,シェイクスピアは最初期から悲劇歴史劇喜劇といったさまざまなジャンルの戯曲を満遍なく書いているが,大まかな傾向としては,1600年以前の前半期には,歴史劇と喜劇が,また,1600年以降の数年間には悲劇が比較的多く書かれ,最後の数年は喜劇の一種である通常ロマンス劇と呼ばれる形式によっているといえよう。このような印象をもう少し厳密に整理して,(1)初期の習作時代,(2)1590年代後半の主として喜劇と歴史劇を書いた時代,(3)1600~08年の悲劇の時代,(4)そののち引退するまでの晩年の劇の時代と4つに区分することが一般に行われている。
(1)の習作時代の劇はのちの戯曲に比べると,ときに未熟さや生硬な台詞(せりふ)表現が見られる部分もあるが,すでに天才の片鱗(へんりん)は随所にうかがわれる。例えば,『間違いの喜劇』の技術的完成度,『リチャード3世』における主人公の魅力的な造型などである。また,『タイタス・アンドロニカス』や『ヘンリー6世』3部作などは,長い間,稚拙な作品として無視された時期があったが,初演時には時代の嗜好(しこう)に合致し,非常な人気を博した劇であったし,近年の上演(前者については1955年のピーター・ブルック演出,ローレンス・オリヴィエ主演のもの,後者については,テクストに多少手を加えてはいるが,1963年のピーター・ホール演出『薔薇(ばら)戦争』が代表的)が,これらの劇に戯曲として読むだけでは察知しにくい迫力があることを示した。
(2)第2の時期にシェイクスピアの才能は開花する。悲劇『ロミオとジュリエット』は青春の魂の稲妻のように激しい瞬時の燃焼を思わせる劇で,抒情的な美しい場面のまわりに,野卑ではあるがエネルギーにあふれる脇役(わきやく)を配して,青春前期の男女の一途(いちず)で危うい美をみごとに定着させている。これと一対をなす喜劇『夏の夜の夢』も,抒情性に富み,また祝祭的な気分に満ちた傑作である。同じころに書かれた歴史劇『リチャード2世』についても,この優雅でわがままな王が王位を追われ,殺害されるにいたる過程を情緒纏綿(てんめん)たる嘆きの歌でつづる抒情悲劇の側面をもつといえるであろう。
 この『リチャード2世』は,『ヘンリー4世』2部作,『ヘンリー5世』と続いてイギリス歴史劇の第2・4部作をなすものである。先にふれた初期の第1・4部作(『ヘンリー6世』3部作と『リチャード3世』)と合わせて,これがシェイクスピアが書いた歴史劇の中核となる(ほかに『ジョン王』と『ヘンリー8世』がある)。2つの4部作が扱うのは,テューダー朝がヘンリー7世によって確立される以前の戦乱の一世紀で,フランスとの百年戦争の後半から,ヨーク家とランカスター家の血で血を洗う薔薇戦争を含む。エリザベス女王の時代には,イギリスは相対的に安定し,国威を高めつつあったが,これらの劇は自国の歴史を顧みようとする関心が強まったなかで,それを演劇の形で提出したものであるということができよう。そこでは政治的権力の性質,それをめぐって葛藤(かつとう)を繰り返す王侯貴族の野心と挫折(ざせつ),上昇と没落の悲劇,彼らと異なる価値観をもちながらも上層部の動きに引き回されて右往左往せざるを得ない民衆の姿などが,広い視野で劇化されている。権力闘争に直接従事するボリングブルック,反乱者のホットスパー,王子ハル,リチャード3世などの多彩な中心人物たち,また,それに劣らず,あるいはそれ以上に人間的魅力をそなえた脇筋の人物群——滑稽(こつけい)な天一坊(てんいちぼう)を思わせるジャック・ケイドや,とりわけ酒と女を好む肥満した老貴族フォールスタフなど——が登場して,パノラマ的な絵巻を繰りひろげる。歴史劇の主人公は結局イギリスそのものだと評する人もいる。
 この時期は,同時に,シェイクスピアが喜劇の分野で充実を示した時期でもあった。先に述べた『夏の夜の夢』を皮切りに,『ヴェニスの商人』『空騒ぎ』『お気に召すまま』『十二夜』などの代表作を出している。これらは〈ロマンティックな喜劇〉と呼ばれることもあるように,ほとんどの場合,当時の社会的現実から隔たった物語の環境——地中海世界,とりわけイタリアが多いが,もちろん,現実のそれらの場所ではない——に設定される。そのうえで,そこに美しく才気煥発(かんぱつ)な若い女性(ポーシャ,ベアトリス,ロザリンド,ヴァイオラなど)が登場して中心的な活躍をする。彼女たちが多く男装をして,国元を離れ,森の中などの非日常的な場所へ出かけ,さまざまな取り違えの混乱を含む事件を経験したのち,障害が解消して,恋する男性と結ばれるという筋立てのものが多い。若い世代が古い世代を説得,慰撫(いぶ)して,自らが結婚の祝宴というゴールに到達する劇だと図式化することもできよう。悲劇が時間に支配されて死へ向かう人間の相を呈示するとすれば,喜劇は時間からの一時的超越,あるいはその願望の相を示しているともいえよう。脇には,祝祭の気分に影を落とすようにたたずむ人物(シャイロック,ドン・ジョン,ジェイクィーズ,マルヴォーリオなど),また,華やいだ雰囲気を増幅するようなおかしみを発散する人物(ボトム,ドグベリー,道化たちなど)が配されている。全体として,若々しい抒情性,あふれるばかりの活力,豊かな言葉,のびやかな空想,演劇と現実との関係の深々とした捉え方,一抹の哀愁など,のちの悲劇も凌駕(りようが)できない独特の魅力をもっている。
(3)しかしシェイクスピアは1600年ごろから悲劇への傾斜を示しはじめる。悲劇のジャンルに属する戯曲が多く書かれるようになったというだけではなく,この時期の喜劇においては,登場人物が直面する問題の性質やその取り扱いに深刻味が増し,その結果,劇は形式的には喜劇的な結末を迎えても,第2期の喜劇のような充実した満足感を必ずしも観客に与えず,ある種の後味のわるさを残す。『尺には尺を』や『終わりよければすべてよし』などがそうである。そのため,これらの劇は〈暗い喜劇〉とか問題劇などと呼ばれることもある。このようなことになったのは,作者がこの時期に人間を一面では悪への誘いに屈服しやすいもろさをもつものとして,その相から劇の世界を形作っていこうとする姿勢を強めているからだと感じられる。なぜそうなったかについては,時代の社会的状況や作者個人の環境などからさまざまな説明が試みられてきたが,いずれも満足のいくものではない。あるいは同じ喜劇の枠内でも晩年の劇に通じる方向が模索されているということも考えられる。
