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  11. 以心崇伝

以心崇伝

ジャパンナレッジで閲覧できる『以心崇伝』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
以心崇伝
いしんすうでん
一五六九 - 一六三三
江戸時代前期の臨済宗の僧侶。金地院崇伝・伝長老ともいわれる。足利義輝の臣一色秀勝の子で、足利氏が滅亡したのち、南禅寺に赴いて玄圃霊三に師事した。醍醐の三宝院に学んだこともあるが、のちに南禅寺金地院の靖叔徳林についてその法をついだ。そののち、慶長十年(一六〇五)建長寺、ついで同年三月南禅寺に住し、同寺の復興を成しとげ、金地院に住んだ。鹿苑僧録となった西笑承兌と親しかった関係で、徳川家康に接近する機会を得、同十三年、その招きをうけて駿府に赴き、外交文書を掌るに至り、こののち幕府の外交事務はほとんど崇伝の手によって行われるようになった。その間のことを記したのが『異国日記』である。ついで同十五年四月、駿河に金地院を開いて住んだが、さらに同十七年八月、家康の命をうけて、板倉勝重とともに寺社行政の事務にあたった。かの大坂冬の陣においては、翌十八年から家康の側近にあって参謀をつとめ、方広寺の鐘銘および大仏殿棟札の問題にあたっても、終始家康の真意を体して、これを実行に移し、さらに戦後の処分にあたっても強硬な態度をもってつらぬいた。このために憎まれ役を買ったが、幕府に対する功績はきわめて大きかった。元和二年(一六一六)家康の死後、その神祀のことについて、吉田神道を支持して山王一実神道によることを主張した天海とあらそって敗れたが、なお幕府の枢機にあずかり、外交および寺社行政など天下の政治に参画した。元和四年江戸芝に金地院をひらき、さらに翌五年九月には僧録に任ぜられ、鹿苑僧録や蔭凉職にかわって、五山・十刹・諸山の住持任免権など禅院行政の実権をその掌中におさめるに至った。ついで寛永三年(一六二六)十月、後水尾天皇から円照本光国師の諡号を賜わったが、翌四年、大徳寺・妙心寺の紫衣勅許事件に関して、幕府に抗議した沢庵宗彭・玉室宗珀の処分にあたり、厳科を主張して両人を流罪に処し、世の誹謗をうけた。やがて、沢庵らが家光の帰依をうけるに及んで、その声望はようやく衰えた。このように、崇伝は幕政の枢機に参与して黒衣の宰相といわれ、諸外国との外交文書の作成はもとより、外交の事務にあたったほか、寺院諸法度・公家諸法度・武家諸法度などの起草制定に参画し、またキリスト教の禁圧などにあたるなど、家康・秀忠の政治上の最高顧問として江戸幕府三百年の基礎をなす立法に大いに敏腕を振るった。一方また、家康の意をうけて、古書の蒐集・謄写などの文芸方面にも活躍し、さらに朝廷にもしばしば出入し、朝幕関係の交渉にも重要な役割を果たした。寛永十年正月二十日江戸芝の金地院に寂す。年六十五。墓は京都市左京区の南禅寺金地院にある。著作に『本光国師日記』四十六冊、『本光国師法語』四冊などがある。
[参考文献]
桜井景雄『続南禅寺史』、辻善之助「黒衣の宰相金地院崇伝」(『日本仏教史之研究』続編所収)
(今枝 愛真)


日本大百科全書(ニッポニカ)
以心崇伝
いしんすうでん
[1569―1633]

江戸初期の臨済宗の僧。以心は字 (あざな)。普通、金地院 (こんちいん)崇伝という。生前に円照本光国師号を受ける。1573年(天正1)室町幕府滅亡に際し父一色秀勝 (いっしきひでかつ)と死別、南禅寺の玄圃霊三 (げんぽれいさん)(1535―1608)の下で出家。26歳で住職資格を得て諸寺を歴住、1605年(慶長10)南禅寺270世住持として金地院に住した。1608年西笑承兌 (さいしょうしょうたい/しょうだ)の後任で、駿府 (すんぷ)(静岡県)の徳川家康の下で外交文書の書記役となるが、その後しだいに頭角を現し、幕政の枢機にあずかった。伴天連 (バテレン)追放令(宣教師追放令)をはじめ、寺院法度 (はっと)、公家 (くげ)諸法度などにも関係し、大坂城攻撃の端緒となった京都方広寺大仏殿の鐘銘問題も崇伝の考えによるという。紫衣 (しえ)事件でも厳科を主張し、一般の不評を買って「大欲山気根院僭上寺悪国師 (だいよくざんきこんいんせんじょうじあくこくし)」とあだ名され、沢庵 (たくあん)からも「天魔外道 (てんまげどう)」と評されたが、初期幕政に辣腕 (らつわん)を振るった功績は大きく、黒衣 (こくえ)の宰相の名にふさわしいものがあった。著書に『異国日記』『本光国師日記』『本光国師法語』などがある。

