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  11. 山県有朋

山県有朋

ジャパンナレッジで閲覧できる『山県有朋』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
山県有朋
やまがたありとも
一八三八 - 一九二二
明治・大正時代の政治的、軍事的最高指導者の一人。号、含雪。天保九年(一八三八)閏四月二十二日長州萩城下川島村(山口県萩市川島)の下級武士の家に生まれる。父は有稔、母は松子。幼名は辰之助、小助、小輔。少年期から槍術に励んだ。安政五年(一八五八)京都に派遣され、諸藩の尊攘派と接触し、また吉田松陰門下生と交わり、のち松下村塾に入門した。文久二年(一八六二)藩命で江戸に赴き、翌年藩論の攘夷への一変に伴い帰藩し、外国軍艦への攻撃、それに対するアメリカ・フランス軍艦の攻撃に臨んだ(このころ狂介と改名)。この後、松陰門下の高杉晋作が組織した奇兵隊に参加、軍監。文久三年八月の政変で、攘夷派の長州は京都で敗北し、さらに四国連合艦隊の報復攻撃で惨澹たる敗北を被り、山県も戦闘で負傷した。幕府による第一次長州戦争は、元治元年(一八六四)藩主が「俗論党」に擁せられ幕府に降伏したが、山県が事実上統率する奇兵隊を含む「正義党」は武力で「俗論党」を打倒し、藩論を一変させた。幕府は慶応元年(一八六五)長州藩再征を布告、翌年対抗して薩長は反幕府連合を結成し、翌二年再征開始で、山県は奇兵隊を率い九州方面で戦闘。幕府は形勢が悪化すると戦争を打ち切り、山県は藩命で京都に赴き、西郷隆盛や大久保利通ら薩摩の指導者と提携の謀議を凝らした。同年大政奉還が行われ、明治元年(一八六八)正月鳥羽・伏見の戦ののち朝廷から徳川慶喜追討の令が発せられ、山県は大坂、ついで江戸城明け渡し後の江戸に入った。四月北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀に任ぜられ、越後から会津に転戦した。明治政府のもとで外遊を強く希望し、明治二年藩主からヨーロッパ視察の命を受けて西郷従道とヨーロッパを巡遊、西洋文明に衝撃を受け、その導入を緊急課題と認識して帰国。帰国後、兵部少輔として軍制改革にあたり、西郷隆盛を薩摩から引き出し四年政府の直轄陸軍を建設、続く廃藩置県で兵部大輔に昇進して新政府の全国兵権掌握を実現した。五年兵部省の陸海分割で陸軍大輔に転じ、徴兵制を推進、翌年実現をみた。六年初代の陸軍卿に就任、国内の秩序維持軍から外国に備える軍への改革を意図した。同年の征韓論には組しなかった。政変後一時西郷の後任の近衛都督に就任し、やがて陸軍卿に復し、参議をも兼任。七年台湾出兵の際にも対清戦争の回避を主張。九年萩の乱、十年西南戦争において、前原一誠も西郷もかつての同志であり、苦しい立場に立ったが、士族兵の採用に極力反対し、参軍として戦い、ついに勝利を収めた。明治十一年参謀本部設置とともに近衛都督兼参謀本部長に転じ、翌年参謀本部長に専任。十五年の「軍人勅諭」の制定に参与。明治十四年の政変で国会開設の詔勅が渙発され、伊藤博文が立憲制度調査に欧州に派遣されたあと、代わって参事院議長の職についた。これが軍以外の行政の責任ある地位についた最初であった。十六年内務卿に就任した(十八年内閣制度で内務大臣。なお華族制度の成立とともに伯爵、この時新華族で伯爵を授けられたものがおおむね「元勲」と呼ばれた、のちに元老として処遇された)。山県は、国家を危機に陥れると考えた民権運動を抑圧するとともに、立憲制の準備として地方制度(市制・町村制・郡制・府県制)制定に強い意欲をもち、二十一―二年渡欧し、視察した。