 ともかく,この時期に彼が通常の人物よりも身の丈の大きな英雄を主人公とする悲劇を,集中して書きはじめたという事実がある。それは,『ハムレット』『オセロー』『リア王』『マクベス』のいわゆる四大悲劇を中心とし,その前後にプルタルコスの『対比列伝』から材料をとったローマの貴族たちの悲劇——『ジュリアス・シーザー』『アントニーとクレオパトラ』『コリオレイナス』など——をもつ作品群である。これらの悲劇はそれぞれが独特であって,一般的な特徴を取り出すことは困難であるが,イギリス歴史劇のように当時の現実社会から比較的近い過去に起こった出来事を材料とした劇と比べると,ローマ悲劇は同時代のイギリス人によく知られていたという意味で中間的な距離を隔てた歴史上の事件を劇化したものであるのに対し,四大悲劇は『オセロー』を除けば,歴史といっても伝説の中に神話のように茫漠(ぼうばく)と沈む世界の人間行動の軌跡であり,『オセロー』に至っては,もともと物語の世界に属する材料であったというような区別はできよう。別の言い方をすれば,ローマ悲劇の人物たちは,具体性がより稠密(ちゆうみつ)な環境の中で行動するため,劇が政治的・社会的色彩を強く帯びているのに対し,四大悲劇では人物がより抽象的な空間の中で,より儀式的,より原型的な動きを見せる。『ジュリアス・シーザー』では,シーザー(カエサル)を暗殺すべきか否かで公的義務と私的感情のあいだを揺れたあげく,行動に踏みきるブルータスの姿が,個人と政治の両面から,いわば政治倫理の問題として劇化される。他方,『マクベス』においては,魔女のそそのかしによる王殺害の思いつきから実行にいたる過程,実行後その行為が当の人間にどのような恐ろしい結果を引き起こすかが,個人の心の問題として造型され,スコットランドの具体的政治状況は視野には入っているが,劇的関心の中心部にはなっていない。
 大まかに例示すれば,このような相対的差異を含んではいるが,これら悲劇においては,主人公たちは何かのきっかけから人並みはずれた激しい情念の狂熱に陥り,孤独な苦闘の果てに滅びていく。周囲の世界は,主人公の死後に生き残るが,その平和な世界は色褪(あ)せたものに感じられる。(4)晩年の数年間に,作者は,ロマンスの筋立てをもつ悲喜劇に観客の好みが移ったことを一面では反映して,そのような傾向の劇を書いている。『ペリクリーズ』以下,『シンベリン』『冬の夜ばなし』『あらし』がそれで,フレッチャーとの合作による『二人の血縁の貴公子』もそこに加えてよい。このジャンルの劇の構造は,前半部で悲劇的事件が起こり,そのために主人公の家庭は離散するが,放浪の果てに再会と和解がなり,めでたい結末を迎えるというパターンをとることが多い。例えば,『冬の夜ばなし』では,前半でシチリアの王が自分の妃(きさき)ハーマイオニと友人のボヘミア王が不倫の関係にあるのではないかと妄想し,生まれたばかりの女児を捨てさせ,妃を死に至らしめるが,直後に自分の非を悟る。後半は前半から16年の歳月が経過したことになっていて,そのあいだ贖罪(しよくざい)の生活を続けてきた王が,ボヘミアで羊飼いに拾われて美しく成長した娘と,実は生きていた妃に再会し,友人のボヘミア王とも和解し,娘は彼の息子と結ばれるという締めくくりとなる。『あらし』の場合は,シェイクスピアには珍しく三一致の法則に合致した劇であるが,上のような一般的構造の後半部にあたる地中海の孤島での事件に劇を凝縮し,前半部は回想で処理したのだとみることができよう。これらの劇では,この時期に宮廷でさかんに行われた仮面舞踏劇の趣向が取り入れられたり,魔術(プロスペローなど)や,死んだと思われていた人物のよみがえり(ハーマイオニや『シンベリン』のイモジェンまたはイノジェンなど)のようなロマンスの素材が取り入れられて,演劇的な効果を狙(ねら)っている。1590年代の喜劇との違いとしては,前半の悲劇性がより深刻なものであること,それに対応して後半の解決に宗教的法悦に近いしみじみとした味があること,特に父親の立場に力点がおかれ,親子関係の回復のテーマ(プロスペローとミランダ,ペリクリーズとマリーナなど)が大きな比重をもつことなどが挙げられよう。やがて引退しようとする大劇作家の晩年を特に感傷的に見るべきではなかろうが,これらロマンス劇には諦観(ていかん)と寂寥(せきりよう)が微妙に忍びこんでいる。
〔シェイクスピア劇の一般的特徴〕
 以上劇作の軌跡を略述したが,彼の劇全体に共通していえることをまとめてみる。
(1)台詞はブランク・ヴァース(1行が弱強5詩脚10音節からなる無韻詩)と呼ばれる詩型で書かれている。これが量的に全体の約7割を占める。これは比較的制約の少ない自由な詩型である。韻文の台詞としては,ほかにもっと制約の多い詩型が用いられている場合もあるが,それは初期の劇か,劇中に挿入された歌や劇中劇の部分,あるいは場を締めくくる際の対句表現などで,そこでは当然様式性が強くなる。残りが散文の台詞で,これは,主として低い社会階層の人物の口にする言葉として,あるいは喜劇的な部分(笑劇的な部分のみでなく,上層階級の人物の機知に富む応酬とか,ハムレットのように狂気に陥っていることを示すような場合)にも用いられる。また,劇中で読み上げられる手紙や布告文なども散文であることが多い。いずれにしても,シェイクスピア劇は台詞が大きな比重を占める演劇であり,異なったリズムの台詞を駆使して様式性の度合いにさまざまな変化をつけている。翻訳ではわかりにくいが,この点はシェイクスピア劇が,もっぱら散文の対話からなる近代の写実的演劇と異なる点で,日常的現実に近い場面から寓意(ぐうい)的・象徴的な部分にいたるまで,幅広い音域で織りなされた構築物であることを台詞の面からも示す特徴である。
(2)イギリス演劇の伝統に立つ特徴として,劇ジャンル間の流動性,弾力性が挙げられよう。筋立てが多くの場合,複数である。古典主義理論における時,場所,アクションの単一性を求める,いわゆる三一致の法則は無視されるのが普通である。喜劇においても悲劇においても,まじめで深刻な部分と笑いを誘う陽気で滑稽な部分が共存することが多い。したがって劇ジャンルの区別は相対的にすぎないといえる面をもつ。筋の複数性は当然感情やヴィジョンの複数性を内包している。古典劇におけるような感情のレベルの統一というよりは,むしろさまざまな緊張度の場面の交錯にその特徴があり,それが多面的な印象を作りだす。ここからシェイクスピア劇が人間ないし世界を幅広くその複数性において捉えているという感じが出てくる。
〔詩作について〕
 量的にはさほど多くない詩作品のうち,2編の物語詩,『ヴィーナスとアドーニス』および『ルークリースの凌辱(りようじよく)』は,当時流行した短い叙事詩の伝統を受け,神話とローマ史に材料を得て,性愛と潔癖,情欲と貞淑の葛藤をつづったものである。これらは当時の若い知識人層に人気を博したが,彼の残した最大の詩業はなんといっても154編からなる『ソネット集』である。1609年に刊行されているが,それより先1590年代に大半が書かれたのではないかと考える学者が多い。この点を含めて,この作品は多くの謎(なぞ)に包まれていて,さまざまな研究批評を誘発してきた。最初の126編は詩人と美しい青年との愛を,127~152番は色の黒い女(ダーク・レディー)との愛欲を歌っているが,これが実生活の反映を含んでいるのか,それとも恋愛詩の伝統に立つ虚構であるのかという根本的な見方の対立を中心にして,前者だとすれば,それが何を反映しているのか,献呈の辞に出てくる〈ダブリュー・エイチ氏〉Mr. W. H.とはだれなのか(そもそも献呈の辞の文法構造はどうなっているのかという点にまで議論がある),美しい青年と詩人との〈愛〉はどのような性質のものなのか,後者の立場をとるとしても,各ソネットの配列順序をそのまま受け入れるかどうかなど多数の論点がある。これらの問題は実証的な根拠が存在しない以上,完全な解決をみることは難しいのであろう。ただ,このことは,『ソネット集』が詩作品としてこのような論議を引き起こす力をもっていることを間接に示しているのである。ここには迷い,疑惑,情欲の泥沼に浸りながら,なおかつ永続する愛を願う生身の人間の心の様態が多様で複雑な表現によって語られている。
