NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1900冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史上の人物
  8. >
  9. 日本史上の人物
  10. >
  11. 高島秋帆

高島秋帆

ジャパンナレッジで閲覧できる『高島秋帆』の世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

改訂新版 世界大百科事典
高島秋帆
たかしましゅうはん
1798-1866(寛政10-慶応2)

幕末の長崎会所調役頭取で砲術家。名は茂敦,通称は四郎太夫,秋帆は号。長崎防備のため,はじめ荻野流砲術を学び,のち出島のオランダ人から西洋砲術を学んで,これを高島流砲術と名づけた。西洋近代砲術を最初に紹介したものといえる。アヘン戦争が起こった1840年(天保11),幕府に上書して西洋砲術の採用を説いた。翌年幕命で出府し,徳丸ヶ原で操練を行い,名声を得た。幕府は高島流砲術を採用することとし,彼の所持する大砲を購入し,あわせて代官江川太郎左衛門に砲術の伝授を命じた。これ以後,西洋砲術は江戸では江川を中心にして普及した。他方,秋帆は幕府の守旧派勢力の忌むところとなり,ついに42年10月投獄された。しかしペリー艦隊の来航により赦免され,江川の下で鋳砲に従事し,のち56年(安政3)講武所砲術師範に挙げられ,幕府の軍事近代化に寄与した。
[佐藤 昌介]

[索引語]
高島四郎太夫 高島流砲術 江川太郎左衛門


国史大辞典
高島秋帆
たかしましゅうはん
一七九八 - 一八六六
江戸時代後期の砲術家。諱は茂敦、字は舜臣、通称は四郎太夫、秋帆はその号である。寛政十年(一七九八)長崎町年寄高島四郎兵衛の三男として長崎に生まれる。父のあとをつぎ、のち長崎会所調役頭取となった。長崎港の防備を担当した関係で、はじめ荻野流砲術を学んだが、のち出島の蘭人から西洋砲術を学び、これを高島流砲術とよんだ。西洋近代砲術を最初に紹介したものといえる。伝存する『高島流砲術秘伝書』は、オランダの砲術入門書の翻訳である。天保十一年(一八四〇)九月、秋帆は幕府に上書して、アヘン戦争の戦況を伝え、清国側の敗北を砲術の未熟に帰して、西洋砲術の採用による武備の強化を進言した。翌年幕命により出府し、徳丸ヶ原で秋帆所持の輸入砲四挺の実射と歩騎兵の演練を行なった。そのため名声がおおいに挙がり、幕府は高島流砲術を採用することとして、前記の輸入砲をすべて買い上げ、あわせて代官江川英竜(太郎左衛門)に砲術の伝授を命じた。すでにこれ以前に佐賀藩および薩摩藩が高島流砲術を採用しているが、幕府についで諸藩がひろく高島流砲術を採用するのは、これ以来である。秋帆の在府中にかなりの門人があり、ほぼ確認できる数をあげると、幕臣(陪臣を含む)は十一人、諸藩士は十三藩にわたり、三十人である。さらに長州藩では、秋帆の帰国後、藩士を派遣して入門させているが、他藩でも同様の例がみられる。しかし、他方、高島流砲術の隆盛は、幕府内部の守旧派の忌むところとなり、当時町奉行の鳥居耀蔵(甲斐守忠耀)が長崎奉行伊沢政義と組んで秋帆を罪におとしいれようとした。そのため天保十三年十月に秋帆は逮捕されて江戸に送られ、町奉行鳥居の手で取調べをうけ、のち評定所で再吟味が行われ、弘化三年(一八四六)七月に中追放の判決をうけて、武州岡部藩に預けられた。嘉永六年(一八五三)ペリー艦隊の来航に伴い、江川英竜の進言により赦免されて、通称を喜平と改め、江川のもとで鋳砲に従事し、のち講武所砲術師範にあげられて、幕府の軍事の近代化に寄与した。慶応二年(一八六六)正月十四日没。六十九歳。墓は東京都文京区向丘一丁目の大円寺にある。法名皎月院殿碧水秋帆居士。→徳丸ヶ原(とくまるがはら)
[参考文献]
有馬成甫『高島秋帆』(『人物叢書』八)、佐藤昌介『洋学史の研究』
(佐藤 昌介)
上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


