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一休宗純

ジャパンナレッジで閲覧できる『一休宗純』の国史大辞典・日本架空伝承人名事典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
一休宗純
いっきゅうそうじゅん
一三九四 - 一四八一
室町時代前期の臨済宗大応派大徳寺派下の禅僧。はじめ法名を周建といい、のち宗純と改め、一時宗順とも称し、道号を一休といい、別に狂雲子と号した。後小松天皇の皇子、母は南朝の遺臣花山院某の女。応永元年(一三九四)京都の民家において出生。六歳、山城安国寺住持象外集鑑(夢窓疎石の法嗣鉄舟徳済の弟子)に随って童役を務め周建と安名された。十二歳、山城嵯峨宝幢寺において清叟師仁(虎関師錬の弟子、東福寺聖一派の人)の『維摩経』の講席に連なり、十三歳、建仁寺に移り、霊泉院の慕哲竜攀(古今伝授の東常縁の一族)について作詩を学び、十六歳、同寺を脱出して、壬生に清叟に随って、経録・外典の講を聴き、同時に西金寺に隠遁していた謙翁宗為(妙心寺開山関山慧玄より授翁宗弼・無因宗因・謙翁と相承した人)の室を扣いて参禅し、両師に師事すること五年、応永二十一年謙翁が示寂したので、翌年二十二歳、かねてから私淑していた華叟宗曇(かぞうそうどん)に近江堅田の祥瑞庵に参じ、おそらくここで宗純と改名したのであろう。その後三年、二十五歳にして華叟より一休の道号を授けられ、翌々年二十七歳にして印可された。応永三十四年実父後小松上皇に召謁をとげ、永享五年(一四三三)上皇崩御の直前に再び召謁、遺愛の品を授けられた。正長元年(一四二八)華叟の示寂に遭い、実父・師父を失ってのち、往々にして風顛の行動あり、永享十二年大徳寺の如意庵(華叟の師言外宗忠の塔所)の塔主(たっす)となり、先師華叟の十三回忌の法事を行い、去って譲羽山に入り、尸陀寺を建てて居る。文安四年(一四四七)大徳寺派内の抗争を憤り、再び譲羽山に入り断食して自殺をはかり、後花園天皇は女房奉書を下してこれを慰問せしめられ、自殺を思いとどまって帰京、翌年売扇庵に寓し、享徳元年(一四五二)その庵南の瞎驢庵に遷った。このころから法兄養叟宗頤との不和が表面化し、逐年熾烈になり、ことに『自戒集』を著わし、主として養叟を罵倒する偈を集めた。康正二年(一四五六)六十三歳、山城薪の大応国師の旧蹟妙勝庵を復旧してこれにおり、その隣に酬恩庵をはじめて、これにも寓した。長禄三年(一四五九)春六十六歳、徳禅寺住持の請を受けて入院(じゅえん)し、寛正二年(一四六一)洛西安井の竜翅寺(りょうしょうじ、南浦紹明開山)の廃を興し、同三年秋、痢病に罹り九死に一生を得て桂林寺に兵乱を避け、翌年は賀茂の大燈寺に寓し、年末に瞎驢庵に帰住、応仁の乱に同庵が兵火に罹ったので東山虎丘庵(くきゅうあん)、薪の妙勝・酬恩両庵、〓原の慈済庵、南都、和泉、摂津住吉の松栖庵と転々し、檀越が坂井に雲門寺をはじめたのでこれに寓した。文明五年(一四七三)幕府は陣中に大徳寺を建て、これに請じ、翌年紫野の大徳寺住持の綸旨を承けて、入寺法語を作ってこれに応じた。同七年八十二歳、薪に移した虎丘庵に寿塔を営み、慈楊と扁した。同十年和泉に赴いて住吉慈恩寺に言外宗忠の百年忌を預修して薪の酬恩庵に帰り、夏末に妙勝庵に再住し、同十一年大徳寺の法堂(はっとう)の新築を成就した。同十三年大徳寺の山門墻壁を新築し、初冬微恙を発し、十一月二十一日薪の酬恩庵に示寂した。八十八歳。慈楊塔に葬り、延徳三年(一四九一)弟子没倫紹等(墨斎)などが大徳寺に真珠庵をはじめてこれにも分塔した。平生述作するところの偈頌(げじゅ)を編して『狂雲集』といい、このほか先述の『自戒集』および『一休和尚仮名法語』がある。弟子に岐翁紹禎・没倫紹等・祖心紹越・済翁紹派・北海紹超らがあり、ことに岐翁は真弟(血縁の子でしかも法縁の弟子)であったと伝え、このほか堺の豪商尾和宗臨、相国寺僧南江宗〓らが門下に連なった。この一門を一休派と号して、大徳寺本寺に瑞世住持せず、生涯黒衣で通すのを宗憲としている。あるいは盲目の森侍者とか瑞子(ずいす)とかいう女性との関係を噂され、女犯の伝説もあり、日常破戒無慙の行為をあえて衆人の面前に示すが、それは大徳寺一派の既成教団の爛熟に対する警鐘となり、またそのような生活の裡から真情を流注する珠玉の詩偈も生まれたのである。このように真摯と狂乱という相反する両極端の行動の交替または共存する生涯は、一休に限らず室町時代中期の変革期社会の風潮であったとも見られ、一休はその典型的人物であったともいうべきであろう。遺弟の編に成る行状『一休和尚行実』およびそれを年譜風に拡大した『東海一休和尚年譜』(いずれも『続群書類従』伝部に収められている)があるが、ともに撰者を詳らかにしない。
[参考文献]
『大日本史料』八ノ一三 文明十三年十一月二十一日条、卍元師蛮『延宝伝燈録』二九(『大日本仏教全書』)、『竜宝山誌』、大心義統『正燈世譜』、古筆了仲編『竜宝山大徳禅寺世譜』、古田紹欽『一休』、斎藤清衛『(近古時代)文芸思潮史―応永永享篇―』、衛藤駿「一休宗純の画像」(『大和文華』四一)、伊藤敏子「狂雲集諸本の校合について」(同)
(玉村 竹二)