〔近年の上演および批評研究〕
 シェイクスピア劇の上演や批評はイギリス本国では約400年の,他の欧米諸国では約200年,日本でも100年に及ぶ歴史をもつ。それらの全体については項目を挙げるだけでも膨大なスペースを要するので,ここでは20世紀に入ってからの,それもごく大まかな,略述にとどめざるを得ない。
(1)上演——イギリスにおけるシェイクスピア劇の上演は20世紀に入ってから,それまでになかった2つの特徴を示している。1つは,18,19世紀においては,立役者が同時に劇団の主宰者あるいは劇場経営者として公演を主導するのが普通であった(デイヴィッド・ギャリック,ヘンリー・アーヴィングなど)のに対して,20世紀になってからは演出家の理念に俳優が名優といえども従って上演するという傾向になったということである。また,他の1つは,エリザベス朝時代の劇場や劇団のあり方に関する研究が進んで,当時の上演の姿についての見当がある程度ついてくるにつれ,それと同じではないが等価なものを作り出して,シェイクスピア劇の真価を舞台に表現しようとする試みが行われるようになったことである。この2つの特徴を20世紀初頭において代表したのは,グランヴィル=バーカーで,比較的簡素な装置を用い,衣装の時代的制約を排除し,場面転換を早めることによって劇に連続性をもたせ,俳優にはあまり削除しない台詞をスピーディーにしゃべらせるという20世紀の上演法の基礎を定めた。このうち,時代設定の自由化は1920年代のバリー・ジャクソンの現代版上演に,また速い台詞まわしは1930年代のハーコート・ウィリアムズのオールド・ヴィック劇場における上演などに引き継がれていく。もっとも,演出家が登場したといっても,もちろんスターがいなくなったわけではなく,20世紀を代表するシェイクスピア役者としてジョン・ギールグッドとローレンス・オリヴィエが名声を確立したのも1930年代である。また,第二次大戦前後に活躍したドナルド・ウルフィットのように立役者兼座長というタイプは残っていた。しかし全体としては演出家が自己の方針の下に舞台を構成していくことが常態となってきた。第二次大戦後の演出家としては,グレン・バイアム・ショー,マイケル・ベントール,ピーター・ブルック,ピーター・ホール,ジョン・バートン,トレヴァー・ナンなどがいる。ベントールを除くと,彼らは少なくとも一定期間はロイヤル・シェイクスピア劇団のために演出をしたが,それぞれ上演史に記憶される名舞台を作った(1つだけ挙げるとすれば,1970年初演のピーター・ブルック演出『夏の夜の夢』であろうか)。それらはそれぞれの時期に日本の演劇人に刺激を与え,単にシェイクスピア劇に目を開かせただけでなく,演劇のあり方についても強い影響を与えたといってよかろう。
 日本では1885(明治18)年以来,翻案による上演や特定の場面だけの上演の時期を経て,20世紀に入ると,翻訳によるある程度本格的な上演が徐々に行われるようになった。第二次大戦前までの期間に,坪内逍遥(しようよう)の全訳が果たした役割は大きかった。戦後1946年に帝国劇場で行われた土方与志(ひじかたよし)演出による『夏の夜の夢』が暗い戦争の後にもたらした喜びはさぞやと思われるが,画期的だったのは1955年の福田恆存(つねあり)訳・演出による文学座の『ハムレット』で,これは当時のイギリス本国での上演を取り入れた斬新(ざんしん)なものであった。その後約15年,福田訳のシェイクスピア劇が日本における代表的な公演であった。1970年代に入ると,ロイヤル・シェイクスピア劇団が数回にわたって来日して優れた公演を行い,日本の演劇界に波紋を投じたが,それとほぼ時期を同じくして,小田島雄志(おだしまゆうし)が全訳の仕事にとりかかり,1980年に完成した。これにより,1970年代後半から80年代にかけて,福田訳や主として俳優座の用いる三神勲(いさお)訳とともに,新しい世代の日本語感覚をもつ小田島訳が多くの上演に用いられるようになる。この時期の多彩な公演の中で,記録的には,劇団シェイクスピア・シアター(出口典雄(のりお)演出)の全戯曲上演(1975.5−81.6)は特筆すべき壮挙であった。
(2)批評研究——近年のシェイクスピア劇についての批評研究は,1960年代以降新たな展開を示している。20世紀の初めには,A. C.ブラッドリーの『シェイクスピアの悲劇』に代表されるような登場人物の性格に関心の重点をおく傾向が支配的であったあとを受けて,1930年代からの約30年間は,劇というものを詩的言語によって構築され,自己完結した一つの大きな暗喩(あんゆ)として捉え,その主題やイメジャリーを分析するという,新批評の考え方と共通する流れが強かった。そこからさらに,劇の構造を重視して,登場人物をその構造の関係性に規定されるものとして捉える考え方(神話批評とも呼ばれ,やがては構造主義にも通じていく)が出てくるが,それはあくまで非歴史的な立場に立つもので,その点新批評の立場と共通していた。
 1960年代に入ると,戯曲は上演用台本なのであるから,シェイクスピア劇は劇場経験として捉えるべきであるという,ある意味で当たり前な考え方が戻ってきた。そのうえで,劇場経験を基礎におきながらも,歴史的な立場と非歴史的な立場は相変わらず対立し続けることとなった。歴史的な立場は,初め,エリザベス朝で実際に戯曲がおかれた位置,上演の諸条件,観客層の分析といった研究の洗い直しという形をとった。それは,やがて,劇のテクストを時代の社会的・政治的・文化的コンテクストと切り離せないものとして,コンテクストを劇の背景ではなく,劇に内在して意味を形成するものとして考えるニュー・ヒストリシズムの主張となっていく。これはマルクス主義の立場から劇を分析する文化唯物論の立場にもつながっている。他方,非歴史的な立場は劇の経験を観客の意識に現象するものとして捉える受容理論(読者反応論)の立場,あるいは劇場で生じることを記号論的に把握しようとする立場,またシェイクスピア劇にディコンストラクションの手法やフロイト以後の精神分析の手法を適用して新しい見方を切り開こうとする立場などがある。そして,両者にまたがるものとして,フェミニズムの観点からシェイクスピア劇の読み直しを行おうとする批評(フェミニズム批評)もさかんである。
 文献学的研究もこのような潮流と無縁ではない。20世紀前半に飛躍的に発展した書誌学や本文批評の成果をふまえて,戯曲を単に文字で表現された文学としてではなく,演劇の台本としていっそうダイナミックに捉えようとする立場が顕著になってきている。その一つの結果が1986年に刊行されたオクスフォード版一冊本全集で,そこでは定本の概念に対して基本的な洗い直しが行われた結果,例えば『リア王』については2種類の本文が収録されるというようなことが生じている。
(柴田稔彦)


