NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1900冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史上の人物
  8. >
  9. 日本史上の人物
  10. >
  11. 尾形光琳

尾形光琳

ジャパンナレッジで閲覧できる『尾形光琳』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
尾形光琳
おがたこうりん
一六五八 - 一七一六
江戸時代中期の代表的な画家。祖父宗柏の代から東福門院の御服所を勤めていた呉服商雁金(かりがね)屋の当主宗謙の次男として、万治元年(一六五八)に京都で生まれる。名は惟富・伊亮・方祝、通称は市之丞、号を光琳(はじめ浩臨)、別号を道崇・寂明・澗声といい、軒号を長江軒・青々斎などと号した。また日蓮宗に帰依して、元禄七年(一六九四)にはすでに日受の道号をもっている。『尾形流略印譜』によると、父宗謙は光悦流の書と狩野流の画、および能その他の諸芸を嗜んだため、少青年期は父のもとにあってその影響をうけ、また画は狩野派の山本素軒に師事したとある。天和三年(一六八三)兄藤三郎(のち助右衛門)が勘当を許されて家督を相続したので、翌貞享元年(一六八四)に弟乾山とともに財産を分譲され、間もなく多代と結婚して独立した。権門富商と交わる奢侈生活を行なったために、元禄末ごろにはほとんど家財を蕩尽してしまったようである。そして宝永四年(一七〇七)に江戸に下って酒井忠挙から十人扶持、翌年は二十人扶持を給せられたが、同六年の春には帰京し、さらに正徳元年(一七一一)末から翌年冬にかけても江戸に滞在していたが、八月にはすでに京都に戻っている。同三年長子寿市郎を京都銀座役人小西彦九郎の養子にしたために、今も残る『小西家文書』(大阪市立美術館蔵)の中に多数の光琳関係文書と画稿が伝わっている。なお次子勝之丞も同五年に没し、三子才次郎も大坂商人石井吉右衛門の養子となり、兄の藤三郎も江戸に移っていたので、光琳の晩年における家族生活は孤独であった。この光琳は元禄初年から没するまでの間、のちに関白になった二条綱平から特別な重用をうけたのは、おそらく父宗謙が綱平の父光平のもとに出入りしていた因縁によるのであろう。その二条家の推薦によって、元禄十四年に法橋に叙せられたのであろうし、また宝永元年に描いている「中村内蔵助像」(重要文化財、大和文華館蔵)の像主は、やはり銀座年寄であり、草花図を描いている「白地秋草模様小袖」(同、東京国立博物館蔵)は、江戸滞在中の外護者であった材木商冬木家の品であることなどからして、光琳の生活様式と意識とがほぼ推定できる。享保元年(一七一六)六月二日に五十九歳で没して、妙顕寺の興善院に葬られる。光琳の遺作は、大画面では「燕子花図」(国宝、根津美術館蔵)・「八ツ橋図」(メトロポリタン美術館蔵)・「紅白梅図」(国宝、熱海美術館蔵)・「呂尚垂釣図」(小倉家旧蔵)・「三十六歌仙図」などの屏風があり、小画面では「草花図巻」(中村房次郎蔵)・「躑躅図」(重要文化財、畠山記念館蔵)・「伊勢物語図」(東京国立博物館・五島美術館蔵)などの着色画と、水墨画や実用的な扇面図と団扇図などがあって、合計すると実に多く遺っているが、製作年代の明白なのは前記の「中村内蔵助像」と宝永二年の軸銘記がある「草花図巻」だけである。しかも落款はいずれも「光琳」であって、光琳を号したのは三十五歳直前からであるから、それ以前の製作と認定できる品はないばかりか、遺作の画法的推論によれば、ほとんど四十歳以後の後半世の作と考えられている。武家絵画の狩野派と、やはり武家化している土佐・住吉両家の大和絵に対して、富裕なる町人が理想とした生活感情を宗達的画法によって表現したところに光琳の価値がある。なお、弟乾山のために陶器画を描き、また漆工品の意匠にもすぐれていた。
[参考文献]
酒井抱一編『光琳百図』、池田孤村編『光琳新撰百図』、審美書院編『光琳派画集』、田中一松編『光琳』、山根有三『光琳関係資料とその研究』
(谷 信一)


改訂新版 世界大百科事典
尾形光琳
おがたこうりん
1658-1716(万治1-享保1)

