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  11. 高浜虚子

高浜虚子

ジャパンナレッジで閲覧できる『高浜虚子』の日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

高浜虚子
たかはまきょし
[1874―1959]

俳人、小説家。明治7年2月22日(臍 (ほぞ)の緒書 (おがき)では20日)松山市長町新丁(現湊 (みなと)町4丁目)に生まれる。本名清。父池内庄四郎政忠 (しょうしろうまさただ)(のちに信夫 (のぶお))は藩の剣術監、母は柳 (りゅう)。1882年(明治15)祖母の実家高浜姓を継ぐ。中学時代より河東碧梧桐 (かわひがしへきごとう)と親しみ文学に志し、先輩正岡子規 (しき)に俳句を示し、本名と同音の虚子の雅号を与えられる。1892年9月、京都の旧制第三高等学校入学、碧梧桐も後れて入学同居し俳友とも交わった。学制改革でともに仙台の二高に移ったが、文学への念強く1894年そろって退学上京した。志は小説にあったが、子規の影響で句作し、子規は新聞『日本』の『明治二十九年の俳諧 (はいかい)』で「縦横」の評で虚子の句を紹介した。1897年大畠 (おおはた)いとと結婚。松山で柳原極堂が子規後援で発行していた『ホトトギス』を1898年10月自らの手に移し、以後虚子の活動の主力はこの雑誌によった。1901年(明治34)俳書出版の俳書堂設立。子規の写生主義が散文に及んだ写生文にも熱心で、1905年夏目漱石 (そうせき)の『吾輩 (わがはい)は猫である』を『ホトトギス』に掲げた反響大きく、その刺激で自らも小説を発表し、08年短編集『鶏頭』を出版。長文の漱石の序で余裕派の名も与えられた。この年『国民新聞』に長編『俳諧師』連載。一方、すでに1902年9月子規没後独自の道へ進んだ盟友碧梧桐は、06年8月から全国遍歴の旅信中『ホトトギス』の小説雑誌化を批判し新傾向への普及を計った。

 虚子は1910年鎌倉に居を移し、また国民新聞社を辞して衰運の『ホトトギス』を挽回 (ばんかい)するため12年7月号より雑詠欄を復活した。1913年(大正2)「霜降れば霜を楯 (たて)とす法の城」「春風や闘志いだきて丘に立つ」の句に、碧梧桐らの新傾向句に対し、俳句伝統の定型、季語を守る守旧派の決意を表明した。この俳壇復帰で大正期、『ホトトギス』から渡辺水巴 (すいは)、村上鬼城 (きじょう)、飯田蛇笏 (だこつ)、前田普羅 (ふら)、原石鼎 (せきてい)、長谷川零余子 (れいよし)、長谷川かな女、野村泊月 (はくげつ)らが輩出した。客観写生の主張から昭和期に及んで俳句は花鳥諷詠 (ふうえい)と説き、4Sとよばれた水原秋桜子 (しゅうおうし)、山口誓子 (せいし)、阿波野青畝 (せいほ)、高野素十 (すじゅう)をはじめ、日野草城、川端茅舎 (ぼうしゃ)、松本たかし、富安風生、山口青邨 (せいそん)、中村草田男 (くさたお)、中村汀女 (ていじょ)、星野立子 (たつこ)らを出し、『ホトトギス』は俳壇において全盛の観があった。写生文小説も書き続け、子規晩年を描く長編『柿 (かき)二つ』を1915年『東京朝日新聞』に連載し、5月新橋堂から刊行した。『ホトトギス』から漱石のほか寺田寅彦 (とらひこ)、伊藤左千夫 (さちお)、長塚節 (たかし)、鈴木三重吉、野上弥生子 (やえこ)らを文壇に送った点は、虚子の力に負うところが大きい。

 虚子は1924年満州(中国東北)、朝鮮を訪れ、また36年(昭和11)渡欧し句境を広め、また海外に俳句を示した。戦中戦後は長野県小諸 (こもろ)に疎開、名吟「山国の蝶 (ちょう)は荒しと思はずや」などの『小諸百句』(1946)や、せつなく美しい師弟愛を描く小説『虹 (にじ)』(1947)も書いた。1951年(昭和26)3月『ホトトギス』雑詠選を長男年尾に譲る。54年文化勲章受章。昭和34年4月8日永眠。法名虚子庵高吟椿寿居士。墓は鎌倉・寿福寺にある。

