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  11. 滝川一益

滝川一益

ジャパンナレッジで閲覧できる『滝川一益』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
滝川一益
たきがわかずます
一五二五 - 八六
安土桃山時代の武将。左近将監。大永五年(一五二五)滝川一勝の子として生まれる。織田信長に仕え、伊勢国司北畠氏との戦いに参加。永禄十二年(一五六九)大河内城攻撃の功によって北伊勢五郡を与えられ、付近一帯の指出検地を行なっている。一向一揆との対決のなかで、天正二年(一五七四)伊勢長島の要塞を海上から包囲して多数の門徒農民を殺害した。のち長島城主となり、同六年には九鬼嘉隆とともに鉄甲船を仕立て、毛利水軍の海上から石山本願寺へ兵粮搬入するのを阻止した。八年には明智光秀とともに大和国中の荘園領主から指出を徴収し、土地の権利関係や年貢の収納状況の調査を行なった。同年、北条氏が信長に使者を送った際の取次ぎにあたり、信長の甲信地方出陣の準備をしている。十年三月甲斐の武田勝頼が滅亡したのち、上野国と信濃国佐久・小県の二郡を領し厩橋城主となる。甲斐国に入った河尻秀隆とともに信長の東国経営の先陣を担った。しかし同年六月、本能寺の変によって信長が斃れると、北条氏政・氏直父子に攻められ、一旦はこれを退けたものの、神流川(かんながわ)の戦で大敗を喫し、本領の伊勢長島へ逃げ戻っている。信長の後継者争いでも羽柴秀吉に先手を取られ、大徳寺で催された葬儀にも閉め出された状態となったが、一益は織田信孝や柴田勝家と結び、これに対抗した。同年冬、秀吉が信孝の本拠である岐阜城を攻撃したことに対し、一益は翌年春に伊勢の亀山・峯の両城を攻め、雪のため行動の自由を失っている柴田勝家を側面から助けた。信孝もこれに呼応して大垣城を攻めたが、秀吉も桑名城をはじめ北伊勢を制圧し、北近江の賤ヶ岳の戦で勝家を破り、越前北庄城に追いつめ自殺させた。信孝も兄の織田信雄によって岐阜城を追われ、尾張の野間大御堂寺で切腹させられた。こののち一益は北伊勢五郡を差し出し秀吉に降伏している。十二年の小牧・長久手の戦では秀吉側に加わり、蒲生氏郷・堀秀政らとともに伊勢方面に出陣し、海上からの攻撃と計略によって尾張蟹江城主の前田与十郎らを内応させ奪取した。しかし徳川家康・織田信雄連合軍の反撃にあい、十数日でこれを放棄し、前田を切腹させ、みずからは子の一忠とともに舟で伊勢の楠へ退去した。このとき一益は降伏の起請文を書き、家康は二万の軍勢を率いて伊勢の白子へ赴いている。講和の後、秀吉の怒りをうけ、出家して京都妙心寺に入り、入庵と号し、さらに越前大野に蟄居した。十二年七月、秀吉は次子の一時に一万二千石を与えて家督を継がせ、一益には三千石の隠居料が与えられた。これは、以前に一益に対して一万五千石の知行を与える旨の契約がなされていたことによる。一益とともに蟹江城に籠った長子の一忠は追放された。一益は茶人としても知られ、信長から茶壺を拝領したこともあり、出家後も秀吉を招いて茶会を催している。天正十四年九月九日六十二歳で死去。法名道栄。高野山に葬られた。
[参考文献]
『寛政重修諸家譜』六四九
(三鬼 清一郎)


滝川一益花押
タキガワカズマスカオウ
滝川一益花押



改訂新版 世界大百科事典
滝川一益
たきがわかずます
1525-86(大永5-天正14)