江戸中期の画家。名は惟富,通称は市之丞。35歳から用い始めた光琳のほか,方祝,積翠,〓声,道崇,青々,寂明などの別号がある。京都の高級呉服商雁金屋尾形宗謙の次男に生まれる。弟に尾形乾山がいる。1687年(貞享4)に没した父から,遺産のほぼ半分を譲渡されたが,放蕩生活のうちに使い果たし,39歳ころ画家として立つことを決意する。99年(元禄12)乾山は鳴滝に開窯,乾山焼として売り出すが,光琳はその絵付けを手伝う。また,染織や蒔絵の意匠図案にも従事する。44歳で法橋位を得る。この叙任には,庇護を受けていた公卿二条綱平の推挙があったと推定されている。画は最初父から手ほどきを受けたようだが,その後狩野派の山本素軒(1706没)に就いて本格的に学んだ。素軒画の模写ものこされている。光琳の曾祖父道柏は本阿弥光悦の姉を妻とし,祖父宗柏も光悦周辺の文化人の一人であったため,尾形家には光悦や宗達の作品ものこされていた。これを契機として光琳は宗達画風へ転向,独自の様式形成へと向かうことになった。1704年(宝永1)光琳は初めて江戸へ下り,以後宝永年間(1704-11)に4,5回も京都と江戸を往復した。江戸では深川の富裕な材木商冬木家に寄寓し,津軽越中守邸に出入りし,あるいは酒井雅楽頭(うたのかみ)忠挙から扶持を受けた。多くの雪舟画を模写し,彼らのために制作したが,窮屈な江戸生活に心の安寧を得ることができなかったらしく,それを吐露した書簡(大和文華館)がのこされている。この東下りを,光琳が庇護を受けていた銀座商人中村内蔵助(くらのすけ)などと結託し,宝永期の貨幣改鋳に関し策動するためであったとみる説もある。11年(正徳1)京都新町通り二条下ルに新居を作り,以後そこで創作を続けた。14年銀座闕所(けつしよ)があり,中村内蔵助が家財没収のうえ追放になるという精神的打撃を受けたが,これを克服して画風を完成させた。

画風の特質は,宗達および宗達派を基礎とし,深い自然観照を盛り込みつつ,理知的な構成によって,斬新な意匠性と豊饒(ほうじよう)なる装飾性を発揮した点にある。《鳥獣写生帖》(文化庁)は,彼が写生に関心をもっていたことを示すものだが,これ自体は狩野探幽の模写であることが近年判明した。二大傑作は,法橋叙任後まもなく《伊勢物語》に取材し,型を使って描いたと推定される《燕子花(かきつばた)図屛風》(根津美術館)と,さまざまな美的要素を完璧に統一した最晩年の《紅白梅図屛風》(MOA美術館)である。そのほか《波濤図屛風》(メトロポリタン美術館),《孔雀立葵(くじやくたちあおい)図屛風》,《草花図巻》,《躑躅(つつじ)図》(畠山記念館),《中村内蔵助像》(1704,大和文華館)などがある。《竹梅図屛風》(文化庁),《維摩図》など水墨画にも優品が多い。光悦の伝統を引き継いで工芸作品にも天分を発揮し,《八ッ橋蒔絵硯箱》《冬木小袖》(ともに東京国立博物館)などのほか,彼が絵付けを行った乾山焼が多数のこされている。上記写生帖,遺印,画稿などは,〈小西家文書〉(文化庁,大阪市立美術館分蔵)としてのこり,光琳研究の貴重な資料となっている。
→琳派
[河野 元昭]

[索引語]
雁金屋 山本素軒 尾形道柏 本阿弥光悦 尾形宗柏 中村内蔵助 鳥獣写生帖 紅白梅図屛風 小西家文書
上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


