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上杉謙信

ジャパンナレッジで閲覧できる『上杉謙信』の国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典のサンプルページ

国史大辞典
上杉謙信
うえすぎけんしん
一五三〇 - 七八
戦国時代の武将、越後国の大名。享禄三年(一五三〇)正月二十一日、越後守護代長尾為景の末子として生まれた。生年の庚寅(かのえとら)にちなんで童名を虎千代といい、元服して平三景虎と称す。天文五年(一五三六)長尾為景は、上田(新潟県南魚沼郡塩沢町)の長尾房長や揚北(あがきた)衆、上条(じょうじょう)定憲や宇佐美・柿崎氏らに攻められ窮地に立ち、八月守護代職を嫡子晴景に譲り、十二月に死没。その葬儀のときには府中(新潟県上越市)の膝もとまで敵軍が迫り、虎千代までが甲冑に身を固めて葬列に加わる有様であった。ここで虎千代は長尾家の菩提寺である春日山(上越市)の林泉寺の天室光育に預けられた。晴景は朝廷から「私敵治罰」の綸旨を下されたが、翌六年揚北衆と和し、姉(仙洞院)を房長の長子政景におくって上田長尾氏と結び、上杉定実を守護の座に復活させた。しかし定実が伊達稙宗の三男時宗丸(実元)を養子に迎えようとするとこれに反対し、ために越後は再び乱れ、さらに黒田秀忠も叛いた。景虎はすでに同十二年叛乱鎮圧のために中越地方に乗り出し、栃尾城(新潟県栃尾市)にあったが、栖吉(すよし)長尾家に援護されて中越を平定し、十五年黒田一党をことごとく自害させた。このため景虎の武名はあがったが、晴景や政景と対立。守護の上杉定実の斡旋により、十七年十二月晦日、景虎が兄晴景のあとをつぐという形で春日山城に入った。政景は上田の坂戸城によって、景虎方の栖吉(新潟県長岡市)や栃尾と抗争していたが、景虎は翌十八年関東管領上杉憲政を援けることにし、宇佐美定満・平子(たいらご)房長を味方にひきいれ、翌十九年二月定実が没し越後の実権を握ると、上田討伐を決意し、二十年八月ついに長尾政景父子を屈服させた。ついで二十二年四月および八月、北信濃に迫った武田信玄を迎えて信濃国川中島(長野市川中島辺)に出兵、関東と信濃との二正面作戦を展開する。また、この年上洛して後奈良天皇から隣国の敵討伐の勅命を蒙り、幕府や本願寺、さらに越前の朝倉氏と好を通じ、徹岫宗丸に参禅して宗心という法名を与えられ、十二月帰国した。弘治元年(一五五五)、北条(きたじょう)高広が信玄に応じて挙兵したため甲・越の対立は決定的となり、七月景虎は川中島に出陣、対陣五ヵ月に及んで、今川義元の斡旋により両軍とも兵を引いたが、この滞陣中に越後国侍の士気は弛緩し、内紛は激化した。もともとかれらは景虎の家臣ではなく、それぞれが館と城をもち、一族・被官を従える小領主で、小国衆・上田衆・栖吉衆・与板衆などのように組織されつつ、内部的には矛盾や対立をはらんでいた。国主の役割はかれらの地位を安堵し、矛盾を緩和し、給恩を与えて忠誠を期待することであるが、空しく撤退した景虎は、裁定者・統率者としての権威を失墜した。やがて景虎に近い上野家成と上田衆の下平修理との抗争で、公銭方(財務機関)の大熊朝秀が下平を支持し、老臣本庄実乃がこれに対立し、執政府の分裂を見ることになった。ここで景虎は突如隠退を決意し、二十七歳の若さで出家するため比叡山に向かったが、長尾政景が家臣群を代表して帰国を要請すると、景虎は国人たちに誓紙と人質を出すという条件を認めさせて、家臣統制を強化することができた。