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  11. 蒲生氏郷

蒲生氏郷

ジャパンナレッジで閲覧できる『蒲生氏郷』の国史大辞典・世界大百科事典・Encyclopedia of Japanのサンプルページ

国史大辞典
蒲生氏郷
がもううじさと
一五五六 - 九五
安土桃山時代の武将。会津若松城主。利休七哲の一人。幼名鶴千代、忠三郎、賦秀(やすひで)、洗礼名レオン。弘治二年(一五五六)近江国蒲生郡日野(中野)城主で六角氏の重臣賢秀の第一子として生まれる。永禄十一年(一五六八)織田信長に降った賢秀の人質として岐阜に赴く。ついで同地で元服し忠三郎賦秀と名乗った。翌十二年信長に従って伊勢に戦い、同年の冬、信長の女を娶り日野に帰城。元亀元年(一五七〇)信長の朝倉攻めに従軍し、戦後五月十五日父と連名で加増を受けた。以後、天正元年(一五七三)近江鯰江合戦、越前朝倉攻め、近江小谷城攻め、同二年長島の合戦、同三年長篠の戦、同六年摂津伊丹城攻め、同九年伊賀国攻略、同十年信州攻略などに参加した。本能寺の変の時は日野に在城中で、安土から信長の家族を引きとり、父とともに籠城のかまえを見せた。同年十二月二十九日日野町の掟を定めた。翌十一年羽柴秀吉と結び、滝川一益の占領する伊勢国亀山・峯城を攻め、戦後その功により亀山城を与えられた。この年飛騨守に任じた。翌十二年小牧・長久手の戦に参陣するとともに、その前後には伊勢で織田信雄の勢力と戦い、その間南伊勢で十二万石を充行われ、松ヶ島城に移る。同十三年紀州攻め、越中佐々攻めに従軍。この年諱を氏郷と改め、また大坂で洗礼を受けてレオンと称した。同十四年十一月侍従となり松ヶ島侍従と称せられ、同十五年九州攻めに参陣し、豊前巌石城攻めに武名を表わし、七月羽柴姓を与えられる。同十六年正四位下左近衛少将となり、松坂城を築いてこれに移り、松坂少将と称せられる。同十八年小田原征伐に参加ののち、八月会津を中心に陸奥・越後十二郡四十二万石に転封し黒川城に居城。十月に起きた大崎・葛西一揆には平定のため出陣したが、伊達政宗謀叛説をめぐって一時秀吉の勘気を受けた。同十九年七月九戸の乱鎮定にも出動し、九月その功により陸奥・出羽七郡十八万五千石を加増された(文禄検地後九十二万石)。文禄元年(一五九二)上洛し、秀吉に従って肥前名護屋に赴き翌年帰国。同年若松城本丸完成。翌三年上洛し、同四年二月七日伏見の自邸で没。四十歳。毒殺説もあるが疑わしい。京都大徳寺に葬る。法号昌林院殿高岩忠公大禅定門。福島県会津若松市栄町の興徳寺にも墓がある。
[参考文献]
蒲生氏郷記』、『氏郷記』、『松坂権輿雑集』、『近江蒲生郡志』、『近江日野町志』、『会津若松史』、今村義孝『蒲生氏郷』、桑田忠親「悲劇の数寄大名」(高柳光寿博士頌寿記念会編『戦乱と人物』所収)
(高木 昭作)


蒲生氏郷花押
ガモウウジサトカオウ
蒲生氏郷花押

 ©Yoshikawa kobunkan Inc.


