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  11. 益田時貞(天草四郎)

益田時貞(天草四郎)

ジャパンナレッジで閲覧できる『益田時貞(天草四郎)』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
益田時貞
ますだときさだ
- 一六三八
島原の乱における一揆軍の首領。通常、天草四郎時貞といわれるが、一揆当時の史料には「四郎」「益田四郎」とあり、乱後の覚書などには「大矢野四郎」「江辺(部)四郎」の呼称がみえる。没年の年齢が十六歳というから元和九年(一六二三)に生まれたことになるが、なお検討を要する。父は小西行長の旧臣で浪人の益田甚兵衛好次。通説では肥後国宇土郡江部村(熊本県宇土市)で生まれ育ったといわれるが、父好次の出身地とする大矢野村(熊本県天草郡大矢野町)の庄屋渡辺小左衛門の養子となったとする説もある。『山田右衛門作口書』によると、天草に「大矢野四郎」と申す者がいるとあり、大矢野村で生活していた形跡がある。幼年時代については細川熊本藩に捕縛された四郎の母の供述書に、九歳のときから「手習(てならい)を三年、学問を五、六年、長崎にも遊学した」とある。四郎がいつキリシタンになったかは不明であるが、洗礼名をジェロニモといったとされる。乱勃発のとき父好次など浪人一味の工作で一揆勢の「棟梁」となった。当時の史料には、一揆の中心的人物は「四郎」で天から降ってきた「天人」と記されている。四郎一味はキリストの再臨の理論をてだてに、きびしい弾圧で棄教していた島原、天草の元キリシタンに信仰を復活させ、一揆蜂起を誘導した。首領とされた四郎については、美形であり、才気煥発、医術の心得があり、教義にくわしいという人物像が伝えられている。そしていろいろな奇蹟を行なったとされる。たとえば、空から舞いおりた鳩が四郎のてのひらの上で卵を生んだが、四郎はそれを割って中からキリシタンの経文をとりだしてみせたという話は有名である。結局、四郎は一味から神的な権威にまつりあげられたとみるべきであろう。特に籠城後は一揆軍の宗教的、精神的結束の象徴としての役割を果たした。寛永十五年(一六三八)二月二十八日幕軍の総攻撃により四郎は細川軍の手の者に討ち取られ、首は長崎でさらされた。→島原の乱(しまばらのらん)
[参考文献]
『細川家記』、『熊本県史料』近世篇二・三、岡田章雄『天草時貞』(『人物叢書』五一)、海老沢有道『天草四郎』、林銑吉編『島原半島史』中、煎本増夫『島原の乱』(『歴史新書』一〇一)
(煎本 増夫)


日本大百科全書(ニッポニカ)
天草四郎
あまくさしろう
[1623/1624―1638]

島原・天草一揆(いっき)で一揆側の首領とされた少年。父の姓から益田四郎(ますだしろう)、居住地にちなんで江辺四郎(えべしろう)、大矢野四郎(おおやのしろう)、一揆の首領としては天草四郎太夫時貞(ときさだ)、天の四郎秀綱、洗礼名はジェロニモといわれるが、経歴を含めて正確なことはほとんど不明である。父益田甚兵衛好次(ますだじんべえよしつぐ)(?―1638)は、天草大矢野の産で、領主小西行長(こにしゆきなが)に仕えたが、関ヶ原の戦いで改易されたので宇土(うと)郡江辺村で帰農した牢人(ろうにん)。四郎は、姉が大矢野村の庄屋(しょうや)の弟に嫁いでいる事実と、江辺生まれの四郎が9歳で手習いを始め、以後学問のために長崎にもときどき赴いた、という一揆勃発(ぼっぱつ)後江辺で捕らえられた母親などの申立てからすれば、かなり恵まれた境遇のなかで、当時の農村少年としては抜群の教養を身につけていたと思われる。
寛永(かんえい)(1624~1644)中期の島原・天草地方は、重税と相次ぐ凶作のため飢餓的状態にあったが、年貢減免などの世俗的要求でも、かつてキリシタン勢力の一大中心地であったため、ことさら信仰による抵抗として、弾圧とさらなる収奪が正当化されたところに「苛政(かせい)」の特質があった。一揆を指導した庄屋層や牢人たちは、広範な農民を生死を顧みぬ一揆に組織し、結束を維持する手段として15、16歳の四郎を天より下った救世主に仕立て、さまざまな奇跡を演出した。四郎の名は一揆勃発の時点から中心人物として領主側に把握されているが、実際に軍事上の指揮をしたとは考えにくい。彼の原(はら)城入城は1637年(寛永14)12月3日といわれるが、翌1638年2月27、28日の総攻撃で全員虐殺されるまでの約4か月、四郎を中心に籠城(ろうじょう)した2万人を上回る老幼男女は、10余万の幕府諸大名軍を相手に、いわゆる四郎の旗にみられる信仰による結束を崩さなかった。首領としての非凡な資質は否定できないであろう。多くの首のなかから熊本藩士陣野佐衛門がとった首が四郎のものとされ、長崎に送られて晒(さら)された。
[中村 質]2018年3月19日



