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  11. 川路聖謨

川路聖謨

ジャパンナレッジで閲覧できる『川路聖謨』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

川路聖謨
かわじとしあきら
[1801―1868]

江戸末期の政治家。幕府の徒士 (かち)内藤吉兵衛 (きちべえ)の子として豊後 (ぶんご)国(大分県)日田に生まれ、小普請 (こぶしん)組川路三左衛門光房 (さんざえもんみつふさ)の養子となる。通称弥吉 (やきち)、のち三左衛門。18歳のとき出仕し、下級武士の出身で初めて支配勘定出役 (しはいかんじょうでやく)となったが、能力を認められて累進、小普請奉行 (ぶぎょう)、奈良奉行、大坂町奉行を歴任し、1852年(嘉永5)勘定奉行となり海防掛を兼ねた。53年ロシア使節プチャーチンの来航に際しては外交交渉のため長崎に赴き、さらに翌54年ふたたび伊豆下田において折衝し日露和親条約を結んだ。ロシア側では、この間の川路の手腕を高く評価している。その後、条約勅許・将軍継嗣 (けいし)問題で一橋 (ひとつばし)派と目され、大老井伊直弼 (なおすけ)にその地位を追われた。63年(文久3)外国奉行となったが、老齢のため数か月で辞職。68年江戸開城締約の翌日(3月15日)ピストル自殺を遂げた。彼の実弟松吉は、幕臣井上新右衛門 (しんえもん)の養子となり、のち外国奉行井上信濃守清直 (しなののかみきよなお)としてハリスの応接にあたり、兄弟ともに幕末外交史上に活躍した。

[加藤榮一]



世界大百科事典

川路聖謨
かわじとしあきら
1801-68(享和1-明治1)

幕末の勘定奉行で,能吏として知られた。通称は左衛門尉,号は敬斎。豊後の人。父は豊後国日田の代官所の属吏だったが,聖謨は小普請組川路光房の養子となって川路家を継ぎ,勘定所の筆算吟味に合格して勘定方勤務となる。役人の階段を一つずつ上るうち1835年(天保6)の仙石騒動断罪で手腕を発揮し,勘定吟味役に抜擢された。次いで佐渡奉行,小普請奉行,奈良奉行,大坂町奉行などを経て,52年(嘉永5)勘定奉行に昇進する。ペリー来航以前にたたきあげでここまで上ったのは珍しい例だった。53年プチャーチンが長崎に来ると露使応接掛を命じられて西下,続いて翌年には下田で日露和親条約を結んだ。老中阿部正弘,堀田正睦につらなる開明派幕吏の一人とみなされて安政の大獄で左遷,退隠を余儀なくされ,文久年間に短期間外国奉行を務めたがすぐ辞職隠居,中風で半身不随となった。戊辰3月,江戸開城のうわさを聞いてピストルで自殺する。文筆をよくし,露使と応接した《長崎日記》《下田日記》をはじめ,多くの遺著があり,《川路聖謨文書》8巻に収める。
[松浦 玲]

