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十字軍

ジャパンナレッジで閲覧できる『十字軍』の世界大百科事典・日本大百科全書・文庫クセジュのサンプルページ

世界大百科事典

十字軍
じゅうじぐん
Crusade
Croisade[フランス]
Kreuzzug[ドイツ]

クレルモン会議(1095)で教皇ウルバヌス2世により宣言された第1回十字軍以来,チュニスで敗退した最終回(1270)まで何回かにわたって西欧キリスト教徒の軍団が行った中近東各地への軍事遠征。広義にはイベリア半島,イタリア,地中海の島々などをイスラムの支配下から解放する11世紀後半からの戦いや,公式遠征に数えられていない自発的民衆巡礼団の軍事行動および中近東の十字軍国家を起点とする近隣諸地域への進出行為などの総称とされ,13世紀末以降16世紀にまで続けられたキリスト教諸国民とオスマン帝国を中心とするイスラム諸勢力との戦い(1389年のコソボの戦,1526年のモハーチの戦など)をも十字軍の名でよぶ見方もある。

起源--十字軍運動

ヨーロッパのほぼ全域を渦中にまきこみ,数世紀にわたって持続した東方進出の気運は,その根元に社会経済的要因と精神的動機をもっている。まず数世紀間を周期とする気候変動の影響が11世紀中葉から現れた。日照時間の増大,気温の上昇,降水量の低下などによって,農業生産性は著しく高まり,それまで過疎状態にあった西欧の人口動態は密度・総計ともに爆発的に増加しはじめた(農業革命)。十字軍開始期には森林が切り開かれて,耕地面積は拡大し,より豊かな衣食住の条件が追求されるようになり,経済発展に対応する社会身分の流動性が見られた。農民の階層化,市民階級の新たな形成が始まり,とくに軍馬の飼育・所有を独占的に行った騎士階級の出現が西欧社会の特色をなすにいたった。このような富,知的教養,権力といったさまざまな面で上昇運動の活力を生み出した社会は,その内部エネルギーの膨張力によって対外進出を大規模に行い得る態勢を整えたことになる。

 他方,中世前半のキリスト教の発展と深化にともなう信心形態の変化は,神に人間の業(わざ)の最良最善のものをささげたいと念願する各種の営みを生み出した。ロマネスク芸術を駆使した大聖堂(カテドラル)の建設,修道院における霊的修練生活の普及,各地の聖所をめぐり聖遺物を崇敬する巡礼の流行などがその具体的表れである。さらに異教徒の住む諸地方への軍事的進出を正義の戦いとみなし,これを苦行として実践しようとする贖罪意識の高揚も重要な要素である。この精神的動機から西欧中世人の集団的心性の産物として,定期的に遠隔地の聖所へ向けて巡礼団を送る習慣が定着した。精神的指導者として聖職者(司教,司祭),修道士,民間説教師が付き添い,非武装の巡礼の護衛者として諸侯,騎士,歩卒の軍団が配属され初期の十字軍遠征隊が編成された。

公式十字軍の発動

エルサレムはユダヤ教,キリスト教,イスラムの共通の聖地であり,とくにキリスト教徒はこの都を〈キリスト受難〉の地として諸巡礼地のうち最高の聖域とみなし,その地のキリストの〈聖墳墓〉の解放を十字軍の最終目標にかかげた。このため中世の史料は十字軍を〈エルサレムもうで〉〈聖墳墓参り〉などと記録している。十字軍の発端となったのは,こうしたキリスト教徒の聖地や,聖地への巡礼が,1071年にエルサレムを占領したセルジューク朝やビザンティン帝国領であったアナトリアに侵入したルーム・セルジューク朝などトルコ系諸族によって圧迫・迫害されているという西方キリスト教国の認識であった。そして,ビザンティン帝国の対イスラム防衛戦争にノルマン人出身のシチリア遠征隊をはじめ西欧騎士の傭兵隊が導入されるようになると,ローマ教皇庁のビザンティン帝国救援政策が聖地解放のための企てとして具体化された。ピアチェンツァ会議(1095年3月)に列席したビザンティン皇帝アレクシオス1世Alexios Iの使節はイスラムによる被害を誇張し,東方正教会守護の緊急性を訴えた。教皇ウルバヌス2世はこの要請を受けいれて援助を確約したが,教皇の意図は次のようなものであったと推論される。(1)西欧における〈叙任権闘争〉の延長線上に,教会改革の促進と教皇権の皇帝権に対する優位確立をめざす運動を展開する。(2)西欧の封建諸侯,騎士の私闘を抑制する〈神の平和〉運動を勧奨し,彼らの軍事力を対異教徒戦争に転用する。(3)民衆運動として大流行をきたしている巡礼伝統を活用し,贖罪行為としての遠征参加を呼びかけ,彼らに物心両面の報酬を約束する。(4)教皇代理の資格をもつ高位聖職者を総司令官に任命し,東方正教会の教皇裁治権下への復帰(1054年以降分離)と中近東各地の占領予定地の教会管理権の復活をはかる,などである。1095年11月28日,教皇はこれらの内容をふくむと推定される〈十字軍宣言〉を公表し,フランスを中心とする西欧各地でこのアピールにこたえる遠征参加希望者の大集団が数組結成された。ここに〈贖宥(しよくゆう)〉(罪のゆるしに伴うつぐないの免除)という精神的特権を付与された武装巡礼団が公式十字軍として,2世紀余にわたって断続的に中近東各地へ派遣されることになった。

十字軍の構造,時代・地域区分,行軍ルート

アミアンの隠者ペトルスPetrusをカリスマ的指導者と仰ぐ北フランスとライン川沿岸地方の民衆約2万人が,自発的にエルサレム巡礼を目ざして結成した〈先発隊〉の出発(1096年7月)を最初として,公式・非公式,大小無数の武装・非武装の海外進出団体(単位集団当り数百人から20万人余)が続々として東方へ向かった。その構成員には,貴族的・政治的・侵略的性格の強い要素と,民衆的・宗教的・平和的性格を示す要素とが混在する〈二重構造〉が見られ,十字軍の全期間を通じてこの複合性は持続された。史料が十字軍参加者を〈巡礼たち〉と総称しているのはこの事実を示している。十字軍士はつねに勇猛な戦士と敬虔な使徒との両面を兼ね備えていたのである。

 公式十字軍をその戦略的側面から時代区分すると次の4段階となる。(1)初期十字軍 11世紀末~12世紀末,エルサレム王国(1099-1187)建設期とその攻勢的防衛期。(2)中期十字軍 13世紀前半,占領地の守勢的維持期。(3)末期十字軍 13世紀後半,占領地の全面的喪失期。(4)〈後の十字軍〉期 14~16世紀,東地中海からの後退期,〈大航海時代〉への転換期。また狭義には第3段階の1291年アッカー(アッコ)陥落をもって十字軍時代の終末と見なす説もある。

