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  11. 三善康信

三善康信

ジャパンナレッジで閲覧できる『三善康信』の日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

三善康信
みよしやすのぶ
[1140―1221]

鎌倉幕府初代問注所執事 (もんちゅうじょしつじ)。法名善信 (ぜんしん)。三善氏は明法 (みょうぼう)・算道 (さんどう)をもって朝廷に仕える中流貴族であったが、母が源頼朝 (よりとも)の乳母 (めのと)の妹であった関係で、伊豆に配流されていた頼朝に京都の情報を送っていたといわれる。幕府成立後は、大江広元 (おおえのひろもと)、中原親能 (なかはらちかよし)などとともに京下りの文官として頼朝の側近にあり、幕府の政治機構の整備に貢献した。1184年(元暦1)より1221年(承久3)まで問注所執事に在任。承久 (じょうきゅう)3年8月死去。子孫の町野・大田両氏は鎌倉・室町幕府の問注所執事を世襲。なお高野山 (こうやさん)領備後 (びんご)国大田荘 (しょう)の地頭職 (じとうしき)を給付されたところから、子孫がこの地で領主制を展開した。

[瀬野精一郎]



世界大百科事典

三善康信
みよしやすのぶ
1140-1221(保延6-承久3)

鎌倉幕府初代の問注所執事。1162年(応保2)に右少史となり,次いで中宮属,翌年五位となり史を退く。母が源頼朝の乳母の妹だった関係から,伊豆の頼朝に京都の情報を伝えていたが,頼朝挙兵後の81年(養和1)に出家(法名善信),84年(元暦1)鎌倉に下って頼朝の信任を獲得した。史の経験を生かしてその年10月20日に新設の問注所執事となって,幕府の体制整備に尽くした。この後頼朝の側近として幕府の重要な政策決定に参画したが,京都の事情に詳しいことから,ことに幕府の朝廷対策において重きをなした。頼朝死後は大江広元とともに宿老の立場から幕府体制の安定化に努力し,北条氏の執権政治確立に大きく貢献したが,承久の乱直後,幕府の一大危機の克服を見て死去した。問注所執事は康信以後三善氏が独占,継承することになる。なお康信の家は一時期問注所とされ,また問注記等幕府関係の文書を保管する文庫でもあった。
[五味 文彦]