織豊期の武将。左近将監と称する。河内国出身で幼年から鉄砲を稽古し,織田信秀が斎藤道三を攻めたとき信長に仕えたと伝えるが,1556年(弘治2),57年ごろに信長が尾張津島の堀田道空の庭で踊を張行したときには有力部将とともに名を連ねている。67年(永禄10)春には北伊勢攻略にあたり,69年8月からの大規模な中南勢攻略には中核として働き,安濃津(津)に居城し伊勢湾を管した。73年(天正1)の長島一揆攻撃では伊勢矢田城に入城,翌年7月の一斉攻撃には海上からの攻撃に当たっている。75年の長篠の戦には徳川家康とともに先陣を務め,8月からの越前攻略に参陣。76年の天王寺での一向宗徒攻撃,78年の石山本願寺攻撃に参加,6月に九鬼嘉隆の6艘のほかに一益も1艘の鉄甲船を仕立てて大坂方の小船に大打撃を与えている。80年,81年に後北条氏の使者の信長への取次ぎに当たり,東国筋の担当を始めた。82年織田信忠の甲信攻略に付き添い3月に武田勝頼を討死させ,上野国と信濃2郡を与えられ厩橋(まやばし)城主として関八州の警固と東国の取次ぎを命じられた。同年6月の本能寺の変後,後北条氏と神無川で戦って敗れ,本領の長島に帰った。清須会議の後,織田信孝,柴田勝家と同盟して豊臣秀吉と争ったが,83年7月秀吉に降伏した。翌年,小牧・長久手の戦で膠着状態になったとき,尾張南岸に橋頭堡を確保する作戦から秀吉に用いられた。織田信雄の本拠長島城と清須城の中間にあり,一益旧縁の地である蟹江城を海上からの鉄砲奇襲作戦と内応策で奪い取ったが,《老人雑話》が〈蟹江の軍は東照宮一世の勝事なり〉と表現するような家康軍の猛攻によって開城した。秀吉は一益の長子は追放したが,先約に従って一益に3000石を,次子に1万2000石を与えた。一益は越前大野に引退し,同地で没した。
[小島 広次]

[索引語]
石山本願寺 小牧・長久手の戦 蟹江城
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1. 滝川一益
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安土あづち桃山時代の武将。織田信長の老臣。左近将監さこんのしょうげん。号は不干。滝川氏は紀氏の一族、河内高安荘司かわちたかやすのしょうじ。近江おうみ(滋賀県)甲
2. 滝川一益
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1525-86(大永5-天正14) 織豊期の武将。左近将監と称する。河内国出身で幼年から鉄砲を稽古し,織田信秀が斎藤道三を攻めたとき信長に仕えたと伝えるが,15
3. たきがわ‐かずます【滝川一益】
日本国語大辞典
安土桃山時代の武将。左近将監(しょうげん)。信長の伊勢平定、武田勝頼攻めに功があった。のち柴田勝家に荷担して秀吉に抗したが敗北。小牧・長久手の戦いでは秀吉に従い
4. たきがわかずます【滝川一益】画像
国史大辞典
一五二五―八六 安土桃山時代の武将。左近将監。大永五年(一五二五)滝川一勝の子として生まれる。織田信長に仕え、伊勢国司北畠氏との戦いに参加。永禄十二年(一五六
5. たきがわ-かずます【滝川一益】
日本人名大辞典
1525−1586 戦国-織豊時代の武将。大永(たいえい)5年生まれ。織田信長につかえ,伊勢(いせ)(三重県)長島一揆の平定後,長島城主となる。本能寺の変後,柴
6. 滝川一益[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:1件 【逐次刊行物】:1件 『武将言行録』山鹿高祐(編)『滝川一益終焉の地』福原律太郎
7. 滝川一益花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
8. あけちみつひで【明智光秀】画像
国史大辞典
包囲に加わった。天正元年木戸・田中両城を与えられ、九月信長が朝倉氏を滅ぼして越前を併せると、滝川一益とともに越前の庶政に携わった。同二年大和の多聞山城を守り、東
9. あげきむら【阿下喜村】三重県:員弁郡/北勢町