[船岡 誠]2017年5月19日



改訂新版 世界大百科事典
以心崇伝
いしんすうでん
1569-1633(永禄12-寛永10)

近世初期の僧。臨済宗。円照本光国師。金地院崇伝,伝長老ともいわれる。足利義輝の近臣一色藤長の孫。足利氏滅亡のとき父秀勝に死別し,京都南禅寺に入って玄圃霊三に師事する。かたわら醍醐三宝院に学び,相国寺の西笑承兌にも教えを受け,のち南禅寺金地院の靖叔徳林についてその法嗣となった。1605年(慶長10)2月建長寺の,同3月南禅寺の住持となり,金地院に住んで応仁の乱による焼失以来荒廃した伽藍の復興に努めた。08年,駿府に赴いて徳川家康に面謁し,以降幕府の外交文書の起草に従事。10年,駿府に金地院を開いて住し,12年8月以後は板倉勝重とともに諸寺院の取締り,訴訟のことを管掌した。また家康の命で朝廷,公家,寺院から内外の古典を収集し,慶長末年から元和初年にかけての朝廷,寺院,武家などを対象とした諸法度の起草に参画した。家康の死後は江戸に移って18年(元和4),江戸金地院を建立。翌年9月,禅宗寺院住持の任免を左右する僧禄に任じられた。26年,国師号を賜る。翌年の紫衣(しえ)事件では沢庵らの厳罰を主張。後世に〈黒衣の宰相〉と呼ばれ策謀家と受けとられがちであるが,実態は五山僧としての内外古典の学殖によって家康の側近に登用された実務家である。室町幕府においても外交文書の起草は五山僧の仕事であったし,文字によって伝えられた故実・伝統にのっとりながら政権の基礎を固めようとしていた家康にとって,その意図を法制に表現するには崇伝の才能は不可欠だった。家康の死後の崇伝は秀忠の側近から遠ざけられ,その日記《本光国師日記》にも,幕政のことよりも諸権門からの依頼で行った易占や書画の鑑定の記事が目だつ。日記のほか著作に《本光国師法語》《異国日記》がある。
[高木 昭作]