[索引語]
仙石騒動 日露和親条約


国史大辞典

川路聖謨
かわじとしあきら
一八〇一 - 六八
江戸時代末期の勘定奉行。名は聖謨、通称は弥吉、ついで三左衛門、叙爵して左衛門尉と称し、隠居して敬斎と号し、死の直前に頑民斎と改めた。享和元年(一八〇一)四月二十五日、幕府直轄領の豊後国日田(大分県日田市)に生まれた。父は日田代官所の属吏内藤吉兵衛歳由。文化五年(一八〇八)父が幕府の徒士組に転じたので、伴われて江戸に移り、同九年十二歳で小普請組川路三左衛門光房の養子となった。はじめ小普請組から支配勘定出役・評定所留役を経て、文政十年(一八二七)寺社奉行吟味調役となり、天保六年(一八三五)出石藩主仙石家の内紛の断獄にあたり、奉行脇坂安董を扶けて能吏としての名を挙げ、勘定吟味役に抜擢され、同十一年佐渡奉行、翌十二年小普請奉行、同十四年普請奉行、弘化三年(一八四六)奈良奉行、嘉永四年(一八五一)大坂町奉行を歴任、翌五年九月勘定奉行に昇進し海防掛を兼ねた。同六年六月ペリーの浦賀来航には国書の受理を主張し、また若年寄本多忠徳に従って房総海岸を巡視した。ついでプチャーチンの長崎来航により、同年十月露使応接掛を命ぜられ、十二月以降長崎において、翌安政元年(一八五四)十一月以降下田において談判し、十二月二十一日大目付筒井政憲とともに日露和親条約に調印した。翌二年八月禁裏造営掛を命ぜられ、上京して大任を果たした。同三年十月老中堀田正睦が外国事務取扱を兼ねると、外国貿易取調掛を命ぜられ、翌四年八月にはハリス上府用掛となった。同五年正月正睦が条約勅許奏請のため上京するにあたり、外国事情に通じているところから目付岩瀬忠震とともに随行を命ぜられた。かつて奈良奉行時代に青蓮院宮尊融入道親王(のち朝彦親王)に知遇を得、また禁裏造営掛として公卿間にも知己が多く、大いに運動したが失敗し、四月正睦と帰府した。時に政治問題となっていた将軍継嗣では、一橋慶喜を擁立する一橋派に属していたため、大老に就任した井伊直弼に疎まれ、同年五月西丸留守居の閑職に左遷され、翌六年八月さらに免職・隠居を命ぜられ、差控に処せられ、家督は嫡孫太郎(寛堂)が継いだ。文久三年(一八六三)五月外国奉行に起用されたが、十月老疾をもって辞した。以来官途につかず、慶応二年(一八六六)二月中風を発して身体の自由を失い、読書に親しみ、かつ徳川家の高恩を思い、奉公の念を忘れなかった。明治元年(一八六八)三月十五日の朝、東征軍が迫って江戸開城も目前にあるを察し、表六番町(千代田区六番町)の自宅において「天津神に背くもよかり蕨つみ飢にし人の昔思へは 徳川家譜代之陪臣頑民斎川路聖謨」の辞世を残し、割腹ののち、短銃をもって果てた。六十八歳。法名は誠恪院殿嘉訓明弼大居士。上野池ノ端七軒町(台東区池之端)大正寺に葬った。贈従四位。聖謨は平素文筆に親しんで多くの遺著を残したが、遠国奉行中の日記をはじめ、露使と応接した『長崎日記』『下田日記』、京都に使いした『京都日記』『京日記』および晩年の日記は『川路聖謨文書』全八巻(『日本史籍協会叢書』)に収められる。ちなみに下田奉行・外国奉行などを歴任、外交の第一線で活躍した井上清直は聖謨の実弟である。
[参考文献]
川路寛堂『川路聖謨之生涯』
(吉田 常吉)
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1. 川路聖謨
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江戸末期の政治家。幕府の徒士かち内藤吉兵衛きちべえの子として豊後ぶんご国(大分県)日田に生まれ、小普請こぶしん組川路三左衛門光房さんざえもんみつふさの養子となる
2. 川路聖謨
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聞いてピストルで自殺する。文筆をよくし,露使と応接した《長崎日記》《下田日記》をはじめ,多くの遺著があり,《川路聖謨文書》8巻に収める。松浦 玲 仙石騒動 日露
3. かわじ‐としあきら【川路聖謨】
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幕末の勘定奉行。豊後の人。号、敬斎。江戸小普請組川路光房の養子となり、のち幕府の勘定吟味役、佐渡奉行、普請奉行、大坂町奉行、勘定奉行、外国奉行などを歴任、名声を
4. かわじとしあきら【川路聖謨】画像
国史大辞典
記は『川路聖謨文書』全八巻(『日本史籍協会叢書』)に収められる。ちなみに下田奉行・外国奉行などを歴任、外交の第一線で活躍した井上清直は聖謨の実弟である。 [参考
5. 川路聖謨(かわじとしあきら)
古事類苑
外交部 洋巻 第1巻 1578ページ
6. かわじ-としあきら【川路聖謨】
日本人名大辞典
1801−1868 江戸時代後期の武士。享和元年4月25日生まれ。幕臣。勘定奉行兼海防掛となり,安政元年伊豆(いず)下田で日露和親条約に調印。5年日米修好通商条
7. 川路聖謨[文献目録]
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8. 川路聖謨蔵書印[図版]画像
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10. 川路聖謨詠草(著作ID:826197)