これらを通じて政治家として成長し、帰国直後条約改正問題で総辞職した黒田内閣に代わり二十二年十二月総理大臣に任ぜられ、第一次内閣を組織した。教育勅語の発布にも関与した。この内閣のもとで翌年第一回衆議院総選挙が行われ、第一回帝国議会が開会された。山県は開会の冒頭施政方針演説を行い、「国家の独立を保持し、国勢を振張する」ために強化された陸海軍による「主権線」と「利益線」の確保が必要だとの趣旨を述べた。民党が多数を占めた議会において、予算案をめぐり議会と激しく対立したが、かなりの妥協を行い、アジアにおける最初の議会を解散せずに終結に導いた。二十四年四月辞職。政府と議会との対立の中で、伊藤博文の政党結成の企図に強く反対して阻止した。二十五年第二次伊藤内閣の成立にあたり、固辞したが入閣して法相に就任、翌年枢密院議長に転じた。この年列強の東亜進出に対して軍備拡張の必要を主張する意見書を政府に提出。二十七年の日清戦争勃発で、第一軍司令官として朝鮮半島を北上し、安東県に至ったが、病のため召還され、帰国後監軍の地位につき、翌年には陸相を兼ねた。日清戦争の功績で侯爵に進められた。この前後、韓国への影響力の増大、戦後軍備拡張の必要を主張する意見書を提出。韓国へのロシア勢力南下に対し、二十九年ロシア新皇帝の戴冠式に出席してロシア外相と交渉、山県・ロバノフ協定を締結した。戦後各内閣は政党との提携をはかり、官僚が次第に山県を中心に結集する動きを見せた。しかし第三次伊藤内閣の崩壊に直面し、みずから組閣する見通しなく、結局三十一年の第一次大隈内閣の成立をみた。この年元帥に列せられた。大隈内閣崩壊後、三十一年十一月大命を受け第二次内閣を組織、憲政党と提携し、地租増徴、京釜鉄道敷設、選挙法改正などを実現した。その後憲政党の入閣要求を拒否し、提携は破綻、退陣を決意したが、義和団事件勃発でしばらく延期し、三十三年九月、伊藤の立憲政友会結成直後に辞職した。三十四年伊藤内閣の崩壊後、山県の直系の桂太郎が組閣、以後伊藤とともに元老として表舞台から身を引いたが、内閣奏薦や重要政策への介入などを通じ影響力を保持した。三十七年・三十八年の日露戦争でも、参謀総長として戦争遂行の総指揮をとり、また講和の実現に導いた。この勲功に対し、四十年公爵に昇叙された。また三十八年から四十二年まで、そして同年からその死の大正十一年(一九二二)まで枢密院議長の職にあった。この時期西園寺公望を総裁として次第に大勢力となっていた政友会に対して、みずからと配下の桂太郎が影響力を持つ官僚・軍人などのいわゆる「山県閥」が対峙した。西園寺に対して、外交・財政、社会主義対策に不満を表明した。四十二年伊藤の死後は、元老中の元老として政界の中枢的存在となり、それ故にまた二個師団問題に発する一連の政変(大正政変・第一次護憲運動)の中、藩閥攻撃の標的とされた。その後も大隈・寺内内閣に、特に第一次世界大戦を契機とする世界政治の大変動を予測しての憂慮と不安から、さまざまな形で影響力を行使した。寺内内閣崩壊後、配下に後継首班候補を見出だせず、従来相対峙してきた政友会総裁原敬を推薦するに至った(大正七年九月)。原に対しても干渉したが、次第に原に同調するに至り、また宮中某重大事件で各方面から非難を被り、結局慰留を受けてとどまったが、枢密院議長の辞表を提出したりした。大正十年皇太子の外遊帰国と摂政就任を見届け、翌十一年二月一日病没、八十五歳であった。法名は報国院高照含雪大居士。葬儀は国葬で行われ、小石川護国寺(東京都文京区大塚五丁目)に葬られた。山県は慎重な性格で、日本の将来の安全に深い危惧を抱き、そのための軍備拡張に熱意を示した。「穏健な帝国主義者」という徳富蘇峰の評が妥当性を持っている。また自己の信頼した配下には絶えず心を配り、その結果「山県閥」と呼ばれるものが形成された。→宮中某重大事件(きゅうちゅうぼうじゅうだいじけん),→教育勅語(きょういくちょくご),→軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ),→元老(げんろう),→徴兵制度(ちょうへいせいど),→山県内閣(やまがたないかく),→山城屋事件(やましろやじけん)