日本大百科全書(ニッポニカ)

シェークスピア
しぇーくすぴあ
William Shakespeare
[1564―1616]

イギリスの詩人、劇作家。世界演劇史を通じて最大の劇作家、イギリス文学史を飾る大詩人といわれており、18世紀以来シェークスピア学という独立した学問が発展し、イギリスにおいては、あらゆる批評原理のテスト・ケースとして用いられており、イギリス劇壇にあってはシェークスピア劇は俳優の登竜門となっている。また、全世界を通じて、つねに観客から歓迎を受けている事実も驚異の的となっている。

[小津次郎]

生い立ち

イギリス・ルネサンスの頂点をなすエリザベス1世治下のイングランドの中部地方、ウォーリックシャーのストラトフォード・アポン・エイボンで、シェークスピアは生まれた。父は皮革加工業を主として、農作物や毛織物の仲買業を営んでいた。母は近在の豪農の出身であった。父は1568年には町長に選出され、シェークスピアは裕福な市民の長男として幸福な幼年時代を送り、町のグラマー・スクール(文法学校)に学んだが、彼が13歳のときに父の没落が始まり、大学へ進むことは許されなかったと思われる。18歳にして8歳年長のアン・ハサウェーAnne Hathaway(1556―1623)と結婚し、6か月後の1583年5月に長女スザンナSusanna(1583―1649)が誕生、さらに1585年2月にはハムネットHamnet(1585―1596)とジューディスJudith(1585―1662)という男女の双生児が生まれた。シェークスピアの少年時代についてはまったく記録を欠いており、演劇との結び付きも不明であるが、町の有力者の子弟として観劇の機会には恵まれていたと思われる。ロンドンに出た事情や年代についても不詳であり、近郊の豪族ルーシー家の鹿 (しか)をいたずら半分に盗んだのが思いがけない醜聞となったので郷里を去ったという伝説もあるが、もとより確実な証拠はない。なんらかの理由でロンドンに出たのち劇団に加入したのか、すでに俳優として多少の経歴をもってから劇団とともに上京したのかはわからないが、ロンドンにおける俳優としての生活は1580年代の末ごろに始まっていたらしく、1592年には新進の演劇人として評判が高かったことを示す資料が残っている。

[小津次郎]

習作時代

シェークスピアの劇作活動がいつから始まったのかは不明確であるが、多くの学者は1590年ごろと推定している。おそらく最初は先輩作家の戯曲に部分的改修を加える助手的作業であったと思われるが、やがて彼自身の作品とよびうる戯曲を発表するようになった。その意味で歴史劇『ヘンリー6世』三部作(1590~1592)を彼の処女作と考えることができよう。その続編ともいうべき同じく歴史劇『リチャード3世』(1593)は、彼の生きていたエリザベス朝イギリスに至大の影響を与えたヨーク、ランカスター両家のばら戦争(1455~1585年のイギリスの内乱)の最終段階を描いたものであるが、主人公リチャード3世の創造は注目に値する。また、ローマの喜劇作家プラウトゥスからの翻案ともいうべき『まちがいの喜劇』(1593)や笑劇(ファルス)『じゃじゃ馬馴 (な)らし』(1594)、当時人気の絶頂にあった流血悲劇の線に沿ったローマ史劇『タイタス・アンドロニカス』(1593)などが初期の作品群を形成している。いずれも習作であり、先輩の模倣や稚拙な部分が残ってはいるが、大作家の萌芽 (ほうが)はすでにこのころ現れている。

[小津次郎]

劇壇の再編成

1592年から足掛け3年にわたって、ロンドンに流行したペストのため劇場は閉鎖された。シェークスピアはその間に2編の叙事詩『ビーナスとアドニス』(1593)、『ルークリース凌辱 (りょうじょく)』(1594)をサウサンプトン伯Henry Wriothesley, 3rd Earl of Southampton(1573―1624)に献呈してその知遇を得た。1594年に内大臣の庇護 (ひご)を受けた劇団(ロード・チェンバレンズ・メンthe Lord Chamberlain's Men)が誕生し、彼は幹部座員として参加することとなった。劇場閉鎖の結果ともいうべきロンドン劇壇の大規模な再編成は、シェークスピアのような新進劇作家にとって有利な情勢をつくりだしていた。彼は終生この劇団のために戯曲を書くことになるが、最初の作品群は悲恋の運命悲劇『ロメオとジュリエット』、詩人肌で自己陶酔的な国王が数々の受難を経て悲劇の主人公に成長してゆく過程を描いた歴史劇『リチャード2世』、アテネ郊外の夜の森を舞台に幻想的な世界をつくりだしたロマンチックな喜劇『真夏の夜の夢』である。いずれも1595年ごろの作品で、叙情性が共通した特色となっているが、単に情緒的な作品ではなく、シェークスピア劇の大きな特色である人間観察の鋭さはすでに現れている。

[小津次郎]

フォルスタッフの創造

しかし人間への洞察が行き届いてくるのは次期の作品群である。1590年代の後半は主として歴史劇と喜劇を書いているが、前者の代表作は『ヘンリー4世』二部作(1598)であろう。リチャード2世から王位を奪うことによって成立したヘンリー4世治下のイギリスという陰謀と混乱の暗い時代を背景に、放蕩無頼 (ほうとうぶらい)の生活を送る老騎士フォルスタッフは、ハムレットとともにシェークスピアの創造した性格のなかでもっとも興味あるものとされているが、ハル王子と手を組んでの乱行ぶりは、道徳的には非難に値するが、その絶大なる人間的魅力によって、18世紀以来ハムレットとともにシェークスピア性格論の中心となってきた。またこの時期の代表的喜劇の一つである『ベニスの商人』(1597)は、甘美な恋愛喜劇のなかに強欲なユダヤ人の金貸し業者シャイロックを登場させているが、作者は社会通念に従って彼に悪人としての運命をたどらせながら、しかも少数被圧迫民族の悲しみと憤りを強く訴えさせて、人間への温い目と公正な社会観察眼を感じさせる。

[小津次郎]

名声の確立

内大臣一座は順調な発展の道をたどってイギリス第一の劇団となり、シェークスピアの名声も確立した。1596年には長男を失うという不幸があったが、同年秋には父親のために紋章着用権を取得し、1597年にはストラトフォードの大邸宅ニュー・プレイスを購入するなど、経済的にも成功者であったことを示している。また内大臣一座の最大の弱みであった劇場問題も、多少の紆余曲折 (うよきょくせつ)があったとはいえ、1599年にテムズ川南岸にグローブ劇場(グローブ座)を建設して、同劇団の常打ち劇場とすることができた。このころにシェークスピアの創作力もほとんど頂点に達したかの感がある。『お気に召すまま』(1599)は、アーデンの森を舞台に、宮廷を追われた公爵と家臣の田園牧歌的な生活を背景に、若い男女の恋愛をロマンチックに描いた喜劇で傑作の名に恥じないが、憂鬱 (ゆううつ)屋のジェイクイーズを登場させて、この世界にも陰があることに言及させることを忘れてはいない。次の喜劇『十二夜』は1600年ごろの作品で、おそらくは宮廷での上演を目的として書かれたものであろう。シェークスピア最高の喜劇として評判が高い。全体としてロマンチックな香気に満ちているが、優雅な主筋と活気に富んだ脇筋 (わきすじ)のみごとな調和が成功の一因をなしている。

[小津次郎]

四大悲劇の誕生

これと前後してシェークスピアはローマ史から取材した悲劇『ジュリアス・シーザー』(1599)を書いているが、これから数年を彼の「悲劇時代」とよぶ批評家もいる。『ハムレット』(1601)、『オセロ』(1604)、『リア王』(1605)、『マクベス』(1606)と並ぶいわゆる四大悲劇はこの時期に集中している。それぞれに素材も異なり、扱い方も一様ではないから、四大悲劇について総括的に語ることは不可能であるが、いずれも外見と内容、仮象と真実の食い違いに悲劇の楔 (くさび)を打ち込み、真実を獲得するためには最大の代償を支払わねばならぬかにみえる人間の壮大な悲劇的世界を提出し、死との関連において人間的価値の探究を試み、世界演劇史上最高の悲劇をつくりだしている。しかしこの時期にシェークスピアが創作したのは悲劇のみではなく、『終りよければすべてよし』(1602)や『尺 (しゃく)には尺を』(1604)などの喜劇もある。いずれも結末は喜劇的ではあるが、筋書きの強行による不自然な結果であり、全体として作品に暗い影がさしており、モラルについても混迷がみられるところから、「問題喜劇」という名称を与える批評家もいる。この時期の最後を飾る悲劇は『アントニーとクレオパトラ』(1607)であるが、ほぼ同じころに執筆された忘恩をテーマとした『アセンズ(アテネ)のタイモン』(1607)は、未完成ではないかと疑わせるほどに悲劇形式に対する困惑が認められる。

