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  11. 福沢諭吉

福沢諭吉

ジャパンナレッジで閲覧できる『福沢諭吉』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
福沢諭吉
ふくざわゆきち
一八三四 - 一九〇一
明治時代の啓蒙思想家、慶応義塾の創立者。天保五年(一八三四)十二月十二日、豊前国中津藩士福沢百助(四十三歳)と妻順(三十一歳)の、第五子(末子)、次男として、父が廻米方を勤める大坂堂島の玉江橋北詰中津藩蔵屋敷内(大阪市福島区福島一丁目)で生まれた。諭吉の名は、十三石二人扶持の軽格ながら学問好きの百助が、長年望んでいた唐本の『上諭条例』を、当日入手したのにちなむ。生涯ほぼこの幼名で通す。七年六月、志を延べ得ないまま百助は脳出血症で死去。一家は藩地中津へ帰り、兄三之助が家督を相続し、諭吉は、叔父中村術平の養子となって中村姓を名乗った(ただし福沢家で生活)。一家は中津での生活になじめず、彼は、下級武士・母子家庭の子としての無念を味わった。前半生を活写した『福翁自伝』における「門閥制度は親の敵」の語は、この体験に由来する。十四、五歳で漢学を習い始めて、おもに白石常人に師事し、上達すこぶる速かった。嘉永六年(一八五三)のペリー来航は、福沢に中津を離れる機会をもたらした。安政元年(一八五四)、蘭学修業のため長崎に出、翌年、大坂の緒方洪庵の適々斎塾に入り、やがて塾長となった。五年、藩命によって江戸へ赴き、十月中旬、築地鉄砲洲中津藩中屋敷(東京都中央区明石町十番一号)内の長屋に蘭学塾を開いた。慶応義塾の起源である。この間、三年、兄の死去により復籍し、福沢の家督を継いだ。六年、横浜を見物し、蘭学が役に立たぬことを知り、英学の独習を始めた。万延元年(一八六〇)、幕府の遣米使節派遣に際し、希望して、軍艦奉行木村喜毅の従僕との名義で、正―五月、咸臨丸に乗って渡米、ウェブスター辞書を購求し、日本人としてはじめて持ち帰った。八月、最初の出版物『(増訂)華英通語』を刊行、またこの年、幕府の外国方に雇われ、外交文書の翻訳に携わるとともに、塾の教育を英学に切り換えた。翌文久元年(一八六一)、二十八歳で、中津藩士江戸定府土岐太郎八の次女錦(十七歳)と結婚、芝新銭座に移転した。夫妻はのち四男五女を得る。この年十二月から一年間、幕府の遣欧使節に随員として参加し、仏英蘭独露葡などを歴訪、国情視察と原書購求に努めた。その際の記録として、『西航記』『西航手帳』がある。三年、中津藩中屋敷内に移転、このころ暗殺の危険を感じ、夜間の外出を慎む。元治元年(一八六四)、召出されて幕臣となり、外国奉行翻訳方を命じられた(百俵高、勤役中五十俵増高)。慶応二年(一八六六)秋、大小二本を残して刀剣を売り払い、翌年正―六月、幕府の軍艦受取委員の一行に加わって渡米、ウェーランドの経済書をはじめ原書多数を購求した。三度目で最後の洋行であったが、旅行中上司に楯ついたかどで、帰国後一時謹慎を命じられた。幕臣として彼は、「大君のモナルキ」を主張した。生涯を通じて多産な著作活動は、慶応年間に本格的に始まった。『西洋事情』がこの時期の代表作で、初編=慶応二年、外編=明治元年(一八六八)、二編=三年と刊行され、偽版も含め二十万ないし二十五万部売れて、西洋の制度と理念の紹介者としての彼の名を高くした。その前後、『雷銃操法』(慶応二―明治三年)、『西洋旅案内』『条約十一国記』『西洋衣食住』(以上慶応三年)、『訓蒙窮理図解』『兵士懐中便覧』(以上明治元年)、『洋兵明鑑』『掌中万国一覧』『英国議事院談』『清英交際始末』『世界国尽』(以上同二年)がある。その間、慶応三年十二月、王政復古があり、新政府から出仕を求められたが辞退し、以後生涯官職に就かず、位階勲等を受けなかった。逆に明治元年、帯刀をやめ平民となって、塾に力を注ぐことを決意し、芝新銭座に再移転して慶応義塾と命名し、彰義隊の戦の際も講義を休まず、四年さらに三田に移転した。また二年、福沢屋諭吉の名で出版業に着手した。つづく数年間にわたる文明開化期、啓蒙思想の鼓吹に全力を尽くした。「天は人の上に人を造らず」に始まる『学問のすゝめ』(明治五―九年)、文明進歩の理法を説く『文明論之概略』(八年)をはじめ、『啓蒙手習之文』(四年)、『童蒙教草』『かたわ娘』(以上五年)、『改暦弁』『日本地図草紙』『文字之教』『会議弁』(以上六年)、『帳合之法』(六―七年)、『学者安心論』(九年)を相ついで刊行し、「一身独立して一国独立」の主張、封建道徳の痛罵、「実学」の提唱など、価値意識の変革を説き、人心を「文明」に導こうとした。