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11. 川路聖謨歌稿(著作ID:826200)
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12. 川路聖謨詩歌稿日次(著作ID:826211)
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13. 川路聖謨詩稿(著作ID:826222)
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かわじとしあきらしこう 川路聖謨(かわじとしあきら) 漢詩 
14. 川路聖謨之生涯(著作ID:4398914)
新日本古典籍データベース
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15. 川路聖謨臨終之述懐(著作ID:4400791)
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16. 川路聖謨魯使応接日記(著作ID:996612)
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17. 羽倉用九与川路聖謨書(著作ID:411314)
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18. 阿部正弘画像
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松平慶永よしなが(越前えちぜん)、山内豊信やまうちとよしげ(土佐)ら有力諸大名との協調を図り、また川路聖謨かわじとしあきら、永井尚志なおゆき(「なおむね」とも読
19. あんせいのかいかく【安政の改革】
国史大辞典
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20. 安政の大獄画像
日本大百科全書
慶永に隠居、急度慎を命じ、幕吏中の俊秀大目付土岐頼旨ときよりむね、勘定奉行かんじょうぶぎょう川路聖謨かわじとしあきら、目付鵜殿長鋭うどのながとし、京都町奉行浅野
21. 安政の大獄
世界大百科事典
島藩主伊達宗城,土佐藩主山内豊信ら雄藩の大名と,幕府の海防掛であった大目付土岐頼旨,勘定奉行川路聖謨,目付永井尚志,同岩瀬忠震,同鵜殿長鋭,田安家家老水野忠徳ら
22. あんせいのたいごく【安政の大獄】
国史大辞典
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23. いけのはたしちけんちよう【池之端七軒町】東京都:台東区/旧下谷区地区地図
日本歴史地名大系
建て大正庵と称し、寛永八年に大正寺と改め京都妙覚寺(現京都市上京区)の末頭になった(寺社備考)。川路聖謨の墓がある。同宗妙顕寺の境内は除地。浄土真宗忠綱寺(現真
24. いずのくに【伊豆国】静岡県
日本歴史地名大系
行い、宿泊は大仁村・湯ヶ島村、梨本村(現河津町)などが利用された。とくに幕末下田が開港されると川路聖謨など幕府役人の往来が頻繁となり、出府するハリスもこの道を使
25. いなとりむら【稲取村】静岡県:賀茂郡/東伊豆町
日本歴史地名大系
天保二年(一八三一)の家数六〇〇(天保一四年「歎願書」東伊豆町役場蔵)。安政二年に当村に止宿した川路聖謨は「三百石の村なれど人別三千人有り」と記す(下田日記)。
26. いのう-いちうん【伊能一雲】
日本人名大辞典
淵藩の槍術指南となり,江戸藩邸で藩主林忠英(ただふさ)につかえる。門弟に藤田東湖(とうこ),川路聖謨(かわじ-としあきら)。また神谷潤亭にならった一節切(ひとよ
27. 井上清直
日本大百科全書
三男。与力よりき井上新左衛門の養子。松吉、新右衛門しんえもんと称し、のち信濃守しなののかみ。川路聖謨かわじとしあきらの実弟。幕府評定所ひょうじょうしょ書物方、勘
28. 井上清直
世界大百科事典
1809-67(文化6-慶応3) 幕末の政治家。信濃守。日田代官属吏内藤家の三男で,川路聖謨(としあきら)の実弟。与力井上家の養子。1855年(安政2)阿部正弘
29. いのうえ‐きよなお【井上清直】
日本国語大辞典
江戸末期の幕臣。川路聖謨(としあきら)の弟。下田奉行、外国奉行、勘定奉行、関東郡代などを歴任。文化六~慶応三年(一八〇九~六七)
30. いのうえきよなお【井上清直】
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代官所属吏で幕府徒士組に転じた内藤吉兵衛の次男に生まれ、のち与力井上新左衛門の養子となった。川路聖謨の弟。弘化四年(一八四七)十二月勘定組頭格となり、安政二年(
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1809−1868* 江戸時代後期の武士。文化6年生まれ。川路聖謨(としあきら)の弟。幕臣。安政2年(1855)下田奉行となる。ハリスと折衝し,4年下田条約に,
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国史大辞典