日本歴史地名大系
三)に始まり、その後代々片山氏であったという。永禄一〇年(一五六七)の頃、時の城主片山範者は滝川一益に属したが、のち同人に攻められ落城したという(員弁郡郷土資料
10. あのうじょうあと【安濃城跡】三重県:安芸郡/安濃町/安濃村
日本歴史地名大系
に居住していたが、藤光の時、当地に移ったという。永禄一一年(一五六八)織田軍の伊勢侵攻の際、滝川一益が安濃城を攻めるが、藤敦の剛勇さを聞き和睦している。天正八年
11. あらきむらしげ【荒木村重】
国史大辞典
十一月足利義昭・本願寺・毛利氏に通じ、清秀や高山右近らとともに信長に反旗をひるがえした。信長は滝川一益・明智光秀らに村重を攻めさせ、高槻城の右近が降伏し、ついで
12. あんこくじあと【安国寺跡】三重県:四日市市/南部地区/西日野村
日本歴史地名大系
虎関師錬が暦応二年(一三三九)に建立、安国寺の勅号を得たもの。京都の東福寺を模し、塔頭一三を数えたが、滝川一益の弟然休天が、天正七年(一五七九)に尾張に移し総見
13. あんらくごえ【安楽越】三重県:亀山市/安楽村
日本歴史地名大系
を破ったあと、急いで近江から安楽越を経て、軍勢の一手を伊勢に進めた。川崎村の峯城に拠っていた滝川一益を討つためである。一益とこれに連なる神戸信孝を攻伐して伊勢を
14. いがいっき【伊賀一揆】
国史大辞典
このような伊賀一揆の団結力であった。同九年九月に織田信長は諸勢をいっせいに伊賀に進入させた。甲賀口は信雄・滝川一益・蒲生氏郷や甲賀衆が、信楽口は堀秀政らが、大和
15. いけじりじょうあと【池尻城跡】岐阜県:大垣市/旧安八郡地区/池尻村
日本歴史地名大系
。天正一〇年(一五八二)六月、織田信長が本能寺(現京都市中京区)に倒れ、織田信孝が柴田勝家や滝川一益と一味して羽柴秀吉に反抗したとき、長継は秀吉に同意して織田信
16. いせのくに【伊勢国】三重県
日本歴史地名大系
伊勢国内および近江・河内の旧領地を併せ合計一万五千石であった。〔長島藩〕一向一揆平定に功績のあった滝川一益が入ったが、そのあと織田信雄・羽柴秀次・天野景俊・原胤
17. いたがわむら【板川村】千葉県:山武郡/山武町地図
日本歴史地名大系
[現]山武町板川 板中新田の東に位置する。文禄二年(一五九三)板川などの二千石が滝川一益領になったという(寛政重修諸家譜)。同三年の上総国村高帳に村名がみえ、高
18. いちいのむら【櫟野村】滋賀県:甲賀郡/甲賀町
日本歴史地名大系
下の組垣内の南および北側には土塁の残る滝川城などの中世城跡がある。滝川城は天正年間(一五七三―九二)に滝川一益が築いたという。寛永石高帳では高六六〇石余、旗本堀
19. いちばむら【市場村】三重県:員弁郡/藤原町
日本歴史地名大系
寺院に覚勝寺(真宗大谷派)を記す。この地にはもと天台宗の寺院があったが、天正八年(一五八〇)滝川一益の兵火により焼亡し、寛永年中(一六二四―四四)美濃国加納町(
20. いなじまむら【稲島村】愛知県:稲沢市
日本歴史地名大系
元禄七年(一六九四)には幕府から助郷村に指定された(徇行記)。滝川氏はもと木全氏と称し、忠征の時、滝川一益に属して滝川に改姓。その後豊臣家・徳川家に仕え、尾張藩
21. いなべぐん【員弁郡】
国史大辞典
て本領が安堵された員弁郡司進士行綱がある。天正四年(一五七六)織田信長が北勢に入り、長島城の滝川一益に与えて以来、織田信雄・丹羽代次・豊臣秀次・氏家行広が支配し
22. いなべぐん【員弁郡】三重県
日本歴史地名大系
同文書)。〔近世〕永禄一〇年からの織田信長の伊勢平定により、国人の多くは降伏・没落し、当郡は滝川一益の支配するところとなった。その後、豊臣政権期の織田信雄・豊臣
23. いのうじょうあと【稲生城跡】三重県:鈴鹿市/旧奄芸郡地区/稲生村
