NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1900冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史上の人物
  8. >
  9. 日本史上の人物
  10. >
  11. 新井白石

新井白石

ジャパンナレッジで閲覧できる『新井白石』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
新井白石
あらいはくせき
一六五七 - 一七二五
江戸時代中期の儒学者、政治家。名は君美(きんみ)、はじめの名を〓という。通称は与五郎・伝蔵・勘解由。字は在中または済美。白石はその号。ほかに紫陽・錦屏山人・天爵堂・勿斎などとも号した。明暦三年(一六五七)二月十日江戸に生まる。白石の祖父は勘解由と称し、常陸国下妻城主多賀谷宣家に仕えたが、関ヶ原の戦の後、主家とともに所領を失い、以後旧領の地に牢人生活をすごして、慶長十四年(一六〇九)に死去した。白石の父正済(まさなり)はその四男で、九歳の時父に死別し、かつて新井家の召使であった豪農に養われたが、十三歳の時はじめて養子の事実を知りこれを恥じて江戸に出奔した。その後、当時流行のかぶき者のような生活を送り、東奔西走、居所定まらなかったが、三十一歳の時、上総国久留里の城主土屋利直に仕えてその信任を得、目付の職を務めた。白石も幼時から利直にかわいがられ、常に側近く召し使われた。しかし利直の晩年、継嗣をめぐって藩に内紛が生じ、延宝三年(一六七五)利直が死去して頼直の代になると、白石父子もその争いにまきこまれ、同五年白石二十一歳の時、ついに父子ともに土屋家を追われ、他家への奉公も禁ぜられた。その後、豪商角倉了仁や河村瑞賢から縁組の話があったが、白石はこれに応ぜず、父がかつて養子とした相馬藩士郡司正信から仕送りを受けて、浪人生活をした。やがて同七年土屋家が廃絶されたので他家へ仕官も可能となり、天和二年(一六八二)、時の大老堀田正俊に仕えた。しかし貞享元年(一六八四)正俊が殺されて後、堀田家は将軍綱吉に冷遇されるようになり、経済的にも苦しい状態に陥ったので、元禄四年(一六九一)白石は堀田家を去り、再び浪人生活に入った。かれは幼時から学問にすぐれた才能を示したが、青年時代まではほとんど独学ですごした。貞享三年(一六八六)三十歳のころから木下順庵の門に入り、やがてその高弟として木門の五先生または十哲の一人に数えられるに至った。堀田家を去った後、順庵はかれを金沢藩に推薦しようとしたが、白石は同国出身の岡島石梁にその職を譲った。これはかれの友情を示す話として名高い。元禄六年(一六九三)の冬、順庵の推挙により、甲府藩主徳川綱豊(のちの六代将軍家宣)の侍講となり、宝永元年(一七〇四)家宣が五代将軍綱吉の世子として江戸城西ノ丸に入ると、かれも寄合に列せられた。同六年家宣が将軍となってからは、その篤い信任のもとに幕府政治上に積極的な発言をし、前代以来の弊政の改善につとめた。正徳元年(一七一一)には従五位下筑後守に叙任し、武蔵国埼玉郡、相模国鎌倉・高座二郡において一千石を領した。同二年家宣が死去し、その子家継が将軍となって後も、側用人間部詮房とともに政治に力を尽くしたが、享保元年(一七一六)吉宗が将軍となると政治上の地位を失った。その後は不遇のうちに著述にはげんだが、同十年五月十九日六十九歳をもって死去した。法名慈清院殿釈浄覚大居士。墓はもと東京都浅草報恩寺にあったが、今は中野区上高田の高徳寺に移されている。白石は上に立つ為政者がまずみずから高い徳を身につけ、道に則った政治を率先して行うことこそ幕府長久の安定を得る根本だとの信念のもとに、将軍家宣が堯舜のような理想的君主となることを念願して講義をした。その回数は十九年間に千二百九十九日に及んだという。そうして礼楽の振興に力を尽くし、仁愛の精神をもって人民に臨むことを主張した。しかしその政治論はあまりに高遠な理想主義であり、しかもかれ自身圭角の多い人物で、反対意見に対しては妥協することなく徹底的に論破したので、老中などからも「鬼」の異名をうけて忌みきらわれ、やがて間部詮房とともに孤立の状態に陥ってしまい、失意のうちに晩年をおくらざるをえなかった。かれは朱子学派の系統に属するが、当時の多くの儒者がもっぱら漢籍上の知識をもつにとどまったのに対し、かれは日本の文献についても強い関心と豊かな知識をもち、これに合理的、実証的態度で臨み、広い領域にわたって独自の見解を表明している。その中でも特に力を注いだのは日本史についての論述であった。家宣への進講案をまとめたものとして、各大名の家の事績を系譜的に述べた『藩翰譜』、摂関政治の創始からの政権の移行をたどり、政治の得失に論評を加えつつ、家康制覇の由来を説いた『読史余論』がある。古代史については、神話に合理的解釈を試み、その中に含まれる歴史的事情を究明しようとした『古史通』があり、さらに『史疑』を著わし、六国史の文献批判を行なったが、これは現在ほとんど伝わっていない。かれの歴史研究は幕政の当面する課題の解決にも活用された。たとえば『本朝宝貨通用事略』はわが国の金銀産出の起源から説きおこして、貿易による宝貨の海外流出の損害を論じ、これが正徳五年(一七一五)の長崎貿易制限の新令の一つの論拠となっている。また礼楽振興のためには、『武家官位装束考』その他、制度史・有職故実に関する考証的著述も少なくない。地誌編著においてもかれは先駆者である。ことにローマ人宣教師シドッチを訊問して得た知識に基づいて著わした『西洋紀聞』『采覧異言』は、鎖国時代において世界の事情を紹介した著述として最も早期のものの一つである。しかもその中において、ヨーロッパの宗教・道徳の価値を否定する一方、その知識・技術の優秀性を認めた態度は、その後長く日本人がヨーロッパ文化に対していだいた観念の起源をなすものであった。また蝦夷地・琉球についての最初のまとまった地誌として、『蝦夷志』『南島志』『琉球国事略』を著わしている。言語・文字の研究においては、『東雅』で広範囲に国語の名詞を集めて、その語源とその後の変遷を考証し、『東音譜』では五十音を表わす漢字について、わが国と当時の中国諸地域とを比較し、『同文通考』では漢字の起源ならびにわが国における神代文字・仮名・国字・俗字などについて述べている。かれはまた漢詩文にもすぐれ、木下順庵に認められたのも、山形へ旅行した時の紀行文によるという。若いころには俳諧を好んだが、堀田家に仕えるころ、学者は漢詩文を工夫すべきだとしてやめた。しかしかれの著書は、その内容とともに、すぐれた和文によって叙述されたものが多いところにその特色がある。かれが幕政上の地位を退いてから著わした『折たく柴の記』は、当時を考える史料としても貴重であり、自叙伝文学としても高く評価されているが、またかれの和文の代表作の一つでもある。『新井白石全集』全六巻がある。→折たく柴の記(おりたくしばのき)
[参考文献]
羽仁五郎『白石・諭吉』、栗田元次『新井白石の文治政治』、宮崎道生『新井白石の研究』
(辻 達也)


