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  11. 世阿弥

世阿弥

ジャパンナレッジで閲覧できる『世阿弥』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
世阿弥
ぜあみ
生没年不詳
室町時代前期の能役者・能(謡曲)作者・能楽伝書の著者。大和猿楽観世座(結崎座)の二代目大夫。幼名は鬼夜叉・藤若。通称三郎、実名は元清といい、秦氏を称した。法名は至翁・善芳。阿弥号は正式には世阿弥陀仏で、世阿・世阿弥はその略称、世子は敬称。生年は貞治二年(一三六三)説が定説だが、翌三年説もある。没年は嘉吉三年(一四四三)とされるが、これは享年を八十一とする一説による推定で、正確には不明。忌日は八月八日。父は観世座初代大夫の観阿弥清次。妻は寿椿(法名)。子は長子元雅と次子元能、他に女子(金春大夫氏信禅竹の妻)。世阿弥の誕生は観世座の創始者で父の観阿弥が擡頭し始めたころで、父が醍醐寺で七日間の猿楽を演じて名声を得た時には、少年世阿弥も出演していた。世阿弥が十二歳の時、観阿弥は京都今熊野で猿楽を興行したが、将軍足利義満がそこではじめて猿楽を見物し、観阿弥の至芸と美童世阿弥の可憐な姿とに魅了されたらしく、彼はこれ以後観世座の絶大な後援者となった。義満の観世父子、特に少年世阿弥に対する寵愛ぶりは人目をひき、それを非難する公卿もあったが、一方では公卿自身が義満の意を迎えるために競って世阿弥を贔屓する有様で、二条良基も世阿弥を呼び寄せて藤若という名を与え、彼を見出した義満の目の高さを讃えている。至徳元年(一三八四)、父の死によって観世大夫となった世阿弥は他座の進出もあって苦労もしたようだが、応永六年(一三九九)、京都一条竹鼻で義満後援の勧進能を興行した時には将軍義持も観覧しており、このころの世阿弥は名人としてすでに世間から認められていたらしい。最初の能楽論書『風姿花伝』の第一次完結はこの翌年のことである。このころから情趣本位の能を得意とする近江猿楽の犬王(道阿弥)が世阿弥以上に評価され、義満らの賞玩を得るようになったが、これが世阿弥に大きな影響を与え、大和猿楽本来の物まね芸から歌舞中心の能へと芸風を転じさせた。世阿弥が能の歌舞劇化を進めたことは、当代の武家貴人の嗜好に応じたことであり、同時に彼の能の質を向上させることにもなって、義満以上の鑑賞眼を持つ義持や周辺の武家貴族の批判にも堪え得たのである。応永二十九年ころ出家、観世大夫の地位を元雅に譲ったが、舞台を勤めつつ子弟の教育に力を注いだようである。『花鏡』『至花道』『三道』など、世阿弥の芸術論の骨格をなす伝書が執筆されたのはこのころであり、数々の優れた能が作られたのもこの時期だったらしい。しかし、かねて世阿弥の甥三郎元重(のちの音阿弥)を贔屓していた足利義教(義円)が将軍になる(正長元年(一四二八))と、世阿弥父子は次第に冷遇され、永享元年(一四二九)には仙洞御所への出入りを止められ、二年には醍醐清滝宮の楽頭職(猿楽主催権)を奪われた。こうした中でも世阿弥は女婿氏信のために『拾玉得花』を著わし、一座のために『習道書』を書くなど意欲を示しているが、永享二年には元能が出家遁世し、四年には観世大夫元雅が伊勢で客死して観世座は破滅の危機に瀕した。翌五年、元重が観世大夫になったが、大夫継承を巡って紛糾があったのか世阿弥は将軍義教の怒りにふれたようで、永享六年、七十二歳で佐渡へ流された。配流後も小謡曲舞集『金島集』を作るなど能への意欲は失わなかったらしい。八年までは佐渡にいたが、許されて帰洛したか否かは不明。能役者としての世阿弥は、父観阿弥をはじめ近江猿楽の犬王、田楽の亀阿弥・増阿弥など先人や同世代の名人上手の長所を取り入れ、武家貴族を中心とする観客の好みの変化に合わせて芸風を転換発展させた名手であった。観阿弥が確立した物まね芸中心の能を、歌舞中心の能へとみがきあげ、幽玄美の理想を実現して能の芸術性を高めた功績は絶大である。能役者世阿弥が若年から老後に至る間に考え、体得したことや父の遺訓を、子孫のため、能芸道のために書き残したのが、二十種をこえる能楽論書である。応永七年に第一次完結をみた『風姿花伝』(第三まで)をはじめ、『花鏡』『至花道』『二曲三体人形図』『三道』『習道書』など、応永二十五年から永享年中まで、執筆は老後に集中するが、伝書はいずれも能のあり方を論じ、能芸美としての「花」をいかに咲かせるか、その稽古修道のあり方はいかにあるべきかを解明しており、文学史上でも稀に見る質の高さといえよう。また世阿弥は能の実作面でも卓越していた。『伊勢物語』『源氏物語』などの古典や『平家物語』など観客に身近な作品を典拠とし、舞歌にふさわしい人体を主人公(シテ)とする、いわゆる夢幻能形態の能を作った。構成は基本をふまえて細部に工夫をこらし、文辞は和歌や古文の修辞を巧みに応用し、流麗と同時に劇的な展開にも意を用いた秀作が多い。『高砂』『老松』『忠度』『頼政』『清経』『井筒』『檜垣』『班女』『砧』『融』その他、今日でも人気があり上演頻度の高い曲ばかりである。
[参考文献]
表章・加藤周一校注『世阿弥禅竹』(『日本思想大系』二四)、横道万里雄・表章校注『謡曲集』(『日本古典文学大系』四〇・四一)、香西精『世阿弥新考』、同『続世阿弥新考』
(片桐 登)