改訂新版 世界大百科事典
蒲生氏郷
がもううじさと
1556-95(弘治2-文禄4)

安土桃山期の武将。幼名鶴千代,のち忠三郎。実名は教秀,賦秀(やすひで)のち氏郷。従三位参議。近江蒲生郡日野城主蒲生賢秀の子。はじめ織田信長に仕え,その妹を妻とした。本能寺の変に際し,信長夫人生駒氏を日野城に迎え,功により秀吉から明智光秀欠所地の一部を,ついで伊勢亀山城を与えられた。1584年小牧・長久手の戦などの功により伊勢松ヶ島12万石を賜り,85年賦秀を氏郷と改めた。86年従四位下侍従,87年羽柴姓を許され,88年正四位下左近衛少将に進み,伊勢松坂城に移った。90年小田原従軍の功により会津黒川城主となり,翌年の加増で会津73万石(文禄の高は92万石)を領し,徳川,毛利につぐ大大名となった。92年(文禄1)黒川を若松と改め,居城と城下町の整備を進めた。95年2月7日死去,大徳寺昌林院に葬られた。秀吉による毒殺説もあるが確証はない。利休七哲の筆頭とされ,和歌にもすぐれており,〈日本一,二の大名〉と評された。
[小林 清治]



Encyclopedia of Japan
Gamō Ujisato
蒲生氏郷
1556−1595

Christian name, Leão. Daimyō of the Azuchi-Momoyama period (1568−1600); son of Gamō Katahide (1534−84), lord of Hino Castle in Ōmi (now Shiga Prefecture). The Gamō sided with Oda Nobunaga when he marched on Kyōto in 1568; Ujisato was married to Nobunaga's daughter and served Nobunaga in various campaigns. After Nobunaga's assassination in 1582, Ujisato served Toyotomi Hideyoshi and distinguished himself in several campaigns, including the sweep through northernmost Honshū in 1591 that completed Hideyoshi's unification of Japan. Ujisato was ultimately awarded fiefs that totaled an assessed yield of 919,320 koku (see kokudaka). He thereby became one of Japan's five greatest daimyō. Ujisato fell ill while in Nagoya (now in Saga Prefecture), the Kyūshū headquarters for Hideyoshi's invasions of Korea, and died in Kyōto on his way home; the story that he was poisoned is unfounded. He converted to Christianity in 1585 but lost his zeal after Hideyoshi's anti-Christian edicts in 1587.

