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  11. 伊達政宗

伊達政宗

ジャパンナレッジで閲覧できる『伊達政宗』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
伊達政宗
だてまさむね

(一)

一三五三 - 一四〇五
室町時代の武将。本領は陸奥国伊達郡。兵部権少輔・大膳大夫、五位下。入道して円孝と号す。文和二年(一三五三)誕生。父は伊達宗遠。夫人は石清水善法寺通清の娘(蘭庭尼)で、足利義満の母紀子と姉妹。永和三年(一三七七)宮城郡の余目(あまるめ)三河守と一揆契約を結んで勢力拡大を図り、応永六年(一三九九)―七年および同九年には鎌倉公方の軍と戦った。伊達宗遠の侵食した出羽国置賜郡長井荘を掌握し、また亘理・黒川・宇多・名取・宮城・深谷・松山など宮城県中部に及ぶ郡荘に支配の手を伸ばした。伊達氏中興の主とされ、仙台藩祖伊達政宗の名は彼の名を襲ったものである。応永十二年九月十四日死去。五十三歳。法名は儀山円孝東光寺殿。和歌をよくし山家霧・山家雪などの詠歌を遺した。その訃に接した足利義持は、「もののふの跡こそあらめ敷島のみちこそたへむことそ悲しき」など二首に紺紙金泥の『法華経』を添えて追悼したと伝える。菩提寺は刈田郡湯原村(七ケ宿町)の東光寺、墓は山形県東置賜郡高畠町竹森字野手倉と同町夏茂字夏刈にある。
[参考文献]
『大日本史料』七ノ八 応永十三年七月三十日条、『余目氏旧記』

(二)