[福田清人]



世界大百科事典

高浜虚子
たかはまきょし
1874-1959(明治7-昭和34)

俳人,小説家。本名清。旧姓池内。松山市生れ。伊予尋常中学在学中,同級生の河東碧梧桐を介して正岡子規を知り師事。三高から二高に転じて中退。上京して碧梧桐とともに子規の周辺にいて俳句運動を助けた。子規の写生を有情の方向で実らせ,絵画的な特色とともに,季題情趣に新しい世界を見せた。松山で創刊された《ホトトギス》を1898年から東京に移して経営,子規の俳句運動の〈場〉を新聞《日本》との両輪にした。《ホトトギス》では文章にも力を注ぎ,写生を生かした文章表現を子規と力を合わせて開拓した。子規没後,子規が否定した連句の復興を考え,夏目漱石,坂本四方太と試みた。漱石とは俳体詩の試みももち,これが小説家漱石を生み出す契機となった。1905年から漱石の《吾輩は猫である》を《ホトトギス》に連載するとともに,みずからも小説家を志し《風流懺法》(1907)その他の作品を発表した。小説には写生文の手法,態度が活用されており,人間を描く場合でも自然の風物と同じ眼でとらえ,自然主義と対蹠的な文学を形成した。12年からは俳壇に復帰し,守旧派と称して十七字を守り,季題の情緒を守る俳句を説いた。のち,事物の状態を描写することに徹する客観写生を強調,同時に〈花紅柳緑〉の境地に至りつくことを目ざした。さらに27年から〈花鳥諷詠〉論を提唱,俳句は日本独自の文学で,しかも小説,戯曲とは違う素材,内面をうたう文学であり,天然を写生する文学であると規定,この信条を生涯守った。この間,育成者としても多くの俊秀を育てた。59年,脳溢血で死去。〈遠山に日の当りたる枯野かな〉。
[松井 利彦]