[索引語]
問注所
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検索コンテンツ
1. 三善康信
日本大百科全書
鎌倉幕府初代問注所執事もんちゅうじょしつじ。法名善信ぜんしん。三善氏は明法みょうぼう・算道さんどうをもって朝廷に仕える中流貴族であったが、母が源頼朝よりともの乳
2. 三善康信
世界大百科事典
1140-1221(保延6-承久3) 鎌倉幕府初代の問注所執事。1162年(応保2)に右少史となり,次いで中宮属,翌年五位となり史を退く。母が源頼朝の乳母の妹だ
3. みよし‐やすのぶ【三善康信】
デジタル大辞泉
[1140~1221]鎌倉幕府初代問注所執事。法名、善信。母が源頼朝の乳母の妹であった関係から、伊豆に配流中の頼朝に京都の状況を報告。のち、鎌倉に招かれて問注所
4. みよし‐やすのぶ【三善康信】
日本国語大辞典
鎌倉幕府初代の問注所執事。頼朝に伊豆配流時代から通じ、京都の情報を報告、のち鎌倉に招かれて、問注所の執事となった。保延六~承久三年(一一四〇~一二二一)
5. みよしやすのぶ【三善康信】画像
国史大辞典
一一四〇―一二二一 鎌倉時代前期の問注所執事。法名善信。弟康清とともに源頼朝・頼家・実朝の三代の将軍の政務に参与した。かれの子孫は町野・太田・矢野・富部・飯尾
6. 三善康信
日本史年表
1184年〈元暦元(4・16)(寿永3) 甲辰〉 10・20 頼朝, 問注所 を置き, 三善康信 を執事とする(吾)。 1221年〈承久3 辛巳⑩〉 8・9
7. みよし-やすのぶ【三善康信】
日本人名大辞典
1140−1221 鎌倉時代の幕府官僚。保延(ほうえん)6年生まれ。明法家(みょうぼうか)の出身。源頼朝の乳母の妹が母という縁で,配流中の頼朝に京都の情勢を月に
8. Miyoshi Yasunobu 【三善康信】
Encyclopedia of Japan
1140−1221 Official of the Kamakura shogunate (1192−1333). Born into a middle-ran
9. 三善康信花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
10. あぶらいほ【油井保】兵庫県:篠山市/旧丹南町地区/油井村
日本歴史地名大系
譲り受けていたが、明政の死後三保とも押領されたため、関東へ行き、父三善康清(鎌倉幕府問注所初代執事三善康信弟)に依頼して安堵の下文を得て所領を回復した。光蓮は子
11. 飯尾氏
世界大百科事典
〈いのおうじ〉とも呼ぶ。鎌倉・室町幕府で奉行人を務めた家柄。三善康信を祖とし,三善浄蔵の子が新補地頭として阿波国麻殖郡飯尾(現,徳島県吉野川市)に住したことより
12. いぬかいほ【犬甘保】兵庫県:篠山市/旧丹南町地区/犬飼村
日本歴史地名大系
譲り受けていたが、明政死後三保とも押領されたため、関東へ行き、父三善康清(鎌倉幕府問注所初代執事三善康信弟)に依頼して安堵の下文を得て所領を回復した。光蓮は子息
13. いのおむら【飯尾村】徳島県:麻植郡/鴨島町
日本歴史地名大系
麦・粟・豆・甘薯・藍玉・神代縞・清酒などがあげられる。鎌倉・室町幕府で奉行人を勤めた飯尾氏は三善康信を祖とし、鎌倉時代に麻殖庄西方の地頭となり、当地を名字の地と
14. うがむら【宇賀村】広島県:甲奴郡/甲奴町
日本歴史地名大系
開発領主であった下司橘兼隆は、宇賀村などの公文職をも保有していた。建久七年(一一九六)代わって問注所執事三善康信が地頭職に補任された。同九年九月の備後国大田庄桑
15. おえほ【麻殖保】徳島県:麻植郡
日本歴史地名大系
利尊氏の下に駆付けて、この着到状を提出、高師泰の証判を得ている。飯尾氏は鎌倉幕府の問注所執事三善康信の後裔と伝えられる氏族で、麻殖庄内である飯尾(現鴨島町飯尾)
16. 太田氏画像
日本大百科全書
主となり、明治に至る。(2)鎌倉幕府、室町幕府の問注所もんちゅうじょ執事家。初代問注所執事の三善康信みよしやすのぶが、備後国びんごのくに(広島県)世羅せら郡大田
17. 太田氏
世界大百科事典
