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ペリー

ジャパンナレッジで閲覧できる『ペリー』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
ペリー
Matthew Calbraith Perry
一七九四 - 一八五八
米国海軍軍人。幕末の日本に来航して日米和親条約締結をした人物。一七九四年四月十日父クリストファーChristopher Ramond Perryと母セーラSarah Wallace (Alexander)Perryの三男としてロードアイランド州に生まれる。少年期をニューポートなどで育ち、一八〇九年父や兄と同様海軍に入り少尉候補生となる。一四年ニューヨーク商人ジョン=スライデルJohn Slidellの娘ジェーンJaneと結婚。二〇年アフリカ西海岸、地中海艦隊、三〇年ロシア派遣、三三年ブルックリン(ニューヨーク)海軍工廠に配属、三七年米国最初の蒸気軍艦を建造し、その初代艦長、海軍大佐。英仏派遣、四一年同廠長官。四三年アフリカ艦隊司令長官、四七年メキシコ湾艦隊司令長官など海軍の要職を歴任、多くの勲功を建て、近代的科学技術を応用した軍艦の建造により「蒸気艦の父」と尊崇された。ペリーは、大統領フィルモアより東インド艦隊司令長官兼遣日特使に任命、外交上軍事上先例のない広範な自由裁量権を付与された。五二年十一月米本土を出航、大西洋廻りで五三年四月香港投錨。五月旗艦サスケハナ号に座乗、上海発、嘉永六年四月十九日(一八五三年五月二十六日)沖縄那覇着。小笠原諸島の父島も訪れ、両港が太平洋横断汽船航路上の貯炭所・碇泊地に最適とみて諸施設の建設を進めた。六月三日(七月八日)四艦を率い江戸湾に入り浦賀沖投錨。風に抗して進む蒸気艦は黒船渡来の報となって日本全国を震撼させた。日本最高位者以外とは会談せずの原則を貫き、九日久里浜応接所で幕府応接掛に米国国書・全権委任状を授受し、来春大艦隊での渡来を表明して中国に引き揚げた。中国に待機中、米本国でフィルモアからピアス大統領への政権交代を知り、駐清米公使と太平天国軍の評価、日本優先論で対立、露使プチャーチンの対日協同行動提案を拒絶、英国香港総督の父島処置抗議に反論した。列国に先がけて五四年一月香港発。七艦を率い安政元年正月十六日(一八五四年二月十三日)前年よりさらに北上して小柴沖投錨。会見地は江戸の近接地に固執して、全艦を北上させ、羽田・品川沖を測量し、示威行動により幕府の横浜提案を承諾した。二月十日(三月八日)横浜応接所で日米会談開始、応接掛林〓(あきら)らは阿部正弘ら幕閣の指令を受けつつ次第にペリーの要求に譲歩して、三月三日(三月三十一日)日本最初の近代的条約の日米和親条約を締結した。通商は認められないが、鎖国日本の開国に平和裡に成功し、主要目的を達成した。贈呈品の小型汽車・電信機を実験して日本人を驚嘆させた。横浜・下田・箱館を視察後、下田で五月(六月)和親条約付録を協定、六月(七月)那覇で琉球と修好条約を締結、帰国の途につく。ペリーは日本人の器用さから将来機械工業分野で「強力な競争者」となることを予見した。五五年一月帰国、名声はさらに高くなった。米政府より『日本遠征記』の編纂監修を依嘱され、五七年厖大な三冊本として完成出版。五八年三月四日ニューヨークで死去。六十三歳。八年後、生前の希望でニューポートのアイランド墓地に改葬された。→日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)
[参考文献]
『ペルリ提督日本遠征記』(土屋喬雄・玉城肇訳 『岩波文庫』)、『横浜市史』二
(秋本 益利)


日本大百科全書(ニッポニカ)
ペリー
ぺりー
Matthew Calbraith Perry 
[1794―1858]