高島秋帆の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 189
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. 高島秋帆
世界大百科事典
1798-1866(寛政10-慶応2) 幕末の長崎会所調役頭取で砲術家。名は茂敦,通称は四郎太夫,秋帆は号。長崎防備のため,はじめ荻野流砲術を学び,のち出島のオ
2. たかしま‐しゅうはん【高島秋帆】
日本国語大辞典
江戸後期の砲術家。長崎の人。名は茂敦。字は舜臣(きみおみ)。通称糾之丞(ただのじょう)、四郎太夫。蘭学、兵学を学んで大砲鋳造を行ない、日本最初の西洋砲術である高
3. たかしましゅうはん【高島秋帆】
国史大辞典
大円寺にある。法名皎月院殿碧水秋帆居士。→徳丸ヶ原(とくまるがはら) [参考文献]有馬成甫『高島秋帆』(『人物叢書』八)、佐藤昌介『洋学史の研究』 (佐藤 昌介
4. 高島秋帆(たかしましゅうはん)
古事類苑
武技部 洋巻 第1巻 894ページ
5. たかしま-しゅうはん【高島秋帆】
日本人名大辞典
1798−1866 江戸時代後期の砲術家。寛政10年8月15日生まれ。長崎町年寄の父の跡をつぐ。オランダ人から西洋砲術をまなぶ。天保(てんぽう)12年武蔵(むさ
6. 高島秋帆[文献目録]
日本人物文献目録
追補』柿沢利雄『高島秋帆先生の印』大槻文彦『高島秋帆先生の印文』押上森蔵『高島秋帆伝』-『高島秋帆と佐久間象山』藤井定義『高島秋帆とその時代 1‐2』有馬成甫『
7. 高島秋帆
日本史年表
1840年〈天保11 庚子〉 9・‐ 高島秋帆 、西洋砲術の採用による武備の強化を進言(陸軍歴史)。 1841年〈天保12 辛丑①〉 5・9 高島秋帆 、幕命
8. たかしましゅうはんていあと【高島秋帆邸跡】長崎県:長崎市/小島村
日本歴史地名大系
[現]長崎市東小島町 江戸時代末期の砲術家高島秋帆の居宅跡。国指定史跡。秋帆は寛政一〇年(一七九八)長崎町年寄の高島四郎兵衛茂紀の三男として生れた。四郎大夫(の
9. 秋帆上書(著作ID:225105)
新日本古典籍データベース
しゅうはんじょうしょ 高島喜平上書 高島四郎太夫上書 高島秋帆上書 高島秋帆上表 高島上書 高島秋帆(たかしましゅうはん) 政治 
10. 高島某所伝銃陣法(著作ID:4410208)
新日本古典籍データベース
たかしまぼうしょでんじゅじんほう 高島秋帆銃陣法 高島銃陣説 高島秋帆(たかしましゅうはん) 砲術 
11. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 251ページ
東洋文庫
隠居して鳩翁と 号した。江川太郎左衛門〔天9一翌〕 幕臣、兵術家。代々 伊豆韮山の代官、名は英竜。高島秋帆に砲術を学 び、ペリi来航に際し勘定吟味役となり、品川
12. あきぐんこおりぶぎょうしょあと【安芸郡郡奉行所跡】高知県:安芸郡/田野町/田野村
日本歴史地名大系
率いて参加した。奉行所併設の田野学館では、文武両道が教授され、清岡道之助・同治之助らが教鞭をとったが、高島秋帆の門人田所左右次が洋式砲術を教授したこともある。学
13. アヘン戦争画像
世界大百科事典
年(文政8)以来の異国船打払令を撤回し,薪水給与令を発して紛争の回避をはかる一方,長崎町年寄高島秋帆の建言により,彼が研究を重ねてきた西洋流砲術を採用して伊豆韮
