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  11. 志賀直哉

志賀直哉

ジャパンナレッジで閲覧できる『志賀直哉』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
志賀直哉
しがなおや
一八八三 - 一九七一
大正・昭和時代の小説家。明治十六年(一八八三)二月二十日、宮城県牡鹿郡石巻村(石巻市住吉町一丁目)に生まれた。父直温(なおはる)・母銀の次男だが、兄が前年早世したため、実質上の長子。二歳のとき父母と上京、祖父直道のもとに同居し、祖母留女(るめ)にひきとられ、また祖父の感化を受けて育つ。十二歳で母を失い、義母浩(こう)を迎えた。学習院から東大英文科に進み、のち国文科に転じたが、明治四十三年に退学。その間に、内村鑑三の教えに接し、武者小路実篤・里見〓(山内英夫)らを知り、創作に心を傾け、大学中退の年に実篤らと『白樺』を創刊、第一号に『網走まで』を掲げて、作家の道を踏みだす。以後、自己防衛の本能にもとづくエゴティズムと、事象の底をみとおす鋭いリアリズムに裏うちされた短編を発表、やがて自伝的長編をもくろんで、その一端を、祖母との関係に照準をあてた『大津順吉』(大正元年(一九一二))に具現し、これを『中央公論』に寄せて、注目された。その直後に父との不和が昂じて家を離れ、尾道に赴き、さらに城崎、松江、伯耆(ほうき)大山と居を移しつつ、長編の稿を進めたが、意にまかせず放棄するとともに、創作からも遠ざかった。大正三年秋大山から京都に出て、康子(さだこ)と結婚。初期の作にはほかに『濁った頭』(明治四十三年)、『祖母の為に』(同四十五年)、『クローディアスの日記』(大正元年)、『范の犯罪』(同二年)などがある。結婚後は赤城山・上高地・京都・奈良などを旅し、四年千葉県我孫子におちつく。六年『城の崎にて』ほかで創作を再開。自然との交感、年齢的成長に、父との和解成立という事情も加わって、おのずから調和的な心境を培い、『焚火』(大正九年)、『雨蛙』(同十三年)、『矢島柳堂』(同十四―十五年)などを書く一方、中絶した長編の旧稿を「利用」した『暗夜行路』の構想が次第に熟し、大正十年から昭和三年(一九二八)にかけて、前篇および後篇第四の十五章までを『改造』に掲げた。その間京都へ、ついで奈良へ移住、古美術への関心を深める。プロレタリヤ文学擡頭と戦争末期との二つの創作休止期にはさまれた昭和前期には、十二年の『暗夜行路』完成のほか、身辺の出来事を観照し、あるいは小動物への愛着を語った作が多く、後者は戦後にもひき継がれて、『蜻蛉』(昭和二十三年)、『動物小品』(同四十一年)の刊行をみる。『暗夜行路』完成の翌年、奈良から東京にひきあげ、十八年には梅原竜三郎・小林古径・安田靫彦らの挿画をいれた豪華本『暗夜行路』を出版した。戦後は『世界』創刊号に『灰色の月』(昭和二十一年)を発表、十八年以来の沈黙を破り、日本ペンクラブの会長をつとめ(同二十二―二十三年)、昭和二十七年ヨーロッパを歴遊、各地に美術館を訪れ、マンテーニヤ作「キリスト」に感動した。創作としては『蝕まれた友情』(昭和二十二年)、『実母の手紙』(同二十四年)、『自転車』(同二十六年)、『祖父』『白い線』(同三十一年)など生涯の想い出を多く描いている。昭和四十六年十月二十一日死去。八十八歳。青山墓地に葬られる。『志賀直哉全集』がある。
[参考文献]
須藤松雄『志賀直哉の文学』、安岡章太郎『志賀直哉私論』、進藤純孝『志賀直哉論』、高橋英夫『志賀直哉―近代と神話―』
(遠藤 祐)


改訂新版 世界大百科事典
志賀直哉
しがなおや
1883-1971(明治16-昭和46)