新版 日本架空伝承人名事典

一休
いっきゅう
1394‐1481(応永1‐文明13)
 室町時代の臨済の禅僧。いみなは宗純、狂雲子とも号した。父は後小松天皇。この皇胤説には疑問をもつ人もあるが、当時の公家の日記にみえ、今日ではほぼ定説となっている。六歳のとき、臨済五山派の名寺である京都安国寺に入り像外集鑑ぞうがいしゅうかんについた。このとき周建しゅうけんと名付けられた。一休の初名である。周建は才気鋭く、その詩才は一五歳のときすでに都で評判をえた。だが、その翌年、周建は権勢におもねる五山派の禅にあきたらず、安国寺を去り、同じ臨済でも在野の立場に立つ林下りんかの禅を求めて謙翁宗為けんのうそうい、ついで近江堅田かただ華叟宗曇けそうそうどんの門に走った。宗為も宗曇も、林下の禅の主流である大徳寺の開山大灯国師(宗峰妙超)の禅をついでいた。一休はこうして大灯の禅門に入った。五山の禅とちがって、権勢に近づかず、清貧と孤高のなかで厳しく座禅工夫し、厳峻枯淡の禅がそこにあった。宗為から宗純なる諱を、宗曇から一休という道号を与えられた。一休なる道号は、煩悩ぼんのうと悟りとのはざまに「ひとやすみ」するという意味とされ、自由奔放になにか居直ったような生き方をしたその後の彼の生涯を象徴するようである。
 一休青年期の堅田での修行は、衣食にもことかき、香袋においぶくろを作り雛人形の絵つけをしてかてをえながら弁道に励んだという。そして、二七歳のある夜、湖上を渡るカラスの声を聞いたとき、忽然と大悟した。この大悟の内容はいまとなってはだれにもわからない。やがて一休は堅田をはなれ、丹波の山中の庵に、あるいは京都や堺の市中で、真の禅を求め、あるいはその禅を説いた。つねに清貧枯淡、権勢と栄達を嫌い、五山禅はもとより同じ大徳寺派の禅僧らに対しても、名利を求め安逸に流れるその生き方を攻撃した。堺の町では、つねにぼろ衣をまとい、腰に大きな木刀を差し、尺八を吹いて歩いた。木刀も外観は真剣と変わらない。真の禅家は少なく、木刀のごとき偽坊主が世人をあざむいているという一休一流の警鐘である。一休は純粋で潔癖で、虚飾と偽善を嫌いとおした。かわって天衣無縫と反骨で終始した。きわめて人間的で、貴賤貧富や職業身分に差別なき四民平等の禅を説いた。これが彼の禅が庶民禅として、のちに国民的人気を得る理由となった。壮年以後の一休は、公然と酒をのみ、女犯にょぼんを行った。戒律きびしい当時の禅宗界では破天荒のことである。いく人かの女性を遍歴し、七〇歳をすぎた晩年でさえ、彼は森侍者しんじしゃと呼ばれた盲目の美女を愛した。彼の詩集『狂雲集』のなかには、この森侍者への愛情詩が多く見いだされる。一四五六年(康正二)、一休は山城南部の薪村たきぎむらに妙勝寺(のちの酬恩庵しゅうおんあん)を復興し、以後この庵を拠点に活躍した。この間、七四年(文明六)勅命によって大徳寺住持となり、堺の豪商尾和宗臨おわそうりんらの援助で、応仁の乱で焼失した大徳寺の復興をなしとげた。酬恩庵の一休のもとへは、その人柄と独特の禅風に傾倒して連歌師の宗長や宗鑑、水墨画の曾我蛇足そがじゃそく、猿楽の金春禅竹こんぱるぜんちく音阿弥おんあみ、わび茶の村田珠光むらたじゅこうらが参禅し、彼の禅は東山文化の形成に大きな影響を与えた。彼自身も詩歌や書画をよくし、とくに洒脱しゃだつで人間味あふれた墨跡は当時から世人に愛好された。
 「昨日は俗人、今日は僧」「あしたには山中にあり、ゆうべには市中にあり」と彼みずからがうそぶくように、一休の行動は自由奔放、外からみると奇行に富んでおり、「風狂ふうきょう」と評され、みずからも「狂雲」と号した。しかし、反骨で洒脱で陽気できわめて庶民的な彼の人間禅は、やがて江戸時代になると、虚像と実像をおりまぜて、とんちに富みつねに庶民の味方である一休像を国民のなかに生みだした。彼自身の著とされているものには『狂雲集』『自戒集』『一休法語』『仏鬼軍ぶっきぐん』などがある。