 十字軍の舞台となった地域は,(1)北欧をふくむ西欧諸国,西地中海など十字軍運動の策源地。(2)東欧諸国,アナトリア(小アジア),東地中海など遠征ルートの途上地域。(3)シリア・パレスティナ,ヨルダン,キプロス島など十字軍国家の直轄領域。(4)エジプト,チュニス,ロードス島,マルタ島などの外縁地域とに区分され,初期・中期十字軍は(1)~(3)の地域に,末期および〈後の十字軍〉は(4)の地域を舞台にしている。遠征の行軍ルートは第1段階の半ばまでは陸路をとり,河川,海峡の渡渉に一部船便を併用したが,アナトリアにおけるイスラム軍の抵抗が強く,兵力の消耗が甚大であった。12世紀後半から海運の発展によって,ビザンティン帝国とイタリア諸都市の海軍力が強大となり,もっぱら聖地に直航する地中海ルートが利用された。

経過の概要

初期十字軍

第1回十字軍は,上述の地域(1)の各地で遠征が発起され,ルピュイ司教アデマールAdhemar du Puyを教皇代理の調停者として4軍団が地域(2)において前進基地,補給源(コンスタンティノープル)の設定を行い,ビザンティン皇帝に対する臣従誓約の履行を受諾した後,アナトリア横断中,各地で同地を支配していたルーム・セルジューク朝軍との前哨戦ののち,地域(3)の門戸をなすアンティオキア争奪の攻城戦をもって本格的作戦に入った。同時に別働隊によるエデッサ攻略戦が行われ,遠くユーフラテス川流域地方までヨーロッパ人の占領地が拡大された。この時点でアンティオキア侯領とエデッサ伯領の十字軍国家が成立し,イスラム側はアナトリアのルーム・セルジューク朝,ダマスクスとアレッポのセルジューク朝,エジプトのファーティマ朝など,勢力が分断されていたため十字軍主力のシリア海岸南下を許すことになった。

 1099年7月,正規4軍団とペトルスの巡礼団はエルサレム包囲戦を開始し,宗教的敬虔さと征服者的残忍さを同時に発揮して2日間の攻城戦の後,ファーティマ朝(エルサレムを1098年8月以来セルジューク朝より奪取)の総督を下し,住民の大量虐殺を行って占領を遂げた(7月15日)。〈巡礼たち〉は聖墳墓教会に参詣して十字軍誓願の成就を告げ,シリア・パレスティナに所領を獲得した一部の諸侯,騎士やその領内で土地財産を分配された少数の市民,農民を除いて,大部分の遠征隊員は西欧への帰路についた。このため十字軍国家はその後永年にわたって人口不足と防衛力の劣弱さに悩まされ,イスラム側の反撃を容易にすることになった。聖地に踏みとどまった諸侯は〈聖墳墓守護者〉の称号を帯びたゴドフロア・ド・ブイヨンGodefroy de Bouillonを宗主とするエルサレム王国を創設し,その封建所領としての前記2侯伯領のほか,1109年占領のトリポリ伯領,トランスヨルダン領などを支配し,地中海東岸の諸港市を西欧との交流の窓口とする東方植民地国家を建設し終わった。

 しかし12世紀を迎えると,イスラム側は,モースルとアレッポに拠るザンギー朝(1127-1222)の反撃が始まり,十字軍国家の北東部,北部の喪失が相次ぎ,その衝撃とともに西欧において高揚を続けていた〈十字軍運動〉,とくにクレルボー修道院の院長で当代きっての宗教家ベルナールの勧説による第2回十字軍(1147-53)の企てが実現した。第1回十字軍の成功後まもなく騎士身分と修道士とを一身に兼ねる新しいタイプの社会的エリート集団が創造され,十字軍理念を高く掲げた〈騎士修道会〉を結成し,聖地の常備軍的性格の軍事力としてその後の十字軍に重要な役割を演ずることになる。フランス王ルイ7世,ドイツ王コンラート3世の遠征によるイスラム側ダマスクスへの攻撃(1148)は,喪失領土の回復戦略とはなり得ず,その敗退によってザンギー朝のヌール・アッディーンの下でのアレッポとダマスクスの同盟を許し,十字軍国家はシリア沿岸部の狭小な帯状地域に圧縮された。

 12世紀中葉から末期にかけて,十字軍側と,ファーティマ朝を打倒してエジプトとシリアにまたがるイスラム統一勢力を結集した英傑サラーフ・アッディーン(サラディン)を始祖とするアイユーブ朝(1169-1250)の〈ジハード(聖戦)〉との戦いは,エルサレムの争奪をめぐって熾烈となり,1187年7月ヒッティーンの戦に大勝したサラーフ・アッディーンはエルサレムを同年10月に奪回した。これに対し西欧3大国の君主(イングランド王リチャード1世,フランス王フィリップ2世,神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世)が勢ぞろいした大規模な第3回十字軍(1188-91)が編成され,両者の争いはその最高潮に達したが,結局西欧側の退勢を挽回し得ず,かろうじて1192年エルサレムへのキリスト教徒巡礼の自由通行を保障する協定の締結をもって幕を閉じた。

中期十字軍

西欧側は臨時首都アッコを中心として,エルサレムなき残存領土の維持に努める一方,シリア・パレスティナの外周地域で間接的作戦を行いつつ,外交手段をもってエルサレム奪回を企てた。その間に起こったキプロス王国成立(1192),いわゆる〈方向転換十字軍〉という悪評の高い第4回十字軍(1202-05)によるギリシアのラテン帝国創設(1204),第5回十字軍末期のカイロ攻撃失敗(1221)などはいずれもその実例である。また1228-29年には親イスラム的な神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が教皇から破門をうけた身で聖地に渡り,アイユーブ朝の第5代スルタン,カーミルとの友好関係を利用して〈無血十字軍〉により一時エルサレムの返還を勝ちとった。この時期に西欧の海外進出熱や身分的上昇運動は鎮静化に向かい,それまでの信仰と領土的野心を内容とした十字軍思想は変質し,教皇と神聖ローマ皇帝の対立を軸とする政治的利害が十字軍の動機に強く反映するようになった。