その思想は、バックル・ギゾー・トックビィル・スペンサーらの影響を受けている。また明治六年、明六社に参加(『明六雑誌』にも執筆)、七年、『民間雑誌』を創刊、三田演説会を開き(翌年、三田演説館を開館)、九年、『家庭叢談』を創刊した。活動の最盛期にあたり、『学問のすゝめ』は偽版を含めて三百万部売れたといわれ、守旧派に物議をかもす反面、当時の思想家中随一の人気を得た。その一方、十年の西南戦争には、「丁丑公論」を著わして西郷隆盛を悼み、つづく自由民権運動には、『国会論』(十二年)で国会の即時開設による人心の吸収を説き、また神奈川県下九郡人民の「国会開設の儀に付建言」を代筆した。その前後の著作として、『分権論』(十年)、『民間経済録』(十―十三年)、『通貨論』『通俗民権論』(以上十一年)、『福沢文集』『通俗国権論』(以上十一―十二年)、『民情一新』(十二年)がある。さらに十一年、東京府会議員(翌年辞任)、十二年、東京学士会院の初代会長(十四年辞任)を勤め、十三年、社交倶楽部としての交詢社を結成した。しかし民権運動の高揚とともに警戒心を強め、十四年、『時事小言』を著わして「内安外競」を説くに至った。政府首脳も、彼に託して機関紙発行を企てる。その企図は十四年政変で破れたが、翌十五年、彼は「不偏不党」「官民調和」を掲げる日刊紙『時事新報』を創刊、連日のように社説・漫言などを執筆した。以後彼の文章はまず同紙に掲載され、その一部が単行本となる。こうして刊行された書物には、『時事大勢論』『帝室論』『兵論』『徳育如何』(以上十五年)、『学問之独立』(十六年)、『全国徴兵論』『通俗外交論』(以上十七年)、『日本婦人論』後編(本編は刊行されず)、『士人処世論』『品行論』(以上十八年)、『男女交際論』(十九年)、『日本男子論』『尊王論』(以上二十一年)、『国会の前途 国会難局の由来 治安小言 地租論』(二十五年)、『実業論』(二十六年)があり、日清戦争時に及んだ。その関心は多方面にわたるが、皇室を「政治社外」に置こうとする皇室論、家族の基本を夫婦として男女の同権を説く女性論などに、とりわけ特徴があり、また「尚商立国」をめざした。アジア政略をもしきりに唱え、一時、金玉均ら朝鮮開化派を援助したものの、論議の機軸は「脱亜論」(十八年)にあった。それだけに明治二十七、八年の日清戦争を、「文野明暗の戦」と熱烈に支持し、戦後は、労働問題・移民問題および植民地となった台湾経営問題などに、資本の立場から関心を示す一方、仏教的な人生観にも傾いた。この時期の『福翁百話』(三十年)、『福沢先生浮世談』(三十一年)、『修身要領』(三十二年)、『福翁百余話』(三十四年)は、老境の処世訓であり、『女大学』を批判した『女大学評論 新女大学』(三十二年)もある。また三十年、著述生活を振り返った『福沢全集緒言』を手はじめに、三十一年、『福沢全集』全五巻、三十二年、『福翁自伝』を世に送った。三十一年秋、脳溢血症を発し、一旦回復したものの、三十四年一月再発、二月三日、六十八歳で死去した。衆議院は哀悼を決議した。八日、東京市外白金大崎村(東京都品川区上大崎)の浄土宗常光寺に葬られたが、昭和五十二年(一九七七)港区元麻布の善福寺に改葬された。法名大観院独立自尊居士。妻錦は大正十三年(一九二四)死去した。門人たちが師の晩年、その思想の精髄として探りあてた「独立自尊」の四文字は、福沢の代名詞のように人口に膾炙した反面、門下から実業家が多く出た。慶応義塾編『福沢諭吉全集』全二十一巻(昭和三十三―三十九年)別巻一巻(同四十六年)がある。→学問のすゝめ(がくもんのすすめ),→慶応義塾(けいおうぎじゅく),→時事小言(じじしょうげん),→時事新報(じじしんぽう),→西洋事情(せいようじじょう),→福翁自伝(ふくおうじでん),→文明論之概略(ぶんめいろんのがいりゃく),→明六社(めいろくしゃ)
[参考文献]
『慶応義塾百年史』、丸山信編『福沢諭吉とその門下書誌』、占部百太郎編『福沢先生哀悼録』(『慶応義塾学報』三九(臨時増刊))、石河幹明『福沢諭吉伝』、羽仁五郎『白石・諭吉』(『大教育家文庫』七)、家永三郎『近代精神とその限界』(『角川新書』八)、小泉信三『福沢諭吉』(『岩波新書』青五九〇)、遠山茂樹『福沢諭吉―思想と政治との関連―』(『UP選書』五八)、ひろたまさき『福沢諭吉』、安川寿之輔『増補版日本近代教育の思想構造』、鹿野政直『福沢諭吉』(『人と思想』二一)、丸山真男『「文明論之概略」を読む』(『岩波新書』黄三二五―三二七)、同「福沢に於ける「実学」の転回」(『東洋文化研究』三)