世界大百科事典
新井白石
あらいはくせき
1657-1725(明暦3-享保10)

江戸中期の儒学者,政治家。白石は号。名は君美(きんみ)。通称は与五郎,伝蔵,勘解由。字は在中,済美。ほかに紫陽,錦屛山人,天爵堂など。新井家はもと常陸国下妻城主多賀谷氏に仕えたが,関ヶ原の戦の後,主家とともに所領を失う。父正済(まさなり)は江戸へ出奔し,当時流行のかぶき者のような生活を送った。やがて上総国久留里土屋利直に仕え,信任を得て目付を務めたが,お家騒動にまきこまれ,1677年(延宝5)父子ともに土屋家を追い出され,他家への奉公も禁ぜられた。牢人中豪商角倉了仁や河村瑞賢から縁組の話があったが,白石はこれに応ぜず,土屋家が断絶して他家へ仕官も可能となったので,82年(天和2)大老堀田正俊に仕えた。正俊の死後,91年(元禄4)堀田家を去り,再び牢人生活に入った。彼は青年時代まで独学ですごしてきたが,1686年(貞享3)木下順庵に入門し,高弟として木門の五先生または十哲の一人に数えられるに至った。93年順庵の推挙により甲府藩主徳川綱豊(6代将軍徳川家宣)の侍講となり,1704年(宝永1)家宣が叔父5代将軍綱吉の養子となったとき,彼も幕臣として寄合に列せられた。09年家宣が将軍となると,その厚い信任のもとに幕府政治に発言の場を得,幕政の改善につとめた。彼は家宣を中国古代の聖人のような理想的君主にしようと講義につとめ,政治上の実践として礼楽振興に力を尽くし,仁愛の精神をもって人民に臨むことを主張した。11年(正徳1)従五位下筑後守に叙任,知行地1000石を与えられた。翌12年家宣の死後も側用人間部詮房(まなべあきふさ)とともに幼将軍家継を補佐し,通貨改良,貿易制限,司法改革などに努力した。その活躍の時期は〈正徳の治〉とも称される。しかし彼の政治論はあまり理想にすぎ,彼の性格は圭角多く他人と妥協するところがなかったので,しだいに間部詮房とともに孤立の状態となり,16年(享保1)吉宗が将軍となると政治上の地位を失い,晩年は不遇の中に著述にはげんだ。

