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  11. 平賀源内

平賀源内

ジャパンナレッジで閲覧できる『平賀源内』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

平賀源内
ひらがげんない
[1728―1779]

江戸時代の本草学者 (ほんぞうがくしゃ)、戯作者 (げさくしゃ)。讃岐 (さぬき)の志度浦(香川県さぬき市)の生まれ。幼名を四万吉 (よもきち)。伝次郎、嘉次郎といい、名は国倫 (くにとも)または国棟 (くにむね)。源内(または元内)は通称。字 (あざな)は子彝 (しい)、鳩溪と号した。戯作者としては風来山人、天竺浪人 (てんじくろうにん)、悟道軒、桑津貧楽 (くわづひんらく)など、浄瑠璃作家 (じょうるりさっか)としては福内鬼外を用いている。父は高松藩の蔵番白石茂左衛門良房で、兄は夭折 (ようせつ)し、父の死で家を継ぎ姓を平賀と改めた。藩主松平頼恭 (まつだいらよりたか)(1711―1771)にみいだされ長崎に遊学、藩の薬園の仕事にも携わるようになったが、1754年(宝暦4)、妹婿に家を譲り江戸に出て、本草学者田村藍水 (たむららんすい)に師事、また林家に入塾し本格的に本草学を学んだ。

 1757年、田村藍水とともに江戸・本郷 (ほんごう)湯島で物産会を開き、以後、6年間に物産会を5回開催、とくに1762年(宝暦12年閏 (うるう)4月10日)の物産会には全国30余国から1300余点に上る展示物を集め、盛況であった。源内はこの物産会の出品物のなかから重要なもの360種を選んで分類、解説し『物類品隲 (ぶつるいひんしつ)』(6巻)を翌1763年に出版した。このなかには、藍水の朝鮮人参 (にんじん)栽培法や、『天工開物』からとった甘蔗 (かんしょ)しぼりの図、また蘭書 (らんしょ)から模写したサフランの図などの新しい知識も載せている。これらの活躍により、源内は新進の本草学者、物産学者として評価され、殖産興業、蘭癖の時流にのって多彩な活躍をしている。1764年(明和1)火浣布 (かかんぷ)(石綿などでつくった不燃布)を製作、この火浣布について『火浣布説』を書き、1765年には『火浣布略説』を出版している。

 また平線儀(水準儀)、タルモメイトル(温度計)などの理化学的な奇器の製作で人々の目をひき、紀伊 (きい)、伊豆 (いず)、秩父 (ちちぶ)などでの薬物採集や鉱物などの物産調査など、幕府や高松藩の殖産策に尽力した。

 一方、当時、新興の談義本の世界に進み、『風流志道軒伝』(5巻)、『根南志具佐 (ねなしぐさ)(前編)』(5巻)などを書いて、よどんだ封建社会を風刺し、新作浄瑠璃『神霊矢口渡 (しんれいやぐちのわたし)』は1770年に上演され、この面でも好評であった。これらの文中には本草、物産学や医学的な知識、それにオランダ趣味などを入れて新しさを出している。

 やがて田沼意次 (たぬまおきつぐ)の知遇を得て二度目の長崎遊学をなし、殖産興業(彼のいう国益)のための陶器や織物の考案、それに鉱山関係の事業と、いっそう活動の場を広めていった。交友も中川淳庵 (なかがわじゅんあん)、桂川甫三 (かつらがわほさん)(1728―1783)、森島中良 (もりしまなから)(万象亭 (まんぞうてい))ら蘭学系の学者や、後藤梨春 (ごとうりしゅん)(1696―1771)、平秩東作 (へつつとうさく)、大田南畝 (おおたなんぽ)(蜀山人)らの学者・文人と多方面にわたる。また秋田支藩角館 (かくのだて)の小田野直武 (おだのなおたけ)に洋画法を教え、秋田蘭画 (らんが)誕生のきっかけを与えた。1774年(安永3)、秩父鉱山の経営に失敗し苦境に陥った。1776年、かつて長崎で入手したエレキテル(摩擦起電器)の修理に成功、模造品も製作し評判となった。これを「硝子 (ガラス)を以 (もっ)て天火を呼び病を治す」医療用具として大名富豪の前で実験したが、期待した後援者は得られず生活もすさみ、『放屁 (ほうひ)論』をはじめとする『風流六部集』では「憤激 (ヂレ)と自棄 (ワザクレ)ないまぜの文章」で世間を揶揄 (やゆ)している。