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1. 高浜虚子
日本大百科全書
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世界大百科事典
1874-1959(明治7-昭和34) 俳人,小説家。本名清。旧姓池内。松山市生れ。伊予尋常中学在学中,同級生の河東碧梧桐を介して正岡子規を知り師事。三高から二
3. たかはま‐きょし【高浜虚子】
日本国語大辞典
俳人。小説家。本名清。愛媛県松山市出身。二高中退。正岡子規に師事。子規派の俳句雑誌「ホトトギス」を継承して主宰。「客観写生」を唱えて、俳句を花鳥諷詠の詩と主張し
4. たかはまきょし【高浜虚子】
国史大辞典
葬られる。全集に『(定本)高浜虚子全集』などがある。→ホトトギス [参考文献]大野林火『高浜虚子』、水原秋桜子『高浜虚子』、山口誓子・今井文男・松井利彦編『高浜
5. たかはま-きょし【高浜虚子】画像
日本人名大辞典
1874−1959 明治-昭和時代の俳人,小説家。明治7年2月22日生まれ。中学時代から正岡子規に師事。明治31年「ホトトギス」をひきつぐ。一時小説や写生文をか
6. 高浜虚子[文献目録]
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7. あいさつ‐まわり[‥まはり]【挨拶回】
日本国語大辞典
〔名〕謝意や敬意などを述べにあちこち回って歩くこと。*続俳諧師〔1909〕〈高浜虚子〉四七「後片附をする、親戚へ挨拶廻(アイサツマハ)りをする、何や彼やで一日も
8. あいじま-かんじろう【相島勘次郎】
日本人名大辞典
大阪毎日新聞社政治部長,東京日日新聞社副主幹をへて明治45年衆議院議員(当選2回,国民党)。俳句を正岡子規,高浜虚子にまなんだ。昭和10年4月4日死去。69歳。
9. アイス
日本国語大辞典
崎紅葉〉中・一「此奴が〈略〉我々の一世紀前に鳴した高利貸(アイス)で」*俳諧師〔1908〕〈高浜虚子〉二六「アイスの方は今いくら位ある。それっきりか」
10. アイ‐ラブ‐ユー
日本国語大辞典
「わたしは、あなたを愛しています」の意)異性に対する愛情を表現することば。*俳諧師〔1908〕〈高浜虚子〉二四「五十嵐と私はラヴァーの間柄ぢゃありませんか。アイ
11. あお‐あし[あを‥]【青葦・青蘆】
日本国語大辞典
〉「夕ぐれのさびしき池をわかやかに青葦(アヲアシ)ふきぬ初夏の風」*虚子俳句集〔1935〕〈高浜虚子〉昭和五年六月「青蘆や向岸にも鮎の宿」
12. あお‐えんぴつ[あを‥]【青鉛筆】
日本国語大辞典
〔名〕芯の色が青い鉛筆。*続俳諧師〔1909〕〈高浜虚子〉九四「心を取り静づめて脈搏の方の青鉛筆(アヲエンピツ)の線を見ると」
13. あおき-いなじょ【青木稲女】
日本人名大辞典
大正-昭和時代の俳人。明治31年9月9日生まれ。青木再来と結婚して大阪にすむ。桝岡泊露(はくろ),高浜虚子(きょし)にまなぶ。奈良県天理市にうつり昭和13年俳誌
14. あお・つ[あふつ]【煽】
日本国語大辞典
たたむがごとくにて、二三度四五度あをつと見へしが、塀は残らずばたばたばた」*五百句〔1937〕〈高浜虚子〉大正二年「今日の日も衰へあほつ日除かな」(3)手足など
15. あお‐ば[あを‥]【青葉】
日本国語大辞典
も生まれた。(3)近世の歳時記では、青葉は非季の詞となっている。夏とするのは、明治三六年刊の高浜虚子編「袖珍俳句季寄せ」あたりからかと思われる。大正六年刊「鬼城
16. あか‐えんぴつ【赤鉛筆】
日本国語大辞典
〔名〕芯(しん)の赤い鉛筆。*続俳諧師〔1909〕〈高浜虚子〉九四「四十度二分から六度二分に急転直下した赤鉛筆(アカエンピツ)の破格に長い線は」*銀の匙〔191
17. あか‐のぼり【赤幟】
日本国語大辞典
〔名〕赤い色ののぼり。*春夏秋冬‐春〔1901〕〈河東碧梧桐・高浜虚子編〉「初午や屋敷屋敷の赤幟〈獅子〉」
