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  11. 徳川綱吉

徳川綱吉

ジャパンナレッジで閲覧できる『徳川綱吉』の国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
徳川綱吉
とくがわつなよし
一六四六 - 一七〇九
江戸幕府第五代将軍。一六八〇―一七〇九在職。三代将軍家光の第四子。母は本庄氏(於玉、桂昌院)。正保三年(一六四六)正月八日、江戸城本丸に生まれる。幼名徳松。慶安元年(一六四八)三ノ丸に移る。同四年四月三日、兄長松(綱重)とともに賄料領知、各十五万石を賜わり、家臣も付けられた。邸宅を竹橋に賜わり、のち神田に移る。承応二年(一六五三)八月十九日元服、従三位中将兼右馬頭に叙任。寛文元年(一六六一)上野国館林に封ぜられ、十万石を加増されて、二十五万石を領し、また参議に任じられた。同三年日光参詣の途次、館林に入部。翌年鷹司房輔の妹信子と結婚。延宝八年(一六八〇)、兄四代将軍家綱に子供がなく、次兄綱重もすでに没していたため、家綱の病あらたまった五月六日継嗣となり、従二位権大納言に叙任。同月八日跡を継ぐ。一説によると、このとき大老酒井忠清は家綱の継嗣に鎌倉幕府の故事に倣い京都から宮将軍を迎えようとしたが、老中堀田正俊が綱吉の擁立を強く主張し、相続者に決まったという。なお館林徳川家は子徳松が相続したが、徳松の西ノ丸移徙とともに消滅した。その家臣は幕臣に編入されて、綱吉の政権を支える勢力となった。八月二十三日将軍宣下。正二位内大臣に叙任。将軍になってまもなく、前代に権勢を振るい、下馬将軍の異名をとった酒井忠清を罷免し、幕政の実権を譜代門閥層よりみずからの手に掌握した。そして天和元年(一六八一)越後高田松平家の御家騒動(越後騒動)を親裁して関係者を厳しく処罰した。さらに治政不良の大名をつぎつぎに改易・減封処分にするなど、いわゆる「賞罰厳明」策を意欲的に進めた。また民政・財政を重視し、これを専管する老中に堀田正俊を任命し、勘定吟味役を設置して、幕領支配の刷新を図り、年貢未進など不正代官を大量処分した。これにより代官は初期以来の年貢請負人的性格が払拭されて、徴税官僚化したとされる。綱紀粛正の実が上がった綱吉の前半期(天和・貞享期)の政治はのちに「天和の治」と称えられた。それに対し後半期(元禄・宝永期)の政治は、側用人牧野成貞や柳沢吉保を寵用し、奢侈生活に耽り、当時から評判が悪く、弊政と評価されることが多い。学問好きの綱吉は、将軍となってすぐ、儒学の教えを現実の政治の上に反映させようとし、代官に人民を統治する精神を訓示し、諸国に忠孝を奨励する高札(忠孝札)を立てさせており、また幕臣を集め、みずから講義することも度々に及んだ。悪法として知られる生類憐みの令も儒教・仏教による人心教化を意図していたが、元禄期以降頻発の度を加え、人々を著しく苦しめるに至った。また護持院・護国寺や東大寺大仏殿などの神社仏閣をつぎつぎに建立し、傾きつつあった幕府財政を一層悪化させたが、勘定奉行荻原重秀の進言によって貨幣改鋳を行い、急をしのいだ。さらに酒運上を賦課し、長崎貿易の利益の一部を納めさせるなど、幕府の財政収入の増加を図っているが、これら元禄期の経済政策については、商品経済の発展に積極的に対応した策との評価も与えられている。その晩年には元禄の江戸大火(元禄十一年(一六九八))、元禄大地震(同十六年)、富士山噴火(宝永四年(一七〇七))、京都大火(同五年)と立て続けに大きな災害に見舞われた。徳松の早世(天和三年閏五月二十八日没、五歳)後は嗣子を得られず、宝永元年甥の綱豊を跡継ぎに定めた。同二年右大臣に任。同六年正月十日没。六十四歳。上野寛永寺に葬り、常憲院殿と諡名された。→元禄・宝永期(げんろく・ほうえいき),→天和・貞享期(てんな・じょうきょうき)
[参考文献]
『徳川実紀』五・六、『徳川幕府家譜』乾(『徳川諸家系譜』一)、辻達也「「天和の治」について」(『史学雑誌』六九ノ一一)、深井雅海「綱吉政権の主体勢力」(『徳川林政史研究所研究紀要』昭和五十一年度)、同「綱吉政権の「賞罰厳明」策について」(同昭和五十三年度)
(松尾 美恵子)