[小津次郎]

ロマンス劇の流行

1603年にエリザベス1世が死去し、スコットランドからジェームズ1世が迎えられると、内大臣一座は国王の庇護 (ひご)を受けることとなり、国王一座(the King's Men)と改称したが、このころからイギリス演劇にも変化が生じ、観客の嗜好 (しこう)も移ってきた。巨大な主人公を中心とする激しい感情の劇から、家庭悲劇、風刺喜劇、感傷的な悲喜劇、あるいはデカダンスの悲劇へと様相を転じてきた。この傾向に応ずるため国王一座は1608年、従来のグローブ座と建築様式を異にし、入場料も高く、比較的裕福な観客層を対象としたブラックフライヤーズ座を傘下に置いた。劇団のそうした経営方針とおそらく無関係ではなかったと思われるが、シェークスピアの作品も1608年ころから新しい傾向を帯びるようになる。それはロマンス劇とよばれる悲喜劇で、『冬の夜話』(1610)や、シェークスピア最後の単独作である『テンペスト(あらし)』(1611)はその代表作であるが、一家の離散に始まり再会と和解に終わる主題は、シェークスピアがかならずしも時流に従わず、彼独自の世界を展開していることを示している。

[小津次郎]

最高の韻文芸術

シェークスピアの全戯曲37編のほぼ半分は彼の生前に出版された。また、創作年代不明の『ソネット集』も1609年に刊行され、イギリス・ソネットの精華として高く評価されているが、自伝的要素を含む可能性もあり、興味の尽きない作品である。戯曲全集は彼の死後1623年に、かつての俳優仲間ジョン・ヘミングJohn Heminge(1556―1630)とヘンリー・コンデルHenry Condell(?―1627)の編集によって刊行されたが、一般に「ファースト・フォリオFirst Folio」と呼び習わされている。シェークスピアは晩年の数年間は郷里で家族とともに過ごしたと思われるが、満52歳をもって死去した。死没の日は4月23日であるが、誕生日も4月23日前後と推定されるので、この日がシェークスピアの記念日とされている。彼の芸術は演劇という媒体を通じて人間内面の世界をほとんど極限まで追求したものであるが、最高の詩的表現に満ちた韻文が主体であることも大きな特色となっている。

[小津次郎]

日本への影響

日本へは明治初期に紹介され、いくつかの翻案が行われたが、翻訳としては坪内逍遙 (つぼうちしょうよう)による『ジュリアス・シーザー』の訳『自由太刀余波鋭鋒 (じゆうのたちなごりのきれあじ)』(1884・明治17)が刊行されたのが最初である。逍遙は1906年(明治39)に文芸協会を設立し、シェークスピア上演に意欲を燃やしたが、協会の解散によってこの機運も消え、その後はときに好演もあったが、シェークスピア上演は概して低調であった。しかし第二次世界大戦後は福田恆存 (ふくだつねあり)の訳ならびに演出による劇団「雲」の公演活動によってふたたび活発化し、小田島雄志 (おだしまゆうし)(1930― )の新しい現代語訳が刊行され、出口典雄 (でぐちのりお)(1940―2020)の主宰する劇団「シェイクスピアシアター」は全作品を上演するなど、いまやシェークスピアは日本の読者、観客にとって身近な存在となった。また学者や愛好家を中心として1929年(昭和4)に設立された「日本シェイクスピア協会」は、純然たる学術団体として1961年(昭和36)に再組織され、英文による研究論文年刊誌『シェークスピア・スタディーズ』刊行などの研究活動を行っている。

[小津次郎]



世界大百科事典

シェークスピア
William Shakespeare
1564-1616

イギリスの詩人,劇作家。シェークスピアを単に〈時代を超えた天才〉とみなすのは正しくない。彼の作品がもつ普遍性は,彼が生きた歴史的状況のなかで彼をとらえなおすことでいっそう明らかになる。たとえば彼の創作活動はロンドンという当時のヨーロッパ最大の都市においてのみ可能だったのであり,彼の演劇は最初の本格的近代都市文化の華だった。膨張する人口,とくに知的好奇心の旺盛な市民層の増大が,グローブ座の観客動員数を保証したばかりではない。都市化にともなう人間性の暗黒面の露出も,劇作家の想像力を刺激した。市民文化と宮廷文化の接点にいたシェークスピアは,同時に,生い立ちからいっても都市文化と田園的自然の双方にかかわっていた。とくに中世的民衆文化のカーニバル(祝祭)性は,彼の演劇の基層をなしている。他方,ハムレットに見られるように,極度に洗練された近代的知識人の危機と不安をも,彼は射程にとらえていた。こうした境界性と多義性こそ,彼を現代にとっても興味尽きない作家にしている特質である。

 言語についても同様である。中世的秩序を破って急膨張したルネサンスの知的・世俗的エネルギーは,シェークスピアのブランク・バース(弱強五歩格無韻詩型)において,最良の言語的表現を見いだした。この詩型は彼の先輩が発明したものであるが,彼の手によって,猥雑な洒落から最強度の詩的燃焼まで,自在な振幅と転調を表現しうるまでに完成された。英語の歴史でいえば,中世的素朴さと近代的合理化のはざまに出現したこの言語的豊かさは,現代にいたるまで凌駕されたことがない。

 しかしシェークスピアが現代に対して最終的に啓示するものは何であろうか。焼失したグローブ座の入口には〈世はあげて俳優を演ず〉というラテン語が刻まれていたという。彼の作中人物も〈この世は舞台,人はみな俳優〉と語る。ダンテの《神曲(神聖喜劇)》におけるような,神という統一的視点から見られるドラマはすでに不可能であったが,そのことはかえって無限に複雑なしくみをもったドラマをシェークスピアにとって可能にした。《ハムレット》が典型的に示すとおり,演技と行動,役割と本心,実体と仮象,うそとまことなどが多様に響きあい戯れあうなかに,演劇によってしか開示しえぬ世界と人間のありようが浮かび上がる。孤立した自我,理性的言語,科学的真実などに対する近代的信仰の行きづまった現代において,シェークスピアを支えた,また彼が掘り下げた演劇的世界観・人間像はますますその魅力と重要性を増すように思われる。
[高橋 康也]