世界大百科事典
益田時貞
ますだときさだ
1623?-38(元和9?-寛永15)

江戸初期,島原の乱の首領とされる少年。居住地から江辺四郎,大矢野四郎,一揆の首領として天草四郎太夫時貞,天の四郎秀綱などと呼ばれ,洗礼名はジェロニモといわれるが,正確な素性はほとんど不明である。父益田甚兵衛はかつて小西行長に仕えた帰農武士といわれ,捕らわれた母親の陳述では,時貞は9歳で手習いを始め,学問のために長崎へも行ったという。一揆の首謀者である一部の庄屋や牢人たちは,彼を農民結集の核として天より下った救世主に仕立て,さまざまな奇跡を演じさせた。島原藩側では蜂起当初より15~16歳の彼を一揆の中心人物とみているが,彼の原城入城は1637年(寛永14)12月3日といわれ,翌年2月27,28日の総攻撃によって全員虐殺されるまで,固い団結の象徴であった。しかしついに素顔をみせることなく,彼の首と目されるものが母親らのそれとともに長崎に送られて晒(さら)された。
[中村 質]

[索引語]
島原の乱 天草四郎 益田甚兵衛
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7. あまくさしろう【天草四郎】
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日本歴史地名大系
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16. 大矢野
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18. 甲子夜話続篇 7 53ページ
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19. かつだ-てつ【勝田哲】
日本人名大辞典
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20. 上天草(市)画像
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21. 上天草[市]
世界大百科事典
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22. からつはん【唐津藩】
国史大辞典
換した。寛永十四年(一六三七)キリシタンが天草島で島原半島と呼応して起り、この島原の乱ののち天草四郎が領内の出身であるというので寺沢堅高は天草領を失い、正保四年 ...
23. き【機】
日本国語大辞典
じとの眼(まなこ)ざしに機(キ)をうしなひ、私は伴葉右衛門下人なるが、旦那先に迯侍ると申」*天草四郎〔1914〕〈木下杢太郎〉下・三「機を見てあはよく此城を立退 ...
24. キリエ‐エレイソン
日本国語大辞典
〔感動〕({ギリシア}Kyrie eleison )キリスト教で、祈りの時の言葉。「主よ、あわれみ給え」の意。*天草四郎〔1914〕〈木下杢太郎〉上・三「きりえ ...
25. キリシタンいぶつ【吉利支丹遺物】画像
国史大辞典
代表的遺物に大浦天主堂蔵および東家発見の「聖母マリア十五玄義図」、「聖サビエル画像」(神戸市立南蛮美術館蔵)、天草四郎の旗と称される伝山田右衛門作筆「聖体讃仰天 ...
26. キリシタン関係主要人名
日本大百科全書
天草四郎(あまくさしろう) (1623/1624―1638) 島原の乱の首将。洗礼名ジェロニモ。小西行長(ゆきなが)遺臣益田甚兵衛好次(よしつぐ)の子。1637 ...
27. キリシタン禁教令[宗教]
イミダス 2018
島原・天草の圧政に苦しんだ農民や武士たちが、キリシタンとともに一揆を起こして武装蜂起した。益田四郎時貞(天草四郎)を大将とする、島原の乱(島原・天草一揆)である ...
28. 切支丹(吉利支丹)物
世界大百科事典
題材とした作品がある。小池 章太郎 天草軍記物 天草四郎島原物語 傾城(けいせい)島原蛙合戦 天竺徳兵衛郷鏡 木下杢太郎 南蛮寺門前 絵踏(えぶみ)長崎殉教奇談 ...
29. きりしたんもの【切支丹(吉利支丹)物】
歌舞伎事典
人形浄瑠璃・歌舞伎ではまともにこれを取り扱うことが許されず、わずかに〈天草軍記物〉として、古浄瑠璃の《天草四郎島原物語》(寛文六年刊)や《傾城島原蛙合戦》(近松 ...
30. ぎょく‐やく【玉薬】
日本国語大辞典
、此頃打出さぬは、やがて総攻にならん其時に用ゐて、御勢を多く損ぜん為のたばかりにて候なり」*天草四郎〔1914〕〈木下杢太郎〉下・一「久しく身方の鉄砲の音を聞か ...