世界大百科事典
世阿弥
ぜあみ
1363?-1443?(正平18?・貞治2?-嘉吉3?)

室町時代初期の能役者,謡曲作者。観阿弥の子で2代目の観世大夫。生年は貞治3年とも考えられ,正確な没年・享年は不明(1436年には健在)。幼名藤若(ふじわか)(前名鬼夜叉(おにやしや)とも)。通称三郎,実名元清。秦氏を称し,父の芸名だった〈観世〉が姓同様に通用しはじめ,世人は観世三郎とも呼んだ。中年以後の擬法名的芸名が世阿弥陀仏で,世阿,世阿弥はその略称。現今は世阿弥と呼ぶことが多い。セアミと清んで呼ぶのは誤り。老後の法名が至翁(道号)善芳(法諱)。弟に四郎がいた。

生涯

南北朝の争乱が下火になり,室町幕府の基礎が固まりかけたころに世阿弥は生まれた。父の観阿弥は30歳を超えた年盛りで,すでに大和猿楽(やまとさるがく)結崎(ゆうざき)座のスター役者だったと推定される。数多い田楽(でんがく)や猿楽の能役者が芸を競う中から,観阿弥が抜け出る要因となった音曲改革に取り組んだのは世阿弥の幼年期であり,京洛に観阿弥の名声を高めた醍醐寺での猿楽(年不明)には子の世阿弥も出演していた。世阿弥が12歳の年(1375年の永和1年か前年の応安7年)に,観阿弥が洛東今熊野で催した猿楽能を将軍足利義満が見物し,以来彼は観世父子に絶大な庇護を加える。世阿弥の可憐さが5,6歳年長だった義満を魅了したらしい。義満の世阿弥寵愛は尋常でなく,彼の勘気にふれて東国を流浪していた連歌師の琳阿弥は,世阿弥に自作の謡(うたい)を義満の御前で謡ってもらって勘気を許されている。足利武将らも将軍の機嫌をとるために世阿弥を引き立てたし,北朝公家の代表格の二条良基も13歳の世阿弥に〈藤若〉の名を与え,自邸の連歌会に藤若を加えてその句を激賞したりしている。良基の文章によれば,世阿弥は稀代の美少年で,能芸に秀でるのみならず,13歳の時すでに鞠(まり)や連歌に堪能だったという。父観阿弥が子を貴人の賞玩向きに教育したものと考えられる。

