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  11. 石川五右衛門

石川五右衛門

ジャパンナレッジで閲覧できる『石川五右衛門』の世界大百科事典・日本架空伝承人名事典・日本大百科全書のサンプルページ

改訂新版 世界大百科事典
石川五右衛門
いしかわごえもん
?-1594(文禄3)

安土桃山時代の盗賊の頭目。豊臣政権に反発する義賊というのは江戸時代の浄瑠璃や歌舞伎において粉飾された説で,《言経卿記》《豊臣秀吉譜》,アビラ・ヒロン《日本王国記》などによれば凶悪な窃盗である。1594年8月23日親子党類ともに京都三条河原で極刑に処された。出身地には諸説があり一定しないが,河内・丹後・伊賀などの説が有力のようである。
[岩沢 愿彦] 石川五右衛門の実在は疑えないところであるが,〈義賊五右衛門〉の名と人間像が広く定着するにいたったについては,江戸時代の大衆芸能の影響が大きいとされる。浄瑠璃では元禄以前に早くも五段構成の《石川五右衛門》ができており,その後,歌舞伎や浄瑠璃には《釜淵双級巴(かまがふちふたつどもえ)》《金門五山桐》など〈五右衛門物〉と通称される,おびただしい作品群が形成されていった。これをもってしても,歌舞伎や浄瑠璃の舞台で五右衛門の人間像が育成された事実が了解されよう。歌舞伎・浄瑠璃における〈五右衛門物〉は,当初,史実として確認される釜煎りの刑を最終場面に据えて,お家騒動に巻き込まれ義賊に身をやつした五右衛門の苦心を描く構成を基本としたが,やがて歌舞伎の役柄でいう国崩し,つまり天下国家の転覆を狙うスケールの大きな悪人のキャラクターが与えられ,義賊という性格を越えて,より怪奇で魅力的な大盗賊へと変貌した。この場合,豊臣秀吉が五右衛門に対抗する役回りを演じることになるが,いわゆるひきたて役の域をでない。舞台では五右衛門の奇怪さを強調するため,〈からくり〉や〈ケレン〉を駆使した奔放な演出が施された。江戸時代の舞台芸能は,多彩な悪役を活躍させたのを特色とするとされるが,五右衛門という人物は,江戸時代の舞台芸能がそだてるにかっこうの悪役だったのであり,それゆえに精彩を放つ独特の人間像を確立しえたものといえる。
[守屋 毅]

[索引語]
五右衛門物 国崩し(歌舞伎)