14. あべ-のぶたか【安部信宝】
日本人名大辞典
父の跡をつぎ,天保13年武蔵(むさし)岡部藩(埼玉県)藩主安部家12代となる。追放となった砲術家の高島秋帆(しゅうはん)を幕府よりあずかる。大坂加番,二条定番を
15. あらき-せんしゅう【荒木千洲】
日本人名大辞典
明治9年6月15日死去。70歳。名は一。字(あざな)は世万。通称は千十郎。別号に春潭など。代表作に「高島秋帆徳丸原演習図」。
16. ありさか-ながため【有坂長為】
日本人名大辞典
周防(すおう)(山口県)岩国藩主吉川(きっかわ)家につかえていたが,家伝の砲術に満足せず,長崎にでて高島秋帆(しゅうはん)にまなぶ。西洋の砲術が世に知られるよう
17. 有坂成章
世界大百科事典
1852-1915(嘉永5-大正4) 明治時代の軍事技術者。岩国に生まれる。祖父淳蔵,父隆助は砲術家高島秋帆の門に学んだ岩国藩士。大阪兵学寮の幼年舎出身。数学,
18. あんなかじょうあと【安中城跡】群馬県:安中市/安中城下
日本歴史地名大系
また藩主の相続を祝して藩士・領民ともに参加する猪狩を実施するなど、文武両道を奨励した。近代的砲術の先駆者高島秋帆を招き、また同年からは碓氷峠、榛名神社(現群馬郡
19. あんなかはん【安中藩】
国史大辞典
藩主勝明は大山融斎・山田三川らの儒者を聘して造士館の拡充をはかるとともに武芸者を重用し、藩士数人を高島秋帆のもとに師事させ、他に先駆けて西洋砲術を一藩に採用して
20. いえん‐りゅう[ヰヱンリウ]【威遠流】
日本国語大辞典
〔名〕江戸末期の砲術の一流派。嘉永(一八四八~五四)頃、高島秋帆の門人下曾根金三郎信敦が創始。文久二年(一八六二)江戸、麹町に砲術調練所桂園塾を設けて、広く各藩
21. いけべ-けいた【池部啓太】
日本人名大辞典
肥後熊本藩士。九州にきた伊能忠敬(ただたか)に測量術を,長崎の末次忠助(ちゅうすけ)に天文学を,高島秋帆(しゅうはん)に西洋砲術をまなぶ。熊本藩暦算師範で砲術師
22. いしびや【石火矢】
国史大辞典
撃を行なったもの。第三は天保十二年(一八四一)五月九日武蔵国徳丸ヶ原(東京都板橋区)において高島秋帆が紹介したものである。この時はすでに大口径砲には、鋳鉄中空弾
23. いずのくに【伊豆国】静岡県
日本歴史地名大系
これが成功すると英龍は下田防備の農兵設立を再三建言する。農兵制度は英龍存命中には実現しなかったが、高島秋帆に西洋砲術を学んだのち雷管銃の製作や大砲鋳造・反射炉研
24. 板橋(区)画像
日本大百科全書
川越かわごえ街道(国道254号)沿いに都市化が進み、とくに第二次世界大戦後の人口増加が著しい。高島秋帆しゅうはんの名にちなんだ高島平たかしまだいらには、1970
25. いちかわ-まんあん【市河万庵】
日本人名大辞典
天保(てんぽう)9年3月21日生まれ。市河米庵の子。市河三喜の父。幕府につかえ,江川太郎左衛門,高島秋帆(しゅうはん)に洋式砲術をまなび鉄砲方となる。海保酔茗に
26. いちはしし【市橋氏】画像
国史大辞典
直方は大番の頭などを勤仕したことが知れるが、長富は天保十四年(一八四三)幕命により江戸邸御預けとなった高島秋帆について西洋砲術を藩士に習熟させ、その子長義は幕末
27. いちはし-ながよし【市橋長義】
日本人名大辞典
