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  11. 小村寿太郎

小村寿太郎

ジャパンナレッジで閲覧できる『小村寿太郎』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
小村寿太郎
こむらじゅたろう
一八五五 - 一九一一
明治時代の外交官、外相。侯爵。安政二年(一八五五)九月十六日、日向国飫肥(宮崎県日南市)に生まれる。父は飫肥藩の徒士小村寛平、母は梅子。文久元年(一八六一)藩校振徳堂にはいり頭角をあらわして、小倉処平の注目するところとなり、明治二年(一八六九)長崎に遊学、ついで上京、明治義塾を経て貢進生として大学南校に入学、開成学校に改組されたのちは法学部をえらび、明治八年えらばれて文部省第一回留学生となり渡米、ハーバード大学に入学、法律学を専攻した。同十三年帰国して司法省雇となり刑事局出仕から大阪控訴裁判所判事、大審院判事を経て、明治十七年六月外務省に転じ権少書記官として公信局詰となった。その間朝比奈孝一の女町子と結婚したが、父寛平の経営した私立飫肥会社の倒産により巨大な負債を抱え困窮したうえ、閥外のため官歴も不遇で自暴自棄的となり家庭的には幸福でなかった。小村の前途を危ぶんだ友人杉浦重剛・菊池武夫らは、奔走して小村の負債を整理したが、杉浦らの友情は小村に影響を与え、かれを国粋主義に傾斜させ、小村は対外硬の立場から条約改正反対運動にむかった。明治二十一年翻訳局長となり、同二十六年公使館参事官に転じ清国駐在を命ぜられた。公使大鳥圭介が朝鮮国ソウル在勤のため、十一月臨時代理公使となり、翌年六月日清両国が朝鮮に出兵すると一貫して強硬論を主張し開戦を促進した。開戦後山県有朋の率いる第一軍に従い、安東民政長官となり桂太郎の知遇をうける。ついで政務局長にすすみ、閔妃殺害事件の善後処置のため朝鮮に急行、弁理公使となりロシアと折衝して小村・ウェーバー協定を締結、任を原敬に譲って帰国、西園寺公望・大隈重信・西徳二郎各外相のもとで次官をつとめ、京仁鉄道敷設権獲得に努力、駐米・駐露公使を経て明治三十四年駐清公使。義和団事件の善後国際会議に日本全権となり痩躯短身で活躍し、他国代表から「ねずみ」公使とあだなされた。最終議定書に調印したのち直ちに帰国して第一次桂内閣の外相に就任、日露協商論をおさえて日英同盟協約を推進、同三十五年一月調印に成功、功により男爵となった。その後、日露開戦外交を推進していわゆる小村外交を展開した。開戦後は早期講和の必要性を認め、ポーツマスで講和会議が開かれると全権として奮闘、明治三十八年九月、日露講和条約を締結した。帰国後直ちに不在中締結された南満洲鉄道に関する桂・ハリマン協定に反対して解消させ、また第二次日英同盟を締結、韓国併合の布石とした。同三十九年一月枢密顧問官に転じ、ついで六月駐英大使となり伯爵に陞り、同四十一年八月第二次桂内閣の外相に再任、第二次条約改正に成功して税権を回復した。韓国に対しては日露開戦とともに日韓議定書を、ついで保護条約を強要し、明治四十三年併合、その功により侯爵となった。翌年八月外相を隠退、十一月二十六日死去。五十七歳。東京市赤坂区(東京都港区)の青山墓地に葬られる。
[参考文献]
外務省編『小村外交史』、桝本卯平『自然の人小村寿太郎』
(藤村 道生)


世界大百科事典
小村寿太郎
こむらじゅたろう
1855-1911(安政2-明治44)

明治期の外交官。宮崎の生れ。大学南校をへて第1回文部省留学生としてアメリカ留学。大審院判事をへて1884年外務省に転じたが,杉浦重剛ら国権論者とともに大隈重信外相の条約改正交渉に反対した。翻訳局長から臨時代理公使として清国に勤務し,日清開戦の方向に動いた。三国干渉後は弁理公使として朝鮮に勤務,閔妃(びんひ)殺害事件の善後策にあたり,96年5月日露で朝鮮内政を共同監督する小村=ウェーバー協定を成立させた。外務次官,駐米・駐露公使を歴任ののち駐清公使となり,義和団事件収拾の国際会議には日本全権となった。1901年第1次桂太郎内閣の外相に就任し日英同盟を締結,伊藤博文らの満韓交換論を押しきって対露開戦外交をすすめた。05年ポーツマス会議にはみずから全権として講和を成立させたが,講和条件を不満とする国民の非難を浴びた。帰国後は東清鉄道の日米共同経営案に反対して仮契約を解消させる一方,北京に出張して清国に遼東租借地,東清鉄道守備権などの権益を承認させて日本の南満州進出の足場をきずいた。08年第2次桂内閣の外相に就任,日露協約,韓国併合をすすめ11年には関税権の完全回復を内容とする条約改正に成功した。小村外交は大陸への膨張政策により特色づけられていた。
[藤村 道生]