大正・昭和期の小説家。宮城県石巻に生まれ,東京山手で育つ。父直温(なおはる)は慶応義塾出身の実業家。直哉に強い影響を与えた祖父直道は旧相馬藩の家臣。長男夭折のため次男直哉は祖母留女(るめ)の手で育てられた。学習院時代より内村鑑三の教会に通い,渡良瀬川の鉱毒事件被害地視察のことより父と対立。また落第したため武者小路実篤らと同級となる。1906年学習院から東大に進んだが中退。武者小路や木下利玄らと回覧雑誌を発行,これが下級の里見弴や柳宗悦らに影響を与え,10年4月《白樺》の創刊となる。直哉の文学の特質は短編小説において十二分に開花,とくに肉親と友人との愛憎を的確に摘出,これを簡潔にして適切な日本語を駆使して描きあげた。不快からはじまり対立,葛藤を経て,調和に至る肉体的,生理的な感情の起伏が作品の基盤となる。初期から中期にかけては,自分の周辺を見つめた作品群と客観小説とが交錯するが,《或る朝》(1908成立,1918発表)から《大津順吉》(1912)を経て《和解》(1917)に至る作品群が前者にあたり,《剃刀》(1910),《正義派》(1912),《清兵衛と瓢簞》《范(はん)の犯罪》(ともに1913),《赤西蠣太(かきた)》(1917),《真鶴(まなづる)》(1920)などが後者にあたる。父との対立が頂点に達したとき尾道に行き,その後も松江などに一時住む。14年には父の反対を押しきって武者小路の従妹の康子(さだこ)と結婚。京都,赤城などにも住み,柳宗悦,武者小路,バーナード・リーチなどとともに手賀沼のほとりの我孫子にも住む。直哉の場合にこのような転居がばねとなり次の作品が作られていく。父と和解した後は《城の崎にて》(1917),《焚火》(1920)など心境小説の名作を発表。《大津順吉》の延長線上の自伝的物語として私小説《時任(ときとう)謙作》に着手したが,父との和解のため変形を余儀なくされ,それが唯一の長編《暗夜行路》(1921-37)となり,構想から数えれば二十数年を費やしてついに完成した。その間我孫子から京都,ついで奈良に移る。内的モティーフを尊重,書きたいもののみを書き,夾雑物を切り捨て,圧縮の美を作り出した肉眼の作家として,広津和郎,芥川竜之介ら同時代作家,および後続作家に絶大な影響を与え,小林秀雄,谷川徹三や滝井孝作,尾崎一雄,網野菊,阿川弘之らに至る志賀山脈を形成した。同時に志賀直哉乗越えの試みが後代の作家の大きな課題となった。晩年は熱海さらに東京渋谷に住み,《山鳩》(1950),《朝顔》(1954)などの一刷けの作品を発表。文体そのままのような清淡な日常生活を送り,88歳の生涯を閉じた。
[紅野 敏郎]

[索引語]
志賀直温 志賀直道 時任(ときとう)謙作 志賀山脈
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世界大百科事典
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11. あきた‐うじゃく【秋田雨雀】
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明治-昭和時代の劇作家,児童文学作家。明治16年1月30日生まれ。43年戯曲「第一の暁」を発表。島村抱月(ほうげつ)の芸術座に参加。のち社会主義運動にすすみ,「
13. あんちゅう‐もさく【暗中模索・暗中摸索】
日本国語大辞典
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日本国語大辞典
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15. 生ける屍
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刑の執行を無効にする。日本では1917年(大正6)10月東京・明治座で芸術座第9回公演として島村抱月らの新脚色で初演した。法橋和彦
16. いまふくむら【今福村】島根県:那賀郡/金城町
日本歴史地名大系
岡本助兼の弟正信が住居を構えていたという。金城カントリークラブゴルフ場北側の小高い丘の上に「島村抱月先生の碑」がある。元谷には島根県畜産開発事業団の経営する今福
17. 「妹山背山」
日本史年表