 失意のうちに1779年(安永8)11月、人を殺傷して入牢 (じゅろう)、12月18日獄中で世を去った。墓は東京都台東 (たいとう)区橋場総泉寺跡にある。

[菊池俊彦]



世界大百科事典

平賀源内
ひらがげんない
1728-79(享保13-安永8)

江戸中期の博物学者,戯作者,浄瑠璃作者。名は国倫(くにとも),号は鳩渓,風来山人,福内鬼外(ふくうちきがい),天竺(てんじく)浪人など。高松藩の足軽の子。薬園掛に取り立てられ,1752年(宝暦2)長崎に留学。56年に江戸に出て田村藍水について本草学を学び,57年の日本最初の物産会をはじめとして師とともに会を5度開き,これを基に《物類品隲(ぶつるいひんしつ)》(1763)を著した。参府の蘭人と交わり,西洋博物学の研究を志してドドネウスの《紅毛本草》などの蘭書を集めたが,蘭語学習の道を開く労をいとい,70年(明和7)長崎に赴いてオランダ通詞に翻訳を依頼した。しかし,思うにまかせず,学問的にも生活的にも行きづまった。そのため企業家に方向転換して輸出用の陶器製作を計画し,あるいはメンヨウを飼育して毛織物を試作し,さらに秩父,多田,秋田の鉱山の採掘に手を出したが,いずれも失敗に終わった。生活に窮した彼は,みずから〈貧家銭内〉と称して磁針器,平線儀,火浣布(かかんぷ),寒暖計,菅原櫛,金唐革(きんからかわ),エレキテルなどの細工物を作って急場をしのいだ。
[佐藤 昌介] 文学者としては小説《根南志具佐(ねなしぐさ)》《風流志道軒伝》,狂文集《風来六部集》,浄瑠璃《神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)》などの著作をし,その多方面の活躍で有名になった。早くから西洋文化に注目し,杉田玄白,司馬江漢,中原中良,小田野直武その他の人に刺激を与えた。一生独身で通したが,癇癖のため誤って人を殺し,獄中で死んだ。

 非常な奇才であるため,いろいろな伝説を生み,《平賀鳩渓実記》では,源内が幼少より天狗小僧とあだ名されたこと,遊女白糸を請け出して三井八郎右衛門に恩を売ったこと,飛行船の発明をしたこと,長崎で抜け荷をしたことが述べられているが,なお当時のうわさでは,彼は獄死せず,老中田沼意次(おきつぐ)に助けられて遠州相良(さがら)にかくまわれたともいう。大田蜀山人も《一話一言》その他で,源内の奇才についていっている。
[野田 寿雄]