末期十字軍

シリア・エジプトを統一したイスラム勢力の包囲網の中に孤立した十字軍国家は,第7回十字軍(1248-54)のエジプト攻撃失敗の後,その統率者フランス王ルイ9世による聖地防衛力の再建にもかかわらず,カイロの新政権マムルーク朝(1250-1517)の強襲をうけてほとんど破局的打撃を被った。最後の第8回十字軍(1270)はエルサレムから3000km余も遠くへだたったチュニスで挫折し,アッカーに踏みとどまっていた聖地のキリスト教徒は戦死者と捕虜を除いてすべて〈海に掃き落とされ〉,十字軍が築いた中近東の植民地は全面的に崩壊した(1291)。かろうじてキプロス島に退却した生存者はなおこの島を前衛として〈後の十字軍〉による退勢挽回を企てることになる。

十字軍の意義とその影響

十字軍に対する評価は,同時代から今日まで賛否両極の間を揺れ動いて不定であり,毀誉褒貶相半ばしているが,中世西欧社会の全体像を浮彫にした総合的な歴史事象としての意義は重要である。西欧キリスト教徒諸国民が〈十二世紀ルネサンス〉として知られる文化的高揚期を体験し,彼らのアイデンティティを確信しえたことは,十字軍史の展開過程とまったく時代的に並行しており,十字軍が中世西欧社会の成熟期をもたらしたと考えることができる。第2の意義は,キリスト教徒の大集団が長期にわたって東地中海世界に進出し続けたことによる東西文化交流の発展にある。戦術,築城術をはじめ衣食住の日常生活慣習など和戦両様の相互影響関係が生まれ,精神的領域においても古典古代の学芸の再交流が促されたことは中世末期の西欧社会にとって大きな意義があった。

 十字軍の影響について見ると,その軍事的失敗にもかかわらず,ヨーロッパ人に物心両面におけるグローバルな視野の拡大をもたらした点が重要である。精神面においては宗教を異にする人々の平和的共存が現実性をもち始め,キリスト教徒側に寛容の精神が芽生え,戦士に代わって宣教師が異教徒との対話を実践する時代が訪れた。フランシスコ会士による東洋布教活動などはその先駆であり,十字軍による中世キリスト教の世界的規模の展開と見ることができる。第2に,14世紀以降オスマン帝国の勢力西漸によって東方進出運動を抑止されたヨーロッパ人が,大西洋,アフリカ大陸沿岸に目を転じ,やがて〈大航海時代〉に連なる大規模な海外進出運動を続行したことがあげられる。東洋のキリスト教君主〈プレスター・ジョン〉の探索や,十字軍時代に普及した香料など東洋的嗜好品への執着は,前記のキリスト教布教活動への使命観とともに彼らの冒険心をあおり,〈後の十字軍〉と相前後して新大陸,東アジア諸地域へのキリスト教徒の集団的植民地開拓時代を招来することになるのである。
[橋口 倫介]

イスラム側から見た十字軍とその意味

十字軍運動の発端は,エルサレムを占領したセルジューク朝トルコによる巡礼者の迫害にあったとされている。しかしセルジューク朝が異教徒の処遇について,イスラム法のジンミー保護の規定を著しく逸脱した政策をとった事実は認められない。一般に当時のイスラム教徒は十字軍の真の目的を理解できず,ヨーロッパから来住したキリスト教徒の武装集団を,十字軍ではなく,単にフランク人Ifranj,Firanjと呼ぶのが慣例であった。ザンギー朝のヌール・アッディーンはスンナ派擁護の政策に基づいてイスラム世界の統一を図り,異教徒に対するジハードを宣言して十字軍に対する最初の反撃を開始した。その成果はアイユーブ朝のサラーフ・アッディーンに受け継がれ,マムルーク朝のバイバルス1世もアッバース家のカリフを擁するスンナ派の国家体制を樹立して対十字軍戦争を遂行し,その勢力をシリアの海岸地帯に封じ込めた。イスラム軍の主力はアミールとその配下のマムルーク(奴隷軍人)によって構成されていたが,これらのアミールはエジプト,シリアにイクター(分与地)を授与された騎士であって,戦時には自ら装備を整えてスルタン軍に加わることが義務づけられていた。

 11世紀に至るまで,ヨーロッパ世界についてのイスラム教徒の知識は,そのほとんどが間接的な情報に基づくものであったから,戦闘を通じてヨーロッパのキリスト教徒とイスラム教徒が直接の交渉をもったことの意義は少なくなかった。少数ではあるがウサーマ・ブン・ムンキズのように十字軍騎士と親交を結ぶ者もあったし,戦時中一段と活発になった交易活動を通じて,砂糖生産やガラス工芸の技術なども西方に伝えられた。しかし200年に及ぶキリスト教徒との戦闘は,イスラム教徒の間に不寛容なスンナ派主義をはぐくむ結果となり,十字軍に対してばかりでなく,土着のキリスト教徒やユダヤ教徒をも非難・攻撃する風潮が生まれ,やがて都市のなかに宗派別のハーラ(街区)が形成される一因となった。
[佐藤 次高]

[索引語]
Crusade Croisade Kreuzzug クレルモン会議 コソボの戦 モハーチの戦 騎士 巡礼 贖罪 エルサレム 聖墳墓 セルジューク朝 ルーム・セルジューク朝 ピアチェンツァ会議 アレクシオス1世 ウルバヌス2世 神の平和 十字軍宣言 贖宥 ペトルス(アミアン) 初期十字軍 エルサレム王国 中期十字軍 末期十字軍 アッカー 初期十字軍 アデマール Adhemar du Puy ゴドフロア・ド・ブイヨン Godefroy de Bouillon ザンギー朝 騎士修道会 ヌール・アッディーン ヒッティーンの戦 リチャード1世 フィリップ2世(カペー朝) フリードリヒ1世(赤ひげ王) 中期十字軍 キプロス王国 ラテン帝国 フリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝) カーミル 末期十字軍 大航海時代 プレスター・ジョン伝説 フランク人 Ifranj Firanj ジハード ウサーマ・ブン・ムンキズ


日本大百科全書(ニッポニカ)

十字軍
じゅうじぐん
Crusade 英語
Croisade フランス語
Kreuzzug ドイツ語

11世紀末から13世紀にかけて8回以上にわたって西欧キリスト教徒が東欧、中近東各地に向けて行った軍事遠征の総称。公式遠征のほかに民衆巡礼団の自発的行動や、中近東の十字軍国家を起点とする近隣地域への進出なども広義の十字軍に含まれる。また、13世紀末以降16世紀に及ぶキリスト教諸国とオスマン・トルコ帝国との戦争をも十字軍とよぶことがある。参加者が衣服に十字架の印をつけていたことから、13世紀後半以来この名称が用いられたが、それ以前の史料には「エルサレム旅行」または「聖墳墓詣 (もう)で」などと記されている。

[橋口倫介]