[参考文献]
徳富猪一郎編『公爵山県有朋伝』、高橋義雄『山公遺烈』、岡義武『山県有朋』(『岩波新書』青三一一)、魯庵記念財団編『含雪山県公遺稿』、大山梓編『山県有朋意見書』、入江貫一『山県公のおもかげ』、伊藤隆編『大正初期山県有朋談話筆記』(『近代日本史料選書』二)
(伊藤 隆)


改訂新版 世界大百科事典
山県有朋
やまがたありとも
1838-1922(天保9-大正11)

明治・大正時代の代表的な藩閥政治家。元老,陸軍の最長老として軍や官政界に強大な勢力を振るった。幼名辰之助,のち小輔,さらに狂介と名のる。長州藩の蔵元付仲間という軽輩の家に生まれ,少年のころから槍術の修行に努め,長じて吉田松陰の松下村塾に学んだ。やがて高杉晋作や伊藤博文らと尊王攘夷運動に挺身し,1863年(文久3)奇兵隊の軍監となり,翌年には英・米・仏・蘭4国連合艦隊と交戦して敗れ,彼自身も負傷した。さらに第1次長州征伐を迎えて藩首脳が恭順屈服の態度をとったのに憤激して高杉らと挙兵し,俗論党を圧倒して藩政の主導権を握った。66年(慶応2)の第2次長州征伐に際しては小倉方面の戦闘で奮戦した。68年(明治1)戊辰戦争には北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀となり,長岡城の攻略戦で苦戦の末にこれを占領,会津若松城の攻囲戦にも参加した。

 1869年渡欧して軍制の調査・研究に従い,翌年帰国後,兵部少輔となり,大村益次郎横死後の兵部省にあって兵制改革を担当,72年陸軍大輔,陸軍中将となり,徴兵令の制定に努めた。73年には陸軍卿,翌年勃発した佐賀の乱には征討参軍として鎮圧に当たり,この年参議となって明治政府の中枢に席を占めた。西南戦争にも征討参軍として出征,徴兵による新しい軍隊を率いて士族中心の西郷軍と対決,これを鎮圧した。翌78年には新設の参謀本部長,80年〈隣邦兵備略〉を上奏して対清戦争を想定した軍備の充実を説き,他方,〈軍人訓戒〉を起草して軍人に忠勇と従順の精神を喚起することに努めた。82年に伊藤が憲法調査のため渡欧したあとをうけて参事院議長,翌年には内務卿に転じて自由民権運動を弾圧し,内相としては87年保安条例を公布して三大事件建白運動を抑えた。さらに議会開設に備えて地方制度の再編に着手し,市制・町村制,府県制・郡制を制定して地域の有力者支配を制度化するとともに官治的性格の強い地方自治制を採用した。

 1889年,第1次山県内閣を組織。〈教育勅語〉を渙発して国民教化のための基本理念を定め,90年から開かれた最初の帝国議会では民党による予算案の大削減に直面しながら妥協の道を探り,土佐派議員との提携に成功して解散を回避した。これ以後も,第2次伊藤内閣の法相,枢密院議長などを歴任し,日清戦争には第1軍を率いて出征した。また,96年にはロシア皇帝の戴冠式に特派され,外相ロバノフとの間で山県=ロバノフ協定を締結して行詰り状態にあった朝鮮問題に打開の道を開いた。98年には創設された元帥府に列し,元帥の称号を与えられ,これ以後,〈陸軍の大御所〉として同じ長州藩出身の桂太郎,児玉源太郎,寺内正毅らを陸軍省,参謀本部の要職に配置し,絶大な発言力を保持した。