[索引語]
鳩渓 福内鬼外 天竺(てんじく)浪人 風来六部集


国史大辞典

平賀源内
ひらがげんない
一七二八 - 七九
江戸時代中期の本草・物産学者、戯作者。名は国倫(くにとも)、字は子彝、源内は通称で、鳩渓と号し、また戯作者としては風来山人、浄瑠璃の作者としては福内鬼外(ふくちきがい)などの筆名を用いた。享保十三年(一七二八)、讃岐国寒川郡志度(しど)浦(香川県大川郡志度町)で、白石茂左衛門良房の子として生まれた。母は山下氏。白石氏の祖先は、南朝の忠臣平賀国綱であったと伝えられ、源内は寛延二年(一七四九)に父が没した跡を継ぎ、高松藩に仕えて、志度浦の蔵番を勤めたが、そのころから平賀姓を称するようになった。この蔵番の俸禄は三石一人扶持で、足軽に相当する低い身分であった。それまでに源内は、儒学や俳諧とともに、本草学を学んでいたが、こののち長崎に遊学したりして、向学心が高まった結果、宝暦四年(一七五四)には蔵番を退役し、まず大坂で戸田旭山について医学と本草学を学んだのち、江戸に出て本草学者田村藍水を師とし、また林家に入門して儒学を修めた。同七年に藍水が湯島で開催した日本で最初の薬品会は、源内の発案によるものであった。薬品会とは、薬用の動植鉱物を展示することにより、薬種を国内で自給するための知識の交流をはかる会合であって、また物産会ともよばれたように、薬用に限らず、各種の有用な産物が出品された。それは資源の開発に人々の関心が向けられるようになっていた時代の風潮の反映であって、本草学自体も薬学から物産学へと発展しつつあったが、そのような社会の動向を主導した一人が源内であった。同八年の会につづいて、九年には源内が主催者となり、さらに十二年にも源内が会主の大規模な会を開き、京・大坂や高松・長崎などからも出品できるようにした。翌十三年には、それまでの会の出品物の中から三百六十種を選んで、解説を加え、『物類品隲(ひんしつ)』を刊行し、その附録には、朝鮮人参と甘蔗との栽培法を収めた。本草学者としての源内の主著で、実証性を主眼とした点に特色がある。この間に高松藩でも、源内の活動に注目し、宝暦九年には「医術修業」のためとして三人扶持を支給し、翌年には四人扶持銀十枚の薬坊主格に任命して、藩領内での薬種採訪などに従事させた。しかし源内は藩仕の不自由を嫌って、同十一年には退職を願い、九月に許可を得たが、それには他藩への出仕を禁止する「構(かまい)」の条件が付けられており、このため源内は終生を浪人で送ることとなる。この年に源内は伊豆で芒硝を発見し、幕府の勘定奉行からその製造を命ぜられており、また明和元年(一七六四)には秩父で発見した石綿により火浣布(かかんぷ)、耐火織物)を作って幕府に献上し、また同七年には、田沼意次の意向をうけて長崎に遊学したりしている点からみると、幕府に登用される希望もあったと推測されるが、それも実現には至らなかった。このため源内は、独力で物産の開発をはかり、明和三年から五年にかけては秩父で金鉱の採掘を試み、同八年には陶器を製造して海外へ輸出することを計画し、また志度で飼育させていた緬羊を原料として、同年に和泉の堺で毛織物の製造に着手した。安永二年(一七七三)からは、秩父で鉄山の開発や炭焼、また荒川の通船などを計画した。しかしこれらの事業は成功をみず、ただ「山師」の悪名を浴びただけに終った。源内の意図としては、私的な営利ではなく、「国益」すなわち日本全体の利益をはかろうとしたもので、実際にも毛織物は当時のオランダ貿易の主要な輸入品であった。このような着想や、またそれを実行に移すための技術的能力の面では、源内はすぐれた独創力を発揮しており、蘭学導入以前にも、かなり高い水準にまで、日本での自生的な科学技術の発達のあったことが、このような異才を生み出す背景となっていたと考えられる。源内は二度も長崎に遊学し、また杉田玄白らを友人としていたにもかかわらず、オランダ語を読解するには至らなかった。他方で源内は、すでに宝暦十三年に『根南志具佐』(根無草)と『風流志道軒伝』を刊行して、好評を博し、文学史上での本格的な滑稽本の端緒をなすなど、文人として活躍し、明和三年からは大田南畝と交友関係を結んだ。こののち同七年初演の『神霊矢口渡』をはじめとする浄瑠璃の創作や、安永三年以降に刊行された狂文『放屁論』、同『後編』などに、才筆を振るい、諧謔の中に自己の感懐や世相に対する諷刺をこめて、独自の文学を形成した。しかし本業としての物産開発の面では行きづまったため、菅原櫛や金唐革(きんからかわ)の製造で営利をはかったりしたが、安永五年に至り、長崎遊学の際に入手していた摩擦起電器の復原に成功し、エレキテルと称して、静電気の放電による火花が、医療に効果があると宣伝し、世人の注目を集めたが、その原理についての知識はもっていなかった。