生涯

シェークスピアはストラトフォード・オン・エーボンの富裕な皮革商の長男(第3子)として生まれ,町のグラマー・スクールに学んだのち,青年時代の大半をそこで過ごした。1582年に8歳年上のアン・ハサウェーと結婚して翌年1女をもうけ,さらに2年後には男と女の双生児が生まれた。やがて故郷を去ってロンドンに出,演劇人の生活に入った。現存する彼の作品で最も早い時期のものは,2編の物語詩《ビーナスとアドニス》(1593)および《ルークリース凌辱》(1594)である。このころまでに彼はすでに新進の劇作家兼俳優として名を成していたとする証拠がある。94年に宮内大臣一座Lord Chamberlain's Menが結成されたとき,幹部座員としてそれに加わり,精力的に活動を続けた。彼の成功は97年に故郷に〈ニュープレース〉と呼ばれる大きな邸宅を購入したこと,また99年のグローブ座完成に際して劇場の所有主兼株主のひとりとして名が挙がっていることからも察せられる。1603年エリザベス女王の死とジェームズ1世の即位にともない国王一座King's Menと改称した劇団は次々に彼の円熟期の作品を上演し,彼は当代随一の人気と尊敬を集める作家となった。08年に劇団が完全屋内型劇場のブラックフライヤーズ座を入手する前後から,新しい劇場環境に合わせるかのように,作品に著しい変化が見られる。11年ごろからは故郷のニュープレースに住み,ときにロンドンに戻って共作の仕事に従事したと想像される。16年に没し,ホーリー・トリニティ教会に埋葬された。23年には劇団の同僚たちの手によって36編の戯曲を集めた全集が出版された。ほかに残された詩編が6冊あるが,なかでも,複雑でなぞめいた友人・男女関係をめぐって,さまざまに屈折した愛の心情を吐露した154編のソネットから成る《ソネット集》(1609)は,イギリス詩史を通じて最も高い芸術性をもつ傑作の一つとみなされている。

作品

現存する37編の戯曲の創作の順序およびその年代に関しては定説はないが,諸家の説を勘案すれば表に近いものになる。歴史劇の執筆に始まり,軽快な喜劇が多く書かれた第1期の作品は,ことば,筋,人物のいずれの面にも生硬さと陰影の乏しさが目だつが,若々しい感性のほとばしりがそれを補っている。ようやく自己の本領を発揮し始めた第2期には,結婚を終着点とするロマンティックなアクションを,風刺と諧謔によって多彩に色づけた喜劇を続けて創作し,歴史劇にも愛すべき悪党フォールスタッフの登場する喜劇的脇筋を構築した。他方,《ジュリアス・シーザー》などの作品にはすでに瞑想的な道徳家肌のブルータスと現実的な扇動家タイプのアントニーといったように,性格創造の内面化が見られる。第3期を代表するいわゆる四大悲劇はいずれも人間における美しい外面と醜い実相の背馳をあばき,善と悪,秩序と混沌の争いを描いた傑作である。中心人物たちは豊かに肉づけされ,彼らの情念はときに壮大に,ときにこまやかに詩的表現を与えられる。同じころに書かれた数編の〈問題劇〉(作品の意匠と意味が明確でなく,相反する解釈を生む風刺性の濃い喜劇)は,表面的には喜劇的結末をもつとはいえ,その底には〈悲劇〉に劣らぬ暗さが感じられる。最後の第4期を特徴づける〈ロマンス劇〉は,おおむね家族の離散から再会と認知そして和解に至るプロセスを筋にしくんだ一種の悲喜劇である。全体として象徴的道具立てとスペクタクル的要素に富む反面,寛容と許し,贖罪と復活がモティーフをなしており,そこに作者自身の人生に対する態度あるいは宗教的姿勢のあらわれを見取る向きもある。

批評・研究

シェークスピアの作品は,主知的で調和と規則性を重んじた17~18世紀の古典主義の時代には冷淡にしか扱われなかった。しかし,その後のロマン主義は一転して彼を深遠な哲学者,天才的な詩人として祭り上げることになった。このようなロマン主義批評はイギリスでは詩人批評家のS.T.コールリジによって先鞭をつけられるが,シェークスピアはヨーロッパとくにドイツにおいても偶像視されるようになる。ロマン主義批評は《シェークスピアの悲劇》(1904)の著者A.C.ブラッドリーによって集大成された。また,19世紀のシェークスピア批評は,W.ハズリットに代表されるいわゆる性格批評がその中心をなし,劇中人物の心理と行動原理が追究された。20世紀に入ると,こうした傾向に対する反動が強まり,一方においてアメリカのE.E.ストールやドイツのL.L.シュッキングらの歴史的実証主義に基づく研究,他方においてニュー・クリティシズムの一派による作品の詩的言語構造の精緻な分析に頼る批評が盛んになった。さらにJ.D.ウィルソンらの科学的書誌学の方法による本文研究や演出家H.G.グランビル・バーカーらの上演を念頭にしての演劇論的批評も発展をとげた。20世紀中葉以後は従来の諸方法に加えて,N.フライらの神話批評,F.ファーガソンらの構造論的批評,精神分析医E.ジョーンズらの精神分析的批評,記号論的批評などあらゆる派の批評がシェークスピアの作品を対象として取り上げるようになり,シェークスピア批評はすべての文芸批評の方法の合流点となった。

日本での受容

日本へは明治の初めごろに紹介され,いくつかの翻案がおこなわれたが,翻訳としては坪内逍遥が《ジュリアス・シーザー》を浄瑠璃風に訳した《該撒(シイザル)奇談 自由太刀余波鋭鋒(じゆうのたちなごりのきれあじ)》(1884)が代表的である。さらに逍遥は独力で全作品の翻訳に取り組み,1928年にそれを完成した。

 上演としては1885年大阪戎座での中村宗十郎一座による《ベニスの商人》の翻案《何桜彼桜銭世中(さくらどきぜにのよのなか)》が最初である。その後いくつかの作品がいずれも部分的に翻案によって上演されたが,1906年に文芸協会が設立されるに至って,逍遥訳による原作に忠実な上演が可能になった。
[笹山 隆] 明治期の劇壇はシェークスピア・ブームといってよいほどの活況を呈したが,それは彼の戯曲世界の物語的豊饒(ほうじよう)が,折から文明開化の時流に沿って新奇な題材を求めていた演劇界の要求にうまく適合したためと考えられる。同時に,彼のドラマトゥルギー自体〈歌舞伎と不思議な相似性を有して〉(坪内逍遥)いたため,舞台に取り入れられやすかったという事情もある。つまりシェークスピアは,他の西欧の文学者の場合とちがって,その思想性がもてはやされたのではなかった。この時期の移入がほとんど翻案の形をとっていたことからも,その辺の事情がうかがわれる。

 大正から昭和初期にかけて,演劇界の主流が,イプセンを皮切りに思想性を重んずる写実的な方向に転ずるにつれて,シェークスピアは時代に取り残された趣があった。文学への影響も,たとえば志賀直哉の《クローディアスの日記》(1912)など,《ハムレット》を題材にした二,三の創作があるが,これも素材となったというにすぎない。第2次大戦後の新劇復興とともにシェークスピアの戯曲はレパートリーの中に確実な位置を占めたが,まだ教養主義的な外面的摂取の域を越えることがなかった。

 その点,1955年の福田恆存訳・演出による《ハムレット》(文学座)上演は画期的な事件であった。近代心理主義からの絶縁を宣した福田は,シェークスピア劇に内在する行動のリズムを的確に把握し,〈人生を激しく演戯している〉演技者としてのハムレット像を造形してみせた。その後も彼は新訳と取り組み,現在翻訳は18編に及んでいる。近代劇リアリズムからの脱却は時代の要請であった。

 60年代後半に入って,演劇界は急激な前衛運動の波にさらされる。シェークスピアの巨大な劇的世界が,たとえば不条理劇をもくるみこむ強靱なドラマトゥルギーとともににわかに注目を集め,明治期を上回る第二のブームが現出した。逍遥以来のシェークスピア戯曲の完訳である小田島雄志訳(1973-80)は,シェークスピアを〈われらの同時代人〉としてとらえこもうとする風潮の中で生まれた。言葉遊びへの執着も,意味の古典的な絶対性に対する不信という今日的な認識に連なるものである。また上演では,出口典雄主宰のシェークスピア・シアターによる,全戯曲上演(1975-81)という快挙がある。
[大場 建治]