同三年七月米国総領事ハリスが着任すると、下田に特派され、下田奉行とともに応接にあたり、九月には幕命により川路聖謨・水野忠徳と水戸老侯徳川斉昭に外交事情を報告、通
33. いわみぎんざんあと【石見銀山跡】島根県:大田市/佐摩村
日本歴史地名大系
ことを述べている。もう一つ問題なのが坑内労働者特有の鉱山病であった。天保の頃佐渡奉行であった川路聖謨は「彼山大工に成て七年の寿を保つものなしと、いづれも同病にて
34. うえだ-ちかぜ【上田千風】
日本人名大辞典
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徳川斉昭に国許永蟄居、徳川慶喜に隠居・謹慎、水戸藩主徳川慶篤に差控を命じ、また岩瀬忠震・永井尚志・川路聖謨ら一橋派を処罰.水戸藩士安島帯刀を切腹、 茅根伊予之介
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38. うねびやまのうしとらのすみのみささぎ【畝傍山東北陵】 : 神武天皇
国史大辞典
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39. えがわたろうざえもん【江川太郎左衛門】
国史大辞典
西洋砲の借用を許した。そしてその翌年九月には英竜に西洋砲術の教授を許可した。そのため入門するものは、幕臣川路聖謨・松代藩士佐久間象山はじめ、約一ヵ月の間に百名近
40. 江川英龍画像
日本大百科全書
鋭音号令(気ヲ付ケ、前ヘナラエ、捧ささゲ銃つつ)の考案、パンの製作などがある。門人には、佐久間象山しょうざん、川路聖謨としあきら、阿部正弘まさひろなどがいる。仲
41. おおくらだにしゅく【大蔵谷宿】兵庫県:明石市/大蔵谷村
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住野家文書)。住野家文書によれば、伊能忠敬、医師シーボルト、幕末の幕臣で外交に手腕をふるった川路聖謨のほか、島津讃岐守、島津信濃守、松平下野守などの一行も、参勤
42. 大田垣蓮月[文献目録]
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田辰『お茶から見た蓮月尼』桑山太市『歌人蓮月尼』小林賤緒『「上方女性鑑」の諸相』藤田徳太郎『川路聖謨と蓮月尼』高梨光司『特集・蓮月尼』-『南洲翁と蓮月尼』村上素
43. おおままち【大間町】新潟県:佐渡郡/相川町/相川町
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を運び上げるためである。宝暦八年の番所廃止後も港の機能は失われず、天保一一年(一八四〇)奉行川路聖謨の在勤日記「島根のすさみ」には、奉行の島内巡視の折、まず大間
44. おおやまづみじんじゃ【大山祇神社】新潟県:佐渡郡/相川町/相川町
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ニテ登リ、舗毎ニ祈祷ノ板札ヲ納ム」とあって、神官が鉱山の繁栄と坑内安全の祈祷に登山していた。川路聖謨の「島根のすさみ」天保一二年(一八四一)正月六日条に「元朝、
45. おかもとかてい【岡本花亭】
国史大辞典
父荘蔵政苗は勘定奉行の属吏、母は鈴木平兵衛の女で渡辺与惣兵衛尚の養女。花亭も父の跡を継ぎ、矢部定謙・川路聖謨・羽倉用九(簡堂)らと親交があった。文政元年(一八一
46. 小栗忠順[文献目録]
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田における小栗さん 仁義併存碑ものがたり』大坪元治『小栗上野介研究資料落穂ひろい』大坪元治『川路聖謨と小栗上野介』小西四郎『江戸幕府その実力者たち 』北島正元『
47. かのうら【鹿野浦】新潟県:佐渡郡/相川町/北片辺村
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鹿野浦川・中ノ川・京塚川の三本の川の流砂によって開けた地。南側の戸中から続く旧道の坂道は、四十二曲りといい、川路聖謨の「島根のすさみ」にも記される海府道最大の難
48. かみよしだむら【上吉田村】埼玉県:秩父郡/吉田町地図
日本歴史地名大系
高札場が各組一ヵ所、女形・明ヶ平・女部田にあった。しかし嘉永六年下郷の千萱・久形・女部田が旗本川路聖謨の知行地となったため、下郷も二組に分れた(前掲万写帳など)
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1804−1884 江戸後期-明治時代,川路聖謨(としあきら)の妻。文化元年生まれ。慶応4年新政府軍の江戸城入城がせまり,夫が自殺した際,おちついてその始末にあ
50. 川路柳虹
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詩人、美術評論家。東京・芝に生まれる。本名誠。祖父は川路聖謨としあきら。東京美術学校卒業。河井酔茗すいめいの『文庫』『詩人』に寄稿して詩人として出発。1907年
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