尾形光琳の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 190
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. 尾形光琳画像
日本大百科全書
江戸中期の画家。京都の呉服商の老舗(しにせ)、雁金(かりがね)屋の次男に生まれる。父は尾形宗謙(そうけん)、弟に陶芸家として名高い乾山(けんざん)がいる。名は惟 ...
2. 尾形光琳
世界大百科事典
1658-1716(万治1-享保1) 江戸中期の画家。名は惟富,通称は市之丞。35歳から用い始めた光琳のほか,方祝,積翠, ...
3. おがた‐こうりん【尾形光琳】
日本国語大辞典
江戸中期の画家、工芸家。乾山(けんざん)の兄。京都の人。絵を狩野派の山本素軒に学ぶ。光悦、宗達に私淑し、大胆、軽妙な画風により、近世装飾画の最高峰といわれる。ま ...
4. おがたこうりん【尾形光琳】
国史大辞典
一六五八―一七一六 江戸時代中期の代表的な画家。祖父宗柏の代から東福門院の御服所を勤めていた呉服商雁金(かりがね)屋の当主宗謙の次男として、万治元年(一六五八 ...
5. 尾形光琳(おがたこうりん)
古事類苑
文學部 洋巻 第3巻 825ページ ...
6. おがた-こうりん【尾形光琳】
日本人名大辞典
1658−1716 江戸時代前期-中期の画家,工芸家。万治(まんじ)元年生まれ。尾形宗謙の次男。尾形乾山の兄。狩野派山本素軒にまなぶ。本阿弥光悦(ほんあみ-こう ...
7. 尾形光琳[文献目録]
日本人物文献目録
』望月信成『尾形光琳 』-『尾形光琳』ST生『尾形光琳』大西一外『尾形光琳 1‐5』梧葉『尾形光琳』清純『尾形光琳』辻田無茶士『尾形光琳』前田健次郎『尾形光琳』 ...
8. 尾形光琳『波濤図屏風』[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
1704~1709年(宝永1~6)ころ 紙本金地着色 二曲一隻 メトロポリタン美術館所蔵 ...
9. いじゅう【以十】
日本人名大辞典
の人。「光琳(こうりん)印譜」によれば,「光琳孫以十画」の款記と「光是」の朱字方印をのこす。尾形光琳風の絵をかいたというが,あきらかでない。 ...
10. いとう-じゃくちゅう【伊藤若冲】
日本人名大辞典
2月8日生まれ。はじめ狩野(かのう)派をまなぶ。宋(そう),元(げん),明(みん)の中国画や尾形光琳(こうりん)の画風を研究し,写実性を基調に装飾性をくわえた独 ...
11. 伊藤仁斎
世界大百科事典
(連歌師の里村氏)。伊藤家は京都の上層町衆で,親族,姻族には角倉了以,里村紹巴,本阿弥光悦,尾形光琳・乾山らがいる。仁斎の青年時代は儒学で生計を立てることが困難 ...
12. いとうじんさい【伊藤仁斎】
国史大辞典
宝永二年(一七〇五)三月十二日未刻に没した。年七十九。嵯峨の二尊院に葬る。古学先生と私諡された。妻は最初、尾形光琳・乾山兄弟の従姉にあたる尾形(緒方)嘉那(かな ...
13. 印籠
日本大百科全書
人々をはじめ、梶川(かじかわ)文竜斎、山田常嘉(じょうか)、塩見政誠(まさなり)、飯塚桃葉、尾形光琳(こうりん)、小川破笠(はりつ)(笠翁)、堆朱楊成(ついしゅ ...
14. いんろう【印籠】
国史大辞典
椎原市太夫、明和年間(一七六四―七二)徳島藩蜂須賀重喜に召された飯塚桃葉らがいる。山田常嘉・尾形光琳・小川破笠・堆朱楊成らも異色ある作品を残している。 [参考文 ...
15. 歌麿 74ページ
東洋文庫
、白い打ち掛けには日本の錚々たる大画家たちが絵を描くのであり、花魁のための特殊な作品として、尾形光琳が有名な薄雲太夫の着物の模様を描いたという図柄をプリントした ...
16. うちわえ【団扇絵】
国史大辞典
実用品として普及すると、貴族や富商は競って名画家に描かせたので遺品も多く、中でも価値あるのは尾形光琳の団扇絵であろう。また江戸時代後期の町人は浮世絵的な版画の団 ...
17. 江戸時代美術画像
世界大百科事典
版画に新しい展開の道を見いだすようになり,菱川師宣による浮世絵が出現した。呉服商雁金屋出身の尾形光琳は,上方の上層町衆の芸術的伝統を継いで,宗達の装飾画風をより ...
18. えほん【絵本】
国史大辞典