一五六七 - 一六三六
安土桃山・江戸時代初期の武将。出羽国米沢城主・陸奥国岩出山城主・仙台城主。永禄十年(一五六七)八月三日、伊達輝宗の長男として米沢城に誕生。母は山形城主最上義守の娘、義姫(保春院)。幼名は梵天丸。天正五年(一五七七)元服、藤次郎政宗と称する。その実名は伊達家中興の主とされる大膳大夫政宗のそれを襲名したものである。同七年、三春城主田村清顕の娘、愛(めご)姫(陽徳院)と結婚。同十二年十月、家督を相続した。翌十三年従五位下美作守に叙任、同十九年侍従兼越前守、羽柴姓を許される。慶長二年(一五九七)従四位下右近衛権少将、同十三年陸奥守となり松平姓を許され、元和元年(一六一五)正四位下参議、寛永三年(一六二六)従三位権中納言に進んだ。天正十三年、大内定綱を追って塩松(東安達、福島県安達郡岩代町)を入手したが、畠山義継に不慮にして拉致された父輝宗を義継もろともに伊達軍の銃撃で射殺する結果となった。同年安達郡本宮観音堂人取橋合戦で佐竹・蘆名らの連合軍と戦ったのち、翌十四年畠山氏を滅亡させ二本松領(西安達、同県二本松市)を収めた。天正十六年安積郡の郡山をめぐって佐竹義重・義宣、蘆名義広以下の連合軍と交戦、のち相馬勢力を抑えて三春田村領を掌握した。翌十七年相馬領北境を攻め、馬を帰して会津磐梯山麓の摺上原(すりあげがはら、磨上原)に蘆名義広の軍を破り、会津蘆名氏を滅亡させ、さらに岩瀬二階堂氏を攻滅し、これと前後して白川義親・石川昭光を服属させた。天正十八年会津黒川城で行われた伊達家佳例の七種連歌に「七種を一葉によせてつむ根芹」と発句して、仙道七郡(福島中通りの諸郡)を手に入れた得意を表現した。この時点における伊達領国は、当時本領といわれた伊達・信夫・長井(置賜)のほか、会津・岩瀬・安積・田村・安達・宇多・亘理・伊具・刈田・柴田・名取・宮城・黒川の諸郡および志田郡の一部に及び、さらに軍事指揮下に入った白川・石川・大崎・葛西諸氏の領土を加えれば、浜通りを除く福島県と宮城県および岩手県南にわたる広大な勢力圏を構成した。この年、小田原に参陣して豊臣秀吉に臣従し、天正十五年の関東奥両国惣無事令以後に攻め取った会津・岩瀬・安積の諸郡を没収された。天正十八、九年に起きた大崎・葛西一揆には会津城主蒲生氏郷とともに鎮圧にあたったが、この間における氏郷との駆引き、あるいは政宗の一揆煽動の疑いなどは、周知のところである。一揆鎮定後、天正十九年伊達・信夫・長井・安達・田村・刈田を没収され、大崎・葛西旧領すなわち志田・遠田・栗原・玉造・加美・牡鹿・桃生・登米・本吉・磐井・気仙・胆沢・江刺の諸郡を与えられ、米沢から玉造郡岩出山に移った。秀吉の死後まもなく、長女五郎八(いろは)と徳川家康の子忠輝との婚約により家康に接近し、慶長五年の関ヶ原の戦には徳川方として上杉景勝の軍を白石城などに攻めた。関ヶ原決戦の直前、家康から刈田・伊達・信夫・長井その他合計四十九万余石を約束する判物を与えられたが、この合戦のさなかに南部領で起きた和賀一揆を援助したために、結果は刈田郡のみを与えられたにとどまった。同じころ慶長六年近江国に五千石を安堵され、のち慶長十一年常陸国に一万石、さらに寛永十一年(一六三四)近江国に五千石を給されて伊達六十二万石を確定させた。慶長六年、仙台城および仙台城下の建設を開始し、同年四月仙台城に移り、また岩出山から仙台に士民を引移した。以後、約十年間に城と城下町の建設を進め、慶長九年松島五大堂、同十二年塩竈神社、大崎八幡神社、国分寺薬師堂、同十四年松島瑞巌寺をそれぞれ造営した。同じころ、奥羽の旧戦国大名・国人を召抱え、従来の家臣と合わせて膨大な家臣団を擁し、これを一門・一家・準一家・一族以下の班に編制した。大身家臣が多数の陪臣を抱えつつ知行地の城館に居住し、番ごとに仙台に参勤居住するという、仙台藩特有の制度もこのころに定まったとみられる。藩建設の事業が一段落を迎えた慶長十八年、ソテロのキリシタン布教活動に連携して南蛮との通商を企図し、幕府の支持のもとに支倉六右衛門(常長)をメキシコ・スペイン・ローマに派遣したが、幕府のキリシタン禁教が強化されたこともあって所期の目的を達せず、元和六年の支倉帰国となった。この間、慶長十九年、大坂冬の陣和議からまもなく、庶長子秀宗が宇和島十万石に封じられている。支倉帰還後、領内のキリシタン弾圧を強行し、他方領内の産業振興に意を注ぎ、桑・漆の植栽を勧め、新田開発を一層推進した。元和九年から寛永三年にかけて行われた北上・迫(はさま)・江合の三河川の合流および北上川の石巻流出の工事は、北上川舟運の確立と江戸廻米の交通条件を整備し、あわせて旧大崎・葛西領を仙台藩の米作穀倉地帯に造成するための治水・灌漑の条件を整備した。寛永五年仙台城下南東郊の若林に屋敷を構え、花鳥風月を友とし狩と漁を楽しむ生活を送りながら江戸参勤と国政執行を続けた。父輝宗は遠藤基信を宰臣としたが、基信が輝宗に殉死した後を受けた政宗は、はじめは片倉景綱と伊達成実を重用しながらも一門親類衆との談合(合議)によって政事を運営した。慶長以後は石母田宗頼・茂庭綱元らを奉行に取り立てこれを用いて独裁的な政事を行なった。他方、膨大な家臣団とくに万石クラスの大身家臣の存在は、藩財政を当初から苦しめ、政宗死後は一門大身層に対する藩主権力の確立が大きな課題となった。彼は、優れた武将である半面、特に和歌をよくし古典を愛し、茶道・能楽に長じ、能書家でもあった。豪華を好み、人の意表に出ることが多く、数々の伝説をのこしている。幼少のころ右眼を失明し、長じては「独眼竜」と畏敬されたが、自身は話が独眼にふれることを嫌い、また死後に作る肖像には両眼を備えよと遺言したという。曾祖父稙宗が陸奥国守護、祖父晴宗が奥州探題に補任され、父輝宗も奥州探題を自任したという、奥州探題家伊達の由緒は、政宗の意識と行動を生涯支配したとみられる。蘆名攻滅などについての豊臣秀吉の詰問に対しても、父の仇討とあわせて奥州探題家の由緒による正当性を主張した。陸奥国府と国分寺に近い仙台の地に居城を選び、国分寺薬師堂・大崎八幡神社・奥州一宮塩竈神社・松島五大堂および瑞巌寺など陸奥一国の歴史に関わる古社寺を再興造営したこと、奥羽の戦国大名・国人を召抱えたことなど、いずれも彼の「奥州王家伊達」という抱負に基づくものといえる。寛永十三年五月二十四日、江戸桜田邸で死去。七十歳。法名は瑞巌寺貞山禅利。墓は仙台瑞鳳寺瑞鳳殿にある。昭和四十九年(一九七四)瑞鳳殿(戦災焼失)の再建工事の際に行われた調査によれば、身長は一五九・四センチで同時代の日本人の平均を示し、面長で鼻すじの通った貴族的な容貌をうかがわせ、手足は骨太であった。
[参考文献]
『伊達治家記録』、『政宗公御名語集』(『仙台叢書』一)、小林清治『伊達政宗』(『人物叢書』二八)
(小林 清治)