新版 日本架空伝承人名事典
石川五右衛門
いしかわごえもん
?‐1594(文禄3)
 安土桃山時代の盗賊の頭目。豊臣政権に反発する義賊というのは江戸時代の浄瑠璃や歌舞伎において粉飾された説で、『言経卿記』『豊臣秀吉譜』、アビラ・ヒロン『日本王国記』などによれば凶悪な窃盗である。一五九四年八月二三日親子党類ともに京都三条河原で極刑に処された。出身地には諸説があるが、河内・丹後・伊賀などの説が有力である。
[岩沢 愿彦]
 石川五右衛門の実在は疑えないところであるが、「義賊五右衛門」の名と人間像が広く定着するにいたったについては、江戸時代の大衆芸能の影響が大きいとされる。浄瑠璃では元禄以前に早くも五段構成の『石川五右衛門』ができており、その後、歌舞伎や浄瑠璃には『釜淵双級巴かまがふちふたつどもえ』『金門五山桐』など「五右衛門物」と通称される、おびただしい作品群が形成されていった。これをもってしても、歌舞伎や浄瑠璃の舞台で五右衛門の人間像が育成された事実が了解されよう。歌舞伎・浄瑠璃における「五右衛門物」は、当初、史実として確認される釜煎りの刑を最終場面に据えて、お家騒動に巻き込まれ義賊に身をやつした五右衛門の苦心を描く構成を基本としたが、やがて歌舞伎の役柄でいう国崩し、つまり天下国家の転覆を狙うスケールの大きな悪人のキャラクターが与えられ、義賊という性格を超えて、より怪奇で魅力的な大盗賊へと変貌した。この場合、豊臣秀吉が五右衛門に対抗する役回りを演じることになるが、いわゆるひきたて役の域をでない。舞台では五右衛門の奇怪さを強調するため、「からくり」や「ケレン」を駆使した奔放な演出が施された。江戸時代の舞台芸能は、多彩な悪役を活躍させたのを特色とするとされるが、五右衛門という人物は、江戸時代の舞台芸能がそだてるにかっこうの悪役だったのであり、それゆえに精彩を放つ独特の人間像を確立しえたものといえる。
[守屋 毅]
 かの五右衛門は都にて、昼中はくちゆうに、鑓を三人ならびの手振てぶりを先に立て、その身は乗馬、跡より、挟箱持はさみばこもち沓籠くつかご、歴々の侍と見せて、見分けんぶんにまはり、大盗みの手便てだてをして、仲間に子細あれば、大仏の鐘を撞きならし、これ相図あひづに集まり、おのれは、六波羅の高藪たかやぶのうちにかくれゐて、ここ、夜盗の学校とさだめ、命冥加みやうがのある盗人に、この一通り指南をさせ、前髪立まへがみだち野等のらには、巾着切きんちやくきりを教へ、大胆者には、追剥おひはぎの働きをならはせ、人体じんたいらしき者には、かたりの大事をつたへ、里そだちの者には、木綿きわたを盗ませ、色々四十八手の伝受を印可ゆるしまで、この道執行するこそ、うたてけれ。
 後は、三百余人の組下、石川が掟を背き、昼夜わかちもなく、京都をさわがせ、程なく搦捕からめとられ、世の見せしめに、七条河原に引き出され、大釜に油を焼立たきたて、これに親子を入れて、煎られにける。
 その身の熱さを、七歳になる子に払ひ、とてもがれぬ今の間なるに、一子を、我が下に敷きけるを、見し人笑へば、「不便さに、最後を急ぐ」といへり。「おのれそのわきまへあらば、かくはなるまじ。親に縄かけしむくい、目前の火宅、なほ又の世は火の車、鬼の引肴ひきざかなになるべし」と、これをにくまざるはなし。
本朝二十不孝巻二ノ一「我と身を焦がす釜が淵」

五右 春の詠めを価千金とは小さい譬へ。五右衛門が為にはこの価万両。最早日も西に傾き、誠に春の夕暮の桜も、一入一入。ハテ、麗らかな、詠めぢやなア。
ハテ、心得ぬ。我れを恐れず、この鷹の羽を休めるは。
この鳥は正しく画ける名画の筆勢。しかも白斑。殊に、羽表に記せし文字は
こりや、コレ、たしか此村大炊之助が手跡。ナニ〓〓、「其方、某、かねて申し合はせし通り、久次を囮に四海を掌に握らんと計りしところ、却つて久次、高景が計略に依つて、年来の大望空しく露顕なすものなり。」ムウ、すりや、此村が反逆は顕はれしとな。
ナニ「頼み置き候ふ一儀、某、元は大明十二代神宗皇帝が臣下、宋蘇卿と云ひしもの、本国に一子を残し、日本を覆さんとこの土に渡り、謀叛の企て。今日只今、露顕なし、
例へ空しく相果てるとも、彼の地に残せし忰、我れを慕うて日本へ渡りしと、ほゞ聞けど、未だ対面は遂げず。この忰強猛不敵の生れつき、形見に添へし蘭奢木といふ名香を証拠に、何卒尋ね出だし我が無念を語り、力を合はせ、久吉を討取るべきものなり。
ヤア、すりや、此村大炊之助と云ひしは、我が父宋蘇卿にてありしか。知らぬ事とはいひながら、生死の程も気遣はしく、我れ幼なき時、風波を凌ぎ、この土へ渡りしも、別れし父に対面遂げん為。方々さまよふ其うちに、竹地光秀どのに養育に預り、成長して、名も惟任左馬五郎と呼ばる。竹地氏、仇信長父子を討取り、武将となつて都の地券を許す。これに町人、百姓、諸大名も帰伏をなすも、僅かの日数たゝざるうち、大領久吉の為に滅ぼされ、無念の最期。その恩を受けし我れなれば、光秀どのの吊ひ軍、久吉を討取らんと、討死を止まり、いま、石川五右衛門と名乗り、徘徊なすも、人を語らひ、久吉を討取る手段。所々国々へ別れし、父宋蘇卿も、久次高景が計らひにて、大望顕はれ生死の程も覚束なし。無念なは、これまで心を合はせし此村、父とも又、我れを忰とも、互ひに知らぬ親子の心外。鷹の知らせも、無念の密書。何卒存命あるならば、心一致に亡ぼす計略。おのれ久吉、父の無念に、光秀の恨み。例へ事顕はれ、この身を油で煮られ、肉がとろけ、骨は砕かるゝとも、この無念、晴らさで置かうか。久吉 石川や、浜の真砂は尽くるとも
五右 ヤ、なんと。
久吉 世に盗人の種は尽きまじ。
五右 さては。うぬ。
久吉 順礼に御報謝。
金門五山桐二幕目
しらなみが打と千鳥は音をはつし
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):32‐26
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
伏見城中に忍び入り、太閤を狙ったが、その枕元にあった千鳥の香炉が啼いたため失敗したとの俗伝による。「白波」は緑林白波で盗賊の意。
五右衛門はなまにへの頃一首よみ
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):仁‐2
刊行/開き:1763(宝暦13年)(開き)
釜煎り刑に臨んで「石川や浜の真砂子は尽くるとも世に盗人の種は尽くまじ」との辞世を詠んだとされる。