一方、大熊朝秀は武田信玄のもとに走り、信玄は弘治三年信濃の葛山城を抜き、飯山城(長野県飯山市)に迫ったので、景虎は四月出陣して善光寺に布陣したが、決戦に至らず九月帰国。この年相模の北条氏康に追いつめられた上杉憲政が越後に亡命し、景虎に上杉家の家督と関東管領職・系譜・重宝を伝えようとした。景虎は永禄二年(一五五九)上洛して将軍の許諾を得、十月二十八日祝宴を開き、憲政のためには、「御館(おたて)」を造営した(ここは現在の国道一八号線と北陸本線の交差するところで、明製の青磁・白磁・天目・染付や古銭・古瀬戸・古越前・珠洲焼・燈明皿・硯・櫛や朱塗りの大盃の破片が出土している)。かくして同三年九月、景虎は憲政とともに大軍を率いて関東に入り、翌四年三月小田原城を攻撃した。しかし、この年長尾家領の藪神・妻有・上田の三荘に徳政令を発し、また前年の出陣直前に越府での諸役・地子を五年間免除するという政令を出していることからも知られるように、景虎の遠征を支える領国の基盤はなお弱く、関東諸将の軍勢に依存しなければならなかった。ために小田原城攻囲軍は四月九日ごろからくずれ始め、景虎は鎌倉に退いて鶴岡八幡宮に参詣し、管領職襲職を明らかにして名を上杉政虎と改め、足利藤氏を関東公方に立てた。しかし北条氏康の反攻によって鎌倉を放棄し、上野国廐橋(前橋市)にひきあげ、ついで六月二十八日越府に帰着した。武田信玄の部将高坂昌信が、川中島を見おろす位置に海津城を築いていたからである。政虎は関東に対しては佐竹義昭と結んで北条氏をおさえ、会津の蘆名盛氏、出羽庄内の大宝寺義増の援軍を依頼して西頸城に布陣せしめることとし、府中の留守は長尾政景・蔵田五郎左衛門に委ね、北陸方面は越中へは斎藤朝信・山本寺(さんぽうじ)定長を派遣して一向一揆をおさえ、越中出陣という名目で八月十四日川中島へ出発した。越後勢の構成は、先手は信濃衆、次に外様国衆であり、政虎の本隊は譜代と一門で編成されていた。両軍は九月十日八幡原で決戦したが、越後軍は犀川を越えて善光寺に退却、ついで帰国した。やがて北条氏康が反攻に転じ、信玄も碓氷峠を越えて上野に出兵、成田・佐野・小山・小田などの上杉方の諸将も相ついで北条方についた。政虎は将軍足利義輝の偏諱を得て永禄五年初頭から輝虎と称していたが、こののち連年三国峠や田口・関山の豪雪を踏んで関東-越後-信濃の間を転戦往来せねばならなかった。同七年春、信玄は野尻島城を陥れて越後に侵入、蘆名盛氏の会津軍も菅名荘(新潟県中蒲原郡村松町)へ侵入した。十一年には越後の本庄繁長、越中の椎名康胤、出羽の伊達輝宗、常陸の佐竹義重らも信玄と結ぶなどの動きがあったが、信玄が今川氏真を攻めたため、上杉と北条は接近し、翌十二年に越相同盟が成立、翌元亀元年(一五七〇)氏康の子三郎氏秀が輝虎の養子に送られた。輝虎はこれに景虎の名を与え、長尾政景の女(景勝の妹)を妻として与えた。翌二年になると北条と武田は和を復し、信玄は越中の一向一揆に輝虎を牽制させつつ、同三年西上の軍を起した。このため輝虎は織田信長と同盟し、越中富山城を攻略、天正元年(一五七三)信玄が病死すると、急速に越中を平定する。翌二年十二月剃髪、法印大和尚に任ぜられ謙信と称するが、同四年信長と断交して本願寺と結び、能登に進んで翌五年九月十五日七尾城(石川県七尾市)を手に入れ、加賀の湊川(手取川)で織田軍を撃破した。さらに関東平定を実現せんとし、六年正月陣触れを行い、三月十五日を進発の日と定めたが、十三日の午後脳溢血で永眠した。年四十九。不識院殿真光謙信と法諡す。かれは身長六尺に近く、目つきの鋭い偉丈夫であったが、和歌に巧みで、甥の景勝に習字の手本を書いて与えるなど、人情味のある武将でもあった。