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  11. 小早川秀秋

小早川秀秋

ジャパンナレッジで閲覧できる『小早川秀秋』の国史大辞典のサンプルページ

国史大辞典
小早川秀秋
こばやかわひであき
一五八二 - 一六〇二
安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の正室高台院の兄木下家定の第五子。母は杉原七郎左衛門家次の女。天正十年(一五八二)近江長浜に生まれる。幼名辰之助。幼少から秀吉の養子となり高台院の膝下に養育され羽柴秀俊と名のり、同十九年参議に任じ右衛門督を兼ね従四位下に叙せられたので金吾と呼ばれた。ついで丹波亀山十万石を与えられ、文禄元年(一五九二)権中納言に進み左衛門督に転じ従三位に叙せられ丹波中納言と称した。朝鮮の役が起ると同二年三月肥前名護屋に出陣したが、同年八月秀吉の側室淀が拾丸(秀頼)をもうけるに及び小早川隆景の養嗣子となり、同三年十一月備後三原城に赴いた。同四年関白豊臣秀次の事件に連坐して丹波の所領を没収されたが、ついで隆景が備後三原城に隠居すると同時にその旧領筑前一国および筑後の一部を与えられ、慶長二年(一五九七)六月隆景が没したのち秀秋を名のった。同年七月朝鮮再征軍の総大将として釜山に渡り、翌三年正月蔚山(ウルサン)の戦にはみずから奮戦して武名を挙げたが、その軽挙の科で帰国を命ぜられ、四月筑前等を取りあげ越前北庄を与えられた。翌四年二月秀吉の遺志に基づき、豊臣氏五大老から筑前・筑後の旧領に移された。関ヶ原の戦以前から徳川家康にくみし、その気配を察知した石田三成の命に従い伏見城攻撃に加わり、陽に西軍がわに属した。関ヶ原の戦にあたっては初め西軍にあって松尾山に陣したが、戦いなかばにして東軍に反応し徳川方大勝の因をなした。戦後、宇喜多秀家の旧領のうち備前・美作五十万石を与えられ岡山城に治し、ついで名を秀詮と改めたが、政道乱れ、諫言した老臣杉原紀伊守は誅伐され、稲葉通政は逐電し、家中の退散が多かったといわれる。同七年十月十八日岡山にて没。年二十一歳。死没の異常な事情を伝える諸説があるが確かでない。嗣子なく家は断絶した。法名瑞雲院秀巌日詮。備前岡山の本行院で火葬に付し、京都本圀寺の塔頭瑞雲院に納骨。
[参考文献]
『小早川家文書』、『木下家譜』、『寛政重修諸家譜』六一八、『岡山市史』二
(松岡 久人)


小早川秀秋花押
コバヤカワヒデアキカオウ
小早川秀秋花押



小早川秀秋印
コバヤカワヒデアキイン
小早川秀秋印

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検索ヒット数 267
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検索コンテンツ
1. 小早川秀秋画像
日本大百科全書
安土あづち桃山時代の武将。幼名辰之助たつのすけ。通称金吾きんご。左衛門佐さえもんのすけ、権中納言ごんちゅうなごん。豊臣とよとみ秀吉の正室高台院の兄木下家定の三男
2. 小早川秀秋
世界大百科事典
1582-1602(天正10-慶長7) 安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の正室高台院の兄木下家定の五男。幼少より秀吉の養子となり秀俊と名のる。1593年(文禄2)小
3. こばやかわ‐ひであき【小早川秀秋】
日本国語大辞典
安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の妻高台院の兄の木下家定の五男。幼名辰之助。はじめ秀吉の養子で羽柴秀俊と称し、のち、小早川隆景の養子となる。慶長の役に総大将として出
4. こばやかわひであき【小早川秀秋】画像
国史大辞典
一五八二―一六〇二 安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の正室高台院の兄木下家定の第五子。母は杉原七郎左衛門家次の女。天正十年(一五八二)近江長浜に生まれる。幼名辰之
