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  11. 板垣退助

板垣退助

ジャパンナレッジで閲覧できる『板垣退助』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
板垣退助
いたがきたいすけ
一八三七 - 一九一九
幕末・明治時代の政治家。天保八年(一八三七)四月十七日高知城下中島町の邸に生まれた。父は高知藩士乾正成、母は林氏賢貞。家禄三百石、馬廻格。退助の幼名は猪之助。安政二年(一八五五)勤番を以てはじめて江戸に上り、翌年帰藩。万延元年(一八六〇)免奉行、翌文久元年(一八六一)十月江戸藩邸詰に抜擢され、翌年藩主の父山内容堂の側用人となり、江戸藩邸総裁を命ぜられた。同三年山内容堂に従って上京、ついで帰藩した。当時高知藩内では上・下士の暗闘が深刻化していたが、板垣は上士派の巨頭の一人であった。同三年後半には、下士派とも気脈を通じ、翌元治元年(一八六四)には大監察となったが、慶応元年(一八六五)には辞し、江戸に上って専ら兵学を学んだ。このころ高知藩主流の動きは大政奉還―幕府勢力の温存の線であったが、板垣はこれと異なり、次第に薩長討幕派と提携するようになり、藩論を討幕の方向に進めようとし、同三年五月鹿児島藩の西郷隆盛と密かに討幕の盟約を結び、同志の糾合につとめ、下士派もこれに参加した。この形勢を見て、藩庁も彼を軍備総裁とし、高知藩の兵制改革が進行した。明治元年(一八六八)戊辰戦争が始まると、正月板垣は大隊司令として、兵を率いて上京し、薩長藩兵に伍して、新政府軍の中核的存在となった。板垣は東山道先鋒総督府参謀となり、各地に転戦、会津攻略には最も功績があった。この間、姓を乾から板垣に改めた。会津落城にあたって、板垣は四民平等の必要を痛感し、これがのち自分が自由民権運動に進む基本となったと語っているが、その点は疑問であり、彼は武士精神を庶民にまで吹き込む必要を感じたものと思われる。同二年高知藩大参事となり、四月参与に任ぜられ、同年勲功により永世禄千石を受けた。翌三年藩大参事として大いに藩政改革を行い、ついで薩の西郷隆盛・大久保利通、長の木戸孝允らと廃藩置県計画を議し、高知藩兵を親兵として上京させ、事が成就すると、参議に任ぜられた。岩倉遣外使節団の外遊にあたっては、西郷とともに留守政府の首脳となったが、同六年西郷とともに征韓を主張した。その意図するところは、必ずしも西郷と同一ではなかったが、征韓派が敗れると、十月彼も下野した。翌七年正月同じく下野した江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らと愛国公党を組織し、由利公正・小室信夫・古沢滋・岡本健三郎を加えて、政府に民撰議院設立建白書を提出した。四月高知に帰り、片岡健吉・林有造らとともに立志社を創立した。翌八年大阪会議の結果、一時参議に再任したが、数ヵ月で辞職、爾後高知においてもっぱら立志社の経営にあたり、西南戦争に際し、彼はもっぱら自重して動かず、立志社員の一部による政府顛覆をめざす挙兵計画にも参加しなかった。同十一年九月立志社が中心となって愛国社が再興され、板垣もこの会に出席し、その後国会開設を要求する自由民権運動の高まりとともに、板垣はその先頭に立ち、各地に遊説した。同十四年十月国会開設の詔が発せられると、いちはやく自由党が結成され、板垣はその総理に選ばれた。翌十五年四月遊説途上、岐阜において刺客に襲われて負傷。ついで同年十一月外遊の途につき、翌年六月ヨーロッパ諸国を歴訪して帰国した。翌十七年十月、自由党首脳部は、急進左派の激化行動をきらって解党し、その際板垣は「暫らく郷里に帰りて午眠を為さんとす」と述べている。二十年には新華族制度による授爵がなされようとしたが、板垣は固辞した。しかし七月に至って天皇の恩命であるからとして、伯爵となった。のち一代華族論を主張し、子孫はその意を体して襲爵しなかった。二十三年九月帝国議会開設を前にして立憲自由党が結成されるとこれに参加し、のちいったん脱党したが、二十四年それが自由党と改称された際、板垣は総理に推戴され、二十九年には第二次伊藤博文内閣の内務大臣となった。三十一年六月自由党が進歩党と合同して憲政党となり、第三次伊藤内閣が総辞職すると、大隈重信・板垣退助に組閣の大命が下り、同月三十日隈板内閣が成立し、板垣はその内務大臣となった。しかし、同年十月内紛によって内閣は瓦解、以後板垣は政界を去り、もっぱら社会問題の解決に努力した。同三十七年雑誌『友愛』を発行し、同三十九年『自由党史』を監修公刊し、同四十四年雑誌『社会政策』を発行した。同誌に発表した論文は、大正八年(一九一九)『独論七年』と題して刊行された。板垣は比較的名利を求めず、生一本な純粋な性格で、権謀術数を用いない性格であった。同八年七月十六日病んで没した。八十三歳。墓は東京都品川区北品川の興源寺にある。板垣守正編による『板垣退助全集』が刊行されている。→自由党(じゆうとう),→立志社(りっししゃ)
[参考文献]
栗原亮一・宇田友猪編『板垣退助君伝』
(小西 四郎)