起源

中世西欧社会においては、11世紀前半までの数世紀間に、自然条件の緩慢な好転による生産・流通の向上と人口増加がみられ、これに伴って技術革新と知的活動が促進され、新興都市圏と伝統的農村地域の双方の生活が並んで活性化の方向をたどり、全般的に物心両面の著しい発展期を迎えていた。また精神面では、キリスト教の普及により修道院文化が栄え、神学、哲学、法学、文芸の深化は信心形態の洗練された表明手段を生み、ロマネスク様式による教会芸術の完成をみた。聖遺物崇敬や聖所参詣 (さんけい)はその普遍的習俗の典型であり、巡礼は贖罪 (しょくざい)行為として信徒の心性にかなう伝統となって流行した。『旧約聖書』の詩篇 (しへん)「上京のうた」に賛美されたエルサレムは聖都として巡礼の最高目標と考えられ、『新約聖書』に記されたキリストの「受難」のゆかりの地である聖墳墓への参詣は信徒の生涯の悲願ともなっていた。

 他方、11世紀中ごろに、地中海世界を構成する西欧、ビザンティン帝国、イスラム圏の三大政治勢力間にバランスの変化がおこり、それまで閉塞 (へいそく)状態にあった西欧がイスラム勢力の包囲網をはねのける態勢に移行し、またビザンティン帝国がイスラムの圧迫に単独で対抗しえず、西欧に救援を要請するに至った。西欧キリスト教諸国民はこれを受けて宗教的使命感に情熱を燃やし、政治的、経済的、軍事的野心をも満たす好機とみて、聖地解放を大義名分とする武装巡礼団を対イスラム遠征軍として派遣することとなった。「十字軍運動」とよばれるこのような海外進出の気運は西欧全般にみなぎり、封建社会のすべての階層がこれにかかわり、未知の東方世界への憧憬 (しょうけい)の念と、生活水準や社会身分の向上を望む欲求とが結び付き、持続的で大規模な「脱西欧」現象を引き起こすエネルギー源となった。

[橋口倫介]

動機

十字軍遠征の発動は、多分に東欧のキリスト教国ビザンティン帝国の内外情勢判断に対応しており、イスラム勢力の動静は間接的な動機をなすにすぎない。11世紀中ごろセルジューク・トルコが東イスラム圏の実権を握り、エルサレムをはじめシリア、小アジアの要衝を相次いで占領し、1071年マラズギルトMalazgirt(現トルコ東部)でビザンティン軍を撃破したため、ビザンティン帝国は強い危機感を抱き、国土防衛と失地回復を目的とする戦略的親西欧政策を採用し、ナポリ、シチリアに進出していたノルマン人騎士や聖地巡礼途上の西欧諸侯に傭兵 (ようへい)派遣を要請したり、1054年の東西教会分離以来疎遠になっていたローマ教皇庁との再接近を図るなど、西欧人の介入に道を開いた。皇帝アレクシオス1世は1095年春ピアチェンツァPiacenza教会会議に使節を送り、東方における「イスラム禍」を誇大に宣伝し、キリスト教信徒、教会、巡礼の被った被害を訴えた。これを受けて教皇ウルバヌス2世は、東西教会の再合同、東方における教会国家の創設、西欧諸国民の大量移民などを目的とする大規模な救援軍派遣計画を構想し、同年11月クレルモン公会議開催中に第1回十字軍発動の宣言を行った。その趣旨は、全キリスト教徒の義務として聖墳墓に参詣する誓願をたて、イスラム占領下の聖都を奪回し、シリア、パレスチナの教会を解放するための軍事行動を勧説するところにあった。同教皇はまた、即位以来の懸案であるドイツ(神聖ローマ)皇帝との「聖職叙任権闘争」を教皇側に有利に解決する意欲と、西欧封建社会の積弊であった諸侯・騎士同士の私的闘争を「神の平和」運動によって抑止する念願とを達成するため、十字軍運動の盛り上がりを巧みにとらえ、教皇代理ル・ピュイLe Puy司教アデマールAdhémarを総司令官とする軍団編成をフランス諸侯に呼びかけた。

[橋口倫介]

十字軍の構造と経過

広義の十字軍は、その舞台となった西欧と東地中海世界の情勢変化に対応して、初期、中期、末期および「後の十字軍」の4段階に時代区分することができる。

[橋口倫介]

初期十字軍

(11世紀末~12世紀末) クレルモン公会議における教皇の勧説を理論的根拠とする第1回十字軍(1096~99)の公式遠征隊4個軍団(ロレーヌ人、ノルマン人、南フランス人および北フランス人各部隊)は、1099年7月エルサレム占領を遂げ、シリア、パレスチナ一帯に獲得した3封建所領(エデッサ伯領、アンティオキア侯領、トリポリ伯領)を含むエルサレム王国を創設した。そして、その基礎を固めると同時に、周辺のイスラム勢力に対する攻勢的防衛作戦を行った。この時期には、アミアンの隠者ペトルスPetrusをカリスマ的指導者とする民間巡礼団約2万人の先発隊が公式十字軍と協働した。また1101年には、新興エルサレム王国への入植希望者約20万人が少数の騎士隊の護衛下に民衆十字軍として東方へ出発し、途中ルーム朝セルジューク軍の攻撃を受けてほとんど全滅の憂き目をみたが、これにより、非武装の民間人集団が十字軍運動の主体をなしていたことが看取される。

 征服地の支配は、戦略目標地域の中心となる城壁都市の占領に一番乗りの功名を得た軍団司令官にゆだねられ、当時の西欧で確立されていた封建制を導入して、陪臣のモザイク的封土の上に、王、諸侯、騎士、市民、農民などの身分階層制のピラミッドが構成された。エルサレム王位は、初代の「聖墳墓守護職」という称号をとったバス・ロレーヌBasse-Lorraine侯ゴドフロア・ド・ブイヨン以来、女系相続を含む世襲制によって継承され、西欧諸国の君主と同等の権威を備えていた。12世紀中ごろのボードゥアン3世Baudouin Ⅲ(在位1144~62)時代に、その領土は、北はユーフラテス川沿岸から南は紅海のアカバ湾に至る最大版図に達した。この広大な面積に比して、西欧人支配者の人口はきわめて少数で、大部分の被支配者層は征服時の大虐殺を免れ、あるいは逃亡後帰順した原住民であった。王国の防衛軍事力は、12世紀初頭西欧に相次いで創設された騎士修道会の海外管区に属する城砦 (じょうさい)と、騎士軍とを中心として、少数の現地諸侯に臣従する騎士階層にゆだねられていた。他方、十字軍の進出期にたまたま政治的対立から分裂していたイスラム諸政権側に、ようやく統一的反撃の気運が生まれ、12世紀中ごろまでに、イスラム側はエデッサ伯領全域とアンティオキア侯領の東半部との奪還に成功した。そして同世紀後半には、サラディンによるアイユーブ朝の創始を契機として大規模なイスラム側の反十字軍「聖戦」が唱道されたが、その結果、第2回(1147~49)、第3回(1189~92)十字軍が発動され、ついには挫折 (ざせつ)をみることによって初期十字軍の性格は変質することとなる。