白石は朱子学派に属するが,漢籍ばかりでなく日本の文献にも豊かな知識をもち,それに合理的・実証的見解を加えたところに独自性がある。歴史では各大名家の事跡を系譜的に述べた《藩翰譜》,摂関政治から家康制覇に至る間の政治の変転を論じた《読史余論》,神話に合理的解釈を試みた《古史通》があり,地誌には蝦夷地,琉球の最初の地誌というべき《蝦夷志》《南島志》《琉球国事略》のほか,イタリア人宣教師シドッチの尋問によって得た知識に基づく《西洋紀聞》《采覧異言》は,鎖国下に世界事情を紹介した著書として早期に属する。彼は言語・文字の研究でも先駆者で,《東雅》は国語の名詞の語源とその変遷の考証,《東音譜》は五十音の音韻の研究,《同文通考》は漢字の起源と日本の神代文字,かな,国字などを論じた著述である。白石の文章はとくに和文の叙述に特色があり,その代表作というべき自叙伝《折たく柴の記》は,また同時代の幕政その他についての貴重な史料でもある。25年5月19日死去,墓は浅草の報恩寺にあったが,現在は中野上高田の高徳寺に移されている。
[辻 達也]

[索引語]
新井君美 正徳の治 シドッチ,G.B. 東音譜 同文通考
上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


