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  11. 斎藤道三

斎藤道三

ジャパンナレッジで閲覧できる『斎藤道三』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
斎藤道三
さいとうどうさん
- 一五五六
美濃国の戦国大名。油売商人から身をおこしたと称せられている。幼名峰丸。生涯に数回改名している。生誕は明応三年(一四九四)といわれているが、永正元年(一五〇四)五月生まれとの説もある。一般に広く伝えられているところによれば、先祖は代々北面の武士で、父は松波左近将監基宗といい、故あって牢人となり山城国乙訓郡西岡に居住していた。峰丸は美男子で聡明であったという。十一歳の春京都の法華宗の名刹妙覚寺に入り法蓮房といったが、やがて還俗して庄五郎(一説には庄九郎)と称し、西岡に帰って燈油問屋奈良屋又兵衛の娘を妻とし、山崎屋を号し油商人となった。妙覚寺にいたときのおとうと弟子日護房は、美濃国厚見郡今泉の鷲林山常在寺(岐阜市梶川町)住職となり日運上人と号していた。庄五郎は燈油を行商するうちに美濃国にも足をはこばせていたが、昔の誼をもって日運上人の推挙により美濃守護土岐氏の老臣長井長弘に仕えることとなった。武士となった庄五郎は長弘の家臣西村氏の遺蹟をついで西村勘九郎正利と名乗った。長弘は勘九郎の才能と武技にほれこみ、守護土岐政房の長男である革手城主政頼(盛頼)とその舎弟の鷺山城主頼芸に目通りさせたが、政頼は「大事をひきおこす曲者である」と近づけなかったのに対して、頼芸はその諸芸に通じているところに感嘆し勘九郎を寵愛したという。土岐家では家督相続の争いののち、政頼が惣領職をつぎ美濃国守護となったが、頼芸にとり入った勘九郎は、政頼を追放し、家督相続に敗れた頼芸を守護職につかせることを画策した。極秘のうちに戦備をととのえ、大永七年(一五二七)八月、五千五百の軍勢を率いて革手城に夜討ちをかけた。不意をつかれた政頼は越前国の朝倉孝景をたよって逃亡し、頼芸は兄に代わって土岐家惣領職につき美濃国守護となった。この戦功によって勘九郎はますます頼芸の信任を得たが、国の政事は土岐家代々の執権である長井長弘らによって行われていたので、次に長弘を除くことを考え、享禄三年(一五三〇)正月政務怠慢と不行跡を理由に長弘夫妻を殺害し、長井氏を乗取り、長井新九郎規秀と改名し稲葉山城を居館としたという。しかし長井氏を称したのは、一説では天文二年(一五三三)のことで、長弘が越前の政頼と内通したので上意討にしたともいわれている。長弘を討ったとき、長井・斎藤一族の反撃をうけて、新九郎は首を刎ねられんばかりになったが、日運上人のはからいで、長井・斎藤一族と和解が成立し難をまぬかれたという。また、このとき近江国守護佐々木修理大夫義秀も調停にのりだしたので、後日義秀から秀の一字をもらって新九郎秀竜と名乗ったともいわれているが、確実な史料には秀竜の文字はみられない。つづいて天文七年守護代斎藤利隆(あるいは良利ともいわれている)が没したとき、その家督を継ぎ斎藤新九郎利政と称した。同年九月の鷲見藤兵衛尉宛書状には「斎藤新九郎利政」とあり、同八年十二月美江寺の禁制には斎藤左近大夫を称している。美濃の名家である長井・斎藤を乗取った利政は勢力を拡大することはできたが、対立する者も多くあり、同九年から十年にかけては、頼芸の舎弟や斎藤・長井の一族などとの争いが絶えなかった。天文十一年利政は一挙に美濃国を奪わんとして、兵を集めて頼芸の居館大桑城を攻撃した。その軍勢は数千とも一万ともいわれている。頼芸は衆寡敵せず尾張国の織田信秀をたよって逃げおちていった。天文十三年越前に走った政頼と、尾張に逃げた頼芸は連絡をとりつつ、朝倉氏・織田氏の後楯を得て美濃に侵攻し、政頼は革手城に、頼芸は揖斐北方城に入った。