 1146年5月フランス中部ベズレーVézelayの集会において、当時西欧随一の精神界の指導者であったクレルボーのベルナルドゥスにより勧説が行われ、第2回十字軍が決定した。フランス王ルイ7世、ドイツ王コンラート3世指揮下の遠征隊に加え、テンプル、聖ヨハネ両騎士修道会とエルサレム王国諸侯軍が参加した。ダマスカスを攻撃したが、籠城 (ろうじょう)側の激しい抵抗に阻まれて敗退し、アンティオキア防衛に有効な状況を生むことなく、かえってザンギー朝の勢力拡大を許す結果となった。また、1163年以来エルサレム王国がカイロのファーティマ朝に対して行った干渉行動(数次のエジプト遠征)が引き金となって、アイユーブ朝のエジプト、シリア統合作戦が成功裏に進められ、1187年7月ハッティーンHattīn会戦においてエルサレム王国軍は惨敗を喫した。ついで同年10月サラディンによるエルサレム奪回が実現すると、十字軍国家の命運は危殆 (きたい)に瀕 (ひん)し、第3回十字軍の大々的発起を促すこととなった。当時西欧諸国中に覇を唱え、ローマ教皇の権威をも脅かす勢いにあった神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世(赤髭 (あかひげ)王)、騎士道精神の鑑 (かがみ)として人気の高いイングランド王リチャード1世(獅子 (しし)心王)およびフランス王フィリップ2世(尊厳王)の三大君主が勢ぞろいしたこの十字軍は、一部地中海航路を利用するようになった新ルートによってアッコAkkoに上陸し、エルサレム再占領を目ざして戦闘を繰り返した。しかし、フリードリヒ1世の事故死によるドイツ軍の不参と、英仏両国君主間の不和に災いされて結局竜頭蛇尾に終わり、西欧の十字軍熱にも陰りを生ずる時代を招いた。

[橋口倫介]

中期十字軍

(13世紀前半) 1192年9月、第3回十字軍の最後まで孤軍奮闘したリチャード1世とサラディンとの間に休戦協定が成立し、エルサレム王国はティルスTyrusからヤッファJaffaまでの海岸部のみに領土を狭められた状況下に、アッコを臨時首府として残存領土の守勢的維持に汲々 (きゅうきゅう)とする中期十字軍時代に移行する。他方、内陸シリアを回復しエジプトとの連係を確立したアイユーブ朝は、休戦期間中キリスト教徒巡礼のエルサレム通行権を許可する寛容政策を打ち出した。西欧側は、この時期に新たに領有したキプロス島を中継地として海路による東西連絡手段を確保しており、なお1世紀にわたってこの海外植民地を経営し、物心両面の交流を促進することができた。別名「方向転換十字軍」とよばれる第4回十字軍(1202~04)は、教皇権の絶頂期を代表するインノケンティウス3世の提唱により、また西欧修道制の理念を標榜 (ひょうぼう)する隠修士フールク・ド・ヌイイFoulques de Neuilly(生没年不詳)の勧説によるものであったが、参加諸侯・騎士の経済力不足と戦略思想の不統一が災いして、ベネチア人の商業至上主義に引きずられ、キリスト教国であるビザンティン帝国を攻撃し、コンスタンティノープルを占領して「ラテン帝国」を創建するという異常な事件となった。フランス人のフランドル伯ボードゥアンBaudouin(在位1204~05ころ)を初代皇帝とするこの新帝国は、トラキア、マケドニア、ギリシア各地を征服し、東方教会を一時ローマ教会のもとに統合してラテン文化を東欧に広めたが、小アジアに亡命して復興の機をうかがっていたビザンティン皇帝によって反撃を受け、1261年その短命な歴史を閉じた。第5回十字軍(1217~21)も、シリア、パレスチナに向かわずエジプトを攻撃したということで、いわば方向転換十字軍であった。この十字軍は、教皇ホノリウス3世Honorius Ⅲ(在位1216~26)の宣布による公式十字軍であるが、参加者は東欧の新興キリスト教国ハンガリー王、オーストリア侯のほか、フリースラント人騎士など概して弱小な軍事力であり、これにエルサレム王国の現地軍が協働してダミエッタDamiettaを占領するのが精いっぱいであった。一方、イスラムのカイロ政権側では、ダミエッタとエルサレムの交換条件によって十字軍の撤退を求めた。教皇代理ペラギウスPelagius枢機卿 (すうききょう)(生没年不詳)の強気の提案でこの条件を拒否し、カイロ攻撃を続行した十字軍は、イスラム側の反撃とナイル川洪水に妨げられ、すべての戦果を失って敗退した。

 シチリア王としてイスラム文化に親しんだ神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世による第6回十字軍(1228~29)は、出発遅延の理由で教皇グレゴリウス9世Gregorius Ⅸ(在位1227~41)からフリードリヒが破門されたため、公式十字軍とみなされない場合もある。フリードリヒ2世は、カイロのスルタンと個人的親交があり、結婚政策によってエルサレム王を兼ね、外交手段を用いて1229年2月ヤッファ協定を結び、エルサレムへの無血入城を果たした。宗教的寛容思想により十字軍の本来の目的が達成されたのであるが、政治的、経済的利害の側面では西欧人同士の調整がつかず、破門皇帝と現地諸侯の対立や出身地を異にする諸国民間の不和が表面化し、王国は無政府状態の混乱に陥っていく。

[橋口倫介]