新井白石の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 1167
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. 新井白石画像
日本大百科全書
江戸中期の学者、詩人、政治家。名は君美(きんみ)、通称勘解由(かげゆ)、白石は号。明暦(めいれき)3年2月10日江戸に生まれる。父正済(まさなり)(1597―1 ...
2. 新井白石
世界大百科事典
1657-1725(明暦3-享保10) 江戸中期の儒学者,政治家。白石は号。名は君美(きんみ)。通称は与五郎,伝蔵,勘解由。字は在中,済美。ほかに紫陽,錦屛山人 ...
3. あらい‐はくせき【新井白石】
日本国語大辞典
江戸中期の儒者、政治家。名は君美(きんみ)。字は在中、済美。通称勘解由。木下順庵の高弟。徳川家宣、家継に仕え、側用人間部詮房とともに幕政を補佐。武家諸法度の改正 ...
4. あらいはくせき【新井白石】画像
国史大辞典
作の一つでもある。『新井白石全集』全六巻がある。→折たく柴の記(おりたくしばのき) [参考文献]羽仁五郎『白石・諭吉』、栗田元次『新井白石の文治政治』、宮崎道生 ...
5. 新井白石
日本史年表
1693年〈元禄6 癸酉〉 12・16 新井白石 を甲府藩主徳川綱豊の侍講に任じる(新井白石日記)。 1709年〈宝永6 己丑〉 1・‐ 幕府、 新井白石 を登 ...
6. あらい-はくせき【新井白石】
日本人名大辞典
1657−1725 江戸時代前期-中期の儒者。明暦3年2月10日生まれ。新井正済(まさなり)の長男。師木下順庵の推挙で,甲斐(かい)(山梨県)府中藩主徳川綱豊の ...
7. 新井白石[文献目録]
日本人物文献目録
する苦心』中村孝也『新井白石』足立栗園『新井白石 』新井誠夫『新井白石』芳賀幸四郎『新井白石 人間の教師』古川哲史『新井白石遺文』高安月郊『新井白石覚書』宮崎道 ...
8. あらゐはくせき【新井白石】
全文全訳古語辞典
[人名]江戸中期の儒学者・政治家。一六五七年(明暦三)~一七二五年(享保十)。名は君美。木下順庵から教えを受け、将軍徳川家宣・家継に仕えて江戸幕府の政治に参与し ...
9. 【新井白石】あらい(ゐ)はくせき
新選漢和辞典Web版
人名。江戸中期の学者・政治家。名は君美(きみよし)、字(あざな)は済美(さいび)。上総(かずさ)(千葉県)の人。徳川家宣(いえのぶ)につかえて幕府の儒官(じゅ ...
10. 新井白石上書論時政 (見出し語:新井白石)
古事類苑
政治部 洋巻 第3巻 230ページ ...
11. 新井白石仕幕府 (見出し語:新井白石)
古事類苑
文學部 洋巻 第2巻 711ページ ...
12. 新井白石善(見出し語:新井白石)
古事類苑
文學部 洋巻 第2巻 584ページ ...
13. 新井白石奉封事議皇親之出家 (見出し語:新井白石)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 1481ページ ...
14. 新井白石手習 (見出し語:新井白石)
古事類苑
文學部 洋巻 第3巻 742ページ ...
15. 新井白石排佛 (見出し語:新井白石)
古事類苑
宗教部 洋巻 第1巻 58ページ ...
16. 新井白石改貨議 (見出し語:新井白石)
古事類苑
泉貨部 洋巻 第1巻 216ページ ...
17. 新井白石改貨議 (見出し語:新井白石)
古事類苑
泉貨部 洋巻 第1巻 313ページ ...
18. 新井白石洋學 (見出し語:新井白石)
古事類苑
文學部 洋巻 第2巻 1023ページ ...
19. 新井白石碑 (見出し語:新井白石)
古事類苑
禮式部 洋巻 第2巻 1182ページ ...
20. 新井白石經濟説 (見出し語:新井白石)
古事類苑
文學部 洋巻 第2巻 697ページ ...
21. 新井白石著書 (見出し語:新井白石)
古事類苑
文學部 洋巻 第3巻 475ページ ...
22. 新井白石論幕府財政 (見出し語:新井白石)
古事類苑
政治部 洋巻 第3巻 1083ページ ...
23. 新井白石論無服之殤 (見出し語:新井白石)
古事類苑
禮式部 洋巻 第2巻 637ページ ...
24. 新井白石辭而不富商養子 (見出し語:新井白石)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 619ページ ...
25. 新井白石驛傳意見 (見出し語:新井白石)
古事類苑
政治部 洋巻 第4巻 1371ページ ...
26. 新訂 西洋紀聞
東洋文庫
宝永5年(1708),キリスト教禁令下の日本に潜入をはかった宣教師シドチと,彼を尋問した白石。その息づまる対決は,一編の奇しきドラマであり,東西文化交流史上の事 ...
27. 日本漢詩集
日本古典文学全集
4世紀ごろより中国から入ってきた漢籍を訓読によって日本語化し、さらには本家に倣って「漢詩」をつくるようになる。飛鳥時代の大友皇子や大津皇子にはじまり、平安期には ...
28. 新井白石蔵書印[図版]画像
国史大辞典
天爵堂図書記 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
29. あらいはくせきにっき【新井白石日記】
国史大辞典
徴証すべき一貫した史料として、きわめて貴重である。刊本を『大日本古記録』に収める。 [参考文献]『新井白石日記』下解説(『大日本古記録』) (斎木 一馬)  ...
30. 『新井白石日記』
日本史年表
1693年〈元禄6 癸酉〉 10・‐ 新井白石、 『新井白石日記』 を記す(~享保8年8月)。  ...