(鹿野 政直)


世界大百科事典
福沢諭吉
ふくざわゆきち
1834-1901(天保5-明治34)

明治の思想家,教育者。豊前中津藩の蔵屋敷で廻米方を勤める百助の次男として大坂に生まれる。数え年3歳で父を失い中津に帰る。学識豊かな教養人でありながら軽格のため不遇に終わった父の生涯,中津における一家の孤立,下士の生活の惨めさは彼のうちに早くから〈封建門閥〉への強い不満をはぐくむ。1854年(安政1)長崎に出て蘭学を学び,翌年には緒方洪庵の塾に入る。58年藩命によって江戸出府,中津藩下屋敷に蘭学塾を開く。60年(万延1)最初の幕府使節のアメリカ派遣に際し,軍艦奉行木村摂津守の従者となって渡米,以後61-62年(文久1-2)のヨーロッパ6ヵ国派遣使節,67年(慶応3)の遣米使節の一員として3回にわたり西欧の文化をその母国において摂し,〈封建門閥〉の重圧の下で実力をのばす機会を模索していた彼は〈変革〉,開国と〈富国強兵〉への構想をはぐくみはじめる。幕末・明治初年のベストセラーとなって日本社会の上下に大きな影響を与えた《西洋事情》(1866-69)は,この文化接触の経験にもとづいて著された。

最初のアメリカ行から帰った年に福沢は幕府外国方に雇われ,1864年(元治1)に召し出されて幕臣となった。幕府内外の情勢,とくに西洋列強の動向からして,初め〈大名連邦〉による事態の打開を考えたが,やがて〈変革〉の目標を〈大君のモナルキ〉,すなわち徳川将軍の絶対主義支配の下での統一国家に求めた。しかし幕府にすでにその実力がないことを知り,他方,尊攘倒幕派を盲目的な排外運動としかみることができなかった彼は,日本の将来を悲観し,68年6月幕府に御暇願を出した。4月には慶応義塾(のちの慶応義塾大学)と正式に名のった私塾によって文明の火種を伝えることに踏み切り,明治新政府への出仕の召しにも応じなかった。71-72年(明治4-5)ころ新政府が意外にも盲目的攘夷とは逆の政策をとっていることを知り,《学問のすゝめ》17編(1872-76)のシリーズを刊行して,天賦の個人の独立・自由・平等を基礎に下から国民国家を形成し,そのような国民国家が〈天理人道〉と〈万国公法〉の下に独立と平等の関係で交わる国際社会を構想した。《学問のすゝめ》は,そのシリーズを中断して著された《文明論之概略》(1875)や《西洋事情》とともに福沢の名を世に高めた。また73年には森有礼,西周(にしあまね),加藤弘之ら当時第一級の洋学者とともに明六社を組織し,79年には東京学士会院の初代会長に選ばれた。

福沢は新政府の開明性に終始大きな期待をかけ,1880年には伊藤博文,井上馨,大隈重信から求められた政府機関紙発行への参加に同意したが,翌年の政変(明治14年の政変)によって裏切られ,新聞による世論形成の念願は82年の《時事新報》創刊として結実し,以後彼の力は同紙と慶応義塾とに集中される。この間,《文明論之概略》執筆のころから,国際環境における権力政治の重圧と読書思索を通じて日本の近代化についての彼の構想は徐々に変化していった。その帰結を示すのが,〈内安外競〉〈脱亜入欧〉〈官民調和〉という一連のスローガンである。《学問のすゝめ》に示された思想構造と違って,国際関係についての見方と国内政治についての見方が分裂し,前者が優先する傾向がこれ以降の彼の思想構造の中にしだいに強まっていく。国際関係における国際法や西欧国家体系への幻滅から,そこに支配するのは力のみという権力政治観に移行する。西洋列強の東アジア進出に対しても,一方では朝鮮や中国の近代国家への変革に期待し,これらの国の独立を防壁として日本の独立を確保する道を模索していたが,84年甲申政変によってかねて支援してきた朝鮮開化派が敗北すると翌年〈脱亜論〉(《時事新報》3月)を著し,日清戦争に際しては軍事的介入による朝鮮の〈文明〉化を説き,戦後には列強の中国分割への割込みを唱えるにいたる。このように熾烈(しれつ)な権力政治において富国強兵を競うために国内の政治的安定を,という目的手段の関係を示すのが〈内安外競〉であり,〈内安〉の中心をなすのが政府と民権運動およびその後身である民党との協調,すなわち〈官民調和〉である。