 1898年11月に日本最初の政党内閣である隈板内閣(第1次大隈重信内閣)のあとをうけて第2次内閣を組織すると,憲政党と提携して懸案の地租増徴法案を成立させて日清戦後経営の財政的基礎を強化する一方,翌年には文官任用令を改正して政党員の就官の道をせばめ,さらに1900年には軍部大臣現役武官制の規定を設けて軍部内への政党の影響力排除を図った。このような彼の〈政党嫌い〉は政党への不信感にもとづくものであり,その姿勢は終生変わらなかった。同年義和団事件の収拾を終え退陣して以後は,元老として首相の選任や重要政策の決定に参画することになり,日英同盟の締結を推進し,日露戦争に際しては参謀総長として作戦指導に当たった。とくに09年伊藤博文がハルビンで暗殺されて以後は,陸軍部内をはじめ,官界,貴族院,枢密院や宮中にも山県直系の人物を配置して元老中で最も大きな発言力を有した。日韓併合や辛亥革命後の対中国政策などでは強硬論を唱え,また,第2次西園寺公望内閣の末期に二個師団増設問題で陸相が辞任すると後任陸相の推薦を拒否して内閣を倒壊させ,あるいは第2次大隈内閣に対しても不信任を表明して退陣を促すなど,内閣の死命を制した。しかし,山県直系の桂太郎はしだいに山県の影響力から離脱し,寺内正毅も政権担当に当たって必ずしも山県の意向どおりに動かず,その勢威もようやく衰えを示すことになり,また,米騒動の激発や労働運動の高まりに対する処方策に苦慮した。18年の米騒動直後に政友会総裁の原敬を首相に推し,原の内外政策を基本的に支持するにいたったことは新しい時代に対応するために選ばざるをえない保身策でもあった。20年に表面化したいわゆる宮中某重大事件では,内定をみていた皇太子妃に色盲の血統があることを理由に婚約解消論を主張して右翼や一部政治家の攻撃をうけ,枢密院議長の辞任を申し出るという不測の事態を招き,その威信も大きく動揺した。83歳で没し国葬となったが,参会者は意外に少なく,それは長く権勢をほしいままにした老政治家の晩年の孤影を象徴するものであった。
[宇野 俊一]

[索引語]
山県狂介 隣邦兵備略 軍人訓誡
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1. 山県有朋画像
日本大百科全書
明治・大正期の政治家、元老。陸軍大将、元帥。天保(てんぽう)9年6月14日、長州藩(ちょうしゅうはん)下級士族山県有稔(ありとし)の長男として萩(はぎ)城下に生
2. 山県有朋
世界大百科事典
1838-1922(天保9-大正11) 明治・大正時代の代表的な藩閥政治家。元老,陸軍の最長老として軍や官政界に強大な勢力を振るった。幼名辰之助,のち小輔,さら
3. やまがた‐ありとも【山県有朋】
日本国語大辞典
明治時代の軍人、政治家。長州の人。吉田松陰に学び奇兵隊を組織し、幕末動乱に活躍。維新後、陸軍大輔として徴兵令を施行。軍制の確立につとめ、参謀本部初代本部長に就任
4. やまがたありとも【山県有朋】
国史大辞典
[参考文献]徳富猪一郎編『公爵山県有朋伝』、高橋義雄『山公遺烈』、岡義武『山県有朋』(『岩波新書』青三一一)、魯庵記念財団編『含雪山県公遺稿』、大山梓編『山県有
5. 山県有朋
日本史年表
1906年〈明治39 丙午〉 10・‐ 山県有朋 、「帝国国防方針案」を上奏。 1922年〈大正11 壬戌〉 2・1 没。
6. やまがた-ありとも【山県有朋】画像
日本人名大辞典
1838−1922 明治-大正時代の軍人,政治家。天保(てんぽう)9年閏(うるう)4月22日生まれ。もと長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。松下村塾にまなび