末期十字軍

(13世紀後半) キリスト教とイスラム教の平和共存が、1244年のホラズム・トルコ人によるエルサレム占領という突発事件によって終止符を打たれたのち、中近東情勢は多極的な諸勢力離合集散の新局面を迎える。ホラズム・トルコ人の背後からモンゴル人がシリアに進出し、西欧はモンゴル人をキリスト教徒と信じて同盟を構想し、イスラム圏内ではシリアとエジプトが対立する一方、新政権マムルーク朝による統一勢力が急速に成長してくる。西欧においては、フランス王国の政治的、経済的優位のもとにゴシック芸術が繁栄し、ルイ9世(聖ルイ王)の敬虔 (けいけん)な信仰がキリスト教徒の模範とされ、托鉢 (たくはつ)修道会士による海外布教活動も盛んであった。また13世紀初頭以来何度か繰り返された少年十字軍や牧童十字軍のように民衆宗教運動への熱意も強かったが、軍事力による十字軍遠征に参加する諸侯・騎士の情熱は冷却しつつあった。「エルサレムの鍵 (かぎ)はカイロにあり」という戦略思想のもとにルイ9世が行った最後の2回の十字軍(第7回1248~54、第8回1270)は、エジプトとチュニスに向け精強な大軍を送ったが、いずれもイスラムの包囲網の中に孤立した聖地の救援に直接影響を与えることなく敗退し、かえってカイロの新政権マムルーク朝のキリスト教徒掃討作戦を挑発する結果を招いた。1265年から91年にかけて、シリア海岸のアンティオキア侯領、トリポリ伯領をはじめ残存領土のすべてを喪失、エルサレム王国直轄領は最後の拠点アッコの陥落によって滅亡した。わずかな生存者がかろうじてキプロス島に避難し、後図を図ることとなる。

[橋口倫介]

後の十字軍

(14~16世紀) キリスト教徒にとって聖地の喪失は十字軍そのものの終焉 (しゅうえん)を意味したが、対イスラム戦争という政略的構想による東方観は近世まで持続され、マムルーク朝との抗争、新しい強大な敵対者オスマン・トルコ帝国との対決は「後の十字軍」という観念で考えられている。その過程で、1344年のキプロス(ロードス)十字軍と1396年のニコポリス十字軍とが特筆される。いずれも西欧における十字軍運動の盛り上がりとは異なる東欧キリスト教諸国の守勢的攻撃であり、15世紀に入ると、1440年のハンガリー十字軍を転機として東西勢力関係の逆転が明らかとなり、オスマン帝国軍の西方進出が高潮期に達し、1453年にはビザンティン帝国の滅亡をみるに至り、16世紀には東地中海制海権の全面的放棄を強いられ、名実ともに十字軍は消滅する。

[橋口倫介]

世界史上の意義

十字軍運動の開始以来今日まで約900年の間、その評価は賛否両論に分かれ、学説も区々であるが、これを単なる数回の軍事遠征の記録としてではなく、西欧中世後半期の人間社会の総合的全体像として観察し、そこに文化的高揚期の西欧人のアイデンティティをみいだそうと試みることが望ましい。また、数世紀にわたって持続された地中海世界の東西交流の影響はきわめて顕著であり、沿岸諸民族の十数世代の人々がこの長期の交流によって精神的、物質文明的視野を広げ、やがて地球的規模での「大航海時代」への発展を生む素地を築いたことも疑いない。

[橋口倫介]