ただし「霜満〓軍営〓秋気清(下略)」の詩は生涯で唯一の漢詩で、彼の作かどうか疑問とされている。なお、越後には室町時代以来三条西家を本所とする青苧座があり、守護上杉氏の雑掌神余(かまり)氏が常に在京して同家や京師の動向を本国に送っていたが、このようなつながりは謙信の時代にもある程度受け継がれていたと思われる。→上杉氏(うえすぎし),→上杉憲政(うえすぎのりまさ),→川中島の戦(かわなかじまのたたかい),→武田信玄(たけだしんげん),→長尾氏(ながおし),→北条氏康(ほうじょううじやす)
[参考文献]
高橋義彦編『越佐史料』三-五、布施秀治『上杉謙信伝』、井上鋭夫『上杉謙信』、同『謙信と信玄』(『日本歴史新書』)
(井上 鋭夫)


世界大百科事典
上杉謙信
うえすぎけんしん
1530-78(享禄3-天正6)

越後国の戦国大名,関東管領。父は守護代長尾為景。幼名虎千代,元服後は平三景虎。1543年(天文12)父為景の死後,古志郡栃尾城に移り,48年末兄晴景に代わって越後守護代,事実上の国主の座につく。当初,一族長尾政景と抗争したがこれと和し,越後統治の障害を除いた。52年弾正少弼に任じられ,翌年春上洛,このころ入道して宗心と称した。武田信玄に追われた北信濃の村上,高梨氏らから救援要請をうけると,信濃川中島に出兵した。武田信玄との対陣は以後5回におよぶが,川中島の戦として有名なのは,4回目のもので,このときだけ両軍の衝突がおこった。信濃出兵は,概して信玄の老練な外交戦にふりまわされ,所期の成果をあげることなく終わり,北信深く武田氏の進出を許す結果となった。また,後北条氏の圧迫によって52年関東管領上杉憲政が越後に逃れて来ると,その後は関東方面にも兵を送らねばならなくなった。61年,関東越後の軍兵をひきいて長駆小田原に北条氏康を攻囲したが,事態の変化のないまま囲みをといて鎌倉にひき返し,鶴岡八幡宮で憲政から譲られた上杉姓と関東管領職をつぎ,名を上杉政虎と改めた。帰国後に前述の第4次川中島合戦を戦い,年末には再び関東に出て北条氏康と戦って越年したが,このころから室町将軍足利義輝の偏諱(へんき)をうけて輝虎と称する。これ以後は連年関東に出て後北条,武田両氏とせめぎあいを続けるが,関東管領の威令を示しえないまま後北条氏勢力の拡大を許す結果となった。68年(永禄11)越後村上の本庄繁長が武田信玄に誘われて籠城,翌年下すが,この間に信玄の攻撃をうけた北条氏康の要請をいれて,70年には越相同盟を結んだ。このころから謙信を称するようになる。越相同盟は氏康の死によって2年後には破れてしまった。この時期から,越中への出陣が多くなり,信玄と結ぶ一向一揆と戦うが,73年(天正1)信玄の死により戦局を打開し,越中から能登に進んで七尾城を落とし,織田信長と北陸で接するようになるが,77年には織田軍を加賀で打ち破った。数年ぶりの関東出陣を目前にした78年,謙信は春日山城内で急死した。越後国内は養子景勝,景虎の2人の間に御館(おたて)の乱とよばれる跡目争いの戦乱がくりひろげられ,謙信の領国は一時的に崩壊することになる。