18. あがり‐ばな【上花】
日本国語大辞典
料理屋などの用語)入れたての煎茶(せんちゃ)。また、一般に、茶をいう。でばな。あがり。*俳諧師〔1908〕〈高浜虚子〉二二「上(アガ)り花(バナ)を入れ更へてそ
19. あが・る【上・揚・挙・騰】
日本国語大辞典
上(かみ)のたよりにあがる米の直(ね)〈芭蕉〉」(5)精神や気分などが高まる。*俳諧師〔1908〕〈高浜虚子〉七一「『決して月並むわけでは無いのです。小説を書く
20. あき‐おうぎ[‥あふぎ]【秋扇】
日本国語大辞典
906~07〕〈河東碧梧桐選〉秋「筆筒に背高きものや秋扇〈梧月〉」*六百五十句〔1955〕〈高浜虚子〉昭和二一年「紺紙なる金泥の蘭秋扇」
21. あき‐ぞら【秋空】
日本国語大辞典
900~01〕〈徳富蘆花〉二・五「最早朝日が晃々と秋空に上って居る」*虚子句集〔1915〕〈高浜虚子〉秋「秋空を二つに断てり椎大樹」(2)「あき(秋)の空(2)
22. あき‐でみず[‥でみづ]【秋出水】
日本国語大辞典
〔名〕毎年、秋の季節、ことに初秋に最も多い洪水。秋の大水。《季・秋》*虚子俳句集〔1935〕〈高浜虚子〉明治三八年九月「柵の上に腰かけ居るや秋出水」*幸木〔19
23. あき の 暮(く)れ
日本国語大辞典
し。〈略〉春の暮といふに対して、秋のくれを暮秋と心得たる人、稀々あり」*六百句〔1947〕〈高浜虚子〉昭和二〇年「日のくれと子供が言ひて秋の暮」*変身〔1962
24. あき の 灯(ひ)
日本国語大辞典
《季・秋》*俳諧・蕪村句集〔1784〕秋「秋の燈やゆかしき奈良の道具市」*五百句〔1937〕〈高浜虚子〉大正六年「秋の灯に照らし出す仏皆観世音」
25. あき‐ばれ【秋晴】
日本国語大辞典
〈若山牧水〉「秋晴のふもとをしろき雲ゆけり風の浅間の寂しくあるかな」*虚子句集〔1915〕〈高浜虚子〉秋「秋晴や前山に糸の如き道」
26. あき‐まつり【秋祭】
日本国語大辞典
諧・新題林発句集〔1801〕秋「次郎吉か元腹祝へ秋まつり〈浣素〉」*五百五十句〔1943〕〈高浜虚子〉昭和一二年「老人と子供と多し秋祭」
27. 秋山真之[文献目録]
日本人物文献目録
偲びて』井上要『児玉源太郎と秋山真之』松下芳男『日本海軍の知将秋山真之 』島田謹二『正岡子規と秋山参謀』高浜虚子『明治期日本人の一肖像 アメリカにおける秋山真之
28. あけ‐やす【明易】
日本国語大辞典
《季・夏》*俳諧・七車〔1728〕夏「明やすの此ほのぼのや烏帽子顔」*虚子俳句集〔1935〕〈高浜虚子〉大正一五年六月「明易や響きそめたる老の咳」
29. あげ‐さげ【上下】
日本国語大辞典
おのしらにあげさげをされるものけい」(4)膳などを出したり、とりかたづけたりすること。*続俳諧師〔1909〕〈高浜虚子〉三五「何も彼も一人でした。客膳の上(ア)
30. あし‐び【葦火】
日本国語大辞典
「薫炉(くんろ)の煙にことなるは、蘆火たく屋のいやしきにつけても」*虚子俳句集〔1935〕〈高浜虚子〉昭和六年一〇月「忽に燃えほそりたる蘆火かな」
31. あしべ‐おどり[‥をどり]【蘆辺踊】
日本国語大辞典
の舞踊。《季・春》*青草〔1914〕〈近松秋江〉六「蘆辺踊や浪花踊が始まった」*虚子俳句集〈高浜虚子〉昭和四年〔1935〕四月「誘ひたる蘆辺をどりに誘はるる」
32. あせ‐も【汗疹・熱沸瘡】
日本国語大辞典
くるをいふ也。或はみつもともなづけたるは、すこし大きなるをいへり」*虚子俳句集〔1935〕〈高浜虚子〉昭和三年七月「なく声の大いなるかな汗疹の児」(1)アセモノ
33. あぜ 焼(や)く
日本国語大辞典
肥料とするなどの目的で、早春、あぜの枯れ草を焼き払うこと。畔火。《季・春》*五百句〔1937〕〈高浜虚子〉昭和四年「此村を出でばやと思ふ畦を焼く」
34. あそさん【阿蘇山】熊本県:総論
日本歴史地名大系
夏目漱石の「二百十日」をはじめ、国木田独歩「忘れ得ぬ人々」、横光利一「阿蘇へ」、火野葦平「花扇」、高浜虚子「小国」、荒木精之「波野高原」など、現代詩では落合直文