5. 小早川秀秋(こばやかわひであき)
古事類苑
兵事部 洋巻 第1巻 694ページ
6. こばやかわ-ひであき【小早川秀秋】
日本人名大辞典
1582−1602 織豊-江戸時代前期の武将。天正(てんしょう)10年生まれ。木下家定の子。高台院の甥(おい)。豊臣秀吉の養子から,秀吉の実子秀頼(ひでより)の
7. 小早川秀秋[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:1件 【逐次刊行物】:2件 『小早川秀秋小伝』渡辺知水(著刊)『小早川秀秋』桂峰『小早川秀秋伝の補正』桑田忠親
8. 小早川秀秋[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
小早川秀秋画像 好古子賛」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分)©東京大学史料編纂所
9. 小早川秀秋印[図版]画像
国史大辞典
秀龝 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
10. 小早川秀秋花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
11. あおのはんじんやあと【青野藩陣屋跡】岐阜県:大垣市/旧多藝郡・不破郡地区/青野村
日本歴史地名大系
の陣屋跡。清水城(現揖斐郡揖斐川町)城主稲葉重通の養子稲葉正成は、関ヶ原の合戦の時、西軍の小早川秀秋を寝返らせた功により二万石を与えられ、その子正次は元和二年(
12. あこうし【赤穂市】兵庫県
日本歴史地名大系
大坂城代領や安志藩領、尼崎藩領と変遷する。和気郡二村(福浦村・福浦新田村)は慶長五年岡山城主小早川秀秋領となり、同八年から幕末まで岡山藩池田家領。慶長五年赤穂に
13. あさぎむら【浅木村】岐阜県:本巣郡/真正町
日本歴史地名大系
性顕寺(現安八郡神戸町)下の本願寺門徒中、浅木村に宛てられている。関ヶ原の合戦で戦功を立てた小早川秀秋の家老平岡頼勝は、慶長九年(一六〇四)徳川家康から浅木村ほ
14. 安土桃山時代美術画像
世界大百科事典
人の〈かぶく心〉と結びついて変容をとげた姿をそこに見ることができよう。同様な遊戯の精神は,小早川秀秋所用と伝えられる陣羽織のラシャ地に施された大胆な鎌のデザイン
15. あにじんじゃ【安仁神社】岡山県:岡山市/旧西大寺市地区/藤井村
日本歴史地名大系
、宇喜多氏時代の社領は七石。延宝三年(一六七五)の備前国々中神社記(池田家文庫)によると、小早川秀秋入部以前、当社の社領は二千三〇〇石余で、秀秋のときに召上げら
16. あまくさたねもと【天草種元】
国史大辞典
ドン=ジョアンとし、十七年の敗戦後も生きて行長に属し、文禄の役にも参加、さらに関ヶ原の戦後は備前の小早川秀秋に預けられたともいう。 [参考文献]八木田政名『新撰
17. あまはかりじんじゃ【天計神社】岡山県:岡山市/旧御野郡地区/北方村
日本歴史地名大系
八幡宮と称し、神宮寺とも通称された。明治初年、現社名に改めた。「備陽国誌」は創造年代不詳としながら、小早川秀秋のとき当地へ移されたもので、このときに八幡宮と改め
18. あんじゅういん【安住院】岡山県:岡山市/旧上道郡地区/瓶井門前村
日本歴史地名大系
安堵・寄進している(同年一二月吉日「宇喜多秀家黒印状」同書)。慶長六年(一六〇一)には同様に小早川秀秋により、八〇石が寄進された(「小早川秀詮寄進状」同書)。江
19. あんようじ【安養寺】岡山県:和気郡/和気町/野吉村
日本歴史地名大系
など一〇坊を数えている(坪付)。近世は文禄検地のあとで宇喜多秀家が高五〇石余を安堵。しかし小早川秀秋のとき取上げられ、寛永一一年(一六三四)池田光政が高一九石余
20. いき-さねとし【伊岐真利】
日本人名大辞典