福沢は民権運動の高揚に直面して国会開設を積極的に主張するにいたり,〈内安外競〉〈官民調和〉の構想を打ち出した《時事小言》(1881)およびその前後の一連の著作では,立憲制とイギリス流の議院内閣制・政党内閣制によって〈官民調和〉を実現するという原理が明確に展開される。しかし彼は明治政府の開明性に過大な期待をかけ,実学教育を受けた士族による産業化と政治への影響力の発展を楽観視した反面,民権運動・民党の大衆的基礎や統治能力を正当に認識できなかった。その結果,初期議会における寡頭制政府と民党との抗争激化に直面して,彼の論評は,責任内閣論にもとづく原理的な論評より民党操作の戦術論に傾き,日清戦争中の城内平和の提唱にいたった。こうして彼は《福翁自伝》(1897)に日清戦争の勝利を目のあたりにした満足感を表しているが,これに前後する《福翁百話》(1897)その他の文章には,日本における資本主義や議会政治の前途についての不安がもらされていることも見逃せない。
[松沢 弘陽] 福沢はまた日本の保険事業の歴史上大きな貢献をした。欧米各国を巡歴して得た知識をもとに,帰国後1867年に出版した《西欧旅案内》の中に〈災難請合の事〉の章があり,〈人の生涯を請合う事〉〈火災請合〉〈海上請合〉として欧米の生命・火災・海上保険事業を紹介した。さらに80年に著した《民間経済録》の中で〈第2章保険の事〉と題して保険の解説を行うなど,保険の紹介,知識普及に大きな役割を果たした。
[松田 喜義]

[索引語]
慶応義塾 学問のすゝめ 西洋事情 時事新報 脱亜論 内安外競 時事小言 福翁自伝 福翁百話 西欧旅案内 民間経済録
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19. あい‐ちかづ・く[あひ‥]【相近付】
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20. あい‐つ・く[あひ‥]【相衝】
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22. あい‐てき【愛敵】
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23. あい‐とう・ずる[あひ‥]【相投】
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王法と相比すべき理を存じて、弐(ふたごころ)なく忠戦を致す処に」*文明論之概略〔1875〕〈福沢諭吉〉緒言「二生相比し両身相較し」*焼跡のイエス〔1946〕〈石 ...
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日本国語大辞典
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国史大辞典
福原越後の領内にある村学校晩成堂、豊後中津の手島仁太郎の塾で学ぶ。手島塾の橋本忠次郎に勤皇を教えられ、福沢諭吉の修学方法に傾倒する。慶応元年(一八六五)萩藩校明 ...
31. 青木周蔵自伝 7ページ
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同年〔安政七"万延元年〕或は其の翌年〔文久元年〕のことなりき。橋本氏は偶然、予に語りて曰く、 予の親戚に福沢諭吉なる者あり。今回、幕府より北米合衆国に派遣せら ...
32. 青木周蔵自伝 358ページ
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二二四・三月桜田門外の変五月、誠求堂で上等二級、塾長代理となる。橋本忠次郎に勤皇を教えられる福沢諭吉宅を訪ね、修学の方法を知る中津より藤曲村へ帰る能美隆庵の家塾 ...
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〔名〕(1)青い色の札。特に、鉄道の青切符(中等、二等)をいった。*福翁自伝〔1899〕〈福沢諭吉〉一身一家経済の由来「青い切符を以て一寸(ちょい)と上等に乗込 ...
34. 青森(県)画像
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利用して菊池九郎らにより東奥義塾(とうおうぎじゅく)が開校した。菊池は慶応義塾の出身であり、福沢諭吉の実学精神とキリスト教精神を基本とする学校であった。菊池九郎 ...