7. 山県有朋[文献目録]
日本人物文献目録
正初期山県有朋談話筆記 1‐3』伊藤隆『椿山荘』長谷川伸『明治大正人物譚 5 山県有朋』尾崎行雄『明治の文学と山県有朋』賀古明『森鷗外と山県有朋』古川清彦『山県
8. 山県有朋[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©小学館ライブラリー
9. やまがたありともかんけいもんじょ【山県有朋関係文書】
国史大辞典
翰であり、最終巻は大正十年(一九二一)書翰であるから、山県有朋の活動期のほとんどすべてを網羅しているといってよい。これらの書翰は山県有朋の政治的位置を考えれば、
10. 山県有朋内閣画像
日本大百科全書
明治時代、山県有朋を首班として組織された第一次、第二次に至る内閣。由井正臣第一次(1889.12.24~1891.5.6 明治22~24)黒田清隆(くろだきよた
11. 山県有朋内閣(第一次)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
※(兼)は兼任。在任期間が短い閣僚は一部省略した。一つの職名に複数の人名がある場合は順次後任を示す。司法大臣は一時、大木喬任が臨時兼務©Shogakukan
12. 山県有朋内閣(第二次)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
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13. 青木周蔵画像
日本大百科全書
条約改正交渉を担当する一方、1887年地方制度編纂(へんさん)委員に任命された。1889年には第一次山県有朋(やまがたありとも)内閣の外相に就任、大隈重信(おお
14. 青木周蔵
世界大百科事典
含め23ヵ年のドイツ滞在歴をもち,ドイツの諸制度の日本への移植に尽力した。86年井上馨外相のもとで次官,ついで山県有朋,松方正義内閣の外相として条約改正につとめ
15. 青木周蔵自伝 21ページ
東洋文庫
斥けて大学に入りたるは、実に明治三年(一千八百七十年)の春期なりき。 斯くて明治三年の晩春に至り、山県有朋、御堀耕助の両氏は、視察の為め相携へて伯林に来り、其際
16. 青木周蔵自伝 82ページ
東洋文庫
望に副はんことを期して之を内務大臣〔山県有朋)に提出したるも、当局者は尚ほ予の議を容れず。依て譲歩すること前後七回にして、明治三十三年三月〔第二次山県有朋内閣外
17. 青木周蔵自伝 110ページ
東洋文庫
予の素論に賛成の意を表したることありき。 注  一井上宛の書簡は無いが、十六年三月十四目附、山県有朋宛書簡に、ほぼ同趣旨を書いている。  二 明治二十三年三月、
18. 青木周蔵自伝 230ページ
東洋文庫
  く、枢密院・元老院・華族らの中にも反対論者が多く、閣内でも、後藤逓相、山県有朋内相が  激しく改正中止を迫った。九 大隈案反対論のうち内地雑居と土地所有権を
19. 青木周蔵自伝 289ページ
東洋文庫
仮令兵力何程絶大なりとするも、所謂横座弁慶的〔横着〕の考にては到底世界を料理すること能はず。椿山伯〔山県有朋の号〕よζζζζ、何卒深く此の辺に細意を注ぎ、世外伯
20. 青木周蔵自伝 313ページ
東洋文庫
是非々々老朽不レ堪二其任一まで御勉強有レ之度、老閣常に仲裁の労を取て、伊伯〔伊藤博文〕、山伯〔山県有朋〕、黒伯〔黒田清隆〕の間に御斡旋此は迷惑との御考可・有・之
21. 青木周蔵自伝 349ページ
東洋文庫
に、大津事件ののちは二人の仲は冷却し、青木は井上に批判的となる。 第三に親交の厚かったのは、山県有朋である。青木は長州閥山県派と評されてきた。第一・二次山県内閣