その後両軍の戦いは続いたが、天文十六年十一月十七日政頼は病死し、頼芸は戦いに破れて越前にのがれた。ここに斎藤利政による美濃の支配は一応成り、同十七年には信秀と和睦し、娘濃姫を信秀の次子信長に嫁した。そして剃髪して道三と号し、嫡子左京大夫義竜に稲葉山井ノ口城を譲り、みずからは鷺山城に隠居した。晩年は義竜と不和になり、弘治二年(一五五六)四月二十日、道三は長良川畔において義竜の軍に破れて風雲の生涯をとじた。義竜は一説によれば頼芸の落胤ともいわれている。しかしこのような道三の素性と異なった記事を伝える古文書がある。それは『春日力氏所蔵文書』(もと『春日倬一郎氏所蔵文書』)の永禄三年(一五六〇)七月近江守護六角承禎(義賢)条書写で、家臣の平井定武・蒲生定秀等々に宛てたものである。文書は前闕であるが料紙三枚にわたる大部なものである。文中美濃の土岐・斎藤氏に関する記述の要点は、(一)土岐氏と六角氏は縁者である。(二)斎藤義竜の祖父新左衛門尉(道三の父)は京都妙覚寺の僧侶であったが、西村を名乗り、次第に勢力を得て長井氏と同姓となった。(三)義竜の父左近大夫(道三)は諸職を奪い、斎藤を名乗り、美濃を掌握した。(四)しかし義竜と父道三とは義絶となり、義竜は親の頸をとった等々である。永禄三年は道三の死去から四年後のことでその記述内容はかなり信憑性の高いもののように思われる。道三の父にあたる長井新左衛門尉と同姓同名のものが当時の古文書のなかにみえている。すなわちその一つは『筒井寛聖氏所蔵文書』の大永六年六月東大寺定使下向注文で、東大寺定使の美濃下向に際し長井新左衛門尉は油煙十挺、長井藤左衛門尉長弘は油煙五挺を負担している。また『秋田藩採集古文書』所収の大永八年(享禄元)二月十九日室町幕府奉行人奉書案によれば、佐竹氏知行分美濃国東山口が長井新左衛門尉なるものに押領されたとみえている。これらの「長井新左衛門尉」をすべて同一人物であるとすれば、道三の父は当時美濃国において長井長弘らとともに活躍していたということになる。この六角承禎条書を信用するとすれば、道三の「国盗り物語」は、実は道三一代ではなくて父子二代にわたる物語となり、その物語としての興味はうすらぐかも知れないが、可能性としてはこの方が高いのではないかと思われる。道三の文書の初見は、天文二年十一月二十六日長井景弘・長井規秀連署状であり、現在のところ松波庄五郎・西村勘九郎という署名の文書はみられない。初見文書に連署している景弘は長井長弘の子息と想定されている。道三は長井氏を乗取り長弘の遺児に相続を許さなかったといわれているが、この景弘と規秀の連署状をみると、必ずしもそうではなかったように思われる。また、道三は前述のように享禄三年正月か天文二年に長弘を殺害したといわれているが、享禄三年三月に長井長弘らの連署禁制が池田郡の竜徳寺に出されており(『竜徳寺文書』)、享禄三年説は誤りであろう。道三の文書として最も知られているのは、京都の妙覚寺所蔵の遺言状であろう。これは文化十四年(一八一七)に大坂の織田弥助なるものが妙覚寺に寄進したものである。しかし『備藩国臣古証文』によると岡山藩士斎藤佐左衛門なる者も道三遺言状を所持していたことが知られる。また、現在大阪城天守閣にも道三の花押のある遺言状が架蔵されているとのことである。とすると複数の遺言状があることになるが、これをどのように理解したらよいのであろうか。さらに一般的には遺言状があらわれてくるのは弘治年間よりもう少し時代が降るのではないかといわれており、道三遺言状については今後十分研究してみる必要があるのではないかと思われる。
[参考文献]
『岐阜県史』史料編古代・中世一・四、『岐阜市史』史料編古代・中世、稲村三郎『岐阜城と斎藤道三および織田信長』、村瀬茂七『斎藤道三と稲葉山城史』、桑田忠親『斎藤道三』、阿部愿「斎藤道三家系略考」(『史学雑誌』一六ノ五・七)、福田栄次郎「斎藤道三」(『歴史と人物』一一六)
(福田 栄次郎)


