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  11. 竹中半兵衛

竹中半兵衛

ジャパンナレッジで閲覧できる『竹中半兵衛』の国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書のサンプルページ

国史大辞典
竹中重治
たけなかしげはる
一五四四 - 七九
戦国時代の武将。もとの名は重虎、通称は半兵衛。重元の子。天文十三年(一五四四)生まれる。竹中氏は美濃国(岐阜県)の豪族であり、当初は美濃国守護斎藤竜興の武将として仕えていたが、永禄十年(一五六七)八月、織田信長が斎藤竜興を攻め、稲葉山井口城を奪って美濃国を制圧すると、信長の家臣となった。元亀元年(一五七〇)の近江浅井氏との姉川の戦や、天正三年(一五七五)の長篠の戦などに活躍。やがて信長の命により羽柴秀吉の与力として中国攻めの征服戦に従事し、謀将として活躍した。『信長公記』によれば、天正五年十一月には、小寺官兵衛(黒田孝高)とともに播磨(兵庫県)の福岡野城(福岡城)を攻めている。翌六年には、備前八幡山の城主某を味方にした由を信長に告げ、秀吉とともに褒賞を与えられている。しかし、天正七年六月十三日、播磨攻めの陣中において病没した。三十六歳。
[参考文献]
『岐阜県史』通史編三、『兵庫県史』三
(黒田 日出男)


竹中重治花押
タケナカシゲハルカオウ
竹中重治花押



改訂新版 世界大百科事典
竹中半兵衛
たけなかはんべえ
?-1579(天正7)

戦国時代の武将。岐阜市敬念寺文書によれば半兵衛尉重虎と称した。美濃の斎藤竜興に仕えて知謀の将といわれたが,1564年(永禄7)竜興の稲葉山城を急襲して奪った。ついで返還したものの斎藤家を去って織田信長に仕え,羽柴(豊臣)秀吉の与力となった。秀吉の参謀として中国征伐に幾多の戦果を収めたが,病没した。36~37歳という。画像,着用の具足などが末裔の家に伝存する。
[岩沢 愿彦]



日本大百科全書(ニッポニカ)
竹中半兵衛
たけなかはんべえ
[?―1579]

戦国時代の武将。名は重治 (しげはる)(重虎 (しげとら)とも)。半兵衛は通称。美濃 (みの)(岐阜県)不破 (ふわ)郡岩手菩提 (いわてぼだい)山城主。美濃三人衆の1人安東守就 (あんどうもりなり)の女婿。俗説では領土欲なく、軍師に徹した人物と評される。初め斎藤龍興 (たつおき)に仕える。1564年(永禄7)義父守就とともに龍興の居城稲葉山 (いなばやま)城を奪取したが、すぐ龍興に返した。龍興没落後は織田信長に仕え、豊臣 (とよとみ)秀吉に付属、秀吉麾下 (きか)では智将、謀将として重んじられた。秀吉の諸戦の勝利は半兵衛の策によるところ大であったが、79年(天正7)秀吉の播磨 (はりま)(兵庫県)平定戦に参加した際、三木城攻囲の陣中で6月13日病死した。35歳とも36歳ともいう。子孫はのち竹中流軍学をおこした。

[谷口研語]