日本歴史地名大系
降伏させると稲生城もその配下となったが(勢州軍記)、天正一一年(一五八三)土佐守光延(稲生殿と称する)は滝川一益に味方して豊臣秀吉軍と戦い、一族とともに討死した
24. うえすぎかげかつ【上杉景勝】画像
国史大辞典
直臣団(上田衆)による専制支配の基盤を確定した。九年には国外から越中(佐々成政)・北信(森長可)・上野(滝川一益)などの織田信長軍に攻囲され、国内でも信長に内応
25. うまじるし【馬印】画像
国史大辞典
瓢箪に金の切裂は羽柴秀吉、白の吹貫は佐久間信盛、枝弦竹に金の短冊は丹羽長秀、金の御幣は柴田勝家、金の三団子は滝川一益、金の分銅は筒井順慶、菅笠三蓋は佐々成政など
26. おおきじょうあと【大木城跡】三重県:員弁郡/東員町/大木村
日本歴史地名大系
降伏したが、信長によって北伊勢に封ぜられた滝川一益がこれを謀殺せんとしたため、逃亡して西国に赴き、細川藤孝に仕えたという(員弁雑志)。だが、滝川一益の後に北伊勢
27. おおこうちじょう【大河内城】
国史大辞典
機会に、織田信長は北畠氏攻撃を決意し、具教・具房父子はこの城に拠って抗戦した。信長方は同年八月滝川一益・木下藤吉郎・柴田勝家ら精鋭をすぐって包囲、周辺の田畠の作
28. おおじまむら【大島村】三重県:桑名郡/長島町
日本歴史地名大系
五七四)七月一五日条に「南大嶋口攻衆」として、御本所(織田信雄)、神部三七(信孝)、桑名衆(滝川一益)の名がみえる。城跡は明治の河川改修工事で河中に没した。「長
29. おおたきじんじゃ【大滝神社】福井県:今立郡/今立町/大滝村
日本歴史地名大系
ている。このような隆盛を誇った大滝寺も、天正三年(一五七五)織田信長の越前一向一揆討伐の折、滝川一益の軍勢によって堂舎はことごとく焼失した(大滝村氏神由来)。〔
30. おおはらなかむら【大原中村】滋賀県:甲賀郡/甲賀町
日本歴史地名大系
集落は大原谷の東・南・西・北の各垣内、櫟野谷の野代垣内に分れる。単に中村ともよばれた。織豊期の大名滝川一益は当地の出身という。寛永石高帳では高五四九石余、幕府領
31. おおはらのしょう【大原庄】滋賀県:甲賀郡/甲賀町
日本歴史地名大系
惣掟書」勝井文書)。なお、織田信長の部将滝川一益は「江州甲賀郡大原住人」と伝え(武家事紀)、彼自身もかつては同名中惣の構成員であったらしく「大原滝川一益」と名乗
32. おおみなと【大湊】三重県:伊勢市/山田地区
日本歴史地名大系
疋を差出している。織田信長が永禄一二年頃から南伊勢へ侵攻を始め、翌元亀元年(一五七〇)その臣滝川一益が大湊中・浜七郷中に宛てた文書(大湊文書)に「急度申候、多気
33. おかのごうむら【岡之郷村】群馬県:藤岡市
日本歴史地名大系
天正一〇年(一五八二)六月、高山重正が新給分として与えられた地に「二貫文 岡卿内新田」がある(滝川一益判物写「高山系図」所収)。同月に滝川氏と北条氏が戦った神流
34. 織田信雄(おだのぶかつ)
日本大百科全書
参加し三郡を得る。82年本能寺の変後、兄信忠のぶただの遺領尾張おわり(愛知県)を領し、83年滝川一益かずます、織田信孝のぶたかの旧領を得て、尾張、伊勢5郡、伊賀
35. おだのぶたか【織田信孝】画像
国史大辞典
秀吉は清洲会議の決定にもとづいて信孝に岐阜城にある三法師を安土に移すことを求めたが、信孝は柴田勝家・滝川一益とはかってその申出を拒絶し、中国の吉川元春とも盟約を
36. おだのぶただ【織田信忠】画像
国史大辞典
位左近衛権中将に叙任せられた。翌六年には中国筋で苦戦する羽柴秀吉を救援するため、佐久間信盛・滝川一益・丹羽信秀らの諸将を率いて播磨に入り、神吉・志方の両城を陥れ
37. 織田信長画像
日本大百科全書