1384年(元中/至徳1)に父が没し,まだ初心段階の世阿弥が観世大夫(結崎座の演能グループたる観世座の統率者)を継いだ。美童としての魅力はすでに失せ,田楽新座の喜阿弥や近江猿楽比叡座の犬王(いぬおう)らの競争相手も父の在世期から台頭しており,新大夫の前途は多難だったろうが,世阿弥は精進を重ねて苦境をのりこえたようで(当時の記録は皆無に近い),99年(応永6)には京都一条竹ヶ鼻で3日間の勧進猿楽(勧進能)を催し,将軍の台臨を得て,天下の名声を獲得した。翌年に《風姿花伝》の第三までを書いたのは,彼の自信の表明でもあったろう。芸名の世阿弥陀仏を称したのはその直後の40歳ころかららしく,セアではなくゼアと濁ったのは義満の裁定に基づく。そうした世阿弥の地位を揺るがせたのが犬王である。彼は観阿弥とほぼ同世代で,応永(1394-1428)以前から義満に後援されていたが一時失脚し,1401年ころに復活して世阿弥以上に義満に評価された。義満の法名道義の1字をもらって犬阿弥から道阿弥に改称することを許されたし,08年の後小松天皇北山第(義満別邸)行幸の際も,世阿弥ではなくて犬王の芸が天覧に供されている。歌舞に秀で,幽玄(優美)で情趣あふれる能を得意とした彼の芸風が,公家化の傾向を強めていた晩年の義満の意にかなったのであろう。このような犬王の出世は世阿弥に大きな影響を与えた。大和猿楽の伝統たる物まね主体の〈面白き能〉から,歌舞中心の〈美しき能〉への方向転換がそれで,犬王の長所を参照した能の歌舞劇化の成功が,世阿弥の名声を保ち,その後の能の質的向上をももたらしたように思われる。

1408年5月,北山第行幸直後に義満が急逝し,世阿弥はよき後援者・批判者を失った。義満の後嗣足利義持は,父義満の方針を改めること多く,芸能後援についても尊氏時代に戻して田楽を重んじた。とくに新座の増阿弥(ぞうあみ)を後援し,応永20年代(1413-22)には毎年増阿弥に勧進田楽を興行させている。しかし世阿弥も幕府内で重用されており,義持が世阿弥を疎んじたという説には根拠がない。義満以上に高かった義持の鑑賞眼にかなうための世阿弥の努力が,増阿弥の長所を採り入れたらしい冷えたる能への深化を生み,世阿弥の芸風や芸論を充実させてもいる。猿楽能の第一人者としての世阿弥の地位は不動であったろう。1422年ころ60歳前後で世阿弥は出家し,観世大夫の地位を子の観世元雅に譲った。引退したわけではなく,出家後も能を演じ,元雅や次男の七郎元能や甥の三郎元重(のちの音阿弥)らの教導にも熱心だった。子弟の成長で観世座は発展の一途をたどり,彼自身の芸も円熟の境に達し,出家前後が世阿弥の絶頂期であったろう。応永27年(1420)の《至花道》,30年の《三道》,31年の《花鏡(かきよう)》など,高度な能楽論が続々と書かれたし,彼が多くの能を創作したのも出家前後が中心らしい。