菱川師宣・西川祐信・喜多川歌麿・葛飾北斎らは浮世絵派の中でも優作をのこした。他に橘守国・大岡春卜・英一蝶・尾形光琳・宋紫石・渡辺崋山らの画譜・絵本が広く行われて ...
19. エム=オー=エーびじゅつかん【MOA美術館】
国史大辞典
顕彰する「MOA岡田茂吉賞」の授賞、茶道などの伝統的文化活動の推進などの活動を行う。所蔵品は尾形光琳筆「紅白梅図屏風」、野々村仁清作「色絵藤花文茶壺」など国宝三 ...
20. おおさかしりつびじゅつかん【大阪市立美術館】
国史大辞典
いる。館蔵品の主なるものには、阿部孝次郎寄贈中国画百六十点(阿部コレクション)、武藤金太寄贈尾形光琳関係資料三十三点、イタリア国立先史土俗博物館との交換寄贈エト ...
21. 尾形乾山
日本大百科全書
京都屈指の呉服商雁金屋(かりがねや)尾形家の三男として生まれる。名は深省。権平、惟允とも称した。尾形光琳(こうりん)は彼の次兄である。富裕な商家に育ちながら2人 ...
22. 尾形乾山
世界大百科事典
は惟允。習静堂,紫翠,逃禅,乾山,尚古斎,陶隠などと号した。呉服商雁金屋宗謙の三男で,次兄に尾形光琳がいる。若年から学問を好み,光悦の孫空中斎光甫や楽一入に陶法 ...
23. おがたけんざん【尾形乾山】
国史大辞典
一六六三―一七四三 江戸時代中期の陶工、画家。画家尾形光琳の弟。初名は権平、のち深省と改名し、諱は惟允、のちにまた扶陸とも称し、習静堂・尚古斎・陶隠・霊海・逃 ...
24. おがた-けんざん【尾形乾山】
日本人名大辞典
1663−1743 江戸時代前期-中期の陶芸家。寛文3年生まれ。尾形宗謙の3男。尾形光琳の弟。学問,茶事を藤村庸軒(ようけん)に,画を狩野安信にまなんだといわれ ...
25. 尾形乾山[文献目録]
日本人物文献目録
形乾山筆雪梅図』水尾博『尾形乾山筆八橋図解』-『尾形乾山筆花籠図』-『緒方乾山筆絲瓜図』-『尾形光琳・乾山に関する一資料 妙顕寺蔵漆塗螺鈿経箱に関して』石田一良 ...
26. 尾形氏[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:3件 『尾形光琳家譜』-『小形光琳並尾形家の事』相見繁一『緒方、本阿弥両家略系譜』小田雨畦 ...
27. おがた-そうけん【尾形宗謙】
日本人名大辞典
1621−1687 江戸時代前期の豪商。元和(げんな)7年生まれ。尾形光琳(こうりん)・乾山(けんざん)の父。家業の呉服商雁金(かりがね)屋3代をつぎ,東福門院 ...
28. かきつばた‐ず[‥ヅ]【燕子花図】
日本国語大辞典
〔名〕燕子花を主題にした絵。特に「伊勢物語」の八橋(やつはし)から取材した六曲一双の屏風(尾形光琳作、国宝、根津美術館蔵)は有名。 ...
29. 歌仙絵画像
日本大百科全書
・喜多院(きたいん))などが残る。このほか狩野探幽(かのうたんゆう)筆『新三十六歌仙画帖』や尾形光琳(こうりん)筆『三十六歌仙図屏風(びょうぶ)』なども有名であ ...
30. 歌仙絵
世界大百科事典
古典的素材の一つとなり,《休息歌仙》や群像の三十六歌仙絵など新奇な表現様式のものも生まれた。尾形光琳の《三十六歌仙図》屛風は,とくにそのパロディ精神が注目される ...
31. 狩野派画像
世界大百科事典
狩野派を破門されたといわれる久隅(くすみ)守景や英(はなぶさ)一蝶は風俗画に新生面を開き,琳派の尾形光琳や酒井抱一,南画の彭城(さかき)百川や谷文晁,円山派の円 ...
32. かみごりょうなかのちょう【上御霊仲町】京都市:上京区/室町学区地図
日本歴史地名大系
上古京下中筋組差配町の立売五町組に属し、藪之内町は一五軒役、御霊仲之町は四五軒役を負担。当町に尾形光琳の屋敷があった。禁裏御用水筋図(藤井正雄氏蔵)の「藪内」の ...
33. 雷画像
世界大百科事典
ことがわかる。また京都の建仁寺にある俵屋宗達の描いたものや,元禄時代(1688-1704)の尾形光琳の筆になるものもある。彫刻では日光の東照宮にあるものや,京都 ...
34. 贋作
日本大百科全書
、どこまでが真作であるか、その範囲に関して専門家の見解に一致はない。下って江戸時代に入っても尾形光琳(こうりん)のような独立的な画家で、近代になってから高い評価 ...
35. きたがわそうせつ【喜多川相説】
国史大辞典