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検索ヒット数 527
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検索コンテンツ
1. 蒲生氏郷画像
日本大百科全書
安土(あづち)桃山時代の武将。近江(おうみ)国(滋賀県)蒲生郡日野(ひの)中野城に生まれる。父は同城主蒲生賢秀(かたひで)。幼名鶴千代(つるちよ)。1568年(
2. 蒲生氏郷
世界大百科事典
1556-95(弘治2-文禄4) 安土桃山期の武将。幼名鶴千代,のち忠三郎。実名は教秀,賦秀(やすひで)のち氏郷。従三位参議。近江蒲生郡日野城主蒲生賢秀の子。は
3. がもう‐うじさと【蒲生氏郷】
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安土桃山時代の武将。近江日野城主賢秀の子。初名賦秀(やすひで)。織田信長、豊臣秀吉に仕え、伊勢松阪城主となり小田原征伐の功によって陸奥・越後に四十二万石を領し、
4. がもううじさと【蒲生氏郷】画像
国史大辞典
の興徳寺にも墓がある。 [参考文献]『蒲生氏郷記』、『氏郷記』、『松坂権輿雑集』、『近江蒲生郡志』、『近江日野町志』、『会津若松史』、今村義孝『蒲生氏郷』、桑田
5. がもう-うじさと【蒲生氏郷】
日本人名大辞典
1556−1595 織豊時代の武将。弘治(こうじ)2年生まれ。蒲生賢秀(かたひで)の長男。織田信長,豊臣秀吉につかえ,小牧・長久手(ながくて)の戦いなどの功によ
6. 蒲生氏郷[文献目録]
日本人物文献目録
郎『蒲生氏郷小伝』山田勘蔵『春嵐 豊太閤もはばかった蒲生氏郷』山本茂『蒲生氏郷』阿部伝『蒲生氏郷』露伴学人『蒲生氏郷公遺愛の刀剣について』米山高実『蒲生氏郷公関
7. 蒲生氏郷[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
蒲生氏郷画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分)©東京大学史料編纂所
8. Gamō Ujisato 【蒲生氏郷】
Encyclopedia of Japan
1556−1595 Christian name, Leao. Daimyo of the Azuchi-Momoyama period (1568−1600)
9. 蒲生氏郷花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
10. がもううじさとき【蒲生氏郷記】
国史大辞典
軍記。一巻。天正十年(一五八二)から同十九年までの豊臣秀吉の武将としての蒲生氏郷の戦功を記す。『(改定)史籍集覧』一四所収本の伴信友識語によれば、氏郷の家臣満
11. 蒲生氏郷伊藤半五郎に与ふる書(著作ID:139968)
新日本古典籍データベース
がもううじさといとうはんごろうにあたうるしょ 
12. 蒲生氏郷記(著作ID:19114)
新日本古典籍データベース
がもううじさとき 戦記 
13. 蒲生氏郷紀行(著作ID:139979)
新日本古典籍データベース
がもううじさときこう 氏郷紀行 蒲生氏郷(がもううじさと) 天正二〇
14. 蒲生氏郷書翰(著作ID:139980)
新日本古典籍データベース
がもううじさとしょかん 蒲生氏郷公書簡 書簡 
15. 蒲生氏郷伝(著作ID:557733)
新日本古典籍データベース
がもううじさとでん 伝記 
16. 蒲生家分限帳(著作ID:140012)
新日本古典籍データベース
がもうけぶげんちょう 蒲生氏郷配下分限帳 名鑑 
17. あいづぐん【会津郡】福島県:陸奥国
日本歴史地名大系
政宗が会津に入る。しかし同一八年六月の奥羽仕置で政宗は会津を没収され、同年八月蒲生氏郷に代わる。〔近世〕天正一八年蒲生氏郷が会津に入部し会津全域のほか岩瀬郡・安
18. 会津塗
日本大百科全書
ばんだいさんろく)の桧原に70余軒の木地挽きがいたという裏づけがある。1590年(天正18)蒲生氏郷(がもううじさと)が領主となり、故郷の近江(おうみ)国(滋賀
19. 会津塗
世界大百科事典