世界大百科事典
伊達政宗
だてまさむね
1567-1636(永禄10-寛永13)

戦国末期から江戸初期の大名。米沢城主,のち仙台城主。仙台藩祖。米沢城主伊達輝宗の子。母は山形城主最上義守の娘。幼名梵天丸。1577年(天正5)元服,伊達中興の祖大膳大夫政宗の名を襲い藤次郎政宗と称する。79年三春城主田村清顕の娘愛(めご)姫(陽徳院)と結婚,84年家督相続。翌年父輝宗が二本松義継のために不慮の死をとげたのち積極的に領土拡張に乗り出し,86年安達郡を入手,88年田村家中を掌握し,89年蘆名義広を磨上原(すりあげがはら)の戦に大敗させて会津地方を収めた。同年須賀川城主二階堂氏を滅ぼし,石川昭光,白川義親らを服属させて,浜通りを除く現在の福島県,山形県置賜(おきたま)郡,宮城県および岩手県南部にわたる広大な勢力圏を築きあげた。90年小田原に参陣,豊臣秀吉から会津,岩瀬,安積(あさか)を没収され,田村,安達,伊達,信夫(しのぶ),刈田,柴田,伊具,亘理(わたり),名取,宮城,黒川,宇多,置賜の諸郡を安堵された。葛西・大崎一揆後の91年,伊達,信夫,安達,田村,刈田,置賜を没収され,大崎・葛西旧領の諸郡(江刺,胆沢以下13郡)を与えられ,米沢から玉造郡岩出山に移った。秀吉の死後まもなく長女五郎八(いろは)と家康の子忠輝の婚約により徳川氏に接近,関ヶ原の戦に上杉方の白石城を攻めた功により刈田郡を与えられた。のちに給される近江,常陸の2万石を含む伊達62万石の大勢がここに定まった。

1601年(慶長6)仙台城と城下の建設に着手,岩出山から士民を引き移した。07年塩竈神社,大崎八幡神社,国分寺薬師堂,09年には松島瑞巌寺を造営し,また26年(寛永3)北上,迫(はざま),江合(えあい)の3川の合流と北上川の石巻流出の工事を完成させて,仙台藩の米作と江戸廻米の基礎をすえた。他方,南蛮との通商を企図し,幕府の支持のもとに支倉常長(はせくらつねなが)をメキシコ,スペイン,ローマに派遣したが,幕府のキリシタン禁教が強化されたため目的を達しなかった(1620年帰国)。1585年従五位下美作守,91年侍従兼越前守,羽柴姓,97年従四位下右近衛権少将,1608年陸奥守,松平姓,15年正四位下参議,26年従三位権中納言と累進した。28年仙台城下東南郊の若林に屋敷を構え,花鳥風月を友とし,狩りと漁を楽しむ事実上の隠棲生活に入りながらも江戸参勤を行い,政治をみた。36年5月24日江戸桜田屋敷で死去。瑞巌寺殿貞山禅利大居士。仙台瑞鳳殿(ずいほうでん)に葬る。和歌,茶道,能楽に長じ,書をよくし,豪華を好み,人の意表に出ることが多かった。幼少のころ右眼を失明し,長じては〈独眼竜〉と畏敬されたが,死後造る肖像には両眼をそなえよと遺言したという。1974年瑞鳳殿(戦災で焼失)の再建工事に際して行われた調査によれば身長159.4cm,同時代の日本人の平均を示し,面長で鼻すじの通った貴族的な容貌をうかがわせ,手足は骨太であった。〈独眼〉の証跡は認められなかったが,それは疱瘡(天然痘)の毒が入って失明したという伝えの裏づけとなった。
[小林 清治]

[索引語]
仙台藩 伊達輝宗 磨上原(すりあげがはら)の戦 瑞鳳殿 独眼竜
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一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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