1906年〈明治39 丙午〉 2・17 坪内逍遥・島村抱月ら、東京芝紅葉館で文芸協会発会式、 「妹山背山」 など上演。
18. い‐るい[ヰ‥]【彙類】
日本国語大辞典
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先輩の自然主義作家島崎藤村(とうそん)、田山花袋(かたい)、評論家の長谷川天渓(てんけい)、島村抱月(ほうげつ)などや、反自然主義の夏目漱石(そうせき)一派にも
20. 印象主義画像
世界大百科事典
確固とした一つの流れとなった。印象主義の運動および理論については,黒田,久米のほか,森鷗外,島村抱月らによって紹介され,1910年には,高村光太郎の〈緑色の太陽
21. いん‐めい【印銘】
日本国語大辞典
〔名〕印象を心に深く刻み込むこと。強く感じて忘れられないこと。*文芸上の偽自然主義〔1908〕〈島村抱月〉九「バーテルス(A.Bartels )氏の言を仮りて言
22. いん‐ゆ【引喩】
日本国語大辞典
翅引喩失〓当」*新美辞学〔1902〕〈島村抱月〉二・二・七・六「若し引喩法を分類せんとせば、其の顕に引喩せるものと隠に引喩せるものとを分か
23. いんゆ‐ほう[‥ハフ]【引喩法】
日本国語大辞典
引用部分を明示するものと暗示にとどめるものとがある。→隠引法・引用法。*新美辞学〔1902〕〈島村抱月〉二・二・七・六「引喩法とは古人の成語または故事を挿みて文
24. いんゆ‐ほう[‥ハフ]【隠喩法】
日本国語大辞典
〓直喩法。*新美辞学〔1902〕〈島村抱月〉二・二・七・二「隠喩法とは直喩に反して比喩の比喩たる処を埋没したるものなり」
25. 李光洙 【イーグヮス/りこうしゅ】 이광수
世界文学大事典
だが,過労がたたって結核になり,静養のため帰国した際の7月に釜山で徳富蘇峰を紹介された。また朝鮮巡業中の島村抱月の一行に会ったのもこのころである。18年にも,前
26. うつ‐ぜん【鬱然・蔚然】
日本国語大辞典
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27. うぶかたとしろう【生方敏郎】
国史大辞典
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28. えいたん‐ほう[‥ハフ]【詠嘆法】
日本国語大辞典
詠嘆の助詞、助動詞を用いたり、疑問文や一語文などの形式をとったりする。*新美辞学〔1902〕〈島村抱月〉二・二・一〇・四「文に勢力あらしめんため又は我が情の極め
29. 演出
日本大百科全書
日本では明治末期の文芸協会や自由劇場による演劇近代化運動の深まりにつれ、坪内逍遙(しょうよう)、島村抱月(ほうげつ)、小山内薫(おさないかおる)らにより近代的演
30. 演出
世界大百科事典
現代に復活させた。 このようなヨーロッパ演劇の影響を受けて,1907年前後から日本でも,坪内逍遥,小山内薫,島村抱月らによって近代的な演出が行われるようになった
31. 演出
世界文学大事典
明確に打ち出していく姿勢が要求されている,といえる。 日本では文芸協会を設立(1906)した坪内逍遥や島村抱月,自由劇場を発足(1909)させた小山内薫,築地小
32. えんのぎょうじゃ【役の行者】
国史大辞典
白雲と化して飛び去る。行者は霊の力、魔神は肉、広足は折衷的近代知性の脆弱さを示し、当時の自然主義、狭くは島村抱月・松井須磨子の恋愛事件の批判をふくみ、作者の「内
33. おがわみめい【小川未明】
国史大辞典
同三十八年早稲田大学英文科卒業。在学中『新小説』に発表した『霰に霙』(同三十八年)で認められた。卒業後島村抱月のすすめにより早稲田文学社に入社『少年文庫』を編集
34. おぐにむら【小国村】島根県:那賀郡/金城町
日本歴史地名大系
五つの郭が遺構として確認でき、徳田氏が居城したといわれている。日本近代演劇の先駆者で、評論家・作家・演出家の島村抱月(旧名佐々山滝太郎)は明治四年一月一〇日小国
35. 小山内薫[文献目録]
日本人物文献目録