アメリカ海軍軍人。4月10日、現在のロード・アイランド州ニューポートに生まれる。父クリストファー・レイモンド、長兄オリバー・ハザード、次兄レイモンドも海軍軍人で、彼は三男。1809年海軍に入り、西インド、地中海、アフリカなど各地に勤務し、その間、1833年1月にニューヨークのブルックリン海軍工廠(こうしょう)の造船所長となり、1837年にアメリカ海軍最初の蒸気船フルトン号を建造、同年海軍大佐に昇進し、1841年に同海軍工廠司令官に就任した。蒸気船を主力とする海軍力の強化策を推進するとともに、士官教育の振興、灯台施設の改善などに尽力し、アメリカ海軍の近代化の基礎を築くことに貢献した。ついで1846~1847年のアメリカ・メキシコ戦争に参加、1852年3月東インド艦隊司令長官となり、日本開国の使命を与えられた。そして同年11月、フリゲート艦ミシシッピ号を旗艦としてバージニア州ノーフォークを出航、ケープ・タウン経由シンガポール、香港(ホンコン)、上海(シャンハイ)、沖縄、小笠原(おがさわら)を経て、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)浦賀に入港した。久里浜(くりはま)で浦賀奉行(ぶぎょう)に大統領フィルモアの国書を手交し、開国を要求したが、翌年までの猶予を求められて退去した。同年10月30日(和暦9月28日)小笠原島を占領したが、これは本国政府の承認するところとはならなかった。翌1854年2月13日(嘉永7年正月16日)、ふたたび旗艦サスケハナ号以下軍艦7隻を率いて江戸湾金沢沖に至り条約締結を求め、3月31日(和暦3月3日)神奈川で林大学頭(だいがくのかみ)、井戸対馬守(つしまのかみ)、伊沢美作守(みまさかのかみ)、鵜殿民部少輔(うどのみんぶのしょう)らと日米和親条約を調印、さらに下田(しもだ)で日米和親条約付録に調印(1854年6月18日=嘉永7年5月22日)、下田・箱館(はこだて)2港を開き、漂流民保護、欠乏品供給、領事駐在、最恵国待遇などを決めた。帰途、琉球(りゅうきゅう)王国と通商条約を調印、香港に戻り、のちオランダを経て1855年1月11日帰国した。1858年3月4日、ニューヨークで死去。
ペリー日本遠征の公式記録として、フランシス・ホークスを編纂(へんさん)主幹として1856~1860年に刊行された遠征記3巻Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Sea and Japan, performed in the years 1852, 1853 and 1854(邦訳『ペルリ提督日本遠征記』)があるが、これとは別に、ロジャー・ピノーによって1968年に刊行された『ペリー日本遠征私日記』The Japan Expedition 1852~1854, The Personal Journal of Commander Matthew C. Perryがある。
[加藤榮一]



世界大百科事典
ペリー
Matthew Calbraith Perry
1794-1858

アメリカの海軍将官。日本開国の先駆者,最初の日米条約の締結者。ロード・アイランド州サウス・キングストン(ニューポートの説もある)に海軍一家の三男として生まれる。1809年,海軍に入り,兄オリバーOliver Hazard Perry指揮下の砲艦勤務を振出しに,1812年英米戦争に参加,その後アフリカ,西インド諸島,地中海方面で海賊鎮圧などに従事。33-41年,海軍教育の改革に尽力,海軍の近代化を強力に唱え,1837年アメリカ最初の蒸気軍艦フルトン2世号の艦長になる(のち〈蒸気船海軍の父〉といわれる)。43年アフリカ艦隊司令官として奴隷貿易禁圧に従事。米墨戦争ではメキシコ湾艦隊副司令長官として指揮をとり,手柄をたてた。

52年,東インド艦隊司令官(准将)に任命,大統領フィルモアから親書を託され日本遠征を命じられる。訓令では,日本人との条約交渉において〈断固とした決然たる態度〉が必要としつつも,なるべく〈平和的〉手段にとどめるよう制約を課していた。ペリー自身,時代の膨張思潮マニフェスト・デスティニーを体現し,日本を欧米キリスト教文明の恩恵に浴させることこそアメリカの歴史的使命だと確信していた。日本について周到な調査研究のうえ,旗艦ミシシッピ号ほか3隻を率いて琉球,小笠原諸島に寄港したのち,53年7月浦賀沖に投錨。幕府は江戸湾からの退去を要求したが,ペリーは峻拒,〈体面〉を重んじて最高位の日本役人との面会を強要,軍隊上陸を示唆して威嚇した。しかし結局,大統領親書を手交しただけでいったん退去した。翌54年2月再び江戸湾に来航,軍艦7隻の威を借りて交渉した結果,3月31日,神奈川条約が調印された。同条約では,下田・箱館の開港,薪炭の供給,遭難船員の保護,領事駐在の約束などを認めただけで,通商条項は含まれていない。遠征中ペリーは高度の戦略的観点から琉球の占有を具申して,本国政府に却下されたが,55年帰国後も太平洋支配をめざすイギリス,ロシアの勢力拡張や闘争について警告した。彼の膨大な《遠征記》(1856)には,日本の経済大国化や日米通商競争を予言するなど,日本人の特性への鋭い洞察が散見される。
→開国
[麻田 貞雄]

[索引語]
Perry,M.C.
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