山城やましろ・大和やまとに原田直政はらだなおまさらを任命した。ついで柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益たきがわかずますらの武将が各地に封じられ、それが織田家
38. 伽婢子 2 267ページ
東洋文庫
永禄一二年(一五六九)に木造具政が伊勢国 司(北畠具教)に背いて織田信長に通じた時、信 長幕下の滝川一益の女婿となって還俗、三郎兵衛 と称して織田信雄に仕えた。
39. 伽婢子 2 272ページ
東洋文庫
人達すぐれた侍であった がより高い立身をはかって(『甲陽軍艦』品一七)、 滝川三郎兵衛と、織田信長の臣滝川一益に内通し て、永禄一二年(一五六九)に信長を伊勢に
40. おばた-のぶさだ【小幡信貞】
日本人名大辞典
うばわれ,武田信玄をたよる。永禄(えいろく)4年信玄の上野侵攻の際に国峰城を奪還。武田氏滅亡後は滝川一益につかえ,一時北条氏についたのち,前田利家にしたがった。
41. かしわのむら【柏野村】三重県:阿山郡/伊賀町
日本歴史地名大系
集落の東に土塁が残る福島氏館であるとされる。「伊乱記」には柘植の郷士が皆この城に立てこもり、滝川一益や丹羽長秀の軍を迎え撃っているが、多勢に無勢たちまち打敗れた
42. 甲子夜話 6 108ページ
東洋文庫
秀吉取二其 城→使二杉原守フ之。ω 『秀吉譜』、天正十一年正月、秀吉謂。残雪未レ消之間、 先撃二破滝川一益→則勝家亦失レ気突。乃激二干諸士一云云。 四月、秀吉帰
43. かなくぼじょうあと【金窪城跡】埼玉県:児玉郡/上里町/金窪村地図
日本歴史地名大系
在城したという。その後、定盛の子光透は小田原北条氏の家臣となったが、天正一〇年(一五八二)の滝川一益と北条氏直・氏邦による神流川合戦の際に討死、当城も落城したと
44. かなくぼむら【金窪村】埼玉県:児玉郡/上里町地図
日本歴史地名大系
いるが、そのなかに「金窪」とみえる。同一〇年六月二二日の某書状写(松平義行氏所蔵文書)には、滝川一益と北条氏直・氏邦との神流川合戦に関して、同月一八日に「かなく
45. かぶとじょうあと【鹿伏兎城跡】三重県:鈴鹿郡/関町/加太村
日本歴史地名大系
七七)では細川方に属した。元亀元年(一五七〇)の姉川の戦で定秀は討死し、天正二年(一五七四)滝川一益は鹿伏兎氏を攻め、支城の林城(現安芸郡芸濃町)を討った。同一
46. かぶとやまむら【甲山村】埼玉県:大里郡/大里村地図
日本歴史地名大系
本郷(現東松山市)への出入りを停止されている。天正一〇年(一五八二)北条氏直は織田信長の家臣滝川一益を攻めるため軍勢三万余を率いて小田原を発ち、「横見ノ郡甲山」
47. かみぐん【賀美郡】埼玉県:武蔵国
日本歴史地名大系
。天正一〇年六月の本能寺の変後まもなく起きた神流川合戦は、小田原北条氏の勝利に終わり、上野の滝川一益は上方に退いた。この合戦は北条氏の上野進出の第一歩となった。
48. かみさとまち【上里町】埼玉県:児玉郡地図
日本歴史地名大系
などが活躍する。現在の新町とを結ぶ神流川橋付近は、天正一〇年(一五八二)六月に織田信長の家臣滝川一益と北条氏邦・氏直が戦った神流川合戦の激戦地として知られる。平
49. かめやまし【亀山市】三重県
日本歴史地名大系
領した。天正一〇年(一五八二)盛信が許されて亀山に戻ると、その家督争いに乗じて長島(現桑名郡)の滝川一益が亀山に入城し、これを家臣佐治新助(益氏)に守らせた。し
50. かわごえじょうあと【川越城跡】埼玉県:川越市/川越城下地図
日本歴史地名大系
印判状」平田文書)。同一〇年六月北条氏直は武田家を滅ぼして関東に進出してきた織田信長方の武将滝川一益と神流川で戦い、これを破っており、その際当城城代大道寺政繁は
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