小山内建と小山内薫 1‐3』杉野大沢『気の弱い正義漢』小山内徹『近代劇観念の形成 小山内薫と島村抱月』越智治雄『劇場人としての小山内薫氏』北村喜八『作家研究座談
36. おん‐こう[ヲンクヮウ]【温光】
日本国語大辞典
・四「日(ひび)に自然の人を慈しめる温光(ヲンクヮウ)を吸ひ」*囚はれたる文芸〔1906〕〈島村抱月〉四「一味の温光は、早くほのぼのの夜明けより、人の心の底に通
37. おん‐すう【音数】
日本国語大辞典
〔名〕言語の音や音節の数。*新美辞学〔1902〕〈島村抱月〉二・二・三・六「声音の諸方面中、音位、音度、音長、音数の四を形式美の原理に基づき種々に組み合はせたる
38. おんすう‐りつ【音数律】
日本国語大辞典
有する詩歌や散文の音楽的なリズム。五七調、七五調の類。→韻律(いんりつ)。*新美辞学〔1902〕〈島村抱月〉二・二・三・六「主なる律格〈略〉音数に基づけるもの即
39. か[クヮ]【化】
日本国語大辞典
*自然主義論〔1908〕〈生田長江〉八「抽象的概念を具体化しようと云ふ技巧は」*自然主義の価値〔1908〕〈島村抱月〉三「凡て芸術は客観的でなくてはならぬ、客観
40. かい‐し【開始】
日本国語大辞典
年)〔1898〕九九二条「遺産相続は家族の死亡に因りて開始す」*囚はれたる文芸〔1906〕〈島村抱月〉二「是れ所謂近世哲学の開始を報ずる声なり」*草枕〔1906
41. かい‐そう[クヮイ‥]【会湊】
日本国語大辞典
〈村田文夫〉前・中「四方の学生会湊し最も文学の盛なる所にして」*囚はれたる文芸〔1906〕〈島村抱月〉一〇「十九世紀末の文芸は、実に目もあやなる雑多の潮流の会湊
42. かい‐たい【解体】
日本国語大辞典
しもに精強なりし鎌倉政府も僅かに三ケ年に過ぎずして悉く解体し」*囚はれたる文芸〔1906〕〈島村抱月〉一三「知識は常に感情を手取りにして、解体し殺戮せんとす、是
43. かいとう‐き[クヮイトウ‥]【回頭期】
日本国語大辞典
〔名〕物事の変わるべき時期。転換期。転期。*囚はれたる文芸〔1906〕〈島村抱月〉一二「其の回頭期を示したる『第二タンカレー夫人』以来、また一世を動かすべき作な
44. かい‐ひ[クヮイ‥]【回避】
日本国語大辞典
クヮイヒシガタシ」*囚はれたる文芸〔1906〕〈島村抱月〉一三「神秘的文芸は、退いて十九世紀が集積したる知識より回避せんと欲す」*それから〔1909
45. かい‐もう[クヮイ‥]【晦曚】
日本国語大辞典
〈注〉マックラ)として一朶(いちだ)の黒雲須藤が上に掩ひ累り」*囚はれたる文芸〔1906〕〈島村抱月〉二「天地いかに晦曚の夜なりとも、此の一線の明白は、曾て消ゆ
46. かがく‐ばんのう[クヮガク‥]【科学万能】
日本国語大辞典
一切の問題は解決できるとすること。科学を最高のものとすること。*囚はれたる文芸〔1906〕〈島村抱月〉二「十九世紀の或る部分は、科学万能の旗下に奔趨したれども」
47. かく‐らく[クヮク‥]【郭落・廓落】
日本国語大辞典
〔形動タリ〕(1)広々としたさま。広大なさま。心が広く、からりとしているさま。*囚はれたる文芸〔1906〕〈島村抱月〉一四「文芸の奥に、廓落として、広大無辺の天
48. 神楽坂
世界大百科事典
……今でも矢張,賑やかな縁日が立つて〉と記しているが,その縁日と露店のにぎわいは有名であった。その後,島村抱月ら早稲田派の出入りも目だったが,昭和に入ってから盛
49. か‐げん[クヮ‥]【過現】
日本国語大辞典
しらば、又未来をさとるべし。ひっきゃう後生はめんめんさばきか」*囚はれたる文芸〔1906〕〈島村抱月〉三「智によりて過現を照し、情によりて未来を察す」易林
50. かたがみのぶる【片上伸】
国史大辞典
代々地主で庄屋をつとめた片上家に父良・母節の長男として生まれた。早稲田大学文科卒業。坪内逍遙・金子馬治・島村抱月らの教えを受けた。早稲田文学社記者・早稲田大学予
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