31. こと を 起(お)こす
日本国語大辞典
反乱などを起こす。*宇治拾遺物語〔1221頃〕三・一「事をおこしたらん人こそはまづいらめ」*天草四郎〔1914〕〈木下杢太郎〉上・四場「今宵はいよいよ事を起す儀 ...
32. こめ‐ざくら【米桜】
日本国語大辞典
米桜」*俳諧・独吟一日千句〔1675〕第九「米桜実は鉢の実は煙にて 峯吹おろす宿の窓ふた」*天草四郎〔1914〕〈木下杢太郎〉上・一場「名主の家の米桜が時ならぬ ...
33. 碁太平記白石噺(浄瑠璃集) 491ページ
日本古典文学全集
を中心とする一揆(一六三七~三八)島原の乱を題材とする江戸期の芝居等では、首領益田四郎時貞(天草四郎)を七草四郎として扱う。島原・天草の一揆を徳川幕府に対する反 ...
34. さいがんじ【西岸寺】熊本県:熊本市/熊本城下/西岸寺町
日本歴史地名大系
当寺の建物は西南戦争も第二次世界大戦の大空襲もまぬがれたので、藩政時代のものと思われる。墓地には島原の乱で天草四郎の首を獲った陣佐左衛門の墓があったが、昭和二二 ...
35. さかせがわむら【坂瀬川村】熊本県:天草郡/苓北町
日本歴史地名大系
隠したとの伝説が残る。二度にわたる富岡城攻撃に失敗した天草四郎は当村から島原半島の原城(現長崎県南高来郡南有馬町)へ退却したといわれ、「天草四郎乗船之地」と書か ...
36. 島原・天草一揆画像
日本大百科全書
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37. しまばら の 乱(らん)
日本国語大辞典
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38. 島原の乱
世界大百科事典
江戸初期の1637-38年(寛永14-15)に肥前島原藩と同国唐津藩の飛地肥後天草の農民が,益田時貞(天草四郎)を首領に,キリシタン信仰を旗印としておこした百姓 ...
39. しも【下】
日本国語大辞典
あるいは諸国」*浄瑠璃・夏祭浪花鑑〔1745〕八「何と気休めにいっそ俺と連立て下(シモ)へ行きゃらぬか」*天草四郎〔1914〕〈木下杢太郎〉上・一場「我等がこの ...
40. 白縫譚
日本大百科全書
)の妖術を授かった大友家の息女若菜姫は、男装して白縫大尽(だいじん)と名のり、志を同じくする天草四郎と仇敵(きゅうてき)菊地をうかがう。初め菊地の忠臣鳥山豊後之 ...
41. 四郎兵衛[文献目録]
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42. ジェロニモ
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43. 随筆 明治文学 2 文学篇・人物篇 71ページ
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47. 想古録 2 近世人物逸話集 304ページ
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四九一安部井清記 七九、一〇垂、=一七阿部侯 …四、三六五、茜三、九九七阿部正弘(伊勢守) 八七七、δ九〇天草四郎 五〇一、六八七、九エハ阿万直四郎 四八五新井 ...
48. ぞく‐しょう[‥シャウ]【賊将】
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49. 談合島
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熊本県中西部、上天草市(かみあまくさし)に属する小島、湯島の俗称。天草・島原の乱のおり、首領の天草四郎時貞(ときさだ)らがひそかにこの地で談合した、との言い伝え ...
50. て‐なず・ける[‥なづける]【手懐】
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*坊っちゃん〔1906〕〈夏目漱石〉七「とうとうあなた、御嬢さんを手馴付けてお仕舞ひたのぢゃがなもし」*天草四郎〔1914〕〈木下杢太郎〉上・三場「犬猫に飯の残 ...
「益田時貞(天草四郎)」の情報だけではなく、「益田時貞(天草四郎)」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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