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  11. 原敬

原敬

ジャパンナレッジで閲覧できる『原敬』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
原敬
はらたかし
一八五六 - 一九二一
明治・大正時代の政党政治家。幼名は健次郎。鷲山・一山・逸山などと号した。最初の夫人貞子は中井弘の娘。安政三年(一八五六)二月九日陸奥国盛岡(南部)藩士原直治・リツ子の次男(第四子)として同藩盛岡城外本宮村(盛岡市本宮)に生まれる。原家は高地家格の家柄で健次郎の出生時、当主の祖父直記は家老職(家老加判)に列し、父直治は側用人を勤めていた。禄高は直治の家督相続時で二百二十七石であった。明治三年(一八七〇)藩校作人館の修文所に入り漢学・国学を学んだが、二年前の戊辰戦争に際して新政府軍と戦って敗れた南部藩は、政府の要求した七十万両の献金が調達できず、みずから願い出て三年七月廃藩となった。翌年南部家が東京に英学校共慣義塾を設立すると、原も旧藩子弟とともに上京して入塾したが、学資に窮して五年フランス人マリンの経営する神学校に入った。七年新潟に赴きエブラル神父の学僕となりフランス語を学ぶ。翌年いったん帰郷し分家したので平民の身分となった。ついで再び上京、箕作秋坪の三叉(さんさ)学舎に学び、九年には司法省法学校に入学したが、十二年いわゆる賄征伐事件に関連して薩摩藩出身の校長排斥運動の首謀者となり、陸実(羯南)らとともに退学処分となった。同年中井弘の口利きで『郵便報知新聞』に入り、フランスの新聞の翻訳にあたるとともに評論活動にたずさわり、穏健な立憲政治論を唱えた。しかし矢野文雄が同新聞社社長となり三田派の勢力が強まったのを機に、十五年一月退社。同年四月『大東日報』(立憲帝政党系)に入ったがまもなく退社し、在社中知り合った井上馨の推薦で同年十一月外務省御用掛に任用された。その後、天津領事・パリ日本公使館書記官など在外勤務を経て二十二年四月農商務省参事官に転じ、ついで大臣秘書官・官房秘書課長などを歴任、特に陸奥宗光農商務大臣の知遇を得た。二十五年三月陸奥の辞職とともにいったん辞任したが、同年八月陸奥が第二次伊藤内閣の外務大臣に入閣すると、そのもとで外務省通商局長、ついで二十八年五月外務次官となった。翌年六月駐朝鮮公使となったが、第二次松方内閣成立(大隈重信外相)により十月に辞任、待命。陸奥の病没を機に三十年九月官界を退き『大阪毎日新聞』に編輯総理として入社、翌年九月同社社長となった。三十三年七月ごろから伊藤博文を擁立する新党運動に参画、同年九月伊藤を総裁に立憲政友会が結成されると、大阪毎日新聞社長を辞してこれに加わり、十二月政友会総務委員兼幹事長となり、同月辞任した星亨のあとを受けて第四次伊藤内閣の逓信大臣として入閣した。翌年六月伊藤内閣退陣により辞任。三十五年八月の第七回総選挙で岩手県盛岡市から衆議院議員に当選して以来、大正九年(一九二〇)の第十四回総選挙まで連続八回当選。この間第二代総裁西園寺公望を補佐して党務にあたり、次第に政友会の実権をにぎるとともに、藩閥勢力を代表する桂太郎と西園寺との「情意投合」を演出し、日露戦争後の政局の安定化をはかった。また大阪北浜銀行頭取(三十四年十一月―三十六年五月)・古河鉱業副社長(三十八年四月―三十九年一月)をつとめるなど財界とも深い関係を持った。第一次西園寺内閣(三十九年一月―四十一年七月)、第二次西園寺内閣(四十四年八月―大正元年十二月)、第一次山本内閣(大正二年二月―三年四月)ではいずれも内務大臣をつとめ、府県知事の人事異動、地方制度の改革、地方開発などを通じて政党勢力の拡張をはかり、藩閥・官僚勢力と対抗した。大正三年六月西園寺のあとを受けて第三代立憲政友会総裁に就任。第二次大隈内閣時代野党に廻った政友会は四年三月の総選挙で結党以来はじめて第二党に転落したが、次の寺内内閣に対しては「是々非々」の立場から準与党的立場を維持し、原の指導下に六年四月の総選挙で勝利をおさめ、再び第一党に返り咲いた。原は同年六月犬養毅らとともに臨時外交調査委員会委員となり外交政策にも発言力を持った。大正七年八月米騒動が全国にひろがり、激しい非難を浴びた寺内内閣が、同年九月米騒動収拾を機に退陣すると、元老西園寺公望らの推薦によって九月二十七日原が後継内閣組織の大命を受け、九月二十九日立憲政友会を率いて内閣を組織した。原は西南雄藩や公家の出身ではなく、衆議院に議席を有する日本最初の総理大臣だったので、「平民宰相」「無爵宰相」などと呼ばれ国民の人気と期待を集め、卓越した政治的手腕を発揮して与党と内閣を指導した。