22. 青木周蔵自伝 361ページ
東洋文庫
二四(一八九一)四七四八・二月十一日、大日本帝国憲法公布・十月十八日、霞が関事件・十二月二十四日、第一次山県有朋内 閣二月八日、「青木覚書」閣議で了承五月九日、
23. 青木周蔵自伝 362ページ
東洋文庫
命ぜられる二月八日、ドイツ・ベルギー公使免ぜられる十一月八日、外務大臣となる・十一月八日、第二次山県有朋内閣七月、改正条約施行・五月、義和団事件おこる二月二十六
24. 青木周蔵自伝 363ページ
東洋文庫
日、外務大臣辞任・六月十五日、臨時派遣隊派兵・七月六日、第五師団出動決定・十月十九日、第二次山県有朋内閣辞 任+一月二十五日、枢密顧問官となる・二月十日、実母三
25. 赤旗事件
日本大百科全書
堺利彦(さかいとしひこ)、山川均(ひとし)、管野(かんの)スガら16人が検挙された(うち2人は即時釈放)。山県有朋(やまがたありとも)系勢力はこれを大事件につく
26. あきやまさだすけ【秋山定輔】
国史大辞典
新報』は政府を攻撃する硬派の先頭に立った。秋山は孫文ら中国革命の指導者たちと親交を深めつつ、山県有朋・桂太郎に接近して、大正政変に際しては桂内閣を支持した。昭和
27. 朝比奈知泉
日本大百科全書
東京帝国大学予備門を経て同法科入学。在学中から『国民之友』などに寄稿し文名を得る。1888年(明治21)山県有朋(やまがたありとも)系の新聞『東京新報』の初代主
28. 朝比奈知泉
世界大百科事典
東京大学予備門,東大法科に学ぶ。在学中から《郵便報知新聞》《国民之友》に論文を寄稿し注目される。1888年山県有朋系の新聞《東京新報》創刊に大学を中退して参加,
29. あさひなちせん【朝比奈知泉】
国史大辞典
続いて帝国大学法科大学政治学科に学んだ。その間報知社に入社、また『国民之友』などにも寄稿し、同二十一年、山県有朋の後援で『東京新報』が創刊されると主筆となり、大
30. あたみおんせん【熱海温泉】静岡県:熱海市/熱海村
日本歴史地名大系
激し、愛犬の墓碑と熱海滞在記念碑を熱海に贈っている(大君の都)。明治一〇年(一八七七)以降、山県有朋・伊藤博文をはじめとする政府高官が多く熱海を訪れ、明治政府の
31. アモイじけん【厦門事件】
国史大辞典
月二十五日まで厦門・福州などを視察して清国官民と交歓し、また七月中旬より同月下旬まで上京して山県有朋首相以下と会談したが、この結果、同長官は首相以下も彼の積極策
32. 飯野吉三郎
世界大百科事典
明治・大正期の神道行者。通称穏田の行者。岐阜県出身。東京渋谷穏田に住み,祈禱,予言で信者を集めた。予言を通じて山県有朋,伊藤博文,清浦奎吾らの知遇を得,政財界の
33. いいのきちさぶろう【飯野吉三郎】
国史大辞典
の行者」と呼ばれた。美濃国岩村に生まれ、神秘的な雰囲気の祈祷行法によって政界首脳の伊藤博文・山県有朋・清浦奎吾らの知遇を得て、政界上層に陰然たる勢力をもつに至っ
34. 板垣退助[文献目録]
日本人物文献目録
治は人格なり』前田蓮山『板垣伯岐阜遭難事件』尾佐竹猛『国士の典型板垣伯』水野錬太郎『板垣退助山県有朋』-『板垣退助全集』板垣守正(編)『近世名将言行録 1』近世
35. 一木喜徳郎
世界大百科事典
その後,第2次大隈重信内閣の文相,内相を歴任し,17年から枢密顧問官。日本の地方制度の育成者の一人で,山県有朋の信任を得た。山県の死後,元老西園寺公望にも認めら
36. いちききとくろう【一木喜徳郎】
国史大辞典
説の源流となったが、反面内閣員の任免は天皇大権に属するとして議院内閣制を否認した。政治的には山県有朋系官僚として、貴族院では茶話会に属し、官僚派のイデオローグと