謙信の領国統治をみると,前代の統治方式,すなわち幕府・関東管領・守護体制の枠内にとどまるもので,他の戦国大名のように分国法制定や領内検地という独自の政策を実施していない。家臣団の編制の面では,知行給与と一定の軍役徴収は晩年になるまでみられず,知行安堵・新恩給与の事例がほとんどなかった。越後では,家臣=国人の独立性が強かったこともあるが,春日山城中での席次序列や,名字付与のような家礼上の厚遇,親疎関係をのぞけば,家臣団編制,統制上の特徴はみられなかった。このことは,連年の戦陣における謙信の動員した軍事力にも影響し,動員軍は,一門と旗本衆のほか謙信擁立地域の古志・蒲原郡を中心とした兵農未分離の半農兵を用い,国人層の動員は必ずしも多くなかった。領国化した地域の統治も,晩年の越中や能登では旗本衆の在番支配をうち出すが,それまでは従来の領主支配をそのまま承認したから,謙信の撤退後は旧に復してしまう例が多かった。総じて,上洛,関東管領就任にみられるように,幕府体制に依存する姿勢が強かったとみられる。信仰の面では,早く出家し禅宗への接近もみられたが,むしろ,武田晴信打倒祈願の願文や毘沙門天信仰にみられるように現世利益的傾向も強かった。
[阿部 洋輔]

[索引語]
上杉政虎 越相同盟 長尾景虎


新版 日本架空伝承人名事典

上杉謙信
うえすぎけんしん
1530‐78(享禄3‐天正6)
 戦国時代の武将。一五三〇年一月に越後国の春日山城で生れた。守護代長尾為景の次男。幼名を虎千代といい、元服して長尾景虎となる。六一年(永禄四)関東管領となり上杉政虎、さらに上杉輝虎と改名、七〇年(元亀一)上杉謙信となる。七歳の時に父が没し、春日山城内にある林泉寺の天室光育のもとに預けられた。足利将軍家は、越後・佐渡を治めるために上杉氏を守護職、長尾氏を守護代としていた。しかし、両氏の間は必ずしも円満ではなかった。父為景の死後、兄晴景が長尾家を相続する。しかし、病弱だった晴景に反して、謙信は幼少時より抜群の素質をみせていた。やがて春日山城の晴景と栃尾城の謙信との間に争いが起きるが、結局多くの者に擁立された謙信が晴景を退け、一五四八年(天文一七)に家督を継ぎ春日山城に入った。謙信が長尾家を継いだのが一七歳、その二年後に国主となった。
 謙信と武田信玄が雌雄を決した川中島の合戦は五回行われた。五三年、五五年(弘治一)、五七年、六一年九月、六四年八月である。前後十二年にわたるこの戦いは、いずれも夏の季節に行われているが、これは北国特有の自然条件の故であろう。最大の合戦は、第四次となる六一年九月一〇日の戦いであった。謙信一万三千、信玄一万七千の軍勢が、犀川と千曲川が合流するデルタ地帯で白兵戦を展開した。互いに戦術を駆使した戦国時代でもまれな激戦で、午前は上杉方、午後は武田方が優勢であったといわれている。この戦いで、武田方は武田信繁・山本勘介(勘助)ら名立たる武将が討死している。なお、両者ともに関東進出の志向が強かったが、群雄割拠の状況がそれを許さなかった。
 六九年、信玄の駿河侵入を機に相模の北条氏との相越同盟がなり、七二年(元亀三)信玄は上洛の駒を進めたが、翌年信州伊那の駒場で陣没し、七八年(天正六)三月一三日に謙信もまた関東出陣を前にして、脳溢血で急逝した。六尺近い偉丈夫だったが、和歌をよくし、信仰心の厚い人物だった。六七年に信玄が今川氏真と手切れになった時、氏真と北条氏康が仕返しに塩の輸送を止めたことがあった。これを聞いた謙信は「信義にもとる」として、信玄に塩を送ったといわれる。こうしたエピソードで知られるように、謙信は清廉で道義に厚いという当時としては珍しい戦国武将で、正室も側室ももたなかったため実子もいなかった。そのため、小姓らとの男色説、また幼い頃の事故による不能説などの噂があるが、いずれも定かではない。なお、謙信は出陣に際して僧侶を伴い、守り本尊に仏像を奉載したという。このあたりに身を律して戦いに臨んだ謙信の真意があったのではないだろうか。
武田信玄
[田辺 貞夫]