対外的には対米協調を基本方針とする外交政策を、国内的には高橋是清を蔵相にすえ、大戦景気を背景に積極財政政策を強力におし進めた。とりわけ鉄道敷設におけるローカル線拡張や道路網の新設・整備などにみられる「地方開発」政策は政友会の党勢拡張に大きな役割を果たしたと考えられる。貴族院工作にも取り組み、九年五月には兼任していた司法大臣のポストを貴族院の最大会派研究会に配分し、その与党化をはかっている。また大正デモクラシーの風潮に応じて衆議院議員の選挙権拡張をめざし、八年三月には選挙権者の納税資格を直接国税十円以上から三円以上に引き下げるとともに小選挙区制を取り入れた選挙法改正案を成立させた。しかし、普通選挙(男子のみ)実現の要求に対しては、時期尚早とする立場からこれに反対し、野党の普選案上呈に対抗して九年二月衆議院を解散し、同年五月の総選挙では立憲政友会が衆議院の約六割の議席を制するという大勝を博した。こうして原は衆議院の絶対多数の確保と議会外諸勢力との協調関係の保持などによって、三年一ヵ月余りにわたって政権を維持したが、その末期には第一次世界大戦後恐慌の影響による財政の悪化や宮中某重大事件のような困難な政治問題に直面し、また普通選挙拒否や多数の支持をたのんだ政治運営における高圧的姿勢に加えて汚職事件の頻発などが彼の「平民宰相」イメージを損ない、野党の反政府攻勢の高まりと相まって、原への国民の期待と人気は次第に低落していった。こうした中で、政友会近畿大会に出席するため東京発の夜行列車に乗車しようと、大正十年十一月四日午後七時二十五分ごろ東京駅の乗車口の改札口にさしかかった時、中岡艮一(大塚駅の転轍手、当時十九歳)に襲われ、短刀で胸を刺されて死亡した。享年六十六。盛岡市の大慈寺に葬る。法名大慈寺殿逸山仁敬大居士。原は戊辰戦争当時十三歳の少年であったが、一山(または逸山)というペンネームを好んで用いたのをみれば、南部藩が新政府に敵対して「朝敵」とされた屈辱的記憶は、「白河以北一山百文」という東北人への侮蔑的呼称とともにその脳裏に深く刻み込まれていたと思われる。薩長藩閥勢力に対する敵意と対抗心を終生持ち続けたことは、叙爵の機会が何回もありながら、かたくななまでにこれを辞退し続けた彼の姿勢からもうかがわれる。しかしあくまで現実的政治家であった原は、そうした敵意をあらわにすることなく、藩閥・官僚派とつかず離れずの態度をとって正面衝突を避けつつ、慎重に彼らの足場を掘り崩して政党勢力の拡張をはかり、立憲政友会政権の実現に到達したのである。そして、彼が明治憲法下の限定された条件のもとで、政党内閣を比較的長く維持し得た重要な理由の一つは、政党政治を好まない山県有朋ら党外・議会外の諸勢力と協調関係を保持していたことにあったと考えられる。政党政治家としての原の指導力の源泉の一つは、そのすぐれた政治資金調達能力にあった。現実にそれをどこから得ていたかは明白ではないが、財界との関係はきわめて密接で、政友会の運営資金の調達と運用は、ほとんど原が一手に引き受けていたといわれる。また積極政策による「地方開発」を通じての党勢拡張が、地方への「利益誘導」型の政党政治の成立につながったことも否定できない。しかし、とかく金銭感覚にルーズな政党政治家が多かった中で、原は金銭にはきわめて几帳面で、特に党の資金と個人的資金とは峻別していたとみられ、私生活の面では当時の政党政治家の中ではむしろ質素でさしたる私財をたくわえることもしなかったという。原は実行力に富んだ現実的政治家として日本における政党政治の確立に大きな役割を演じたが、反面、政権担当の末期には反対派からしばしば「多数党横暴」の責任者として非難を浴びた。原が死去の直前まで記していた日記(『原敬日記』(全六巻))は、政治家原敬の考えや行動を中心に、明治時代後期から大正時代における政界の動向を知る上で貴重な史料である。また、新聞に発表された原の評論、各種の演説などを集めた『原敬全集』(上・下)、来翰や書類をおさめた『原敬関係文書』などが公刊されている。現在、盛岡市本宮には原の生家の一部が保存され、敷地内には原敬記念館が建設され、遺品や関係史料が展示されている。→原敬日記(はらけいにっき),→原内閣(はらないかく)
[参考文献]
前田蓮山『原敬伝』、同『原敬』(『三代宰相列伝』七)、テツオ=ナジタ『原敬―政治技術の巨匠―』(安田志郎訳)、岡義武『近代日本の政治家』、升味準之輔『日本政党史論』三・四、原奎一郎・山本四郎編『原敬をめぐる人びと』(『NHKブックス』四〇一)、同編『続原敬をめぐる人びと』(同四一九)
(鳥海 靖)