世界大百科事典
斎藤道三
さいとうどうさん
?-1556(弘治2)

戦国時代の武将。藤原規秀,長井新九郎規秀(のりひで),斎藤左近大夫利政などと名のる。道三は法名。父長井新左衛門尉は,京都の妙覚寺の僧で,還俗して美濃守護土岐氏の家臣長井弥二郎に仕え,西村と名のり土岐家中の混乱に乗じ土岐氏の三奉行の一人にまで出世した。道三は父の死により1533年(天文2)家督をつぎ,翌年長井氏の惣領長井藤左衛門尉景弘を倒した。さらに35年土岐頼芸(よりのり)をかついで,美濃守護土岐次郎頼武追放のクーデタに成功し,美濃国土岐家の実権をにぎった。しかし,国内の土岐・斎藤一族の反抗,それと結ぶ隣国の朝倉・織田氏の国内侵入により国内は混乱をつづけた。52年守護土岐頼芸を追放し,名実ともに美濃国を手中にしたが,2年後みずからも隠退した。56年(弘治2)家督を譲った子義竜と対立し,長良川の合戦に敗れ戦死した。現在岐阜市常在寺にその画像,長良川の河畔にその墓がある。
[勝俣 鎮夫]

[索引語]
藤原規秀 長井新九郎規秀 斎藤利政 長井新左衛門尉 土岐氏 土岐頼芸 斎藤義竜
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22. 稲葉一鉄
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詮頼・友雄・基春・基信と続くが、基信のあとには守護土岐政房の子光親を養子として入れた。天文一六年(一五四七)斎藤道三の攻撃にあい落城、光親は逃れた。織田信長が美 ...
32. いびはん【揖斐藩】
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33. いわどむら【岩戸村】岐阜県:岐阜市/旧厚見郡地区
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34. うじいえぼくぜん【氏家卜全】画像
国史大辞典
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、朝倉氏の出兵は提携関係にあった若狭の武田氏、近江の浅井氏らへの支援や、内紛の続く美濃へは反斎藤道三方支援、あるいは将軍義尚・義晴の要請に応じたものなどである。 ...
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頼芸は大桑に城を築いて移ったと記される。城下には侍屋敷のほか町屋敷がつくられたという。大桑城の土岐氏は斎藤道三により攻略され、滅亡した。「美濃国諸旧記」によれば ...
37. おおくわ‐じょう[おほくはジャウ]【大桑城】
日本国語大辞典
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38. おおのぐん【大野郡】岐阜県:美濃国
日本歴史地名大系
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39. 織田信長画像
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幼名は吉法師(きちほうし)。1546年(天文15)元服して三郎信長。翌年三河へ初陣、ついで美濃(みの)斎藤道三(さいとうどうさん)の娘と結婚、1551年信秀の死 ...
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戦国大名。幼名吉法師または三郎。信秀の子。美濃の斎藤道三(どうさん)の娘と結婚。永祿三年(一五六〇)今川義元を桶狭間(おけはざま)に破り、斎藤氏をも滅ぼして勢力 ...
41. 織田信長[文献目録]
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イス(著), 村上直次郎(訳)『信長の安土経営』コエリヨ(著), 村上直次郎(訳)『岐阜城と斎藤道三および織田信長』稲村三郎(著刊)『織田信長』桑田忠親『落城私 ...
42. 織田信秀
日本大百科全書
1542年(天文11)駿河(するが)の今川義元(よしもと)と小豆坂(あずきざか)で戦い、さらに美濃(みの)の斎藤道三(どうさん)と戦い、両勢力の尾張進出の阻止を ...
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に1534年熱田の北の古渡に城を築く。42年今川氏と三河小豆坂に戦って勝ち,48年には美濃の斎藤道三の女濃姫を子信長にめとって和議を結ぶなど,その勢力は隣国にま ...
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支配下におさめた今川氏の軍と岡崎郊外の小豆坂に戦い、これを破って西三河を席捲。同年九月および十六年に美濃に斎藤道三を攻め、稲葉城下まで迫って敗れ、弟与次郎以下多 ...
45. おだ-のぶひで【織田信秀】
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氏豊を那古野(なごや)城から追放するなど,尾張で勢力をふるう。16年美濃(みの)(岐阜県)の斎藤道三に敗れ,道三の娘濃姫を信長と結婚させ和議をむすんだ。天文20 ...
46. 伽婢子 2 251ページ
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平定して本流となった。 信長は幼名吉法師、上総介、弾正忠。贈従一位・ 太政大臣。信秀の嫡子。妻は斎藤道三の女濃姫。 永禄三年今川義元を桶狭間に討ち(五ノ2)、同 ...
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遂に妻としたというもの。詩は本書に 載るとおりで、人口に膾炙され劇化されたという。斎藤(ニノー)斎藤道三を指す。斎藤氏は代々美 濃の守護土岐氏の守護代として稲葉 ...
48. 伽婢子 2 274ページ
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騎を率い て山名方に与力し功あったという(『寛政重修諸 家譜』)。なお土岐氏は=代頼芸の代に斎藤道三 に追われて実質滅亡。成頼は明応六年没。?1一 四九七。飛加 ...
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信行はいつわり病なることを知り、玄蕃同道にて出勤すべき旨おおせありければ、七郎左衛門はにげ出て斎藤道三のもとに隠れおれり。勝はこのことをきき、かなしみにたえかね ...
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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