歴史は古く,すでに桃山時代以前より会津藩主蘆名氏のもとで行われていたと伝えられる。1590年(天正18)蒲生氏郷が近江から会津に移封され,故国近江から木地師(木
20. あいづ‐ぬり[あひづ‥]【会津塗】
日本国語大辞典
施したもので、膳、盆など日用品が多い。*桜塢漫録〔18C中〕(古事類苑・産業一四)「天正中、蒲生氏郷の会津に封ぜらるるや、南部椀に模擬したる漆器を製せしむ、これ
21. 会津藩画像
日本大百科全書
)伊達政宗(だてまさむね)に奪われた。しかし、翌年豊臣(とよとみ)秀吉は政宗よりこれを没収、蒲生氏郷(がもううじさと)が入部することになる。氏郷は若松城の築城と
22. 会津藩
世界大百科事典
1589年(天正17)中世会津を支配した蘆名氏を破り,この地を領した伊達氏はまもなく去り,90年蒲生氏郷が90万石の領主として黒川の地に入った。黒川は15世紀後
23. あいづはん【会津藩】
国史大辞典
拠点として関東進出の野望をもっていたが、豊臣秀吉の忌諱にふれ、わずか一年余で会津は没収され、蒲生氏郷に与えられた。この氏郷時代に検地が行われ、城下の整備も本格的
24. 会津本郷
日本大百科全書
農林業と窯業が主産業。米作、野菜・菊栽培などを行う。おもに日常雑器を生産する本郷焼は、1593年(文禄2)蒲生氏郷(がもううじさと)が播磨(はりま)から職人を招
25. 会津若松[市]
世界大百科事典
1384年(元中1・至徳1)蘆名直盛が館を築き,後に黒川城と呼ばれたが,1590年(天正18)蒲生氏郷が移封されてから鶴ヶ城となり,城下町が整備されて若松と改称
26. あいづわかまつ【会津若松】
国史大辞典
以来、会津地方を支配する者は、いずれもこの地を拠点とした。天正十八年(一五九〇)、この地に入った蒲生氏郷は、居城と城下の本格的な経営に乗り出した。すでに蘆名氏の
27. 会津若松(市)画像
日本大百科全書
業の統制にあたった。一時期伊達政宗(だてまさむね)の支配下にあったが、1590年(天正18)蒲生氏郷(がもううじさと)がこの地に封ぜられた。氏郷は旧領の近江(お
28. あいづわかまつし【会津若松市】福島県
日本歴史地名大系
朔日黒川築於城郭、改於市井、自茲始曰若松、江州蒲生郡有若松森、氏郷恋郷為名也」とあり、新領主蒲生氏郷の郷里である近江国蒲生郡の若松森から名付けられたという。明治
29. あおじじょうあと【青地城跡】滋賀県:草津市/部田村
日本歴史地名大系
を支援して戦死した(同年一〇月六日「織田信長朱印状」青地文書)。茂綱の子千代寿丸は織田信孝・蒲生氏郷・前田利長に仕えたという(近江栗太郡志)。なお中世に青地氏が
30. あかつむら【赤津村】福島県:郡山市/旧湖南村地区
日本歴史地名大系
達家文書)に「中地・櫃沢・赤津三ケ村」とみえ、伊達政宗に三ヵ村の差出しを命じている。同一九年蒲生氏郷が天下一の茶碗焼楽常慶を会津に下向させた際、「あかつ」村に伝
31. あきやまじょうあと【秋山城跡】奈良県:宇陀郡/大宇陀町/春日村
日本歴史地名大系
沢・芳野両氏とともに北畠信雄の軍に属してこれを平定。同一二年信雄が豊臣秀吉と戦って没落すると、宇陀三人衆は蒲生氏郷の組下に属した(勢州四家記)。同一三年秀吉によ
32. あこがしまむら【安子島村】福島県:郡山市/旧熱海町地区
日本歴史地名大系
しかし翌一八年豊臣秀吉の奥羽仕置により蒲生氏領となり、当地には二本松城警護も兼ねて蒲生源左衛門郷成が駐在した(蒲生氏郷記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に
33. あさかぐん【安積郡】
国史大辞典
蘆名義広を攻め滅ぼしたのちは伊達氏の版図に編入された。同十八年八月豊臣秀吉の奥羽仕置によって蒲生氏郷の所領の一部となり、のち慶長三年(一五九八)上杉氏、同六年蒲
34. あたごじんじゃ【愛宕神社】福島県:会津若松市/旧東山村地区/慶山村
日本歴史地名大系
る丘上にある。祭神は軻遇突知神など。草創の年代は不明。天正一九年(一五九一)の大崎一揆の際、蒲生氏郷が町野左近を通して当社の別当金蔵院玄江に軍の勝利を祈らせ、凱
35. あだちぐん【安達郡】
国史大辞典