また源内は、画才にも長じており、本草の図譜を描く必要もあって、沈南蘋(しんなんぴん)の系統の漢画の写生画を学び、さらに長崎で西洋画の技法を習得して、安永二年に鉱山技術指導のため秋田藩に招かれた際には、藩士小田野直武を門人として洋画の技法を教えるなど、秋田蘭画に影響を与えている。安永八年十一月に源内は誤って人を殺し、小伝馬町の牢内で十二月十八日に病死した。殺人の原因は、秘密にしていた設計図を盗まれたと疑ったためとも伝えられるが、明らかではない。年齢は、志度の平賀家にある位牌などによれば、五十二歳。橋場の総泉寺に葬られ、総泉寺が移転したのちも、その跡地の東京都台東区橋場二丁目に墓が現存する(国史跡)。
[参考文献]
入田整三編『平賀源内全集』、同編『平賀源内全集補遺』、中村幸彦校注『風来山人集』(『日本古典文学大系』五五)、水谷不倒『平賀源内』(『中公文庫』)、城福勇『平賀源内の研究』、同『平賀源内』(『人物叢書』一六一)、芳賀徹『平賀源内』(『朝日評伝選』二三)、尾藤正英「江戸時代中期における本草学」(『東京大学教養学部人文科学科紀要』一一)
(尾藤 正英)
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検索コンテンツ
1. 平賀源内画像
日本大百科全書
江戸時代の本草学者ほんぞうがくしゃ、戯作者げさくしゃ。讃岐さぬきの志度浦(香川県さぬき市)の生まれ。幼名を四万吉よもきち。伝次郎、嘉次郎といい、名は国倫くにとも
2. 平賀源内
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1728-79(享保13-安永8) 江戸中期の博物学者,戯作者,浄瑠璃作者。名は国倫(くにとも),号は鳩渓,風来山人,福内鬼外(ふくうちきがい),天竺(てんじく
3. ひらが‐げんない【平賀源内】
日本国語大辞典
江戸中期の本草学者、戯作者、浄瑠璃作者。讚岐国(香川県)の人。本名国倫(くにとも)、字(あざな)は子彜(しい)、号は鳩渓(きゅうけい)、文名は風来山人・天竺浪人
4. ひらがげんない【平賀源内】
全文全訳古語辞典
[人名]江戸中期の本草学者、戯作作者。号は風来山人など。讃岐(香川県)の人。温度計やエレキテルなどを作って世人を驚かせた。滑稽本『風流志道軒伝』、浄瑠璃『神霊矢
5. ひらがげんない【平賀源内】
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[参考文献]入田整三編『平賀源内全集』、同編『平賀源内全集補遺』、中村幸彦校注『風来山人集』(『日本古典文学大系』五五)、水谷不倒『平賀源内』(『中公文庫』)、
6. ひらが-げんない【平賀源内】
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1728−1780* 江戸時代中期の本草家,戯作(げさく)者。享保(きょうほう)13年生まれ。讃岐(さぬき)高松藩の蔵番。江戸で田村藍水(らんすい)にまなび,藍
7. ひらがげんない【平賀源内】
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8. 平賀源内[文献目録]
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内』佐々木基一『平賀源内』中村吉蔵『平賀源内』林鶴一『平賀源内』本田康雄『平賀源内遺聞』刈谷新三郎『平賀源内翁ノ遺書』-『平賀源内研究』森銑三『平賀源内序論』沢
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10. 平賀源内〓沙糖培養法 (見出し語:平賀源内)
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11. 平賀源内製火浣布 (見出し語:平賀源内)
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12. 平賀鳩溪犯罪 (見出し語:平賀源内)
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13. 平賀鳩溪自負其才氣 (見出し語:平賀源内)
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14. ひらがげんないきゅうたく【平賀源内旧宅】香川県:大川郡/志度町/志度村