37. いちねんゆうはん【一年有半】
国史大辞典
藩閥政府がつくりあげたところの明治国家とその社会に対する批判精神で貫かれている。すなわち伊藤博文・山県有朋らの元老を非難し、「伊藤以下皆死し去ること一日早ければ
38. いっ‐き【一紀】
日本国語大辞典
一紀〓也」*軍人訓誡〔1878〕〈山県有朋〉「是畢竟維新以来僅かに一紀の星霜を経て」*国語‐晉語・四「蓄
39. 伊藤博文画像
日本大百科全書
顧慮することなく議会運営にあたることを宣言した。1890年の議会開設に際しては初代の貴族院議長となり、以後山県有朋(やまがたありとも)、松方正義(まつかたまさよ
40. 伊藤博文
世界大百科事典
辞任して議長に就任,各草案の審議を主導した。 帝国議会の開会に当たって,90年には初代の貴族院議長となり,山県有朋・松方正義両内閣が民党からの攻撃に直面した議会
41. いとうひろぶみ【伊藤博文】
国史大辞典
短命をもって終った。後継内閣首班に山県系の桂太郎が登場したことは、当時巨大な派閥網の上に立つ山県有朋とそれを欠く伊藤の間の政治的比重の差をおのずから示していた。
42. 伊藤博文[文献目録]
日本人物文献目録
藤公と私』岩田宙造『伊藤博文』中村菊男『井上聞太と伊藤俊輔』奈良本辰也, 松浦玲『伊藤博文と山県有朋』時野谷勝, 梅渓昇『伊藤博文と日英同盟』A・ステッド(著)
43. 伊藤博文内閣画像
日本大百科全書
松方正義内閣総辞職の後を受け、民党勢力に対抗するため元勲を網羅した内閣として組織された。法相に山県有朋(やまがたありとも)、逓相に黒田清隆(くろだきよたか)、内
44. 伊東巳代治画像
日本大百科全書
1891年から1904年(明治37)にかけて東京日日新聞社社長。1899年枢密顧問官となって以後は、山県有朋(やまがたありとも)系の官僚政治家として政界の裏面で
45. 伊東巳代治
世界大百科事典
綻したため責任を負って辞任した。1900年伊藤の政友会結成を周旋したが入党せず,このころから山県有朋や桂太郎らへの接近度を深めた。1899年に枢密顧問官となって
46. いとうみよじ【伊東巳代治】
国史大辞典
同内閣に留任した陸相桂太郎と通謀して内閣倒壊のため暗躍。翌三十二年枢密顧問官に任ぜられたが、このころから山県有朋に接近し、次の世代の官僚政治家を自認、政界の裏面
47. いとう-ゆきお【伊藤之雄】
日本人名大辞典
郎賞。福井県出身。京大卒。著作はほかに「昭和天皇と立憲君主制の崩壊―睦仁・嘉仁から裕仁へ」「山県有朋―愚直な権力者の生涯」「伊藤博文―近代日本を創った男」など。
48. 井上馨画像
日本大百科全書
中心に政府の主要官職を歴任し、大正4年9月1日80歳で没するまで、伊藤博文(いとうひろぶみ)、山県有朋(やまがたありとも)とともに明治の三元老の一人として政界に
49. いのうえかおる【井上馨】
国史大辞典
所を設置した。しかし、実際に動き始めてみると渋沢栄一をはじめ実業人が入党に消極的であり、元老山県有朋も反対したために結党は中止された。以後井上は政界第一線を退き
50. いのうえかおるもんじょ【井上馨文書】
国史大辞典
末・明治・大正期の政治史料である。書翰は三条実美・岩倉具視・木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山県有朋ら明治政府の重要政治家のものを網羅し、内容もきわめて興味ある
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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