翌十四年畠山氏の二本松城を開城させて西安達をも収めたが、同十九年豊臣秀吉から安達郡を没収され、本郡は蒲生氏郷に与えられた。ついで慶長三年(一五九八)上杉氏、同六
36. あだちぐん【安達郡】福島県
日本歴史地名大系
天正一八年豊臣秀吉の奥羽仕置以降安達郡の呼称と領域が固定した。〔近世〕奥羽仕置により会津には蒲生氏郷が入部、その後慶長三年(一五九八)に上杉景勝、同六年に蒲生秀
37. あつしおむら【熱塩村】福島県:耶麻郡/熱塩加納村
日本歴史地名大系
、同年に示現寺開山「温塩源翁和尚」の百年忌が行われている。天正一八年(一五九〇)九月一二日の蒲生氏郷袖判寺領目録(示現寺文書)では「慈現寺門前」一〇〇石が示現寺
38. あねたいむら【姉帯村】岩手県:二戸郡/一戸町
日本歴史地名大系
九戸政実の乱で当城に籠城して討死したという(南部根元記)。天正一九年(一五九一)九月一四日の蒲生氏郷・井伊直正連署書状写(九戸軍談記)によれば、九月一日より「姉
39. あぶくまがわ【阿武隈川】福島県:総論
日本歴史地名大系
さらに会津の蘆名氏を滅ぼした。しかし豊臣秀吉の全国制覇の前に政宗は支配地を没収され、中通りは会津の蒲生氏郷の支配するところとなった。その後阿武隈川流域は、ほぼ上
40. あわそむら【阿波曾村】三重県:松阪市
日本歴史地名大系
諸役従先規御免之上者、上使口銭等之儀茂被成御用権候」と記され、鋳物師のもつ特権の一端をうかがわせる。天正一二年蒲生氏郷の支配下となり、同一八年鳥羽城主九鬼嘉隆の
41. いいたかぐん【飯高郡】
国史大辞典
御薗三十二、神田六、別名五十四がある。室町時代には北畠氏の支配下に入り、天正十二年(一五八四)蒲生氏郷が移って松坂城を築き、江州日野の商人を移した。その後服部一
42. いいたかぐん【飯高郡】 : 飯高郡/(一)
国史大辞典
御薗三十二、神田六、別名五十四がある。室町時代には北畠氏の支配下に入り、天正十二年(一五八四)蒲生氏郷が移って松坂城を築き、江州日野の商人を移した。その後服部一
43. いいたかぐん【飯高郡】三重県:伊勢国
日本歴史地名大系
中世後期には一時仁木義長の支配を受けるが、北畠氏の南伊勢支配が確立してからはその支配下に入った。近世には蒲生氏郷の松坂開府の後、服部氏・古田氏の支配を経て元和五
44. 飯豊山
世界大百科事典
反映するもので,1878年から1917年にわたって法廷で争って決定されたいきさつがある。16世紀末に会津藩主蒲生氏郷が信仰して登山路を開き,社殿を修築して以後繁
45. いいでさん【飯豊山】山形県:西置賜郡
日本歴史地名大系
が争ったが、近世には蓮華寺が別当であった。宥明は同寺中興開山とされ、文禄四年(一五九五)領主蒲生氏郷から社領五〇石の寄進を受けるなど、当山の整備を進めた。元禄期
46. いいでさん【飯豊山】福島県:総論
日本歴史地名大系
如件天文八年己亥四月十一日同じく「会津旧事雑考」文禄四年(一五九五)条には、蓮華寺住僧宥明が蒲生氏郷の命で廃絶していた飯豊山の参詣道を開いたので、別当になったと
47. いいでさんじんじゃ【飯豊山神社】福島県:耶麻郡/山都町/一ノ戸村
日本歴史地名大系
別当であった。同寺中興開山とされる宥明(薬師寺の僧であったともいう)は、文禄四年(一五九五)蒲生氏郷から社領五〇石の寄進を受けるなど飯豊山の整備を進めた。寛文六
48. いいとよむら【飯土用村】福島県:西白河郡/大信村
日本歴史地名大系
天正一九年(一五九一)一一月二一日の町野長門伝符状(楽美術館蔵)のなかに「いいとい」とあり、蒲生氏郷の命で会津に向かう天下一の焼物師楽常慶のために伝馬一匹の出役
49. いいなおまさ【井伊直政】画像
国史大辞典
家康の関東入国とともに上野箕輪城(群馬県群馬郡箕郷町)十二万石を与えられた。同十九年陸奥の一揆の鎮定にも蒲生氏郷に加勢し、文禄元年(一五九二)朝鮮の役には江戸留
50. いいなんぐん【飯南郡】三重県
日本歴史地名大系
に築城して以来、七日市は当地の中心の一つになったと考えられる。〔近世〕天正一六年(一五八八)蒲生氏郷の松坂開府以後、当地も蒲生氏の支配下に入った。同一八年氏郷の
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