日本大百科全書(ニッポニカ)
石川五右衛門
いしかわごえもん

生没年不詳。安土(あづち)桃山時代の大盗賊。その伝記は明確でないが、一説に遠州(静岡県)浜松の生まれで、初め真田(さなだ)八郎といい、1594年(文禄3)37歳のとき捕らえられ、京都・三条河原で一子とともに釜茹(かまゆで)の刑に処せられたという。盗賊ながら、この空前絶後の極刑に、太閤(たいこう)豊臣(とよとみ)秀吉の命をねらったという巷説(こうせつ)が付加されて有名となり、浄瑠璃(じょうるり)、歌舞伎(かぶき)脚本に数多く脚色され、一大系統になった。劇化の最初といわれるのは貞享(じょうきょう)(1684~1688)ごろ松本治太夫(じだゆう)の語った『石川五右衛門』で、浄瑠璃では近松門左衛門作『傾城吉岡染(けいせいよしおかぞめ)』(1712)、並木宗輔(そうすけ)作『釜淵双級巴(かまがふちふたつどもえ)』(1737)、並木正三作『石川五右衛門一代噺(ばなし)』(1767)、若竹笛躬(ふえみ)ら作『木下蔭狭間合戦(このしたかげはざまのかっせん)』(1789)、歌舞伎では並木五瓶(ごへい)作『金門五山桐(きんもんごさんのきり)』(1778)をはじめ、『艶競(はでくらべ)石川染』『けいせい稚児淵(ちごがふち)』などがおもな作品である。有名なのは「山門の五右衛門」で知られる『五山桐』で、これを女に書き替えたものに『けいせい浜真砂(はまのまさご)』がある。また『双級巴』と『狭間合戦』をつき混ぜ『増補(ぞうほ)双級巴』の外題で上演されることがある。明治以後も小説や戯曲に多く扱われている。

[松井俊諭]



石川五右衛門[百科マルチメディア]
石川五右衛門[百科マルチメディア]