[藤井 学]
一休像の形成
 一休の洒脱な性格とユーモラスな行状に関する伝承が近世に入ってから多くの逸話を作りあげた。その話は、実話もあろうが創作もあり、他の人の奇行やとんちに関する話を一休の行跡に仮託したものが多い。万人周知の多彩な一休像が世に伝えられる基本になったものは、一六六八年(寛文八)に刊行された編著者不明の『一休咄』四巻である。この本は刊行後たちまち評判となり、翌年に再版となった。一七〇〇年(元禄一三)には五冊本があらわれ、さらに版を重ねた。『一休咄』では、高僧としての一休禅師よりも頓智頓才の持主としての一休の「おどけばなし」が主体となっている。小僧時代の一休さんのとんち話は巻一の「一休和尚いとけなき時旦那と戯れ問答の事」に記され、有名な一休和尚の奇行譚は各巻に見える。軽口問答や狂歌咄もある。地蔵開眼のときに小便をかけたり、魚に引導をわたしたりする話などは、近世以降広く人々に知られた。かくして一休は問答を得意とする風狂的な禅僧としてのイメージを強くし、江戸時代における人気は絶大なものとなった。『一休咄』以後、『一休関東咄』『二休咄』『続一休咄』『一休諸国ばなし』などが生まれ、ついに六〇余点にものぼる一休の逸話に関する本が出版されるに至った。一休の人気は近代に入っても衰えず、子ども向けの絵本や童話にも採用され、現代のテレビでも一休さんのアニメーションが人気番組となっている。
[関山 和夫]
 一休和尚はいとけなき時より、常の人にはかはり給ひて、利根発明なりけるとかや。師の坊をば養叟和尚と申しける。こびたる旦那ありて、常に来りて和尚に参学などし侍りては、一休の発明なるを心地よく思ひて、折々はたはぶれをいひて問答などしけり。或時かのだんな革袴を著て来りけるを、一休門外にてちらと見、内へ走り入りてへぎに書付け立てられけるは
此寺の内へかはの類かたく禁制なり。もしかはの物入る時は、その身に必ずばちあたるべし
と、書きて置れける。かの檀那是を見て、革の類にばちあたるならば、此御寺の太鼓はなにとし給ふぞと申しける。一休聞き給ひ、さればとよ、夜昼三度づつばちあたる間、其方へも太鼓のばちをあて申さん、革の袴きられける程にとおどけられけり。その後かの檀那養叟和尚をときによぶとて、一休も御供にと申す。かの返報せばやとたくみけるが、入口の門の前に橋ある家なりければ、橋のつめに高札を仮名にて書きて立てけり。
此はしを渡る事かたく禁制なり
とかき付けける。養叟斎の時分よしとて一休をめし連れ、かの人方へ御出あるに、橋の札を御覧じて、此はし渡らでは内へ入る道なし、一休いかにと有りければ、一休申さるるは、いや此はしわたることと仮名にて仕りたる間、真中を御渡りあれとて、真中をうちわたり内へ入り給へば、かの者出合ひ、禁制の札を見ながら、いかではし渡り給ふぞととがめければ、いや我等ははしは渡らず、真中をわたりけると仰せらるれば、亭主も口をとぢ侍る
一休咄巻一ノ一
大徳寺おどけた和尚もふ出来ず
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):礼‐6
刊行/開き:1765年(明和2)(開き)
大徳寺歴代名僧中、卓絶の滑稽和尚として認識された。
一休ははしはわたらず中通り
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):73‐35
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)