の家宰となった。太田道灌はその末葉という。(2)鎌倉・室町幕府の法曹官僚として活躍する武家。三善康信の子康連が,備後国大田荘桑原方地頭職を康信から与えられ,太田
18. おおたし【太田氏】画像
国史大辞典
(三) 鎌倉・室町幕府の問注所執事、評定衆、引付衆。源頼朝に仕えて鎌倉幕府の初代問注所執事になった三善康信の子孫。康信の子康連は承元元年(一二〇七)に父から備後
19. おおたし【太田氏】 : 太田氏/(三)
国史大辞典
(三) 鎌倉・室町幕府の問注所執事、評定衆、引付衆。源頼朝に仕えて鎌倉幕府の初代問注所執事になった三善康信の子孫。康信の子康連は承元元年(一二〇七)に父から備後
20. おおたのしょう【大田庄】広島県:世羅郡
日本歴史地名大系
図ろうとしている(僧鑁阿起請相折帳)。建久七年一〇月二二日、鎌倉幕府は両橘氏跡の地頭職に問注所執事三善康信を任命した(前右大将家政所下文案)。承久の乱で康信の子
21. 大田荘
日本大百科全書
1197年(建久8)ごろには謀反の咎とがで所職を没収され、その跡には鎌倉幕府の問注所もんちゅうじょ執事三善康信みよしやすのぶが地頭じとうに補任ぶにんされた。康信
22. 大田荘
世界大百科事典
田は613町6反60歩に及んでいる。96年橘氏は幕府から謀反のとがをうけて改易され,かわって三善康信が地頭職に補任された。地頭三善氏は,その定着に際し寺家側の抵
23. おおたのしょう【太田荘】
国史大辞典
預所代と定使の責任であった。建久七年(一一九六)、橘氏は謀叛の咎によって関東に召し下され、そのあとに、三善康信が地頭として補任された。彼の死後、子康継が太田荘太
24. おおたのしょう【太田荘】 : 太田荘/(一)
国史大辞典
預所代と定使の責任であった。建久七年(一一九六)、橘氏は謀叛の咎によって関東に召し下され、そのあとに、三善康信が地頭として補任された。彼の死後、子康継が太田荘太
25. 花押 41[別刷図版]画像
国史大辞典
791 源 頼朝(三) 792 源 頼家 793 源 実朝(一) 794 源 実朝(二) 795 三善康信 796 三善康遠 797 三善康連 798 武藤頼平
26. かたよせ【片寄】
国史大辞典
寄が問題となった例としては、備後国太田荘の場合があり、建保五年(一二一七)六月八日地頭善信(三善康信)置文に、「於〓加徴
27. 義経記 1 175ページ
東洋文庫
を奉ったとある。しかし『吾妻鏡』には、令旨を受けたのは四月二十七日とあり、そして六月十九日、三善康信の使者が北条に来て頼朝に対面し、以仁王の令旨を受けた源氏をみ
28. 源威集 171ページ
東洋文庫
  比企氏も滅んだ。↓『大日本史料』四-七、建仁三年九月二日条。(6) 『吾妻鏡』では留守は三善康信で、その下に三善康清・藤原邦通・大庭景能らを置い  ている。
29. 執事
日本大百科全書
政所の次官である令りょうを兼ねることが多かった。二階堂にかいどう氏が世襲。(3)問注所もんちゅうじょの長。三善康信みよしやすのぶが初代で、その子孫の町野まちの、
30. 執事
世界大百科事典
政所の次官である令を兼ねることが多く,二階堂氏が世襲した。(6)鎌倉幕府の問注所の長官。初代は三善康信。その子孫が世襲した。(7)初期の室町幕府で,将軍を補佐す
31. しつ‐じ【執事】
日本国語大辞典
の職員。また、問注所の長官。*吾妻鏡‐建久二年〔1191〕正月一五日「問注所執事、中宮大夫属三善康信法師」*北条九代記〔1333頃〕上「建暦元年〈略〉師俊 書博
32. 荘務
世界大百科事典
行うこと,またはその権限を与えられた者。例えば1217年(建保5)に高野山領備後国太田荘の地頭三善康信が定めた地頭方荘務十箇条には,加徴米,関東人夫,百姓逃亡跡
33. せらぐん【世羅郡】広島県
日本歴史地名大系
〔中世〕建久七年(一一九六)大田庄の地頭は開発領主の系譜をひく大田方・桑原方の下司両橘氏から鎌倉幕府問注所執事三善康信に代わった。承久の乱に際し、康信の子康継は
34. ぜんじょうあと【膳城跡】群馬県:勢多郡/粕川村/膳村
日本歴史地名大系
三ノ丸、帯曲輪などの区画があった。県指定史跡。築城時期は不明。当初の城主善氏は鎌倉幕府問注所執事三善康信の子孫と伝えられる。長享元年(一四八七)一二月、上杉顕定