31. 新井白石遠州公を評す(著作ID:1099190)
新日本古典籍データベース
あらいはくせきえんしゅうこうをひょうす  ...
32. 新井白石伝(著作ID:615850)
新日本古典籍データベース
あらいはくせきでん 伝記  ...
33. 新井白石辭而不富家養子 (見出し語:養子)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 620ページ ...
34. アイヌ
日本大百科全書
て人々の北方への関心は高まり、水戸藩では探検船を北海道に派遣し、実地調査を行うほどであった。新井白石の『蝦夷志(えぞし)』(1720)にはアイヌに関する詳細な記 ...
35. あがさむら・ちゃはなむら【赤佐村・茶花村】鹿児島県:大島郡/与論町
日本歴史地名大系
「あがさ泊」が記される。寛文八年(一六六八)の琉球国郷帳でも間切はなく、「むきや村あかさ村」とある。新井白石の「南島志」(享保四年自序)には「阿賀佐村」とみえる ...
36. 安積澹泊
世界大百科事典
った。33年致仕したが,なおも校訂を続け,その完了直後に没した。学者として謙虚な態度を持し,新井白石,室鳩巣,荻生徂徠らと親交を結んだ。博識でとくに史学に長じ, ...
37. あさかたんぱく【安積澹泊】
国史大辞典
水戸梅香の自宅に没した。八十二歳。墓は水戸市内の常磐共有墓地にある。学者としてきわめて謙虚で、新井白石・室鳩巣・荻生徂徠らと親交があった。博識で特に史学にすぐれ ...
38. あさか-たんぱく【安積澹泊】
日本人名大辞典
朱舜水(しゅ-しゅんすい)の門にまなぶ。元禄(げんろく)6年彰考館の総裁となり,「大日本史」編修につくした。新井白石,室鳩巣(むろ-きゅうそう)らと親交があった ...
39. あさくら-かげひら【朝倉景衡】
日本人名大辞典
く)家。万治(まんじ)3年4月25日生まれ。幕臣。常陸(ひたち)水戸藩医朝倉重景の子。姉の夫新井白石にまなぶ。「本朝軍器考集古図説」をまとめ,白石の「本朝軍器考 ...
40. あさくらそうてきわき【朝倉宗滴話記】
国史大辞典
朝倉教景の教訓書。『宗滴物語』『朝倉英林入道家誡』(新井白石写)、『荻原氏筆記』『宗滴雑談』『宗滴兵談』『宗滴夜話』ともいう。荻原某の筆記。一巻。成立は十六世 ...
41. あさくらたかかげじゅうしちかじょう【朝倉孝景十七箇条】
国史大辞典
本書は『朝倉敏景十七箇条』(群書類従所収本)、『朝倉英林壁書』(黒川本)、『朝倉英林入道子孫へ一書』(新井白石本)、『朝倉敏景条々』(百和香本)など、題名が諸本 ...
42. 朝倉孝景条々
世界大百科事典
戦国武将朝倉孝景(英林)が子の氏景に残したとされる家訓。《朝倉英林壁書》(黒川本),《朝倉英林入道子孫へ一書》(新井白石本),《朝倉敏景十七箇条》(群書類従本) ...
43. 字(あざな)
日本大百科全書
氷宿禰継麻呂(ひのすくねつぐまろ)の宿栄などのように、姓氏や姓(かばね)を配したが、江戸時代になると、新井白石(名は君美(きんみ))の在中、貝原益軒(名は篤信) ...
44. アジ画像
世界大百科事典
そのほか定置網,底引網,釣りなどでも漁獲される。 〈アジとは味なり,その味の美をいふなりといへり〉と新井白石の《東雅》に述べられているように美味な魚として知られ ...
45. アジア
世界大百科事典
《地球図》(1648)をもとに,シドッチらの供述を合わせて作られた。シドッチの訊問に当たった新井白石は,その《采覧異言》の中で,〈アジア 漢に亜細亜(ヤアスイヤ ...
46. アフリカ【阿弗利加・亜弗利加】
日本国語大辞典
漢字表記の「利未亜」は利瑪竇(マテオ=リッチ)の「坤輿万国全図」(一六〇二)に見られ、日本にも伝わり、新井白石の「采覧異言‐二」(一七一三)などにも用いられてい ...
47. あまのたくも【蜑の焼藻】
国史大辞典
森山孝盛の自叙伝。『蜑の焼藻の記』『海士の焼藻の記』ともいう。新井白石の『折たく柴の記』にならって本書を著わした。上下二冊。寛政十年(一七九八)に成った。記事 ...
48. 雨森芳洲
日本大百科全書
語と朝鮮語を本格的に学び、文教と外交の両面で活躍、ことに朝鮮使節の応接に功績があった。同門の新井白石(あらいはくせき)とはしばしば対立したが敬愛は変わらず、また ...
49. 雨森芳洲
世界大百科事典
る朝鮮との応接に活躍,朝鮮語,中国語に通じその声名は内外に高かった。また名分を重んじ,同門の新井白石と将軍王号問題で論争した。著書に《橘窓文集》《たはれ草》その ...
50. あめのもりほうしゅう【雨森芳洲】
国史大辞典
対馬に在っては常に韓人と応接し、通訳なしに会話することができ、韓国語の研究にも成果をあげている。新井白石とは同門の間柄であったが、交遊は円滑でなく、特に正徳元年 ...
「新井白石」の情報だけではなく、「新井白石」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

新井白石と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
日本史上の人物と同じカテゴリの記事をもっと見る


「新井白石」は人物に関連のある記事です。
その他の人物に関連する記事
ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
人物に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1900冊以上(総額850万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