世界大百科事典

一休
いっきゅう
1394-1481(応永1-文明13)

室町時代の臨済の禅僧。諱(いみな)は宗純,狂雲子とも号した。父は後小松天皇。この皇胤説には疑問をもつ人もあるが,当時の公家の日記にみえ,今日ではほぼ定説となっている。6歳のとき,臨済五山派の名寺である京都安国寺に入り像外集鑑(ぞうがいしゆうかん)についた。このとき周建(しゆうけん)と名付けられた。一休の初名である。周建は才気鋭く,その詩才は15歳のときすでに都で評判をえた。だが,その翌年,周建は権勢におもねる五山派の禅にあきたらず,安国寺を去り,同じ臨済でも在野の立場に立つ林下(りんか)の禅を求めて謙翁宗為(けんのうそうい),ついで近江堅田(かただ)の華叟宗曇(けそうそうどん)の門に走った。宗為も宗曇も,林下の禅の主流である大徳寺の開山大灯国師(宗峰妙超)の禅をついでいた。一休はこうして大灯の禅門に入った。五山の禅とちがって,権勢に近づかず,清貧と孤高のなかで厳しく座禅工夫し,厳峻枯淡の禅がそこにあった。宗為から宗純なる諱を,宗曇から一休という道号を与えられた。一休なる道号は,煩悩(ぼんのう)と悟りとのはざまに〈ひとやすみ〉するという意味とされ,自由奔放になにか居直ったような生き方をしたその後の彼の生涯を象徴するようである。

 一休青年期の堅田での修行は,衣食にもことかき,香袋(においぶくろ)を作り雛人形の絵つけをして糧(かて)をえながら弁道に励んだという。そして,27歳のある夜,湖上を渡るカラスの声を聞いたとき,忽然と大悟した。この大悟の内容はいまとなってはだれにもわからない。やがて一休は堅田をはなれ,丹波の山中の庵に,あるいは京都や堺の市中で,真の禅を求め,あるいはその禅を説いた。つねに清貧枯淡,権勢と栄達を嫌い,五山禅はもとより同じ大徳寺派の禅僧らに対しても,名利を求め安逸に流れるその生き方を攻撃した。堺の町では,つねにぼろ衣をまとい,腰に大きな木刀を差し,尺八を吹いて歩いた。木刀も外観は真剣と変わらない。真の禅家は少なく,木刀のごとき偽坊主が世人をあざむいているという一休一流の警鐘である。一休は純粋で潔癖で,虚飾と偽善を嫌いとおした。かわって天衣無縫と反骨で終始した。きわめて人間的で,貴賤貧富や職業身分に差別なき四民平等の禅を説いた。これが彼の禅が庶民禅として,のちに国民的人気を得る理由となった。壮年以後の一休は,公然と酒をのみ,女犯(によぼん)を行った。戒律きびしい当時の禅宗界では破天荒のことである。いく人かの女性を遍歴し,70歳をすぎた晩年でさえ,彼は森侍者(しんじしや)と呼ばれた盲目の美女を愛した。彼の詩集《狂雲集》のなかには,この森侍者への愛情詩が多く見いだされる。1456年(康正2),一休は山城南部の薪村(たきぎむら)に妙勝寺(のちの酬恩庵(しゆうおんあん))を復興し,以後この庵を拠点に活躍した。この間,74年(文明6)勅命によって大徳寺住持となり,堺の豪商尾和宗臨(おわそうりん)らの援助で,応仁の乱で焼失した大徳寺の復興をなしとげた。酬恩庵の一休のもとへは,その人柄と独特の禅風に傾倒して連歌師の宗長や宗鑑,水墨画の曾我蛇足(そがじやそく),猿楽の金春禅竹(こんぱるぜんちく)や音阿弥(おんあみ),わび茶の村田珠光(むらたじゆこう)らが参禅し,彼の禅は東山文化の形成に大きな影響を与えた。彼自身も詩歌や書画をよくし,とくに洒脱(しやだつ)で人間味あふれた墨跡は当時から世人に愛好された。