天保(てんぽう)15年近江(おうみ)(滋賀県)仁正寺(にしょうじ)藩主市橋家10代。江戸藩邸に幽閉中の高島秋帆(しゅうはん)に,西洋砲術とオランダ語をまなぶ。文
28. いのうえ-ちくいつ【井上竹逸】
日本人名大辞典
1814−1886 江戸後期-明治時代の画家。文化11年生まれ。幕臣梶川与曾兵衛につかえ文武を修業,長崎の高島秋帆に砲術をまなぶ。のち谷文晁(ぶんちょう),渡辺
29. いのうえりゅう【井上流】画像
国史大辞典
空は放つ所で、結局その要領を得て無念無想の空観を獲よと説いている。科学の進歩発達を無視し、幕末に西洋流(高島秋帆)が紹介せられたときその採用に反対を唱え、ついに
30. いのうえりゅう【井上流】 : 井上流/(一)
国史大辞典
空は放つ所で、結局その要領を得て無念無想の空観を獲よと説いている。科学の進歩発達を無視し、幕末に西洋流(高島秋帆)が紹介せられたときその採用に反対を唱え、ついに
31. えがわ‐たろうざえもん【江川太郎左衛門】
日本国語大辞典
太郎左衛門は、歴代当主の通称。号は坦庵(たんあん)。伊豆韮山の代官。海防について幕府に進言。高島秋帆に砲術を学んでその普及に力を尽くし、韮山の反射炉や品川砲台を
32. えがわたろうざえもん【江川太郎左衛門】
国史大辞典
閣老水野の配慮によりあやうく難を免れた。アヘン戦争(一八四〇-四二)の際、幕府は兵制改革に関する高島秋帆の建議をいれて、同十二年高島を江戸に招き、その所持する西
33. 江川太郎左衛門英竜[文献目録]
日本人物文献目録
望月寛一郎(記)『江川太郎左衛門先生』志賀重昻『江川太郎左衛門』古見一夫『江川太郎左衛門』古見一夫『高島秋帆・江川坦庵』伊藤痴遊『実伝江川坦庵』戸羽山瀚『技術家
34. 江川英龍画像
日本大百科全書
渡辺崋山かざんの援助を受けたことから洋学嫌いの目付鳥居耀蔵ようぞうと対立、蛮社の獄となる。1841年、高島秋帆しゅうはん(1798―1866)の兵制改革案を支持
35. えがわ-ひでたつ【江川英竜】
日本人名大辞典
山(にらやま)(静岡県)代官職をつぎ,36代太郎左衛門を称し,民政の改革につくす。海防のため高島秋帆(しゅうはん)に砲術をまなび,佐久間象山,木戸孝允(たかよし
36. 江戸参府紀行 277ページ
東洋文庫
菅原碩次郎 一七九六-一八三七。名は宗碩。春谷または猜蘭斎と号した。高島四郎兵衛の子で、有名な砲術家高島秋帆(一七九八-一八六六)の弟。久松家の養子となり、ジー
37. 江戸参府紀行 340ページ
東洋文庫
する(蛮社の獄)。小関三英自殺。!1月!7日、オランダ国王からヨソクヘールの爵位を授けられる。・高島秋帆投獄される。・柳亭種彦没する。・清国、英と南京条約を結び
38. おおき-とうじゅうろう【大木藤十郎】
日本人名大辞典
江戸時代後期の砲術家。天明5年生まれ。長崎奉行所につとめながら,坂本天山に荻野(おぎの)流砲術を,高島秋帆に洋式砲術をまなぶ。また,オランダ人から汽船運用法や反
39. 大島高任画像
日本大百科全書
ダ人ヒュゲーニンU. Huguenin(1755―1833)原著。1826)を訳述したほか、高島秋帆たかしましゅうはん(1798―1866)の子、浅五郎あさごろ
40. おおた-とうこう【大田稲香】
日本人名大辞典
文化7年12月14日生まれ。広瀬淡窓に師事し,文政13年長崎で砲術をおさめる。天保(てんぽう)12年高島秋帆にしたがって江戸にいき,砲術演習に参加。同年長門(な