まなぶ。諸国修行で工夫をくわえ,慶長(1596-1615)のころ伊岐流を創始。筑前(福岡県)の小早川秀秋につかえ,のち備前(岡山県)にうつり池田家で死去。流儀は
21. いきりゅう【伊岐流】画像
国史大辞典
ことに家康の命を受け下野国の深山に三ヵ年籠り、九尺柄鍔槍の勝術を工夫し流儀を完成したとある。真利はのち小早川秀秋の後見として筑前国名島に住し、一万二千石を領し、
22. いけだし【池田氏】画像
国史大辞典
輝政が姫路城主となった後、慶長八年(一六〇三)次男忠継に備前二十八万石が与えられた。前年岡山城主小早川秀秋が死去して家が絶えたあとである。しかし忠継は幼少五歳で
23. いしこ-かつまさ【石河勝政】
日本人名大辞典
生まれ。美濃(みの)(岐阜県)加賀島(かがしま)(鏡島)城主石川光政の次男。石川貞政の弟。小早川秀秋につかえたが,同僚を殺害して関東にのがれ,徳川家康のはからい
24. 石田三成画像
日本大百科全書
宇喜多秀家うきたひでいえらと謀って家康に対抗し、1600年(慶長5)9月美濃みの関ヶ原に戦ったが、小早川秀秋こばやかわひであきの裏切りによって敗北、ついに捕らえ
25. いしだみつなり【石田三成】画像
国史大辞典
毛利輝元を盟主に仰ぎ、家康打倒を諸大名に呼びかけた。三成の誘いに応じて挙兵した諸大名は、毛利輝元・小早川秀秋・吉川広家・宇喜多秀家・島津義弘・鍋島勝茂・伊東祐兵
26. いずみむら【和泉村】福岡県:久留米市/旧御井郡地区
日本歴史地名大系
寺に寄進された(同年八月一五日「桂広兄寄進状」歴世古文書)。慶長四年(一五九九)三月三日の小早川秀秋充行知行方目録(萩藩閥閲録)では「和泉村」の高六二七石余など
27. いたむら【井田村】福岡県:前原市
日本歴史地名大系
田七七町三反余(分米八二七石余)・畠八町二反余(分大豆三四石余)。文禄四年(一五九五)一二月一日、小早川秀秋は「伊多村」八六一石余などの代官に堀田初左衛門尉を任
28. いちのほむら【市野保村】兵庫県:揖保郡/新宮町
日本歴史地名大系
乃保村」三一九石余とあり、当納分は一五〇石であった。文禄四年(一五九五)一二月一日、秀吉は小早川秀秋に越部上庄内「いちのほ・たんの上」の合せて五六〇石余などを与
29. いちのみやむら【一之宮村】岡山県:岡山市/旧津高郡地区
日本歴史地名大系
入組んでいて実質的には一所であり、かつては一村であったと伝えられる。慶長六年(一六〇一)の小早川秀秋寄進状(吉備津彦神社文書)で「津高郡宮内村則於敷地」三〇〇石
30. いっさいぐん【揖西郡】兵庫県:播磨国
日本歴史地名大系
衛宛羽柴秀吉判物(黒田文書)には揖東郡岩見庄二千七〇〇石とみえる。文禄四年には一四二石余が小早川秀秋に宛行われた(同年一二月一日「豊臣秀吉知行方目録」教行寺文書
31. いっとうぐん【揖東郡】兵庫県:播磨国
日本歴史地名大系
木下家文書)、島津義久一千九四七石余(同一六年七月五日「豊臣秀吉知行方目録」島津家文書)、小早川秀秋一千八六一石余(文禄四年一二月一日「豊臣秀吉知行方目録」教行
32. いとぐん【怡土郡】福岡県:筑前国
日本歴史地名大系
米八千一三六石余)・畠一五二町余(分大豆六八四石余)。慶長三年(一五九八)隆景の養子である小早川秀秋が越前福井に転封となり、同四年には肥前唐津城主(のちの唐津藩
33. 稲葉氏
世界大百科事典
に転封。江戸時代を通じて領地は変わらず明治維新を迎えた。外様。正成は,豊臣秀吉に仕え,のち小早川秀秋の老臣となり,関ヶ原の戦では,秀秋の東軍への寝返りに関与。1
34. いなばし【稲葉氏】画像
国史大辞典
初代正成は美濃本巣郡十七条城主林氏の出身で重通の女婿となり稲葉氏を称す。豊臣秀吉に仕え、のち小早川秀秋に付せられてその老臣となる。関ヶ原の戦の時秀秋を東軍に寝返
35. いなば-まさなり【稲葉正成】
日本人名大辞典
。稲葉重通(しげみち)の養子。妻の福(春日局(かすがのつぼね))との間に正勝らをもうけた。小早川秀秋につかえ,関ケ原の戦いで秀秋を徳川方へ寝返りさせた。その功に
36. 印章 25[別刷図版]画像