 〈昨日は俗人,今日は僧〉〈朝(あした)には山中にあり,暮(ゆうべ)には市中にあり〉と彼みずからがうそぶくように,一休の行動は自由奔放,外からみると奇行に富み,〈風狂(ふうきよう)〉と評され,みずからも〈狂雲〉と号した。だが,反骨で洒脱で陽気できわめて庶民的な彼の人間禅は,やがて江戸時代になると,虚像と実像をおりまぜて,とんちに富みつねに庶民の味方である一休像を国民のなかに生みだした。彼自身の著とされるものには《狂雲集》《自戒集》《一休法語》《仏鬼軍(ぶつきぐん)》などがある。
[藤井 学]

一休像の形成

一休の洒脱な性格とユーモラスな行状に関する伝承が近世に入ってから多くの逸話を作りあげた。その話は,実話もあろうが創作もあり,他の人の奇行やとんちに関する話を一休の行跡に仮託したものが多い。万人周知の多彩な一休像が世に伝えられる基本になったものは,1668年(寛文8)に刊行された編著者不明の《一休咄》4巻である。この本は刊行後たちまち評判となり,翌年に再版となった。1700年(元禄13)には5冊本があらわれ,さらに版を重ねた。《一休咄》では,高僧としての一休禅師よりも頓智頓才の持主としての一休の〈おどけばなし〉が主体となっている。小僧時代の一休さんのとんち話は巻一の〈一休和尚いとけなき時旦那と戯れ問答の事〉に記され,有名な一休和尚の奇行譚は各巻に見える。軽口問答や狂歌咄もある。地蔵開眼のときに小便をかけたり,魚に引導をわたしたりする話などは,近世以降広く人々に知られた。かくして一休は問答を得意とする風狂的な禅僧としてのイメージを強くし,江戸時代における人気は絶大なものとなった。《一休咄》以後,《一休関東咄》《二休咄》《続一休咄》《一休諸国ばなし》などが生まれ,ついに60余点にものぼる一休の逸話に関する本が出版されるに至った。一休の人気は近代に入っても衰えず,子ども向けの絵本や童話にも採用され,現代のテレビでも一休さんのアニメーションが人気番組となった。
[関山 和夫]