[索引語]
本光国師 金地院崇伝 南禅寺(日本) 黒衣の宰相
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検索コンテンツ
1. 以心崇伝
日本大百科全書
江戸初期の臨済宗の僧。以心は字あざな。普通、金地院こんちいん崇伝という。生前に円照本光国師号を受ける。1573年(天正1)室町幕府滅亡に際し父一色秀勝いっしきひ
2. 以心崇伝
世界大百科事典
1569-1633(永禄12-寛永10) 近世初期の僧。臨済宗。円照本光国師。金地院崇伝,伝長老ともいわれる。足利義輝の近臣一色藤長の孫。足利氏滅亡のとき父秀勝
3. いしんすうでん【以心崇伝】画像
国史大辞典
一五六九―一六三三 江戸時代前期の臨済宗の僧侶。金地院崇伝・伝長老ともいわれる。足利義輝の臣一色秀勝の子で、足利氏が滅亡したのち、南禅寺に赴いて玄圃霊三に師事
4. 以心崇伝
日本史年表
1619年〈元和5 己未〉 9・15 幕府、 以心崇伝 を僧録司に任じる(本光国師日記)。 1626年〈寛永3 丙寅④〉 10・8 以心崇伝、 円照本光国師の
5. いしん-すうでん【以心崇伝】
日本人名大辞典
1569−1633 織豊-江戸時代前期の僧。永禄(えいろく)12年生まれ。臨済(りんざい)宗。京都南禅寺金地(こんち)院の靖叔徳林の法をつぎ,慶長10年(160
6. 以心崇伝印[図版]画像
国史大辞典
以心 崇伝 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
7. 以心崇伝花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
8. 異国御朱印帳
世界大百科事典
近世初頭,江戸幕府が南洋諸地域に渡航する日本船に貿易統制のために発給した朱印状の控帳。原本は以心崇伝の手写になり,京都南禅寺金地院蔵。重要文化財。崇伝は1608
9. 異国日記
世界大百科事典
加えたものは,《異国日記抄》として異国叢書に収められる。永積 洋子 新井白石 西笑承兌 閑室元佶 以心崇伝
10. いこくにっき【異国日記】
国史大辞典
(一六〇八)七月十四日、フィリピン臨時総督ビベロ=イ=ベラスコから将軍徳川秀忠に宛てた書翰を以心崇伝が将軍の前で読み上げる記述より始まり、以後おおむね年代を追っ
11. 板倉勝重
世界大百科事典
要な役割を果たすとともに,09年宮中での密通事件裁許に際し,朝廷への幕権拡大に努めた。また,以心崇伝とともに公家・寺社統制にあたった。09年山城・近江において9
12. いたくら-かつしげ【板倉勝重】
日本人名大辞典
督をつぎ,徳川家康につかえる。駿府(すんぷ)・江戸の町奉行をへて,慶長8年京都所司代となる。以心崇伝とともに公家・寺社の統制をはかり,朝廷や西国への徳川政権の勢
13. 一色氏
世界大百科事典
の子範勝は幕臣となったが,範勝の曾孫範永が早世して,家が絶えた。ほかに庶流数家が幕臣となる。以心崇伝は藤長の甥である。小川 信 一色範氏 一色範光 一色詮範 一
14. 印章 13[別刷図版]画像
国史大辞典
「義堂」 春屋妙葩 「釈妙葩印」 春屋妙葩 「春屋」 春屋妙葩 「芥室」 以心崇伝 「崇伝」 以心崇伝 「以心」 以心崇伝 「以心」 (c)Yoshikawa 
15. 円照本光国師
日本史年表
1626年〈寛永3 丙寅④〉 10・8 以心崇伝、 円照本光国師 の号を授与される(続史愚抄)。
16. 寛永行幸記(著作ID:19476)
新日本古典籍データベース
かんえいぎょうこうき 御行幸之記 以心崇伝(いしんすうでん) 烏丸光広(からすまるみつひろ) 記録 寛永三
17. 寛永十六年十二月二十一日聯句五十韻/他(著作ID:4370981)
新日本古典籍データベース
かんえいじゅうろくねんじゅうにがつにじゅういちにちれんくごじゅういん/ほか 以心崇伝(いしんすうでん) 林羅山(はやしらざん) 他 聯句 
18. 寛永四年四月二十五日和漢聯句(著作ID:4375380)
新日本古典籍データベース
かんえいよねんしがつにじゅうごにちわかんれんく 敬公御夢想倭漢 以心崇伝(いしんすうでん) 徳川義直(とくがわよしなお) 玄仲(げんちゅう) 等 吟 聯句 寛永
19. 寛永六年正月二十五日正勝国師等漢和聯句(著作ID:911717)
新日本古典籍データベース
かんえいろくねんしょうがつにじゅうごにちまさかつこくしらかんなれんく 稲葉正勝(いなばまさかつ) 以心崇伝(いしんすうでん) 等 聯句 
20. かんしつげんきつ【閑室元佶】画像
国史大辞典
天下の政道の諮問を受け、武術兵法までも授けたが、さらに西笑承兌と寺社の行政訴訟のことや外交事務にあたり、また以心崇伝・板倉勝重とも寺社のことを奉行した。学問は四
21. かんりんごほうしゅう【〓林五鳳集】
国史大辞典
集録された、五山派禅僧の詩偈集。六十四巻目録二巻。元和九年(一六二三)に南禅寺金地院の僧録司以心崇伝が序をなし、東福寺剛外令柔の跋がある。鎌倉時代以降当時に至る
22. 翰林五鳳集(著作ID:146269)
新日本古典籍データベース
かんりんごほうしゅう 以心崇伝(いしんすうでん) 編 漢詩文 江戸初期
23. 『翰林五鳳集』
日本史年表
1623年〈元和9 癸亥⑧〉 この年 以心崇伝ら 『翰林五鳳集』 成る。
24. 近世社会
世界大百科事典
儒学の学習においても,君臣関係の理解について変化が必要であろう。臨済宗僧侶としての経歴をもつ以心崇伝や林羅山が幕府に用いられたときは,文章練達の士として諸文書・