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墓は東京都台東区総泉寺にあるが、分骨が志度に持帰られ、志度寺塔頭自性院に納められた。現在旧宅は「平賀源内先生遺品館」として公開され、エレキテル、源内焼、薬箪笥、
15. あかまつ-みつのぶ【赤松光信】
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16. 秋田(県)画像
日本大百科全書
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17. あきた‐は【秋田派】
日本国語大辞典
〔名〕秋田地方で生まれた洋風画派。安永二年(一七七三)秋田藩主、佐竹義敦(曙山)に招かれた平賀源内が、秋田藩士小田野直武に洋画技法を伝えたことに始まる。中国の写
18. あきたは【秋田派】
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19. 秋田蘭画
日本大百科全書
つまり洋風画を意味する。秋田派、秋田系洋風画ともいう。1773年(安永2)秋田藩は物産学者の平賀源内を江戸から招いて、領内の鉱山の技術改良と産額増大を図った。源
20. 秋田蘭画
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れた洋風画派。蘭画はオランダ絵,つまり洋風画を意味する。1773年(安永2)に秋田藩を訪れた平賀源内の指導により発足し,同藩主佐竹義敦(曙山),一族の佐竹義躬,
21. あくたかき抄書(著作ID:81141)
新日本古典籍データベース
あくたがきしょうしょ 平賀源内(ひらがげんない) 評判記 
22. 芥川賞
日本大百科全書
寒川光太郎「密猟者」第11回(1940年度上期) 該当者なし第12回(1940年度下期) 桜田常久「平賀源内」第13回(1941年度上期) 多田裕計「長江デルタ
23. あさくさ【浅草】
国史大辞典
羽橋)・靴(浅草六丁目)などの問屋街で知られる。江戸時代の浅草は寺院街でもあった。伊能忠敬・平賀源内・葛飾北斎ら著名人の墓碑も多い。 [参考文献]『御府内備考』
24. アスベスト
世界大百科事典
白水 晴雄 アスベストは繊維でありながら不燃性で,古くローマ時代には珍重され織布が作られていた。平賀源内が作った火浣布(かかんふ)もこのアスベスト布である。現在
25. アスベスト
日本国語大辞典
*舎密開宗〔1837~47〕内八・一五四「亜斯別斯多(アスベスト)〈石絨類〉」平賀源内「火浣布説」「火浣布略説」にラテン語「あすべすとす」の語形で見えるのが早い
26. あないち【穴一】
国史大辞典
また楽あそび・こまとり・羽根つきとともに歌われた。その他にも明和期には「穴市に助言して行く医者の供」とか、平賀源内の『風流志道軒伝』には「正月といへば童までが宝
27. あぶらえ【油絵】
国史大辞典
来日外人の作か舶載品かであろうといわれている。そして確実に日本人が描いた油絵の最古の遺品は、平賀源内が明和七年(一七七〇)に長崎に遊学中に作ったと推定される「西
28. 阿部将翁
日本大百科全書
『採薬使記』ほかの著書がある。高弟の田村藍水らんすい、遠藤元理(生没年不詳)が師の遺業を発展させた。異才平賀源内は田村藍水の弟子である。根本曽代子
29. あまぎゆがしまちょう【天城湯ヶ島町】静岡県:田方郡
日本歴史地名大系
。徳川家康の側室お万の方(のち養珠院)ゆかりの吉奈温泉があり、船原温泉には芒硝の採取のために平賀源内が訪れている。幕府御館山である天城山の狩野口といわれ、湯ヶ島
30. あまくさぐん【天草郡】熊本県
日本歴史地名大系
殖産面では西目筋(天草灘側)一帯における元禄期からの陶石採掘と宝暦一三年(一七六三)の高浜焼開窯があり、平賀源内も「陶器工夫書」で天草の陶土を激賞し、「天下無双
31. あま‐よそい[‥よそひ]【尼装】
日本国語大辞典
〔名〕男が女の装いをすること。女装。*奇想凡想〔1920〕〈宮武外骨〉男色を好みし平賀源内「其変りたる尼装(アマヨソ)ひの美貌が殊の外際立ちて映じたる様子なれば
32. あめふりばな【雨降花】[方言]
日本方言大辞典
秋田県平鹿郡130秋田方言(秋田県学務部学務課)1929《あめふり》 仙台※018物類品隲(平賀源内)1763 野州※035和訓栞(谷川士清)1830~62刊
33. あらいしょうじゅうろう【荒井庄十郎】
国史大辞典
明和八年(一七七一)ごろには稽古通詞の職にあった。やがて本姓荒井に復し、安永七(一七七八)、八年ごろ江戸に出て平賀源内のもとに寄食。かたわら杉田玄白の塾でオラン