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原橋のそばに、旧赤穂浅野家鉄炮洲屋敷跡の碑があり、またその三叉路に『解体新書』訳出の所の碑と福沢諭吉の慶応義塾開設の碑がある。それは現在の聖路加国際病院が旧中津 ...
36. あか‐ずね【赤臑】
日本国語大辞典
〔名〕衣類でおおわないでむき出しになっている足のすね。*福沢先生浮世談〔1898〕〈福沢諭吉〉「往来する日本人が赤臑(アカズネ)を出して路傍を徘徊して居ると云へ ...
37. アカデミー
日本大百科全書
もつ帝国大学に改組されたが、その目的は「国家ノ須要(すよう)ニ応スル」学術研究と人材の養成にあった。民間では福沢諭吉の慶応義塾(1858)、新島襄(にいじまじょ ...
38. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 77ページ
東洋文庫
松平伯耆守抱医 木村宋俊 門生二人 木村摂津守従者 福沢諭吉 鼓手 斎藤留蔵  ...
39. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 81ページ
東洋文庫
米国船員便乗の経緯……此航海決行に就いては乗組士官には相当自信があったが、他からは随 分危ぶまれたもので、福沢諭吉氏の談に、 「威臨丸の航海は日本開闢以来 ...
40. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 89ページ
東洋文庫
一行と別れ遺憾ながら其盤桑港から引返すことにした。此一行中に私の従者が五人あったが、其一人が福沢諭吉先生であった。従者といふ名義ではあるが全く自費で行かれたので ...
41. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 91ページ
東洋文庫
小杉雅之進と医師二人、舶夫、火焚六十五人、予が従者を併せて九十六人とす。1下略1」 〔補四〕 木村摂津守の従者福沢諭吉……福沢氏は軍艦奉行の木村氏に随従を許され ...
42. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 95ページ
東洋文庫
祝砲発射笑話……今日では一笑話に過ぎないが、当時は技術上自他共に相当の不安があった ので、之に就いて福沢諭吉氏の談がある。 「海上恙なく桑港に着た。着くやいな ...
43. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 101ページ
東洋文庫
こと二十目許に過ぎなかったけれど精神的に受けた衝動は大なるものがあった。殊に明治文明の指 導者の一人である福沢諭吉氏が此行に加はつてみたことは他日氏の進路に多 ...
44. あが・る【上・揚・挙・騰】
日本国語大辞典
がってゐない」(4)(効果、実績などが)目立って出てくる。*学問のすゝめ〔1872~76〕〈福沢諭吉〉四・学者の職分を論ず「今日に至るまで未だ実効の挙るを見ず」 ...
45. あきたさきがけしんぽう【秋田魁新報】
国史大辞典
やがて明治中期の言論時代到来で、狩野らの近世末の儒学的教養では乗り切れず、同十五年一月十六日福沢諭吉門下の霞城大久保鉄作社主・編輯長上遠野富之助・印刷長狩野徳蔵 ...
46. あき‐だる【空樽】
日本国語大辞典
・鑓の権三重帷子〔1717〕上「四斗入の明樽(アキダル)下人に持せ」*福翁百話〔1897〕〈福沢諭吉〉五四「西洋の諺(ことわざ)に空樽(アキダル)の音は高しと云 ...
47. あき‐や【空家・空屋・明家】
日本国語大辞典
家同然の坂本の城。責(せめ)なりとも崩しなりとも、勝手次第に遊ばせ」*福翁自伝〔1899〕〈福沢諭吉〉老余の半生「生徒散じ教員去て塾が空屋(アキヤ)になれば」* ...
48. あく‐い【悪意】
日本国語大辞典
善意・好意。*西洋事情〔1866~70〕〈福沢諭吉〉外・三「抑抑富有の人は唯国法に従ふのみを以て其処置を尽せりとす可らず、法の禁ずると否とに拘はらず都て其私財 ...
49. あく‐えき【悪疫】
日本国語大辞典
〔名〕悪性の流行病。天然痘、コレラ、ペストの類。*西洋事情〔1866~70〕〈福沢諭吉〉初・三「千三百四十九年悪疫大に流行して国内の人口過半を亡ひ」*遙拝隊長〔 ...
50. あく‐ぎょう[‥ゲフ]【悪業】
日本国語大辞典
〔名〕悪いしわざ、仕事。よくない職業。*西洋事情〔1866~70〕〈福沢諭吉〉外・二「国に是等の場所あれば自から人心を導て放僻邪侈の風を除き悪業に陥入る者少し」 ...
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
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山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
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