是謙信実記に拠りてしるす所なり。川中嶋の戦異説多く、分明ならず。一説に、天文廿三年八月十八日、川中島にて戦あり。謙信旗本半町計敗北する処に、宇佐美駿河守定行横あひにかゝり、信玄の兵大に乱れ、御幣川へ追入られ討るゝ者多し。信玄は川の中に馬を立たる処に、謙信緑の曇子にて包たる肩衣にこてをさし、白き手ぬぐひをもて頭を包み、三尺計の刀を抽もち、虎のあれたる如くなる鹿毛の馬に打のり、「信玄はいづくに在や」と呼る。原大隅、「信玄何事に爰にあるべきや。うろたへ者よ」と罵り、鎗にて突けれ共つき外す。謙信川へ馬を乗こみ、信玄にかけよせ、三刀まで斬れしに、信玄持たる軍配団扇も切をられ、手負て既に危かりしに、原大隅・萩原弥右衛門鎗をとりのべ、たゝみかけて謙信をたゝきけるに、馬のさんづにあたり、馬川の深みに飛入ける。其間に信玄の馬副の者ども、信玄の馬を川岸に引あげて物わかれしたりとなり。
常山紀談巻之二「信濃国川中島合戦の事」
川中嶋ハしんけんの勝負なり
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):79‐1
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
大あづき団扇へあける川の中
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):58‐16
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
第一句、「真剣」と「信・謙」。第二句、「大あづき」は小豆あずきと名づける謙信の佩刀、信玄は太刀を抜く暇もなく、軍配団扇でこれを防いだ。
甲州ハ塩もぼさつの数に入り
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):松‐2
刊行/開き:1767年(明和4)(開き)
小田原の北条氏は甲斐へ塩を送ることを禁じたが、謙信はこれを聞き、信玄に書をもって「争う所は弓矢にあり、米塩に非ず」とし、「敵に塩を送」った。送られた甲州側は義心に感じ、米の異名を菩薩といって尊ぶが、塩も菩薩なみに扱われたであろう、と。前句「ほめられにけり〓〓」は謙信の士魂。
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「上一本宮」と称し、盛時には一里四方の境内地に僧宇一二〇坊を擁したが、天正年中(一五七三―九二)上杉謙信の能登攻略の際兵火にあって焼失したという。その後長連竜が ...
35. あかさわじょうあと【赤沢城跡】新潟県:中魚沼郡/津南町/赤沢村
日本歴史地名大系
市河氏らが大挙攻撃し、これを打破っている。この戦いは魚沼郡における南朝方没落の契機となった。上杉謙信の時代には、客将村上義清に預けられたと伝える。「中魚沼郡誌」 ...
36. あかさわむら【赤沢村】新潟県:中頸城郡/吉川町
日本歴史地名大系
永禄二年(一五五九)二月二三日「頸城郡夷守郷赤沢」のうち富田与三左衛門尉の七反三一束苅の公田に賦課された、上杉謙信上洛の費用を捻出するための段銭を、飯田与七郎が ...
37. あかぼりごう【赤堀郷】群馬県:佐波郡/赤堀町
日本歴史地名大系
る。戦国時代になると、東上野には小田原北条氏の勢力が伸びていくが、天正二年(一五七四)春には上杉謙信が関東に再び現れ、赤堀、善(現勢多郡粕川村)などを占領してい ...
38. あきばじんじゃ【秋葉神社】新潟県:栃尾市/向谷地
日本歴史地名大系
経て長岡の金峰神社付近に移転したが、般若院と供僧は同地にとどまったという。瑞麟寺の焼失後、長尾景虎(上杉謙信)は谷地に常安寺を建立。その後、般若院とその寺領を寄 ...