文庫クセジュ ベストセレクション

十字軍
文庫クセジュ133 ルネ・グルッセ / 橋口 倫介
歴史・地理・民族(俗)学
ヨーロッパの形成がカエサルのガリヤ征服によって西欧をローマ共和国に加えた時以来緒についたものとすれば、ローマ・カトリック教会の権勢の絶頂期の十字軍の東方遠征はヨーロッパの成熟を意味する。著者は十字軍を最初の植民地活動であるとし、回教とキリスト教の対抗を歴史的に跡づける。
チェルヌスキ博物館*研究員 オリヴィエ・ドゥ・ラングル伯(一九〇九―一九四二)の記念として
譯者はしがき
第三版の序
凡例
目次(書籍版)
日本の讀者へ
第一章 十字軍以前の東方問題
一 古代における東方問題
二 アラビア人の征服
三 七、八世紀におけるビザンティン帝國の抵抗運動
四 《ビザンティン帝國》の敍事詩的功業
五 キリスト敎の反攻におけるアルメニア人の役割
六 セルジュック・トルコの征服
第二章 シリア、パレスティナにおける十字軍國家
一 十字軍思想の起源
二 十字軍思想とその歴史的役割
三 第一囘十字軍及びビザンティンの法律問題
四 第一囘十字軍成功の原因――十字軍到着時における囘敎世界の無政府状態
五 シリアにおける第一囘十字軍――アンティオキアとエルサレムの征服
六 聖墓の守護者ゴドフロア・ドゥ・ブイヨン――フランク人占領の性格
七 ボードゥアン一世の治世
八 ボードゥアン二世の治世
九 フールク・ダンジューの治世
一〇 エデッサ陷落と第二囘十字軍
一一 ボードゥアン三世の統治
一二 アモーリー一世の治世
一三 ボードゥアン四世の治世
一四 ギー・ドゥ・リュジニャン――ハッティンの敗北
一五 第三囘十字軍
一六 十三世紀におけるフランク王國の復興と存續――新たな動きと新たな情勢
一七 アンリ・ドゥ・シャンパーニュとアモーリー・ドゥ・リュジニャン
一八 ジャン・ドゥ・ブリエンヌと第五囘十字軍
一九 フリードリッヒ二世の十字軍
二〇 一二三九年の十字軍
二一 聖王ルイの十字軍
二二 フランク人の無政府状態
二三 蒙古との同盟問題
二四 トルコ帝バイバルス
二五 シリアにおける最後のフランク領の滅亡
第三章 フランク・シリアの文化*
一 エルサレム王國の政治制度
二 フランク・シリアの防衞――騎士修道會
三 アンティオキア公領の諸制度
四 フランク人の植民地活動と原住民
五 フランク・シリアと近東貿易
六 フランク・シリアの藝術と文學
七 シリアにおけるフランク人の業績
第四章 リュジニャン家治下のキプロス王國
一 十三世紀のキプロスの歴史
二 キプロス十字軍――ユーグ四世とピエール一世
三 ジェノア人のキプロス占領とマムルーク朝の侵寇
四 庶子のジャック
五 キプロス王朝の性格
六 社會階級、キプロスの富
七 キプロスの藝術と文學
第五章 キリキアのアルメニア王國
一 ルーベニアン朝
二 ヘトゥーム朝
三 アルメニアのリュジニャン家
四 アルメニア王國諸制度のフランス化
第六章 コンスタンティノープルのラテン帝國
一 第四囘十字軍以前のギリシア人とラテン人との對立
二 第四囘十字軍
三 ラテン皇帝ボードゥアン一世の治世
四 アンリ・ドゥ・エーノーの治世
五 ラテン帝國の滅亡
六 ラテン帝國とヴェニスの覇權
第七章 フランス人のモレア公國とアテネ公領
一 ギヨーム・ドゥ・シャンプリットとジョフロア・ドゥ・ヴィラルドゥアン一世
二 ジョフロア二世とギヨーム・ドゥ・ヴィラルドゥアン
三 フランス人のアテネ公領
四 フランク・モレア公國の制度と文化
第八章 イタリア支配時代のギリシア
一 アンジュー家制覇時代のモレア公國
二 フィレンツェ人のアテネ公領
三 ヴェニス人とジェノア人の植民地
四 ロードス島の騎士たち
第九章 のちの十字軍
一 ニコポリス十字軍
二 ハンガリー十字軍――フニャディ
三 コンスタンティノープル陷落からレパント海戰まで
結語
年表
索引(書籍版)
參考文獻
訳者略歴
奥付
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検索コンテンツ
1. 十字軍画像
日本大百科全書
との対決は「後の十字軍」という観念で考えられている。その過程で、1344年のキプロス(ロードス)十字軍と1396年のニコポリス十字軍とが特筆される。いずれも西欧
2. 十字軍画像
世界大百科事典
アレクシオス1世 ウルバヌス2世 神の平和 十字軍宣言 贖宥 ペトルス(アミアン) 初期十字軍 エルサレム王国 中期十字軍 末期十字軍 アッカー 初期十字軍 ア
3. じゅうじ‐ぐん[ジフジ‥]【十字軍】
日本国語大辞典
上「一千百六十五年都府Jerusalem に於て十字軍と称するの兵大に起れり」*将来之日本〔1886〕〈徳富蘇峰〉四「勿論歴山王の東征、十字軍の如きは西より東を
4. 十字軍[宗教]画像
情報・知識 imidas
エルサレムを奪還された。以後十字軍は敗退し続け、最初の遠征からおよそ200年後の1291年、わずかに残ったパレスチナの拠点アッコン(アッコ)が陥落して、十字軍
5. 十字軍
文庫クセジュ
以来緒についたものとすれば、ローマ・カトリック教会の権勢の絶頂期の十字軍の東方遠征はヨーロッパの成熟を意味する。著者は十字軍を最初の植民地活動であるとし、回教と
6. 【十字軍】じゅう(じふ)じ ぐん
新選漢和辞典Web版
西欧諸国のキリスト教徒がエルサレムの聖地を回教徒からとりかえすために、十一世紀末から百数十年間、七回にわたって行った遠征軍。
7. 十字軍の経路[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©Shogakukan
8. 十字軍史(年表)
日本大百科全書
109511月27日 クレルモン公会議の十字軍宣言(ウルバヌス2世)10964月 ペトルスの民衆十字軍10968~10月 第一回十字軍(~1099)10975~
9. アルビジョア十字軍
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10. アルビジョア十字軍
世界大百科事典
ノケンティウス3世は十字軍を宣布した。09年十字軍はリヨンに集結,ローヌ川沿いに南下する。十字軍士は主として北フランスの諸侯や騎士から構成されていた。教皇代理と
11. 少年十字軍
日本大百科全書
れ、事件の約1世紀後に年代記作者がこれを清貧と純粋な信仰心と「若さ」による十字軍の浄化運動として記述し、「少年」十字軍という伝承が成立した。現実には、地中海を目
12. 少年十字軍
世界大百科事典
耐えて行進したできごとを総合し,約半世紀後の年代記作者が神助を信じた純真な未成年者のみによる十字軍として語り伝えたもの。ジェノバやマルセイユからさらに地中海に船
13. 十字軍 : 図1-十字軍の遠征路画像
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14. 十字軍 : 図2-十字軍諸国家画像
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15. 愛書趣味 72ページ
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) ・コウルリッジ作『老水夫の歌』(一八七七年)〔英語版は一八七六年である〕 ・ミショー作『十字軍の歴史』(一八七七年、二巻、大二折判) ・アリオスト作『狂える
16. 愛書趣味 264ページ
文庫クセジュ
l'Imprimerie en France au XVe et au XVIe Siècle 24, 45 十字軍の歴史 Histoire des Crois
17. アイゼンハワー(Eisenhower, Dwight David)
世界人名大辞典
.大統領告別演説[61.1]で軍産複合体が政治を支配する危険を指摘した.〖主著〗 ヨーロッパ十字軍:Crusade in Europe, 1948.転換への負託
18. アイバンホー
世界大百科事典
イギリスの作家W.スコットの歴史小説。1820年刊。十字軍時代を舞台とし,ノルマン征服王朝に反感を抱くサクソンの郷士セドリック,その息子でリチャード獅子心王に従
19. アイユーブ朝
日本大百科全書
、ハーンカー(スーフィーの修道場)などの建設を通じて、積極的にスンニー派の振興に努めた。また十字軍に対しても、イスラム側の反撃の先頭にたち、その勢力を大きく後退
20. アイユーブ朝
世界大百科事典