35. 太平記 374ページ
日本古典文学全集
これは元来禅家でのこと。神田本等「問注所」。問注所(問註所)は鎌倉幕府の政務機関であるが、問注所執事三善康信の子孫(町野・太田氏に分流)が職名「問註所」を氏とし
36. たいらのもりとき【平盛時】画像
国史大辞典
官位は民部丞、五位に昇った。『吾妻鏡』における初見は元暦元年(一一八四)十月二十日条で、藤原俊兼とともに三善康信を補佐し、新設問注所の業務にあたることと定められ
37. たいらの-もりとき【平盛時(1)】
日本人名大辞典
?−? 鎌倉時代の幕府官僚。元暦(げんりゃく)元年(1184)から問注所の業務にあたり,三善康信を補佐。政所(まんどころ)にもつとめ,源頼朝の右筆(ゆうひつ)と
38. なごえ【名越】神奈川県:鎌倉市/大町村地図
日本歴史地名大系
の山荘が新善光寺辺りにあったという。このほか、名越には背後の山際に文庫を備えていた問注所執事三善康信の家(「吾妻鏡」承元二年一月一六日条)、その子孫の町野康俊(
39. なごえぶんこあと【名越文庫跡】神奈川県:鎌倉市/大町村
日本歴史地名大系
問注所執事三善康信(善信)の名越亭にあったといわれる文庫。「吾妻鏡」承元二年(一二〇八)一月一六日条に、三善亭が焼失した際、その後面の山際に構えた文庫が焼亡し、
40. 日本教育史 1 120ページ
東洋文庫
大江氏は、文章の家なり、三善氏は、算術の家なり、皆世々大学の官人なりしが、中原親能、大江広元、三善康信の輩、皆朝廷を去りて、幕府の爪牙と為れり。中に就て広元は、
41. 備後国
世界大百科事典
家清が知られるにすぎないが,92年(建久3)ころ三吉氏が三次,広沢実方が三谿郡十二郷,96年三善康信が大田荘下司(げし)橘兼隆・光家の跡,1204年(元久1)山
42. びんごのくに【備後国】広島県
日本歴史地名大系
ところが建久七年(一一九六)下司橘光家・兼隆は幕府から謀反の咎によってその地位を追われ、そのあとに三善康信が地頭として補任された(同文書)。鎌倉幕府は御家人を守
43. 文庫(書庫)
日本大百科全書
武家でも鎌倉の官僚層では文庫をもつ者がいた。たとえば、問注所もんちゅうじょの執事しつじを務めた三善康信みよしやすのぶの名越なごえ文庫、北条氏の一門金沢かねさわ氏
44. ほんごうむら【本郷村】広島県:世羅郡/世羅町
日本歴史地名大系
野山文書)によって紀州高野山領大田庄に含まれ、大田郷(大田方)の中心となった。鎌倉期を通じて三善康信の子孫が総地頭として在地に勢力を張り、天福元年(一二三三)六
45. まかべのしょう【真壁庄】茨城県:真壁郡
日本歴史地名大系
正和元年(一三一二)七月二三日の関東下知状写(鹿島神宮文書)によれば、文治二年(一一八六)に幕府公事奉行人三善康信の弟康清が真壁庄の預所となり、弘安五年(一二八
46. まちのし【町野氏】画像
国史大辞典
三善氏の一族。鎌倉幕府初代問注所執事三善康信の子孫。近江国蒲生郡町野(滋賀県蒲生郡日野町と推定)を苗字の地としたとの説がある。嘉禄元年(一二二五)に評定衆が設
47. 源頼朝画像
日本大百科全書
げ、土肥実平どいさねひら、岡崎美実おかざきよしざねら伊豆、相模の武士たちと連絡をもち、京都の三善康信みよしやすのぶから情報を受け取るなどして、後白河上皇と平氏と
48. 源頼朝
世界大百科事典
た天野遠景,土肥実平ら伊豆,相模の在地武士たちとも連絡をもち,さらに頼朝の乳母の妹の子である三善康信から京都の情報を手に入れるなど,政治情勢の変化に注意していた
49. みなもとのよりとも【源頼朝】
日本架空伝承人名事典
また天野遠景、土肥実平ら伊豆、相模の在地武士たちとも連絡をもち、さらに頼朝の乳母の妹の子である三善康信から京都の情報を手に入れるなど、政治情勢の変化に注意してい
50. 源頼朝 129ページ
東洋文庫
偶然にも二寸の銀の正観世音像を得て帰敬の心を深くし、彼をして此像を身より離すことなからしめたること。三善康信の母、及び比企掃部介の妻鰍航れ琳小山下野大掾政光の妻
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