41. 大槻俊斎
日本大百科全書
(?―1838)の紹介で足立長雋ちょうしゅんから蘭学を修得。1837年(天保8)長崎に遊学、高島秋帆しゅうはん(1798―1866)らに学び、緒方洪庵おがたこう
42. おおつきばんけい【大槻磐渓】画像
国史大辞典
天保三年(一八三二)藩の儒員に挙げられ、以来儒学に専心し、文章家として名をなした。同十二年五月旧友高島秋帆の徳丸原における砲術演習を見学、これより西洋砲術を志し
43. おおつき-りゅうのしん【大槻竜之進】
日本人名大辞典
1802−1870 幕末の砲術家。享和2年生まれ。大槻俊斎の兄。陸奥(むつ)仙台藩の重臣片倉氏の家臣。砲術を高島秋帆,江川英竜,佐久間象山にまなぶ。安政3年藩の
44. おかべはんじんやあと【岡部藩陣屋跡】埼玉県:大里郡/岡部町/岡部村地図
日本歴史地名大系
弘化三年(一八四六)七月二五日、天保改革期の幕府内対立が原因で捕らわれの身となっていた洋流砲術家高島秋帆が岡部陣屋に幽閉され、嘉永六年(一八五三)八月六日代官江
45. 荻野流
日本大百科全書
秋田藩など全国に広がりをみせ、信州高遠たかとおの坂本天山(荻野流増補新術、天山流の祖)や幕末に活躍した高島秋帆しゅうはんなど著名な砲術家を出している。渡邉一郎
46. おはらてっしん【小原鉄心】
国史大辞典
。ペリー初航以来海外の形勢に留意し、幕臣下曾根金三郎の門に入って砲術を究め、また佐久間象山・高島秋帆・大槻磐渓に師事し、翌二年藩に兵制改革を建議して用いられた。
47. かいこくろん【開国論】
国史大辞典
積極的に開国論を唱えたのは、大名では福岡藩主黒田斉溥(長溥)、幕臣では向山源太夫・勝麟太郎(海舟)・高島秋帆などごく少数にかぎられた。しかし対米交渉の過程で、開
48. かいぼうもんだい【海防問題】
国史大辞典
再び国防への関心が高まった。特にアヘン戦争の勃発は幕府に非常な衝撃を与え、閣老水野忠邦は長崎の砲術家高島秋帆を江戸に招き西洋近代砲術の採用による軍事改革に着手し
49. かとう-きんぺい【加藤金平】
日本人名大辞典
寛政12年生まれ。越後(えちご)(新潟県)高田藩士。天保(てんぽう)12年(1841)藩命で高島秋帆に,のち下曾根金三郎にまなぶ。帰藩して大砲の鋳造,銃隊の編制
50. かわぐちいもの【川口鋳物】画像
国史大辞典
さを買われて幕府・諸藩からの注文により幕末には大砲の製造をも手がけ、文久三年(一八六三)には高島秋帆から褒状を受けた鋳物師もある。上に見たとおり明暦の大火以降の
「高島秋帆」の情報だけではなく、「高島秋帆」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

高島秋帆と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
日本史上の人物と同じカテゴリの記事をもっと見る


「高島秋帆」は人物に関連のある記事です。
その他の人物に関連する記事
ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
人物に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1900冊以上(総額850万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