[索引語]
森侍者
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日本大百科全書
一休宗純(いっきゅうそうじゅん)著 国立国会図書館所蔵 ...
29. 一休骸骨(著作ID:431)
新日本古典籍データベース
いっきゅうがいこつ 骸骨 一休清語 一休宗純(いっきゅうそうじゅん) 臨済 康正三 ...
30. いっきゅうじ【一休寺】京都府:綴喜郡/田辺町/薪村
日本歴史地名大系
応国師南浦紹明が当地を訪れ霊瑞山妙勝禅寺を創建したが、元弘の乱で堂塔は焼亡、荒廃した。その後一休宗純が永享(一四二九―四一)頃復興を志し、康正二年(一四五六)に ...
31. 一休禅師世の中百首(著作ID:640380)
新日本古典籍データベース
いっきゅうぜんじよのなかひゃくしゅ 一休宗純(いっきゅうそうじゅん) ? 狂歌  ...
32. 一休ばなし(仮名草子集) 278ページ
日本古典文学全集
、普賢菩薩となり白象に乗って昇天するという内容。観阿弥作。俗説では、「江口」「山姥」の二曲は一休宗純作とする。『狂雲集』に「題江口美人勾欄曲」の詩あり。死者の霊 ...
33. 一休ばなし(仮名草子集) 284ページ
日本古典文学全集
享徳二年(一四五三)の火災と応仁の乱(一四六七~七七年)で諸堂の大半を焼失したが、のち、四十七世住持一休宗純が堺の豪商尾和宗臨の援助で再興した。→二三五ページ注 ...
34. 一休ばなし(仮名草子集) 302ページ
日本古典文学全集
て 六 堅田の船頭が死んだ事付引導の事 近江国。「堅田」。滋賀県大津市、琵琶湖西岸の地名。一休宗純は応永二十二年(一四一五)に堅田に行き華叟に師事する。堅田の ...
35. 一休ばなし(仮名草子集) 353ページ
日本古典文学全集
)虚堂の再来天下老和尚一休宗純末後に之を書す(虚堂之再来天下老和尚一休宗純末後書〓之)とあそばしける ...
36. 一休ばなし(仮名草子集) 354ページ
日本古典文学全集
退院の偈までついているところから、形式的に奉勅しただけで、実際には入山しなかったと一般に解されている。一休宗純は、国景、夢閨、狂雲子、天下老和尚などとも称したが ...
37. いっきゅうばなし[イッキウばなし]【一休咄】
日本国語大辞典
江戸前期の咄本。四巻四冊。作者未詳。寛文八年(一六六八)刊。一休宗純和尚を主人公とした狂歌咄集。当時流布していた、一休俗伝中の奇行を集めて好評を博し、以後一休を ...
38. 一休筆詩巻(著作ID:4372338)
新日本古典籍データベース
いっきゅうひつしかん 一休宗純(いっきゅうそうじゅん) 書  ...
39. 横川景三
日本史年表
1467年〈応仁元(3・5) 丁亥〉 一休宗純 ・ 瑞渓周鳳 ・ 横川景三 ,乱を避けて離京(一休和尚年譜・興宗明教禅師行状・横川和尚伝)。 1493年〈明応 ...
40. 御ふみ 322ページ
東洋文庫
におなじくして、智者のふ るまひをせずして、ただ一向に念仏すべし」と説かれたことは名高い。一休宗純『狂雲集』も、 「賛二法然上人一」においては、「教二智者一 ...
41. おわ-そうりん【尾和宗臨】
日本人名大辞典
?−1502* 室町-戦国時代の貿易商。堺の豪商で,明(みん)(中国)との貿易で富をえる。一休宗純に参禅し,大徳寺真珠庵を創建。応仁(おうにん)の乱で焼失した大 ...
42. 改訂 京都民俗志 43ページ
東洋文庫
井とし、雍州府志巻八には一休宗純が聖水と名づけたと見える。口碑によると紫式部の産湯井であるともいう。 軒端の井 洛東、左京区吉田の東北院の庭にある(弁財天堂の西 ...
43. 掛物
日本大百科全書
床に掛けるようになったのは、唐絵よりも後のことで、わび茶の創始者、村田珠光(じゅこう)が、参禅の師、一休宗純から印可(いんか)の証(あかし)として授与された宋代 ...
44. かそう-そうどん【華叟宗曇】
日本人名大辞典
忠の法をつぐ。近江(おうみ)(滋賀県)堅田(かただ)に祥瑞(しょうずい)寺をひらいた。門弟に一休宗純(いっきゅう-そうじゅん),養叟宗頤(ようそう-そうい)ら。 ...
45. かどまつ は 冥途(めいど)の旅(たび)の一里塚(いちりづか)
日本国語大辞典
(「めでたくもありめでたくもなし」とつづく一休宗純作という歌から)正月の門松はめでたいものとされているが、門松を飾るたびに一つずつ年をとり、死に近づくので、死へ ...
46. 門松(かどまつ)は冥途(めいど)の旅(たび)の一里塚(いちりづか)
故事俗信ことわざ大辞典
成には死滅が伴ふ。門松は冥途の旅の一里塚に過ぎない」「めでたくもありめでたくもなし」と続け、一休宗純が蜷川親当(ちかまさ)と道歌問答をした際の歌とされる。しかし ...
47. 漢詩
日本大百科全書
中国の詩に比肩しうる境地に至る。その後は惟肖得巌(いしょうとくがん)、江西龍派(こうせいりゅうは)や一休宗純(いっきゅうそうじゅん)らの文学僧が出たが、あまり振 ...
48. 漢文学
日本大百科全書
横川景三(おうせんけいさん)、天隠龍沢(てんいんりゅうたく)、景徐周麟(けいじょしゅうりん)や、風狂僧一休宗純(いっきゅうそうじゅん)、南学の祖桂菴玄樹(けいあ ...
49. かんぶんがく【漢文学】
国史大辞典
祖述したものである。『三体詩』も中巌らから流行し、五山版の刊行もこれらの僧たちによって起った。その他、一休宗純・景徐周麟・桃源瑞仙・桂庵玄樹・横川景三らの詩文集 ...
50. かんぶんがく【漢文学】 : 中世/(四)
国史大辞典
となり、虎関師錬・雪村友梅・中巌円月・義堂周信・絶海中津・横川景三などの作者が輩出している。一休宗純は大徳寺の僧で五山文学者の範囲外であるが、現実への痛烈な批判 ...
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上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
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真田昌幸(国史大辞典)
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