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1. 竹中半兵衛
日本大百科全書
戦国時代の武将。名は重治しげはる(重虎しげとらとも)。半兵衛は通称。美濃みの(岐阜県)不破ふわ郡岩手菩提いわてぼだい山城主。美濃三人衆の1人安東守就あんどうもり
2. 竹中半兵衛
世界大百科事典
?-1579(天正7) 戦国時代の武将。岐阜市敬念寺文書によれば半兵衛尉重虎と称した。美濃の斎藤竜興に仕えて知謀の将といわれたが,1564年(永禄7)竜興の稲葉
3. たけなか‐はんべえ【竹中半兵衛】
日本国語大辞典
戦国時代の武将。名は重治、半兵衛は通称。美濃国(岐阜県)の人。織田信長の家臣となり、秀吉の中国攻めなどに功をたてたが、三木の陣中で病死。天正七年(一五七九)没。
4. たけなか-はんべえ【竹中半兵衛】
日本人名大辞典
⇒竹中重治(たけなか-しげはる)
5. あんぱちぐん【安八郡】岐阜県
日本歴史地名大系
同三人衆の一人稲葉一鉄が築城した曾根城(現大垣市)、飯沼長就が築城したという池尻城(現同上)、竹中半兵衛の従弟竹中重利が初代城主となった長松城(現同上)、不破光
6. いなばやまじょう【稲葉山城】
国史大辞典
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7. いわでむら【岩手村】岐阜県:不破郡/垂井町
日本歴史地名大系
上ると岩手峠がある。石手・磐手とも書く。古代の定額寺菩提寺の法灯を継ぐ菩提寺があり、戦国の知将とうたわれた竹中半兵衛重治の居城菩提山城がある。嘉元四年(一三〇六
8. かい‐でん[クヮイ‥]【魁殿】
日本国語大辞典
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9. ぎょう‐さつ[ゲウ‥]【暁察】
日本国語大辞典
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10. くごうむら【公郷村】岐阜県:揖斐郡/大野町
日本歴史地名大系
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11. 小梅日記 2 幕末・明治を紀州に生きる 214ページ
東洋文庫
土は御所御守衛役、其勢は容易成事に無之候。凡五六万之人々、外に伏勢多分有之候由。十一日之夜、竹中半兵衛御奮発御進め申候へども、将軍様御用ひ無之候に付、切腹致候事
12. しせきしゅうらん【史籍集覧】
国史大辞典
長野輝伯之事・勢州赤堀城攻之事・勢州細野家之事・本多太郎左衛門事・会津盛高之事・老士雑談・竹中半兵衛事・奥州浅川乱民記事 塵塚(全二冊) 老人雑話(江村専斎)
13. 竹中重治[文献目録]
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14. たけなかじんやあと【竹中陣屋跡】岐阜県:不破郡/垂井町/岩手村
日本歴史地名大系
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15. たるい【垂井】
国史大辞典
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16. たるいちょう【垂井町】岐阜県:不破郡
日本歴史地名大系
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17. とうせいかぶと【当世冑】画像
国史大辞典
好みに任せては華麗に孔雀の引尾などを用いた。『武蔭叢話』には、戦国時代末期の武将の冑の名物を列挙して、竹中半兵衛重治の一の谷の冑、明智左馬介秀俊の二の谷、柴田伊
18. 東洋金鴻 英国留学生への通信 126ページ
東洋文庫
七郷は佐州よりもみゆ。海上へ突出せる地勢なり。繁昌の由に聞けり。十六日 晴、八十九度日本外史をよみ、竹中半兵衛を大〔太〕閤の謀主とせられし年齢をみるに、廿四才な
19. 豊臣秀吉[文献目録]
日本人物文献目録
大東亜建設の先駆』姫島彦伍『太閤記 2巻2冊』小瀬甫庵(著), 桑田忠親(校訂)『太閤記外伝 竹中半兵衛』-『太閤書信』桑田忠親『太閤秀吉』中野正剛『信長・秀吉
20. ながまつじょうあと【長松城跡】岐阜県:大垣市/旧多藝郡・不破郡地区/長松村
日本歴史地名大系
)竹中源助(のち伊勢守)は長松に城を築いて在城し、五千石(三千石ともいう)を領した。源助は竹中半兵衛重治の従兄とされ、豊臣秀吉にも仕えている。「豊鑑」によると、
21. ひらいやまじょうあと【平井山城跡】兵庫県:三木市/平井村
日本歴史地名大系
一八日別所氏との小競合いの後、二六日には六ヵ所に砦を築いている(「信長公記」巻一二)。六月一三日竹中半兵衛重治は平井陣中で病死した(「豊鑑」など)。九月一〇日毛
22. ふくはらじょうあと【福原城跡】兵庫県:佐用郡/佐用町/佐用村
日本歴史地名大系
五日の羽柴秀吉書状(下村文書)に福原城とみえ、城主福原助就が毛利方であったため羽柴秀吉方の竹中半兵衛・小寺官兵衛孝高らに攻められ、同年一一月二七日城下で一戦に及
23. ふわぐん【不破郡】岐阜県
日本歴史地名大系
尾張の織田氏などの周辺戦国大名の侵攻にさらされるが、信長の美濃入国後は豊臣秀吉の下に配された竹中半兵衛重治が支配することになる。中世においても中央公権力、とくに
24. ぼだいやまじょうあと【菩提山城跡】岐阜県:不破郡/垂井町/岩手村
日本歴史地名大系
る。とすれば最初の築城者は竹中氏で、岩手氏滅亡後の築城であろう。重元は永禄三年病没し、跡を竹中半兵衛重治が継いだ。半兵衛は当城に拠り、永禄七年わずか一六人の兵を
25. もりもとむら【森本村】滋賀県:伊香郡/高月町
日本歴史地名大系
惣を基盤に成長した当地の土豪岩坪氏は、豊臣秀吉に仕えた黒田官兵衛尉孝高の子を秀吉の人質として竹中半兵衛を通して預かっている(岩坪文書)。室町時代より幸若舞系と思
26. 爛柯堂棋話 1 昔の碁打ちの物語 141ページ
東洋文庫
       竹中半兵衛、軍旅碁の譬え 天正十年、羽柴筑前守秀吉、信長の命を受けて中国を征伐、備中高松城を水攻めにして、これを落とし、勢い破竹の如し。時に安国寺
27. 爛柯堂棋話 2 昔の碁打ちの物語 301ページ
東洋文庫
(名人の格)を与えたものである。本巻の項目は少なく、六節より成る。 巻之五は、小早川秀秋や竹中半兵衛など、秀吉周辺の人物の逸話に始まり、平安朝に遡って、寛蓮が作
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