[索引語]
Shakespeare,W. グローブ座 ブランク・バース ハムレット ハサウェー,A. 宮内大臣一座 Lord Chamberlain's Men ニュープレース 国王一座 King's Men ソネット集 ジュリアス・シーザー コールリジ,S.T. ブラッドリー,A.C. ハズリット,W. 性格批評 坪内逍遥 該撒(シイザル)奇談 自由太刀余波鋭鋒 自由太刀余波鋭鋒 何桜彼桜銭世中(さくらどきぜにのよのなか) 文芸協会 志賀直哉 クローディアスの日記 福田恆存 小田島雄志
上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


シェークスピアの関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 1156
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. シェークスピア画像
日本大百科全書
おり、18世紀以来シェークスピア学という独立した学問が発展し、イギリスにおいては、あらゆる批評原理のテスト・ケースとして用いられており、イギリス劇壇にあってはシ
2. シェークスピア(William Shakespeare)画像
世界大百科事典
きづまった現代において,シェークスピアを支えた,また彼が掘り下げた演劇的世界観・人間像はますますその魅力と重要性を増すように思われる。高橋 康也 生涯 シェーク
3. シェークスピア
日本国語大辞典
(William Shakespeare ウィリアム─)イギリスの劇作家、詩人。人間世界のさまざまな悲劇・喜劇を描き、幾多の名作を後世に残した。作品としては、「
4. シェークスピア(年譜)
日本大百科全書
15644月26日、イギリスのストラトフォード・アポン・エイボンのホーリー・トリニティ教会で受洗(誕生日は4月23日か)1582アン・ハサウェーと結婚1583長
5. シェークスピア
世界文学大事典
→ シェイクスピア
6. シェークスピアズ・グローブ劇場[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
1599年当時のグローブ劇場を忠実に再現したという劇場。1997年開館。円形の建物は、舞台と客席以外に屋根のない野外劇場である。テムズ川南岸、サザーク地区にある
7. シェークスピア像[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
イギリスの劇作家シェークスピアの生地に建つ座像。イギリス ストラトフォード・アポン・エイボン©Shogakukan
8. シェークスピアの生家[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
チューダー様式の木造家屋で、内部には当時の暮らしが再現されている。訪れる観光客が絶えない。イギリス ストラトフォード・アポン・エイボン©Masashi Tana
9. シェークスピア物語
日本大百科全書
ルズ・ラムと姉メアリとの共同作品。1807年刊。子供が古典に近づく助けにしたい希望から、シェークスピアの劇作品中20編を選び、喜劇はメアリが、悲劇はチャールズが
10. シェークスピアものがたり【シェークスピア物語】
日本国語大辞典
チャールズ=ラム共作。一八〇七年発表。少年少女のためにシェークスピア全作品から喜劇一二編、悲劇八編を平易な短文に書き直し集成。シェークスピアモノ
11. ロイヤル・シェークスピア劇団
日本大百科全書
管下に収めて、シェークスピアだけでなく現代劇にも演目を広げた。1961年2月にエリザベス女王(2世)の勅許を得て劇団名をロイヤル・シェークスピア劇団(RSC)に
12. ローヤル・シェークスピア劇団
世界大百科事典
イギリスの劇団。1960年,シェークスピアの生地ストラトフォードのシェークスピア記念劇場の責任者であったP.R.F.ホールの計画によって恒久的劇団が結成され,翌
13. シェイクスピア[演劇]
情報・知識 imidas
エリザベス朝演劇を代表するばかりではなく、今日世界で最も親しまれているイギリスの劇作家(1564~1616)。ロンドンで最古の劇場The Theatre(後に
14. アウエーゾフ
日本大百科全書
ーズ建設を扱った多くの小説や戯曲のほか、カザフとキルギスの民間伝承の研究論文、ゴーゴリ、シェークスピアのカザフ語訳がある。叙事詩的長編小説『アバイ』2巻(194
15. アウエーゾフ(Mukhtar Omarkhanovich Auezov)
世界大百科事典
民族主義的偏向〉を公式筋から批判された。民間伝承に関する研究論文やゴーゴリの《検察官》,シェークスピアの《オセロ》などの翻訳もある。代表作は,19世紀カザフの民
16. アキーモフ(Nikolai Pavlovich Akimov)
世界大百科事典
《影》(1940)などE.シュワルツの戯曲を初演した功績は大きい。とっぴな戯画的解釈でのシェークスピアの《ハムレット》(1932),《十二夜》(1938)が有名
17. 悪魔の文化史 145ページ
文庫クセジュ
作家のジョン・ウエブスター。彼の作品はその濃密な悲劇性でシェークスピアを思わせる〔訳註〕。 (2) 一五七二~一六三七年:シェークスピアと並び称されることもある
18. 足/肢
世界大百科事典
ie at the proud foot)はかつてなかったし,今後もそうさせはしない〉(シェークスピア《ジョン王》)ともある。このように〈足下に伏す〉は権力に屈
19. アシュクロフト(Peggy Ashcroft)
世界大百科事典
イギリスの女優。1926年のデビュー以来,ジュリエット,デズデモーナ,ポーシャ,クレオパトラなど,シェークスピア劇のおもな女性役をはじめ,チェーホフ,イプセンな
20. アナグラム
世界大百科事典
単語とくに名前の綴りをばらばらにして新しく組みかえ,別の単語を作る遊び。結果的には〈字なぞ〉になる。シェークスピアの《テンペスト》のキャリバンCalibanはc
21. アプダイク
日本大百科全書
(1996)、米中戦争後のアメリカを扱った近未来小説『時の終りに向かって』(1997)、シェークスピアの『ハムレット』の前編ともいうべき『ガートルードとクローデ
22. アボット(George Abbott)
世界大百科事典
1887-1995 アメリカの劇作家,演出家。最も得意とするのは都会的なミュージカルで,シェークスピアの《間違いの喜劇》による《シラキュースから来た男たち》(1
23. アメリカ演劇
日本大百科全書
eph Papp(1921―1991)が設立したオフ・ブロードウェーの雄、ニューヨーク・シェークスピア・フェスティバル(パブリック・シアター)を率いるジョージ・
24. アメリカ彦蔵自伝 2 263ページ
東洋文庫
その霜やけを疹かせてるる」。 注   「世の中がせちがらくなった……」の    せりふは、シェークスピア「ハムレット」    五幕一場 一五二行。訳文は福田恒存
25. アメリカ彦蔵自伝 2 264ページ
東洋文庫
    「シェークスピア全集」より引用。 十二月十五日。伊藤伯爵は、軍艦浪速艦で入港した。同艦はここに停泊する予定と聞いている。その翌日、伯爵は日本郵船会社の蒸
26. 嵐が丘
日本大百科全書
または非難されたが、現在では、人間の愛憎をぎりぎりの極限まで追究した高度の芸術作品として、シェークスピアの『リア王』、メルビルの『白鯨はくげい』に匹敵する評価が
27. アラニュ
日本大百科全書
現代小説の兆しがみられ、晩年の『秋の花』(1877)は、時代の沈痛さと詩人の孤独感が影を落としている。シェークスピアの名訳と言語学の優れた研究もある。岩崎悦子
28. アラニュ(Arany János)
世界大百科事典
《トルディの夜》(1854),《トルディの恋》(1879)の三部作のほかにバラードも多く,シェークスピアの《ハムレット》等の翻訳も多い。岩崎 悦子 Arany
29. アルス・アマトリア
世界大百科事典
彼独特のものである。中世以降もよく読まれ,フランスの《薔薇物語》やイギリスのチョーサーやシェークスピアの作品にも影響を与えている。引地 正俊 Ars amato
30. アントアーヌ(André Antoine)
世界大百科事典
統一を回復した歴史的意義は大きい。97年にアントアーヌ座に移り,ルナールの《にんじん》やシェークスピアの《リア王》で成功。1906年から14年までオデオン座を主
31. アンドレーエ(Johann Valentin Andreae)
世界大百科事典
る分裂したヨーロッパの統一が寓されているという。そのためか2人の婚礼余興として上演されたシェークスピアの《テンペスト》をモデルにした劇中劇が,この小説の一節には
32. アービング(Henry Irving)
世界大百科事典
置や衣装を使ったシェークスピア劇を数多く上演し,女優エレン・テリーを相手役に得て自ら主役を演じた。芸風は型にはまっていたが,力強い動きによって観客を引きつけた。
33. アービング(Sir Henry Irving)
日本大百科全書
シアム劇場の経営権も手に入れ、名女優エレン・テリーを相手役にハムレット、シャイロックなどシェークスピアやテニソン劇の役柄で語りぐさとなる名演技を示し、1895年
34. アーン
日本大百科全書
れたものである。1759年にはオックスフォード大学の音楽博士となっている。多数のオペラ、シェークスピアなどの劇のための音楽、『アベル』(1744)、『ジュディス
35. イェーツ(Frances Amelia Yates)
世界大百科事典
)によりルネサンス期魔術(ヘルメス学)の哲学的役割を再検討した後,記憶術と宇宙観の結合をシェークスピアの常打ち劇場だった〈地球座〉の構造にまで探りあてた名著《記
36. 生きる
世界大百科事典
って作品を作る作家であるが,《白痴》がドストエフスキーの小説,《蜘蛛巣城》(1957)がシェークスピアの戯曲(《マクベス》),《どん底》(1957)がゴーリキー
37. イギリス画像
日本大百科全書
場人物)は、シェークスピアの創造した最高の人物といわれる。また端役として登場する道化たちの人生の知恵にあふれた滑稽こっけいな台詞せりふもこのことを裏書きする。 
38. イギリス
世界大百科事典
バランスを保って共存している。理論的にはこのような矛盾超克は不可能のはずであるが,現実にシェークスピアの作品を開いてみれば,いくらでもその実例を見いだすことがで
39. イギリス映画
日本大百科全書
レンス・オリビエ監督・主演の『ヘンリイ五世』(1945)、『ハムレット』(1948)は、シェークスピア劇の映画化に大きな成功を収め、またマイケル・パウエルとエメ
40. イギリス演劇
日本大百科全書
左右するような高揚を示した。その一つは、16世紀末から17世紀初頭にかけてのウィリアム・シェークスピアを頂点とするルネサンス(エリザベス朝)演劇の開花で、後年そ
41. イギリス演劇
世界大百科事典
足したローヤル・シェークスピア劇団が重要である。これはP.R.F.ホールを責任者とし,シェークスピアの生地ストラトフォードとロンドンとの両方で,現代的な演出によ
42. イギリス音楽
世界大百科事典
628)とフィリップスP.Philips(1561-1628)を挙げることができる。一方シェークスピア劇の人気とあいまって劇音楽も盛んとなり,マスクmasque
43. イギリス美術
世界大百科事典
なお〈アイルランド美術〉〈ケルト美術〉の項目も参照されたい。 イギリスは,文学においてはチョーサー,シェークスピア以後,大陸諸国と比較しても遜色ない逸材を生んだ
44. イギリス文学
日本大百科全書
自ら編纂へんさんした『シェークスピア全集』(1765)につけた序文は、古典主義全盛の世にあって、これと相いれぬ面を多分にもつシェークスピアの偉大さを認めた点で、
45. イギリス文学
世界大百科事典
招いたほどのシェークスピアの成功もありえなかっただろう。また,悲劇《ゴーボダック》(1561)において初めて戯曲に用いられたブランク・バース(弱強五歩格無韻詩型
46. い‐さい[ヰ‥]【偉才】
日本国語大辞典
偉材。*緑簑談〔1888〕〈須藤南翠〉前・発端「此の愛すべき恐るべき俊秀偉才の一少年は」*シェークスピアの本体〔1933〕〈菊池寛〉二「これは無論彼の偉才を証明
47. いずみ-もとひで【和泉元秀】
日本人名大辞典
昭和18年山脇和泉家の養子となり,和泉流19代をつぐ。平成3年和泉流現行254曲の完演を達成。シェークスピアの「じゃじゃ馬ならし」を狂言にしたてイギリスで上演す
48. イタリア映画
日本大百科全書
オスマン・トルコによるアルメニア人の虐殺を取り上げた『ひばり農園』(2007)に引き続き、刑務所内で囚人にシェークスピア劇を上演させる『シーザー死すべし』(20
49. イタリア演劇
日本大百科全書
業を続けて、その国の演劇の形成に多大な足跡をとどめた。さらに2世紀有半に及ぶその活動は、シェークスピア、モリエール、ゴルドーニなどへの影響にとどまらず、オペラ、
50. イタリア語
日本大百科全書
ミケランジェロ、科学のガリレイ、トリチェリなどの名をみれば、このことが知られる。さらに、シェークスピアの作品の半分はイタリアを舞台にしている。また、18世紀に完
「シェークスピア」の情報だけではなく、「シェークスピア」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