39. 秋山記行・夜職草 223ページ
東洋文庫
なりはひ二亡父牧水居士の業、祖父儀右衛門居士の悌鈴木家の家譜によれば、初代五郎左衛門国宗は上杉謙信に仕えた武将であった。四代助右衛門(慶安二年没、五十八歳)の代 ...
40. 秋山記行・夜職草 318ページ
東洋文庫
町に生まれた。幼名を弥太郎、成人して儀三治と改め、牧之と号した。 鈴木家の先祖は家譜によると上杉謙信の臣であったが、四代のとき土着して農を営んだという。また代々 ...
41. あきやまごう【秋山郷】新潟県:中魚沼郡/津南町
日本歴史地名大系
置く市河氏の領有下にあったが、その範囲が越後国に入っていたかは不明。なお秋山闔村縁由によると、高倉山で上杉謙信に鷹を献上したことにより、一〇〇石の免除を認められ ...
42. あきよしむら【秋吉村】石川県:珠洲郡/内浦町
日本歴史地名大系
宝永二年(一七〇五)の再興棟札には瀬津目神社とある。高野山真言宗の清水寺は医王山木郎寺の結衆寺院の一という。上杉謙信の軍勢に焼かれたと伝える。宝蓮坊の跡と称され ...
43. あさかいよりいじょうあと【浅貝寄居城跡】新潟県:南魚沼郡/湯沢町/浅貝村
日本歴史地名大系
芳綱・栗林政頼宛の上杉謙信書状(栗林文書)に「信玄出張延引候間、早々浅貝江上田衆召連打越、寄居取立尤候」とあり、寄居(城塞)の構築を命じている。この頃の五月二八 ...
44. 朝倉氏
世界大百科事典
紛鎮定のために出陣し,畿内近国における後期室町幕府体制の維持に活躍。戦国末期義景に至り,当初上杉謙信と提携し加賀一向一揆との抗争を繰り返す。後,織田信長の台頭を ...
45. 朝倉義景
世界大百科事典
はじめ孫次郎延景,52年,将軍足利義輝の偏諱(へんき)を受け左衛門督義景と名のる。当初,越後の上杉謙信と攻守同盟を結び,加賀一向一揆の挟撃をもくろみ,何度も加賀 ...
46. あさひやまじょうあと【朝日山城跡】石川県:金沢市/旧河北郡地区/朝日村
日本歴史地名大系
腰郭とみられる(「金沢の古城跡」金沢市教育委員会・一九八五年)。天正元年(一五七三)と推定される八月一〇日の上杉謙信書状(中条文書)に「あさひとりつめせめ候へば ...
47. あしかがし【足利市】栃木県
日本歴史地名大系
尾氏を継ぎ、由良・長尾氏の同盟が成立、北関東の一大勢力となった。しかし天正六年(一五七八)の上杉謙信の死を契機に北条氏の圧力が強まり、同一三年一月に顕長は北条氏 ...
48. 足利義昭画像
日本大百科全書
毛利氏は信長と断交し、石山本願寺も挙兵。のち信長と義昭を頂点とする勢力とが戦い、戦略を展開する。上杉謙信の死と信長の鉄船の出現で、本願寺は敗退。信長の死後は、羽 ...
49. 足利義昭
世界大百科事典
すでに武田信玄は病没し形勢は不利であったが,義昭は悲願を捨てず六角承禎,河野牛福,武田勝頼,上杉謙信,北条氏政,徳川家康,本願寺顕如,毛利輝元,島津義久らに幕府 ...
50. あしかがよしあき【足利義昭】画像
国史大辞典
和解したものの、同三年に入ると反信長の態度を明らかにして、五月武田信玄との盟約を固くし、七月上杉謙信に信玄と講和するよう命じた。そして石山の本願寺門跡顕如・浅井 ...
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
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真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
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豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
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山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
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