 役者絵 国立国会図書館所蔵
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検索コンテンツ
1. 石川五右衛門画像
日本大百科全書
劇化の最初といわれるのは貞享(じょうきょう)(1684~1688)ごろ松本治太夫(じだゆう)の語った『石川五右衛門』で、浄瑠璃では近松門左衛門作『傾城吉岡染(け
2. 石川五右衛門
世界大百科事典
出身地には諸説があり一定しないが,河内・丹後・伊賀などの説が有力のようである。岩沢 愿彦 石川五右衛門の実在は疑えないところであるが,〈義賊五右衛門〉の名と人間
3. いしかわ‐ごえもん【石川五右衛門】
日本国語大辞典
安土桃山時代の伝説的な盗賊。文祿三年(一五九四)京都三条河原で釜煎(い)りの刑に処せられたという。「傾城吉岡染(けいせいよしおかぞめ)」「楼門五三桐(さんもんご
4. いしかわごえもん【石川五右衛門】
国史大辞典
また一説には遠江浜松の生まれで、真田八郎と称したが、河内国石川郡山内古底という医家により、石川五右衛門と改めたともいう。豊臣秀吉は前田玄以(のちの五奉行の一人)
5. 石川五右衞門(いしかわごえもん)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 801ページ
6. いしかわ-ごえもん【石川五右衛門】
日本人名大辞典
?−1594 織豊時代の盗賊。三好氏の家臣石川明石の子とする説,遠江(とおとうみ)(静岡県)浜松の生まれで前名を真田八郎とする説がある。京都をあらし,豊臣秀吉の
7. いしかわごえもん【石川五右衛門】
日本架空伝承人名事典
に処された。出身地には諸説があるが、河内・丹後・伊賀などの説が有力である。[岩沢 愿彦] 石川五右衛門の実在は疑えないところであるが、「義賊五右衛門」の名と人間
8. 石川五右衛門[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:3件 【逐次刊行物】:1件 『石川五右衛門実記』月之舎秋里『石川五右衛門実伝』柳沢武運三『石川五右衛門 2冊』塚原渋柿『石川五右衛門
9. 石川五右衛門[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
役者絵国立国会図書館所蔵
10. 石川五右衛門(著作ID:90299)
新日本古典籍データベース
いしかわごえもん 浄瑠璃 
11. 石川五右衛門(著作ID:90335)
新日本古典籍データベース
いしかわごえもん 辛井山椒(からいさんしょう) 作 勝川春常(かつかわしゅんじょう) 画 黄表紙 天明年間刊?
12. 石川五右衞門處刑 (見出し語:石川五右衞門)
古事類苑
法律部 洋巻 第1巻 754ページ
13. 石川五右衞門百年忌 (見出し語:石川五右衞門)
古事類苑
禮式部 洋巻 第2巻 1435ページ
14. いしかわごえもんもの【石川五右衛門物】
歌舞伎事典
 豊臣時代の盗賊石川五右衛門に取材した人形浄瑠璃・歌舞伎狂言の一系統。五右衛門は文禄三(1594)年京三条河原で釜煎の刑に処せられた。近世初期では、この〈釜煎の
15. 石川五右衛門/新釜〓段しんないぶし(著作ID:1955186)
新日本古典籍データベース
いしかわごえもん/しんかまいりのだんしんないぶし 浄瑠璃/新内 
16. 石川五右衛門一代記(著作ID:90346)
新日本古典籍データベース
いしかわごえもんいちだいき 仮名垣魯文(かながきろぶん) 読本 万延元刊
17. 石川五右衛門一代記(著作ID:4370597)
新日本古典籍データベース
いしかわごえもんいちだいき 合巻 明治
18. 石川五右衛門一代噺(著作ID:90357)
新日本古典籍データベース
いしかわごえもんいちだいばなし 並木正三一世(なみきしょうざ1せい) 浄瑠璃/義太夫 明和四初演
19. 石川五右衛門実録(著作ID:4360677)
新日本古典籍データベース