シェークスピアと同じ世界史上の人物カテゴリの記事
ナポレオン [改訳](文庫クセジュ ベストセレクション)
ナポレオン[改訳] 文庫クセジュ79 アンリ・カルヴェ著/井上 幸治訳 歴史・地理・民族(俗)学 第一章 ナポレオンの出身、青年時代 ボナパルト家 いま知られるところで、ナポレオンのもっとも古い祖先は、十五世紀末にあらわれたフランソワ・ボナパルトである。
マッカーサー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八〇 - 一九六四 アメリカ合衆国軍人、日本占領連合国最高司令官(昭和二十年(一九四五)―二十六年)。一八八〇年一月二十六日アーカンソー州リトル=ロックに生まれる。父親アーサー=マッカーサーは陸軍中将。一九〇三年陸軍士官学校卒業後
范寛(世界人名大辞典・世界大百科事典)
名:中正 字:中立(仲立)中国北宋の画家.華原(現,陝西銅川)の人.性格が温厚で度量が大きかったことから「寛」とあだ名されるようになったという.在野の山水画家で,天聖年間 [1023-32]には,なお在世していたとされる
イブン・スィーナー(世界人名大辞典・世界大百科事典)
イスラーム哲学者,医学者.ブハラ(現ウズベキスタン)でサーマーン朝のペルシア人官吏の子として生まれ,イスラーム,ギリシア,インドの諸学,特に哲学,医学,数学,天文学などを極めた.サーマーン朝の王子を治療して宮廷に出入りし
ウィリアム1世(世界人名大辞典・世界大百科事典)
1027(28)~87.9.9イングランド王 [1066/87].ノルマンディー公ロベール1世(悪魔公)(Robert I le Diable †1035)の庶子.父が没するとノルマンディー公ギヨーム2世(Guillaume II)となり [1035-87],ハロルド2世がイングランド王に即位する [66]と,先王エドワード(証聖王)による
世界史上の人物と同じカテゴリの記事をもっと見る


「シェークスピア」は人物に関連のある記事です。
その他の人物に関連する記事
ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
人物に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1900冊以上(総額850万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