図る一方,翌年ザンギー朝のヌール・アッディーンが没すると,これを機にシリアからジャジーラへと支配権を伸ばし,十字軍包囲の体制を固めた。サラーフ・アッディーンの死
21. アイルランド 62ページ
文庫クセジュ
マンスターで蜂起が起こった。フィッツジェラルド家の当主ジェームズ・フィッツモーリスは、この反乱を十字軍にしようとしていた。反徒はキャッシェル大司教マックギボンを
22. アウグストゥスの世紀 33ページ
文庫クセジュ
問題はアントニウスではなかった。新たな内戦ではなく、明らかに、自由と文明の、野蛮と隷属に対する十字軍であった。誰も騙されなかったはずである。それでもスローガンが
23. 青木周蔵自伝 356ページ
東洋文庫
」の政略を樹てている。外交家として当然のこと乍ら、欧米列強を利用しようとする。具体的には討露十字軍を興してロシアをアジアから駆逐し、朝鮮を領有する。青木は永年ロ
24. アカイア大公国
世界大百科事典
第4回十字軍に参加したシャンパーニュの2人の封建貴族,ギヨーム・ド・シャンプリットとジョフロア・ド・ビラルドゥアンが,当時モレアと呼ばれたペロポネソスのギリシア
25. 悪魔の文化史 75ページ
文庫クセジュ
中心に広まったマニ教的異端諸派で、アルビジョア派もこれに含まれる。極端な二元論と禁欲主義を掲げ、十字軍による大弾圧を受けるに至った〔訳註〕。
26. 悪魔の文化史 80ページ
文庫クセジュ
いのであれば、「我らとともにあらざる者は、我らに反す」という結果に落ち着いてしまうのである。十字軍の時代の叙事詩文学は、殺戮を旨とするこの遠征を、嬉々として宇宙
27. 悪魔の文化史 81ページ
文庫クセジュ
ルナール・ド・クレルヴォー。クレルヴォーにシトー派の修道院を設立。教皇の助言者として、第二回十字軍を提唱した〔訳註〕。 (2) 十一世紀末頃成立したフランス最古
28. 悪魔の文化史 82ページ
文庫クセジュ
キリスト殺害の罪で非難され、サタン的な儀式に耽っていると詰られ、井戸に毒を入れたと噂されたのである。こうして、十字軍の時代にはポグロム〔ユダヤ人の大量虐殺〕の犠
29. アサシン派
日本大百科全書
shīshī(大麻野郎)が、十字軍によってヨーロッパに伝えられ、アッサシーノassassino(イタリア語)、アサシンassassin(英語)などになった。十字
30. アサッシン
世界大百科事典
シーン(〈大麻野郎〉の意)に由来すると考えられ,12~13世紀にシリアのニザール派と接触した十字軍将士を介してヨーロッパに伝えられた。この名はやがて同派の長老へ
31. アスカロン
日本大百科全書
るが、彼はこの地に壮大な建造物を営み、最近その一部が発掘された。後7世紀にアラブに占領され、十字軍時代にも戦場となった。エーゲ文明の影響を受けたフィリスティア土
32. アスコルビン酸画像
日本大百科全書
水溶液ではかなり不安定である。 アスコルビン酸は抗壊血病性ビタミンとよばれていた。壊血病は13世紀の十字軍時代にすでに記載され、1535年にはカルチエがカナダの
33. アッコ
世界大百科事典
る。12世紀の初め,第1次十字軍が侵攻してサラーフ・アッディーンをはじめ,イスラム勢力との間に激しい争奪戦が行われたが,1191年以降100年間,パレスティナの
34. アテネ画像
世界大百科事典
(ビザンティン)帝国に属し,以後,急速に都市としての衰えを見せることになる。スラブ人の侵入,十字軍の支配といった試練をへたのち,15世紀中葉から19世紀前半まで
35. アテネ(ギリシア)画像
日本大百科全書
9世紀以来ギリシアはイスラム教徒、ブルガリア人、さらにはノルマン人やベネチア人の侵略を受け、13世紀には第4回十字軍の侵略と分割支配を受けた。1453年にはオス
36. アテネ公国
世界大百科事典
第4回十字軍に参加したブルゴーニュの封建貴族オトンOthon de la Rocheがアテネ,テーベを中心に建てた国家。1205-1456年。国制上,アカイア大
37. アデン
日本大百科全書
諸勢力によりその帰属が争われた。575年にササン朝の領有に帰し、628年にはイスラム支配下に入った。十字軍戦争のときはサラディンが遠征軍を送り、確保した。151
38. アドネ・ル・ロア
世界大百科事典
れた。ブラバン公アンリ3世,その没後はフランドル伯ギ・ド・ダンピエールに仕え,1270年には十字軍に加わってチュニスまで赴いている。前世紀の武勲詩を13世紀の韻
39. アナーキズム 151ページ
文庫クセジュ
ところが犠牲者はけっこうな財産の持主であって、殺人者がそれをさらってゆくのを忘れないのだから、この無神論的十字軍のまじめさにとってやっかいな話になる。生命を尊重
40. アネモネ画像
日本大百科全書
不慮の事故で死ぬときに流す血から誕生する。イギリスやドイツの俗信では、十字軍の史実が絡んで、キリストの血と置き換わる。つまり、第2回十字軍遠征(1147)のころ
41. アビニョン画像
日本大百科全書
統治ののち、1136年(または1129年)コンシュラ(市参事会)の都市となった。アルビジョア十字軍(1209~1229)のときには異端派のトゥールーズ伯レイモン
42. アフォンソ1世(Afonso(Affonso) I
世界人名大辞典
サンデル3世の臣下として王位が認定された[79].教会勢力を利用して国内の基盤を固め,第2回十字軍の艦隊の助力でリスボンを攻略するなどレコンキスタを大きく前進さ
43. アフマド・アルバダウィー(Aḥmad al-Badawī)
世界大百科事典
祝うマウリドと呼ばれる祝祭がタンターの町にある彼の墓廟で行われるようになった。後世,フランスのルイ9世の十字軍を撃退してエジプトを救うなどさまざまな英雄的功業を
44. アフリカの民族と文化 54ページ
文庫クセジュ
ラバト〔モロッコの地名〕やマラブー〔フランス語でイスラム教僧院の意〕等の言葉にも見出される。この僧院の制度は、十字軍にはじまる《聖堂騎士》の僧院を想起させる)。
45. アフリカの民族と文化 55ページ
文庫クセジュ
この時代の近東および北アフリカの歴史において、十字軍を主な媒介とするヨーロッパ世界との交渉を無視することはできない。たとえば、サラディンが、第一十字軍の建設した
46. アブドゥル・ラティーフ(アルバグダーディ)
日本大百科全書
ギリシアの医学に通じ、ガレノスのいくつかの間違いを正した。ギリシア、トルコ、エジプト、シリア各地で教え、十字軍と戦っていたサラディンと親交があった。165の著作
47. アブル・フィダー
日本大百科全書
地理学者。アイユーブ家の出身で、ダマスカスに生まれる。聖ヨハネ騎士団のマルカブ城攻撃をはじめ、十字軍との戦いに参加した。マムルーク朝のスルタン、ナーシルに仕え、
48. アブー・アルフィダー(Abū al-Fidā)
世界大百科事典
1273-1331 アラブの歴史・地理学者。アイユーブ家の出身で,ダマスクスに生まれ,何回か対十字軍の戦争に加わった後,マムルーク朝スルタンからハマーの総督(サ
49. アブー・アル・フィダー
世界文学大事典
生まれる。エジプトでアイユーブ朝を創設したサラーフ・アッ・ディーン(サラディン)の甥の息子。十字軍と戦い,エジプトでスルターンに仕えてからシリアに戻り,ハマで家
50. アブー・フィダー(Abū al-Fidā' Ismā‘īl)
世界人名大辞典
〔1273~1331〕 シリアの豪族,歴史家,地理学者.アイユーブ家の一族としてダマスカスに生まれ,十字軍と戦い,ハマーの領主となる.《人類史概要:Mukhta
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乃木希典(日本大百科全書・世界大百科事典)
陸軍大将。嘉永(かえい)2年11月11日、長州藩士族乃木希次(まれつぐ)の三男として江戸藩邸に生まれる。萩(はぎ)(山口県萩市)の明倫館(めいりんかん)に学び、報国隊に属し、戊辰戦争(ぼしんせんそう)では東北を転戦。維新後、フランス式軍事教育を受け
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1937年(昭和12)7月7日夜に始まる盧溝橋一帯での日中両軍の軍事衝突で、日中全面戦争の発端となった事件。中国では、「七・七事変」ともいい、日本政府は当時「北支事変」と称した。1935年、華北分離工作に本格的に乗り出した日本は、やがて支那(しな)
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