世界大百科事典
原敬
はらたかし
1856-1921(安政3-大正10)

明治・大正期の政治家。盛岡藩重臣の次男。1871年(明治4)上京してカトリックの神父の学僕となり苦学。76年司法省法学校に入学,79年〈賄(まかない)征伐〉で退校,改進党系の《郵便報知新聞》記者となる。82年官僚派の《大東日報》主筆に転進。井上毅,井上馨に認められ同年外務省に入り,翌年天津領事として赴任,才腕を示し,85年パリ公使館書記官に転じた。89年,外相大隈重信をきらって農商務省に移り,陸奥宗光の知遇を受け,通商局長を経て,95年外務次官に進んだ。この間,外交官採用制度を確立,日清戦争時の陸奥外交を補佐した。96年公使として朝鮮に赴き,閔妃(びんひ)殺害事件のあとの日本勢力回復に努め,翌年大隈がまた外相となったのを機会に退官,大阪財界に迎えられて《大阪毎日新聞》社長に就任,読者を3倍に増やす経営手腕を発揮した。

このあと1900年政友会結成に参画,幹事長を経て第4次伊藤博文内閣の逓信大臣に就任。翌年北浜銀行頭取,さらに05年には陸奥の親戚で井上馨が監督する古河鉱業の副社長になった。この間,02年盛岡市より代議士に選出,以来その死まで連続当選した。日露戦争中より桂太郎首相と戦後の政権授受につき交渉を進め,06年1月西園寺公望内閣を実現させ,内務大臣に就任。ついで11年8月成立の第2次西園寺内閣でも内相として入閣。12年末二個師団増設問題により内閣が倒れるまで,いわゆる桂園内閣時代において,松田正久とならぶ政友会の二大支柱の一人として活躍した。すなわち内務官僚の政友会接近を促進し,一方,鉄道・港湾事業により政友会の地盤を拡大し,政友会が衆議院議席の過半数を占めることに成功した。この勢力を背景に,抜群の交渉能力をもって藩閥勢力と取引し,他方では郡制廃止,小選挙区制法案などで藩閥勢力を脅かし,政友会の政治的地位を高めた。第1次護憲運動で桂内閣を倒したあと,第1次山本権兵衛内閣の内相となり,西園寺引退のあとを受けて14年6月政友会総裁に就任した。15年3月の第12回総選挙では第2次大隈内閣の野党として大敗を喫し第二党に転落したが,党内とりまとめにも手腕を発揮し,次の寺内正毅内閣では是々非々主義の立場を示しながらも外交調査会に参加するなど準与党の地位につき,17年4月の第13回総選挙で第一党に返り咲いた。

18年夏の米騒動では事態を静観し,寺内辞任のあとを受けて,政党政治家として最初の首相に指名され,陸・海・外3相を除く閣僚に政友会員をあてる最初の政党内閣を9月29日に組織した。世論は爵位をもたず衆議院に議席をもつ首相の初めての出現を〈平民宰相〉と呼んで歓呼して迎えた。第1次大戦以来の好況下における資本主義の急速な発展を背景に,国防の充実,教育の振興,産業の奨励,交通機関の整備の四大政綱を掲げて積極政策を推進し党勢の拡大に努め,第41議会で小選挙区制を実現し,第42議会を解散して政友会の絶対多数を実現した。この力を背景に,進歩的社会運動を抑圧し,普選即行,治安警察法改正などの要求を拒んだ。対外的にはイギリス,アメリカとの協調に努めつつ中国権益の維持をはかり,三・一運動を契機に植民地長官武官制を文武官併任に改めた。

第1次大戦後の階級闘争の激化におびえる藩閥官僚勢力は山県有朋以下原に依存し,貴族院の最大会派〈研究会〉は政友会と提携,内閣は貴衆両院に確固たる地盤をもつかつてない強力な存在となった。しかし力の政治にひそむ腐敗は,満鉄事件,アヘン事件など政友会関係者の疑獄事件になってあらわれ,前内閣以来のシベリア出兵も尼港事件で破綻を示し,民心は去った。ワシントン会議と戦後不況に直面して政策転換を模索中,1921年11月4日,政友会京都支部大会出席のため東京駅改札口(南口)にさしかかったとき,大塚駅員中岡艮一(こんいち)の短刀に刺されて死去した。盛岡市大慈寺に葬られる。第2次大戦後公刊された《原敬日記》(1965-67)は明治・大正政治史の根本史料として著名である。
[松尾 尊兊]

[索引語]
政友会 二個師団増設問題 政党内閣 平民宰相 中岡艮一 原敬日記
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日本大百科全書
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国史大辞典
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国史大辞典
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国史大辞典
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44. 内田康哉
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日本大百科全書
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48. おおくまないかく【大隈内閣】画像
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50. おおさかあさひしんぶんひっかじけん【大阪朝日新聞筆禍事件】
国史大辞典
社説欄に忠君愛国主義をうたい、世に朝日のあやまり証文と評された一文を発表し、新社長上野理一は新首相原敬の前で社の姿勢を変えることを誓い、ようやく処分を編集人と記 ...
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原敬と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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