34. あらい-しょうじゅうろう【荒井庄十郎】
日本人名大辞典
江戸時代中期の蘭学者。吉雄耕牛(よしお-こうぎゅう)の甥(おい)。安永7年(1778)ごろ江戸にでて平賀源内のもとに寄食し,杉田玄白の塾でオランダ語をおしえた。
35. 荒御霊新田神徳(著作ID:86760)
新日本古典籍データベース
あらみたまにったのしんとく 平賀源内(ひらがげんない) 森羅万象一世(しんらばんしょう1せい) 二一天作(にいちてんさく) 浄瑠璃/義太夫 安永八初演
36. 飯島耕一
日本大百科全書
1990年代後半以降、長編三部作『暗殺百美人』(1996)、『六波羅カプリチョス』(1999)、『小説平賀源内』(2002)を著した。『暗殺百美人』は、第6回ド
37. いけだむら【池田村】香川県:小豆郡/池田町
日本歴史地名大系
同寺には阿波藩士で宋紫石(楠本雪渓)の門人であった画家三木文柳が描いた両界曼荼羅がある。三木は師とともに平賀源内著「物類品隲」の挿絵を描いており、寛政一一年(一
38. いしずみ【石炭】[方言]
日本方言大辞典
石炭。 丹後※035和訓栞(谷川士清)1830~62刊 筑前※018物類品隲(平賀源内)1763 山口県791防長方言調査表(防長史談会)1933 玖珂郡800
39. いしゃころし【医者殺】[方言]
日本方言大辞典
《いしゃだおし》 紀伊※110紀伊続風土記(仁井田好古)1839 肥後上益城郡※018物類品隲(平賀源内)1763(5)しこくふうろ(四国風露)。《いしゃだおし
40. いずのくに【伊豆国】静岡県
日本歴史地名大系
享保九年三島に私塾仰止館を開き、伊豆・駿河の文人に大きな影響を与えた。前述の秋山富南もその門人である。平賀源内は宝暦一三年刊行の「物類品隲」のなかで鎮惣七の知識
41. いそまつ【磯松】[方言]
日本方言大辞典
鹿児島県奄美大島965鹿児島県植物方名集(内藤喬)1955~56(4)藻みる(水松)。 相模※018物類品隲(平賀源内)1763
42. いちのせきじょうあと【一関城跡】岩手県:一関市/一関城下
日本歴史地名大系
となった建部清庵は宝暦の大飢饉の折、民衆の惨状を救うため「民間備荒録」「備荒草木図」を著し、平賀源内や杉田玄白との交遊を通じて書簡「和蘭医事問答」をまとめた。清
43. いわい‐ぐし[いはゐ‥]【岩井櫛】
日本国語大辞典
〔名〕(1)背を銀で飾った伽羅(きゃら)の櫛。平賀源内が考案してつくりだした。源内櫛。(2)江戸時代、明和(一七六四~七二)の頃、女形の名優四世岩井半四郎の当た
44. いわまつ【岩松】[方言]
日本方言大辞典
)。 伊勢※020物類称呼(越谷吾山)1775 紀伊※018物類品隲(平賀源内)1763 讚岐※018物類品隲(平賀源内)1763 久留米※127はまおき(野崎
45. ウナギ画像
日本大百科全書
「むなぎ」とよばれて、古くから滋養豊富な食物とされてきた。土用の丑の日にウナギを食べるのは、平賀源内と蜀山人しょくさんじんの創案ともいわれるが、虚空蔵菩薩こくう
46. 鰻(うなぎ) 【12か月のきまりごと歳時記】画像
生活便利帳
奈良時代からの滋養食品。夏の「土用の丑の日」に食べられるようになったのは、江戸時代に平賀源内がなじみの鰻屋をはやらせようと宣伝用に看板を出したのが始まりとされる
47. うみかんざし【海簪】[方言]
日本方言大辞典
動物うみやなぎ(海柳)。 肥後※018物類品隲(平賀源内)1763
48. うみまつ【海松】[方言]
日本方言大辞典
(1)珊瑚さんご。 相模※018物類品隲(平賀源内)1763 新潟県佐渡352佐渡方言辞典(広田貞吉)1974 山口県見島797見島聞書(瀬川清子)1938 香
49. 江戸小咄集 1 172ページ
東洋文庫
国広小路の見世物に、霧降咲男という屍の芸術を聞かせるものが、安永三年四月に出て評判となった。平賀源内が『放屁論』という書物をかいた程である会)曲屍の紹介・口上・
50. 江戸時代画像
日本大百科全書
百花斉放とよべるような思想・学問・文芸の開花期を迎えた。本居宣長もとおりのりなが、安藤昌益あんどうしょうえき、平賀源内ひらがげんないらの多彩な才能が輩出した。同
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平賀源内と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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