世界大百科事典
徳川綱吉
とくがわつなよし
1646-1709(正保3-宝永6)

江戸幕府5代将軍。3代将軍家光の四男。幼名徳松。生母は本庄氏,桂昌院。1651年(慶安4)父家光の死後,上野国その他で所領15万石を与えられ,61年(寛文1)10万石加増,館林城主となる。64年左大臣鷹司教平女信子と結婚。80年(延宝8)兄4代将軍家綱の死後,5代将軍を継承した。前代末期,幕政は整備された機構を伴って安定した軌道にのっていたが,他面社会の変質期に入って全領主的支配の弛緩が表面化し,農民の抵抗も高揚の傾向を示していた。綱吉は将軍になるや直ちに,幕政の実権をにぎっていた大老酒井忠清を免職し,一方彼の将軍就任を支持した老中堀田正俊を大老とし,さらに寵臣を側近に集め,側用人の職を創置して側近の地位を老中同格にまで高め,政治の主導権をにぎろうとした。また未解決であった越後高田藩の御家騒動(越後騒動)を親裁して,親藩筆頭の越後松平家を取りつぶしたのを手始めに,幕臣に対して賞罰厳明政策を仮借なく励行して家格に依拠する譜代層を畏伏せしめ,将軍の権威を絶大にした。また堀田正俊に財政専管を命じ,勘定吟味役を創置して直轄領行政の刷新に努め,勤務不良の代官を大量に処分した。このような綱吉の初期の施政は幕政史上〈天和(てんな)の治〉などと称せられる。しかし綱吉の権威が強大になるにつれ,幕臣全般の気風は萎縮し,彼の政治的意図を実らせるべき新しい行政機構は成長せず,ことに84年(貞享1)堀田正俊が殺されて後は,牧野成貞,柳沢吉保ら側近の寵臣の権勢のみ増大する傾向が強くなった。

綱吉は幼少から儒学を愛好し,その精神を施政に反映させることに意欲を燃やし,しばしば幕臣を集めて講義をし,1680年には代官に人民統治の精神を訓令し,82年(天和2)には全国に忠孝奨励の高札〈忠孝札〉を立て,孝子表彰の制度も設けた。〈生類憐みの令〉も聖徳の君主の世には仁慈は鳥獣にまでおよぶという理想世界の実現を意図したものであった。しかしその好学は観念の遊戯の色濃く,その施策,とくに〈生類憐みの令〉は将軍に迎合する幕臣によってゆがめられ,綱吉の実子への執心に乗じて護持院隆光らがたきつけた迷信が加わって,人民へのはなはだしい虐政となった。さらに当時の経済界の新しい展開への根本的な対応策を欠いた経済政策は幕府財政の悪化を助長し,経済界を混乱させ,一部役人と御用商人や投機的商人との間に腐敗した関係を生ぜしめた。これらが綱吉への悪評の要因をなしている。晩年綱吉は実子をあきらめ,1704年(宝永1)兄綱重の子綱豊(6代将軍家宣)を養子とした。09年1月10日,綱吉は流行の天然痘によって死去した。法号を常憲院といい,上野寛永寺に葬られた。
[辻 達也]

[索引語]
天和(てんな)の治 忠孝札 生類憐みの令 常憲院
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13. 徳川綱吉印[図版]画像
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国史大辞典
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37. ありまつむら【有松村】愛知県:名古屋市/緑区
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44. いしかわ-のりゆき【石川憲之】
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「徳川綱吉」の情報だけではなく、「徳川綱吉」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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