いしかわごえもんじつろく 実録 
20. 石川五右衛門やんれぶし(著作ID:4358237)
新日本古典籍データベース
いしかわごえもんやんれぶし 歌謡 
21. 此下藤吉石川五右衛門/両対談話(著作ID:1124056)
新日本古典籍データベース
このしたとうきちいしかわごえもん/りょうたいだんわ 十返舎一九(じっぺんしゃいっく) 合巻 
22. あ・げる【上・揚・挙】
日本国語大辞典
(アグル)」*俳諧・江戸十歌仙〔1678〕「帳面のしめを油にあげられて〈芭蕉〉 ながるる年は石川五右衛門〈春澄〉」*和英語林集成(初版)〔1867〕「サカナヲa
23. あぜみち‐づたい[‥づたひ]【畔道伝】
日本国語大辞典
口一葉〉六「願ひは何ぞ行きも帰りも首うなだれて畦道(アゼミチ)づたひ帰り来る美登利が姿」*石川五右衛門の生立〔1920〕〈上司小剣〉一三「文吾は、にこり笑ふと、
24. 嵐雛助
世界大百科事典
随一の無類の位にまで上った。叶(かのう)姓を称したが,後には父の名をついで3世小六となる。石川五右衛門や藤原時平が当り役で《時平の七笑》は彼の工夫による。八文字
25. あらしひなすけ【嵐雛助】
歌舞伎事典
三都随一の無類の位にまで上った。叶(かのう)姓を称したが、後には父の名をついで三世小六となる。石川五右衛門や藤原時平が当り役で、《時平の七笑》は彼の工夫による。
26. いがらっ‐ぽ・い【苦辛─】
日本国語大辞典
〔形口〕あくが強く、のどがひりひりするさま。いがらい。えがらっぽい。えがらい。えぐい。*石川五右衛門の生立〔1920〕〈上司小剣〉一四「一口吸ひ込んだが、厭にい
27. 石川(いしかわ)や浜(はま)の真砂(まさご)はつきるとも世(よ)に盗人(ぬすびと)の種(たね)は尽(つ)きまじ
故事俗信ことわざ大辞典
京都、七条河原で釜茹での刑に処せられた盗賊、石川五右衛門の辞世の歌とされる。 浄瑠璃・釜淵双級巴(1737)下「取らるる油断あればこそ取る盗賊も出来申す。五右衛
28. いち‐まい【一枚】
日本国語大辞典
*或る女〔1919〕〈有島武郎〉前・一九「古藤さんも手紙の上では一枚がた男を上げてゐますわね」*石川五右衛門の生立〔1920〕〈上司小剣〉八「強いといふことは、
29. いと‐つむぎ【糸紡】
日本国語大辞典
これは大きな器械をつかふ故あまりほねおれず毎日十二時間の仕事の中で一時間づつ休みがあり」*石川五右衛門の生立〔1920〕〈上司小剣〉七「静かな伊賀の山里の、村人
30. 浮世親仁形気(浮世草子集) 484ページ
日本古典文学全集
犯した者が落ちて責め苦を受けるという、地獄でも一番底にある地獄。東福寺門前の賀茂川中にある淵。南区東九条。石川五右衛門を釜いりにした釜が流れとどまった所という。
31. うっすら【薄】
日本国語大辞典
〉求婚者の話「一双の黒い眼が、意外の潤みを帯びてぢっと見上げた。顔はうっすらと白かった」*石川五右衛門の生立〔1920〕〈上司小剣〉四「うっすら覚えてる。顔の平
32. 絵本江戸風俗往来 131ページ
東洋文庫
た。江戸では見物料四文が普通で、稀に八文のもあり、外題はお七吉三・お染久松・お半長右衛門・石川五右衛門・女盗賊三島お仙・忠臣蔵などだと、『守貞漫稿』にいう。大正
33. お‐かさね【御重】
日本国語大辞典
重ねること。*雑俳・玉の光〔1844~45〕二「なんでもこい・おかさねもよふできますなア」*石川五右衛門の生立〔1920〕〈上司小剣〉一〇「文吾の小さい掌は、お
34. おぞまし‐さ【鈍─】
日本国語大辞典
〔名〕(形容詞「おぞましい」の語幹に接尾語「さ」の付いたもの)愚かであること。また、その度合。*石川五右衛門の生立〔1920〕〈上司小剣〉一〇「ほんたうに雨が降
35. おっ‐さん[ヲッ‥]【和尚様】
日本国語大辞典
親しんでいう語。*風流懺法〔1907〕〈高浜虚子〉一力「さうかそれが横河の和尚(オッ)さんかア」*石川五右衛門の生立〔1920〕〈上司小剣〉八「『和尚(ヲッ)さ
36. 改訂 京都民俗志 111ページ
東洋文庫