生没年不詳 俵屋宗達と尾形光琳との間の画系を継ぐ江戸時代前期の宗達派(または光琳派)の画家。記録・文書にはその存在が確認されていないが、元禄―享保年間(一六八 ...
36. きょう‐まきえ[キャウまきヱ]【京蒔絵】
日本国語大辞典
〔名〕京都でつくられる蒔絵。優美な図柄を特色とする。幸阿彌家など伝統的な精巧な蒔絵と、本阿彌光悦、尾形光琳らの琳派風のものが代表。キョーマキエ ...
37. 京焼
日本大百科全書
ん)は、仁清の陶法を伝授されて、1699年(元禄12)、近くの鳴滝泉谷に本焼きの窯を開き、兄尾形光琳(こうりん)と組んで独自の琳派画風を加えた加飾陶器をつくり、 ...
38. きんこう‐せんにん[キンカウ‥]【琴高仙人】
日本国語大辞典
琴の名手で宋の康王の舎人となって仕え、鯉を巧みに乗りこなしたという。「琴高乗鯉」の画題で知られ、狩野元信、尾形光琳などの作がある。 ...
39. きんせい【近世】画像
国史大辞典
で復活したのが本阿弥光悦と俵屋宗達であり、その方向を元禄時代の富商的生活感情で再復興したのが尾形光琳と尾形乾山であった。この四名は書・画・陶の達人であったにして ...
40. 近世俳句集 237ページ
日本古典文学全集
、べたりとかきつばたの葉の上に白い糞を落とした。紺青の空の下に、濃い紫色の花が群がり咲く図は尾形光琳の絵を思わせるが、そこに落ちた鳶の糞は、一点の胡粉を画中に投 ...
41. けんざん‐やき【乾山焼】
日本国語大辞典
以て焼はじむ。鳴滝山は王城の乾(いぬひ)にあたれり。よって乾山(けんざん)を名とす。〈深省は尾形光琳の弟にして現在也〉」 ...
42. 元禄時代
世界大百科事典
仕事となりえたところにあったと考えられる。その前代からの推移は,京都上層町衆の家系に生まれた尾形光琳・乾山兄弟が,町衆として身につけた素養を生かしつつ,しだいに ...
43. 元禄文化画像
日本大百科全書
貴族的サロン文化に通じる雅の創造がすでに存在した。この伝統の下に元禄の美術工芸を代表するのは尾形光琳(おがたこうりん)で、その作品『八橋蒔絵螺鈿硯箱(やつはしま ...
44. げんろくぶんか【元禄文化】
国史大辞典
なお懐月堂安度らの華麗な立姿美人図はこの時代の肉筆浮世絵の代表である。さて京都町衆芸術の伝統をつぐ尾形光琳は「燕子花図屏風」「紅白梅図屏風」などに斬新豪華な装飾 ...
45. 江漢西遊日記 267ページ
東洋文庫
貝原益軒、新井白石、荻生徂徠、杉田玄白、本居宣長、三浦梅園、本多利明のような学者たちから、尾形光琳、平賀源内、上田秋成、與謝蕪村、菅茶山、池大雅、伊藤若沖、曾 ...
46. 好色一代女(井原西鶴集) 525ページ
日本古典文学全集
糯米・陳皮・山椒・茴香の粉末を湯に浮かべたもの。当時流行した京の画工宮崎友禅の似せ絵を描いた扇。友禅は尾形光琳の画風を学んで、友禅染・友禅扇をはじめた。元文元年 ...
47. こうずけのくに【上野国】群馬県
日本歴史地名大系
吾妻郡山田村(現中之条町)の町田延陵が寛政期(一七八九―一八〇一)の双璧とよばれた。絵画では尾形光琳の門下であった酒井抱一(前橋藩主酒井忠恭の弟)が出ているが、 ...
48. こうはくばい‐ず[‥ヅ]【紅白梅図】
日本国語大辞典
〔名〕紅梅、白梅二種を描いた絵。特に尾形光琳(おがたこうりん)筆の二曲一双(いっそう)の屏風は国宝で、中央上方から流れくる曲水をはさみ右に紅梅、左に白梅を配する ...
49. 光琳
日本大百科全書
尾形光琳 ...
50. 光琳
世界大百科事典
尾形光琳 ...
「尾形光琳」の情報だけではなく、「尾形光琳」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

尾形光琳と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
日本史上の人物と同じカテゴリの記事をもっと見る


「尾形光琳」は人物に関連のある記事です。
その他の人物に関連する記事
ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
人物に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1900冊以上(総額850万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