35. あてつけ‐がまし・い【当付─】
日本国語大辞典
一六「つい其処に居る誰やらに諷刺(アテツケ)がましく娘がいへば」*三畳と四畳半〔1909〕〈高浜虚子〉六「其翌日から当てつけがましく別の壺に糠味噌を拵へた」アテ
36. あな‐め【穴目】
日本国語大辞典
〔名〕(1)穴のあるもの。また、その穴。*春夏秋冬‐冬〔1903〕〈河東碧梧桐・高浜虚子編〉「木枯や芋の枯葉の穴目吹く〈茶山人〉」(2)(穴のあいていることから
37. あに‐ふうふ【兄夫婦】
日本国語大辞典
〔名〕兄とその妻。*柿二つ〔1915〕〈高浜虚子〉二・三「Kが下宿営業に取りかかったといふのも、もと兄夫婦(アニフウフ)を助けるが主意であり」*寝顔〔1933〕
38. あぶら‐つぼ【油壺】画像
日本国語大辞典
〉三「油壺を拭き、ほやを拭き、最後に心の黒い所を好い加減になすくって」*俳諧師〔1908〕〈高浜虚子〉三九「石油が油壺(アブラツボ)の中に注がれる」(3)機械の
39. あべ-みどりじょ【阿部みどり女】
日本人名大辞典
明治19年10月26日生まれ。永山武四郎の娘。明治43年結婚。結核で転地療養中に俳句をはじめ,高浜虚子(きょし)に師事する。昭和7年「駒草」を創刊,主宰。53年
40. あま【海人・海士・海女・蜑】
日本国語大辞典
村雨(むらさめ)とて、二人(ににん)の海人の旧跡にてありけるぞや」*六百五十句〔1955〕〈高浜虚子〉昭和二三年「海女(アマ)沈む海に遊覧船浮む」【二】〔一〕龍
41. あま‐こう【尼講】
日本国語大辞典
*雑俳・三尺の鞭〔1753〕「片寄て・尼講の中のうしろ帯」*春夏秋冬‐春〔1901〕〈河東碧梧桐・高浜虚子編〉「尼講の鉦叩き行く彼岸かな〈四明〉」
42. あまし【余】
日本国語大辞典
〔接尾〕「あまり(余)【四】(1)」に同じ。*続俳諧師〔1909〕〈高浜虚子〉七二「もう彼此十日余(アマ)しも毎晩のやうに起きてらっしゃるのです」
43. あめ の 糸(いと)
日本国語大辞典
正増補和英語林集成〔1886〕「Amenoito アメノイト」*杏の落ちる音〔1913〕〈高浜虚子〉一「ざあざあと降る雨の糸も時々光って見えた」
44. 雨の糸
故事俗信ことわざ大辞典
て」改正増補和英語林集成(1886)「Amenoitoアメノイト」杏の落ちる音(1913)〈高浜虚子〉一「ざあざあと降る雨の糸も時々光って見えた」
45. あゆ‐つり【鮎釣】
日本国語大辞典
〉」*交隣須知〔18C中か〕二・水族「銀口魚 アユツリニ ユコウ」*六百五十句〔1955〕〈高浜虚子〉昭和二一年「鮎釣の夕かたまけて去(い)に支度」
46. あら‐ぐし【粗櫛】
日本国語大辞典
粗なる物大略一寸の間に十歯ばかり。大さ櫛横四寸五七分高央にて一寸ばかり」*俳諧師〔1908〕〈高浜虚子〉三五「細君は癖直しをすませて又荒櫛(アラグシ)で梳き直す
47. あらそえ=ない[=ぬ・ん]
日本国語大辞典
中西へ手紙をやらうとすると、お蝶さんがやって来る、争(アラ)そへんものだ」*杏の落ちる音〔1913〕〈高浜虚子〉一〇「姉妹三人を並べてみると、どうしても一人素人
48. あり‐あ・く【有明】
日本国語大辞典
20~23〕夏・中「有明る方へ靡きぬ今年竹〈騏道〉」*春夏秋冬‐夏〔1902〕〈河東碧梧桐・高浜虚子編〉「有明けて矢数の庭や杜若〈青々〉」
49. あれっ‐きり【彼─】
日本国語大辞典
〔副〕(「あれきり」の変化した語)(1)「あれきり(1)」に同じ。*俳諧師〔1908〕〈高浜虚子〉四六「そんな始末であったので渥美へもあれっきり挨拶にも行かず」
50. あ・れる【荒】
日本国語大辞典
〉「サアこれからの世渡りはと〈略〉炭団を丸めるのもいいが手があれるし」*俳諧師〔1908〕〈高浜虚子〉五〇「只皮膚の荒(ア)れてゐるのと生え際の薄いのとが目に立
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