がある。近松の浄瑠璃にあるお千代半兵衛の碑〔相楽郡精華町祝園〕の破片は神経痛にきくといい、石川五右衛門の碑(下京区大雲院)の破片は手癖の悪い子によいとて煎汁をの
37. かき‐ぬすと【柿盗人】
日本国語大辞典
〔名〕柿の実を盗む者。柿どろぼう。*石川五右衛門の生立〔1920〕〈上司小剣〉二「『どいつちゃ…柿盗人(ヌスト)、奴盗人(どぬすと)。』大きな声を、真下から鉄砲
38. かぎ‐と・る【嗅取】
日本国語大辞典
*杏の落ちる音〔1913〕〈高浜虚子〉一二「昔の染吉の残骸から堀の芸者の匂ひを嗅ぎ取らうとあせる心持は」*石川五右衛門の生立〔1920〕〈上司小剣〉五「人さへ通
39. かけ‐がわら[‥がはら]【欠瓦】
日本国語大辞典
*売花翁〔1893〕〈斎藤緑雨〉「路傍の欠瓦(カケガハラ)なす事もなくごろちゃらと暮らすと聞き」*石川五右衛門の生立〔1920〕〈上司小剣〉六「懐中(ふところ)
40. かけ‐ら【欠片】
日本国語大辞典
909〕〈北原白秋〉魔睡・十月の顔「ややありて麪包(パン)の破片(カケラ)を手にも取り」*石川五右衛門の生立〔1920〕〈上司小剣〉四「母が泣き顔をして言ひかけ
41. かげ が 射(さ)す
日本国語大辞典
兄の名前を見た時、健三の頭に不図(ふと)又御縫(おぬひ)さんの影(カゲ)が差(サ)した」*石川五右衛門の生立〔1920〕〈上司小剣〉五「杉の葉の吊してある其軒下
42. 影(かげ)が射(さ)す
故事俗信ことわざ大辞典
「兄の名前を見た時、健三の頭に不図(ふと)又御縫(おぬひ)さんの影(カゲ)が差(サ)した」石川五右衛門の生立(1920)〈上司小剣〉五「杉の葉の吊してある其軒下
43. かたおか-にざえもん【片岡仁左衛門(初代)】
日本人名大辞典
のち山下半左衛門の門にはいり,元禄(げんろく)9年(1696)大坂岩井半四郎座の座頭となり,座本もつとめた。石川五右衛門,宿無団七などが当たり役で,敵役の随一と
44. かたひじ 怒(いか)らす
日本国語大辞典
二「短い袴を穿いてからに、肩肱(カタヒヂ)を怒(イカ)らしながら市中を歩いたものですが」*石川五右衛門の生立〔1920〕〈上司小剣〉三「文吾は母の前に片肱怒らし
45. 肩肘(かたひじ)怒(いか)らす
故事俗信ことわざ大辞典
〉二「短い袴を穿いてからに、肩肱(カタヒヂ)を怒(イカ)らしながら市中を歩いたものですが」石川五右衛門の生立(1920)〈上司小剣〉三「文吾は母の前に片肱怒らし
46. 甲子夜話 6 146ページ
東洋文庫
いか望と問へば、世に伝ふる、飛脚を害し金を奪しなど云類、全の虚説。又罪状を白せざれば数端の拷問を受て、石川五右衛門この方のことなり杯云も誕妄。斯人の罪斬罪を脱れ
47. 甲子夜話三篇 3 5ページ
東洋文庫
予が少年の頃より聞憶たり。されば此者一代の名には非らじ。〔四〕籍に続九十八に、世に聞こゆる巨盗、石川五右衛門を釜にて烹殺せしことは、蒲生氏郷の時にして、其釜今尚
48. 甲子夜話続篇 8 255ページ
東洋文庫
否々なり。寺中の僧は勿論、公方様にも御開扉のこと無しと。何かにしてか\る秘物にて坐すや。(一石川五右衛門と云巨盗、世の口牌に存る如く釜烹に成たると云ことは、実事
49. 加波山事件 民権派激挙の記録 272ページ
東洋文庫
一〇一惨酷の度をきわむ栃木の拷問 聞説、豊太閤の石川五右衛門に対する釜湯出の刑、黒田家の紅葉上人に対する鉛の熱湯の刑、幕府の某家臣大賀与四郎に対する竹鋸の刑、加
50. 歌舞伎(演劇)画像
日本大百科全書
えんやはんがん)、羽柴(はしば)秀吉は真柴久吉(ましばひさよし)という名で現れ、その久吉が石川五右衛門と京都の南禅寺で出会ったりする。しかし、これにはそれぞれ理
「石川五右衛門」の情報だけではなく、「石川五右衛門」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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