25. 禁中并公家中諸法度
日本大百科全書
作成に至ったものである。家康が法度の参考になるべき資料の収集の意図を明らかにし、金地院崇伝こんちいんすうでん(以心崇伝)・儒官林道春どうしゅん(羅山らざん)をし
26. 黒幕
世界大百科事典
反対派が批判して呼んだキチン・キャビネットも黒幕的存在といえよう。日本では江戸幕府創設期の密事にかかわった以心崇伝(金地院崇伝)や天海のような〈黒衣の宰相〉と呼
27. 桂光院輓詩並序(著作ID:914705)
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けいこういんばんしならびにじょ 以心崇伝(いしんすうでん) 漢詩 寛永六
28. 元和九年九月十九日以心・東等漢和聯句(著作ID:264186)
新日本古典籍データベース
げんなくねんくがつじゅうくにちいしんとうらかんなれんく 元和九年九月十九日以心・東等漢和聯句 以心崇伝(いしんすうでん) 良恕親王(りょうじょしんのう) 等 聯
29. 金地院
世界大百科事典
禅寺の塔頭(たつちゆう)。徳川家康の側近として幕府の政治の枢機に列した黒衣(こくえ)の宰相,以心崇伝が住んだ寺である。当寺は,古く室町時代,南禅寺の住持だった大
30. こんちいん【金地院】 : 南禅寺
国史大辞典
南禅寺六十八世住持大業徳基が洛北鷹ヶ峰に開いた寺と伝えられているが明らかでない。大業の法曾孫以心崇伝が慶長十年(一六〇五)南禅寺住持に就任する直前に現在地に再建
31. こんちいん【金地院】東京都:港区/旧芝区地区/芝栄町地図
日本歴史地名大系
[現]港区芝公園三丁目 臨済宗南禅寺派の寺院で、勝林山と号する。本尊は宋人陣和郷作という観音菩薩。開山は以心崇伝(本光国師)。崇伝は慶長一〇年(一六〇五)頃京都
32. こんちいん【金地院】京都市:左京区/南禅寺門前/南禅寺地図
日本歴史地名大系
異国近年御書草案、紙本墨書異国日記御記録雑記、紙本墨書濃比須般国ヘノ返書案(以心崇伝筆)、武家諸法度草稿(以心崇伝筆、以上京都国立博物館寄託)、紙本墨画山水図(
33. 金地院崇伝
日本大百科全書
以心崇伝
34. 金地院崇伝
世界大百科事典
以心崇伝
35. こんちいんすうでん【金地院崇伝】
国史大辞典
以心崇伝(いしんすうでん)
36. こんちいん-すうでん【金地院崇伝】
日本人名大辞典
以心崇伝(いしん-すうでん)
37. 紫衣事件
世界大百科事典
1627年(寛永4)7月,以心崇伝や老中土井利勝らは,大徳寺・妙心寺の入院・出世が勅許紫衣之法度(1613年6月)や禁中並公家諸法度(1615年7月)に反してみ
38. 朱印船
世界大百科事典
として活躍していた。朱印船の渡航が詳細に知られるのは04年より16年(元和2)までの期間で,以心崇伝の《異国御朱印帳》《異国渡海御朱印帳》に,年度別・地域別に記
39. しゅいんせんぼうえき【朱印船貿易】画像
国史大辞典
てこれを司った。最初、西笑承兌がこれにあたり、その没後、閑室元佶がそのあとをつぎ、彼の没後は以心崇伝がずっとこれを担当した。海外に商船を出さんとする者は、それぞ
40. 寺院法度
世界大百科事典
反映して僧侶,寺院生活を細部にわたって規制している。またこのとき,あわせて各宗派別の法度も下された。大桑 斉 以心崇伝 金地院崇伝 諸宗寺院法度 諸寺院条目 諸
41. じいんはっと【寺院法度】
国史大辞典
統制の外におかれたものである。この時期の寺院法度起草の中心人物は南禅寺金地院出身の臨済宗僧侶、以心崇伝であった。それゆえ、この段階の寺院法度は、家康側の一方的な
42. 寺社奉行
世界大百科事典
江戸幕府の三奉行の一つで,全国の寺社と寺社領の管理や宗教統制をつかさどった。1612年(慶長17)徳川家康は以心崇伝と板倉勝重(所司代)の2人に寺社行政を担うよ
43. 崇伝
日本大百科全書
以心崇伝
44. すうでん【崇伝】
国史大辞典
以心崇伝(いしんすうでん)
45. すうでん【崇伝】
日本人名大辞典
以心崇伝(いしん-すうでん)
46. 駿河国
世界大百科事典
担当し,代官頭伊奈忠次,彦坂元正,大久保長安らは農村行政はじめ安倍金山,伊豆金銀山の開発にあたった。以心崇伝(いしんすうでん),南光坊天海,林羅山らは寺社の取締
47. 駿河版
世界大百科事典
徳川家康が駿府(すんぷ)に隠退してから以心崇伝(いしんすうでん),林道春に命じて開版させた古活字版(こかつじばん)。家康は江戸幕府成立後その政策に文治主義をとり
48. そうじじ【総持寺】東京都:足立区/西新井村地図
日本歴史地名大系
同一九年には浦和玉蔵院(現埼玉県さいたま市)・中野宝泉寺(現中野区)などとともに関東の新義真言宗寺院を代表して以心崇伝宛に連判状を提出していることからも、中本寺
49. 僧録
日本大百科全書
れ、代々鹿苑院ろくおんいん(義満の修禅道場)の院主がこの職に任じられ、1615年(元和1)の以心崇伝いしんすうでんに至るまで存続した。曹洞そうとう宗では、応安お
50. 僧録
世界大百科事典
歴代のうち,一山派の仁如集尭以外はすべて夢窓派の禅僧がつかさどった。近世期には,1619年金地(こんち)院の以心崇伝が僧録となり〈金地僧録〉と称し,明治維新まで
「以心崇伝」の情報だけではなく、「以心崇伝」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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