世界大百科事典
板垣退助
いたがきたいすけ
1837-1919(天保8-大正8)

幕末・明治期の政治家。土佐藩出身。旧姓乾(いぬい)。名は正形,退助は通称。1861年(文久1)江戸藩邸詰となり,ついで山内容堂の側用役などをつとめた。討幕運動を推進。戊辰戦争に東山道先鋒総督府参謀として従軍し,会津攻略を指揮した。維新後は藩の大参事を経て,71年(明治4)新政府の参議に就任。73年10月征韓論をめぐって大久保利通らと対立し,西郷隆盛らとともに辞職。翌年1月ともに下野した江藤新平,後藤象二郎,副島種臣(そえじまたねおみ)らと民撰議院設立建白書を政府に提出し,自由民権運動展開の契機をつくった。4月帰郷して立志社を結成。75年大阪会議の結果一時参議に復帰したが,ほどなく辞職。78年9月立志社が中心となって愛国社を再興し,国会の開設を求める自由民権運動を推進した。81年10月自由党の結成にあたって総理に推され,翌年4月遊説途中の岐阜で刺客に襲われ負傷。このとき叫んだという〈板垣死すとも自由は死せず〉のエピソードは,彼の経歴中最も輝かしい時期の象徴である。11月一部党員の反対をおしきってヨーロッパ諸国を外遊した。その経費は自由民権運動の弱体化をねらう政府筋から出されたといわれる。翌83年6月帰国するや自由党の解党を提起。党員の反対によって一時保留したが,党財政の窮乏化と下部党員の急進化がすすみ,84年10月党幹部は解党を決定。87年再三辞退したが認められず伯爵となる。90年立憲自由党に参加し,翌年一時離党したが復党して,党名を自由党と改称した際,総理となった。95年自由党は第2次伊藤博文内閣と提携し,翌年同内閣の内務大臣にむかえられた。98年6月自由・進歩両党の合同により憲政党が結成され,同党を基礎として第1次大隈重信内閣が成立すると,これに内務大臣として入閣した(隈板内閣)。しかし,党内対立のため内閣はわずか4ヵ月で総辞職。1900年憲政党の解党,立憲政友会の結成を契機として政界を引退し,以後社会事業にとり組んだ。輝かしい前半生に比べて寂しい晩年であった。彼の監修による《自由党史》(1910)は貴重な史料の引用とともに明治前半期の政治史を論評したすぐれた史論として評価されている。
→自由民権
[大日方 純夫]

[索引語]
乾退助 自由党(日本) 立憲自由党 隈板内閣
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1837−1919 幕末-明治時代の政治家。天保(てんぽう)8年4月17日生まれ。土佐高知藩士。戊辰(ぼしん)戦争で総督府参謀をつとめ,明治4年新政府の参議とな ...
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26. アメリカ彦蔵自伝 2 243ページ
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たる板垣〔前参議、板垣退助〕は、ここしばらく政府の行動に不満をいだいていたが、いまや政府と反乱軍の間に中立の立場を取ることを公言した。………その地方に政府への不 ...
27. アメリカ彦蔵自伝 2 247ページ
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29. 板垣(いたがき)死(し)すとも自由(じゆう)は死(し)せず
故事俗信ことわざ大辞典
この板垣が死んだとしても、自由民権運動は終りはしない。自由民権運動の指導者板垣退助が、明治一五年四月、岐阜市において演説の折、暴漢に刺された時に叫んだといわれる ...
30. いたがきようこうもんだい【板垣洋行問題】
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自由党総理板垣退助の外遊をめぐっておきた諸問題。明治十五年(一八八二)四月岐阜における遭難後、板垣退助は後藤象二郎の勧めに従ってヨーロッパに外遊しようと考えた ...
31. いちだい‐かぞく[‥クヮゾク]【一代華族】
日本国語大辞典
〔名〕華族の爵位は、世襲制を廃して一代限りにすべきであるとする主張。板垣退助などが唱えた。〓[カ] ...
32. いちはら-さだなお【市原定直】
日本人名大辞典
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33. いとう-いちろう【伊藤一郎】
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34. いとうないかく【伊藤内閣】画像
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36. 伊藤博文
世界大百科事典
由党の支持をとりつけて膨張した予算案ならびに関連諸法案を通過させ,閉会後には自由党総理である板垣退助の入閣を実現した。さらに進歩党の指導者大隈重信を入閣させて挙 ...
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39. いとうみよじ【伊東巳代治】
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41. いぬい-たいすけ【乾退助】
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42. いらこ-けいさい【五十子敬斎】
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45. 植木枝盛
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1857-92(安政4-明治25) 徹底した民主主義を主張した自由民権家,思想家。土佐藩士出身。1874年板垣退助の演説を聞いて政治に志し翌年上京,明六社の演説 ...
46. うえきえもり【植木枝盛】
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安政四年(一八五七)正月二十日に高知藩士の家に生まれ、藩校致道館で漢学等を学び、明治七年(一八七四)板垣退助の演説をきいて政治思想に目を開いた。同八年東京におい ...
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