国史大辞典
明智光秀 豊臣秀吉 豊臣秀吉 「豊臣」 豊臣秀次 「秀次正道」 豊臣秀次 「豊臣秀次」 小早川秀秋 「秀龝」 小早川秀秋 豊臣秀頼 「秀頼」 豊臣秀長 「羽柴秀
37. いんじょうじ【引接寺】山口県:下関市/赤間関/中之町
日本歴史地名大系
永禄三年(一五六〇)忠誉一徳が下関の亀山の下に移して開基。慶長三年(一五九八)三世来誉の時小早川秀秋が養父隆景の遺言により隆景を再建の開基として現在地に移転した
38. いんのしょうむら【院庄村】岡山県:津山市/旧苫田郡地区
日本歴史地名大系
南北朝期から戦国時代にかけても守護所が置かれていたと考えられ、度々戦闘が行われている。慶長七年(一六〇二)小早川秀秋は川野又右衛門尉に対し、院庄村内二一〇石など
39. うかいかみむら【宇甘上村】岡山県:御津郡/御津町
日本歴史地名大系
寛永備前国絵図)。宇喜多氏支配時代には徳倉城主浮田河内守(遠藤又次郎)の知行地、慶長五年(一六〇〇)小早川秀秋入部後はその老臣稲葉伯耆守の知行地、池田忠継時代に
40. うしまどじんじゃ【牛窓神社】岡山県:邑久郡/牛窓町/牛窓村
日本歴史地名大系
国四拾八ヶ寺領并分国中大社領目録写(金山寺文書)によれば社領五石、慶長六年(一六〇一)には小早川秀秋から牛窓村のうち一〇石が寄進された。寛文六年(一六六六)には
41. うわのむら【上野村】石川県:加賀市
日本歴史地名大系
大永の年号ありきといふ。近比尋ねければ今はなしと云へり」とみえる。慶長三年(一五九八)八月五日の小早川秀秋宛行状(土佐国蠧簡集残篇)に上野村のうち四二石余(山手
42. えぬまぐん【江沼郡】石川県
日本歴史地名大系
現新潟県上越市)、秀勝は越後新発田(現同県新発田市)に移り、同年越前北庄(現福井市)にいた小早川秀秋が江沼郡を領した。秀秋は江沼郡の武士たちに知行を与え(「萩藩
43. おおがしまじ【大賀島寺】岡山県:邑久郡/邑久町/大ヶ島村
日本歴史地名大系
安堵寄進し(同年一二月吉日「備前国四拾八ヶ寺領并分国中大社領目録写」金山寺文書)、その後、小早川秀秋、池田忠雄の領主時代も、この寺領高が踏襲され、さらに寛永一一
44. 大谷吉継
日本大百科全書
きたが、親友の石田三成に懇請され、敗戦覚悟で西軍に加わった。終始よく戦ったが、寝返りをした小早川秀秋こばやかわひであきの大兵に側背から攻撃を受け、奮戦のすえ陣没
45. 大谷吉継
世界大百科事典
位下刑部少輔に叙任。89年越前敦賀5万石を領した。関ヶ原の戦では西軍に属し,東軍に内応した小早川秀秋に背後をつかれ戦死した。高木 傭太郎 大谷紀之介
46. おおたによしつぐ【大谷吉継】画像
国史大辞典
返して西上したとの報に接すると、敦賀をたって美濃関ヶ原に向かった。吉継はかねて松尾山に陣する小早川秀秋の態度に疑心を抱き、秀秋に備えて松尾山の北、藤川台に陣した
47. 岡山[市]
世界大百科事典
どの領内要地より有力な商人を呼び寄せて,50万石大名の城下町として整備した。次いで入封した小早川秀秋は,城郭を補修し外堀をつくったが在任1年半で断絶した。160
48. おかやまし【岡山市】岡山県
日本歴史地名大系
流れるように付替え、また山陽道も南寄りに付替えて城下町を通過させた。宇喜多氏改易後、慶長五年(一六〇〇)には小早川秀秋(秀詮)、同八年には池田忠継が入部する。寛
49. 岡山城画像
日本大百科全書
城もそれにふさわしい大改修が施された。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで秀家は城と所領を没収され、かわって小早川秀秋こばやかわひであきが城主となったが、秀秋が
50. おかやまじょう【岡山城】
国史大辞典
五、城門二十一、石山を西ノ丸、二ノ丸は現岡山県庁舎のあるあたりである。同五年の関ヶ原の戦後小早川秀秋在城二年で池田氏にかわり、明治維新まで続いた。明治初年諸建造
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