[索引語]
小村=ウェーバー協定 小村外交
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検索コンテンツ
1. 小村寿太郎画像
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明治時代の外交官。安政(あんせい)2年9月16日生まれ。日向(ひゅうが)国(宮崎県)飫肥(おび)藩出身。1871年(明治4)藩貢進生として大学南校に学んだのち、 ...
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1855-1911(安政2-明治44) 明治期の外交官。宮崎の生れ。大学南校をへて第1回文部省留学生としてアメリカ留学。大審院判事をへて1884年外務省に転じた ...
4. こむら‐じゅたろう【小村寿太郎】
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外交官。侯爵。日向国(宮崎県)飫肥(おび)藩出身。開成学校卒。駐韓・駐米・駐露・駐清公使、第一次、第二次桂内閣の外相を歴任。日英同盟を結び、全権委員としてポーツ ...
5. こむらじゅたろう【小村寿太郎】
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6. こむら-じゅたろう【小村寿太郎】画像
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7. 小村寿太郎[文献目録]
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8. 青木周蔵自伝 78ページ
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9. あだち-みねいちろう【安達峰一郎】
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10. アーネスト・サトウ伝 163ページ
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11. アーネスト・サトウ伝 2ページ
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14. 飫肥
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16. 懐旧録 サンスクリット事始め 275ページ
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18. 桂太郎自伝 124ページ
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19. 桂太郎自伝 296ページ
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20. 桂太郎自伝 359ページ
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21. 桂太郎内閣(第一次)[百科マルチメディア]画像
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一つの職名に複数の人名がある場合は順次後任を示し、同一人名がある場合は専任となったことを示す。外務大臣は小村寿太郎のときに桂太郎が二度臨時兼務 ©Shogaku ...
22. かつら・ハリマンきょうてい【桂・ハリマン協定】
国史大辞典
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23. 韓国併合
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24. 関税自主権
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25. 閑板 書国巡礼記 134ページ
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29. 小村・ウェーバー覚書
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30. こむら・ウェーバーきょうてい【小村・ウェーバー協定】
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明治二十九年(一八九六)五月十四日に調印された、乙未の変の処理についての協定。朝鮮駐在小村寿太郎公使とロシアの朝鮮駐在公使ウェーバーK.I.Waeberがソウ ...
31. こむらがいこう【小村外交】
国史大辞典
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32. こむら-きんいち【小村欣一】
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1883−1930 大正-昭和時代前期の官僚。明治16年5月13日生まれ。小村寿太郎の長男。外交官となり,清(しん)(中国),イギリスに勤務。のち外務省参事官, ...
33. こむら-しゅんざぶろう【小村俊三郎】
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明治-昭和時代前期の外交官,ジャーナリスト。明治3年9月3日生まれ。30年又従兄(またいとこ)の小村寿太郎の後援により北京に留学,中国語をおさめる。青木宣純(の ...
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(昭和2)博多川端町に生まれる。は不明。 101 少時より末永節と交わり,彼に依 小村寿太郎 1855(安政2)一19 り平岡浩太郎の門下には ...
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退を詳細に規定しなかったことをあげて政府を非難し,あわせて対露開戦を求める建白書を桂首相と小村寿太郎外相に提出した。彼らはその一方,新聞紙上にそれを公表,政府を ...
40. しょくみんきょうかいほうこく【殖民協会報告】
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郎内閣のとき1911年(明治44)7月、前述の第一次改正条約の締結期限の終了をまって、外相小村寿太郎(じゅたろう)の下で実現され、ここに日本は名実ともに独立国家 ...
43. 条約改正
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44. じょうやく‐かいせい[デウヤク‥]【条約改正】
日本国語大辞典
功、のち、他の国々とも同様の改正を行なった。関税自主権の回復は明治四四年(一九一一)に外相小村寿太郎により実現した。*明六雑誌‐二四号〔1874〕内地旅行論〈津 ...
45. じょうやくかいせい【条約改正】
国史大辞典
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46. すぎうらじゅうごう【杉浦重剛】
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東京大学理学部博物場掛取締を経て十五年に東京大学予備門長となる。十八年に退いて読売新聞論説に従事。二十年には小村寿太郎らと乾坤社を創設し、井上馨外相の条約改正案 ...
47. せいりつ【成立】 : 日英同盟
国史大辞典
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48. たかひらこごろう【高平小五郎】
国史大辞典
相のもとで外務次官に任命され、三十三年六月米国駐箚公使となったが、その在任中、三十八年七月小村寿太郎外相とともに日露講和会議の全権委員に任命され、交渉にあたった ...
49. たかひら・ルートきょうてい【高平・ルート協定】
国史大辞典
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50. たちばな-こいちろう【立花小一郎】
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政治家。万延2年2月10日生まれ。日露戦争で大本営付陸軍参謀をつとめ,ポーツマス講和会議に小村寿太郎の随員として派遣された。大正9年陸軍大将。のち福岡市長,貴族 ...
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