だが,1428年(応永35)に義持が没し,還俗した弟の義教が将軍になってから,観世父子に意外な悲運が訪れた。義教は青〓院門跡時代から世阿弥の甥の三郎元重を後援していたが,将軍になってからはいっそう元重を引き立て,本家筋たる世阿弥父子には露骨な圧迫を加えた。29年(永享1)の仙洞御所での能の阻止,翌年の醍醐寺清滝宮の楽頭職剝奪などがそれで,世阿弥が一時は元重を養子にしたらしいのに,元雅に観世大夫を譲ったことが義教の反感の一因になったのかもしれない。義教の弾圧下にも,女婿金春禅竹(こんぱるぜんちく)のため《拾玉得花(しゆうぎよくとつか)》を著述し,《習道書(しゆどうしよ)》を書いて一座の結束をはかるなど,世阿弥の意欲は衰えなかったが,1430年には元能が父の芸談を《申楽談儀(さるがくだんぎ)》にまとめて遁世し,32年8月には元雅が伊勢で客死し,観世座の本流は断絶してしまった。老後に後嗣を失った嘆きは《夢跡一紙(むせきいつし)》に痛ましく,翌年成立の《却来華(きやくらいか)》は相伝者のいないまま後代への形見として書かれている。33年に元重が観世大夫となったが,その大夫継承をめぐって将軍の怒りに触れたのか,世阿弥は翌年老残の身を佐渡へ流された。在島中の小謡曲舞(こうたいくせまい)集《金島書》によって1436年(永享8)2月に健在だったことは知られるが,帰洛したか否かは明らかでない。世阿弥夫妻が帰依した曹洞宗補巌寺(ふがんじ)(奈良県田原本町)に彼の忌日(8月8日)が記録されているが,没年は不明で,81歳没との伝承が残るのみである。不遇のうちに世阿弥は波乱多き出涯を閉じたらしい。

業績

能役者としての世阿弥は,先人や好敵手(父観阿弥,犬王,喜阿弥,増阿弥ら)の長所を積極的に採り入れ,将軍に代表される観客の好みの変化に応じて芸風を発展させた,融通性に富む芸人だった。中世人には稀な合理的精神・独創性の持ち主だったことが,自筆文書の書き様(濁点・読点・分かち書の採用,片仮名による能本の表音表記など)からも知られる。そうした資質や父が用意した天才教育で身につけた教養を背景に,父が基礎を固めた物まね主体の猿楽能を,歌舞主体の美しき能(幽玄能)へと洗練し,能の芸術性を著しく高めたのが世阿弥であった。小男だったと伝えられるが,能の大成者としての功績はまことに大きく,後代に残る業績としては,能作の仕事と能楽論書著述の仕事が挙げられる。

世阿弥は能の台本たる謡曲の作者として卓越していた。能を作ることが道の命であると主張した彼は,多くの曲を新作し,また古曲を改作した。彼の手に成ることが文献的に確認できる曲だけでも改作を含めれば50曲に近く,他に作品分析から世阿弥作と認められる曲も多い。《高砂》《弓八幡》《老松》《養老》《忠度》《敦盛》《頼政》《実盛》《清経》《井筒》《江口》《檜垣》《西行桜》《班女》《桜川》《花筐(はながたみ)》《蘆刈》《春栄(しゆんねい)》《錦木》《砧(きぬた)》《恋重荷(こいのおもに)》《蟻通(ありどおし)》《融(とおる)》《野守(のもり)》《鵺(ぬえ)》などが代表作で,現在も盛んに演じられている。世阿弥作の能の多くは,《伊勢物語》《平家物語》などから舞歌にふさわしい人体を主役に選び,序破急五段の構成を基本とする夢幻能の形態をとったシテ中心の曲である。古歌や古文を巧みに応用し,和歌的修辞や連歌的展開で彩った流麗な謡曲文は,抒情と叙事の適度の配合やイメージの統一とあいまって,見事な詩劇を創造している。作曲にも抜群の才を示し,音曲的魅力にあふれた曲が多い。後世能を離れて普及した謡(うたい)で好まれたのも世阿弥作の曲である。見・聞の両面にわたって余情あふれる美的世界を現出する夢幻能を完成させた点が,能作者世阿弥の最大の業績であろう。

世阿弥はまた,自己の芸得を〈道のため,家のため〉に能楽論書に書き残した。彼以前に類書の書かれた形跡はなく,猿楽の社会的地位の向上や能の質的向上が彼の芸道意識を強め,初めての能楽論書を書かせるにいたったのであろう。もちろん彼の文学的素養も寄与していた。現今,彼の著述と認め得る能楽論書は,芸談・随想をも含めて,《風姿花伝》《花習内抜書(かしゆのうちぬきがき)》《音曲口伝(おんぎよくくでん)》《花鏡》《至花道》《二曲三体人形図》《曲付次第(ふしづけしだい)》《三道》《風曲集(ふうぎよくしゆう)》《遊楽習道風見(ゆうがくしゆどうふうけん)》《五位》《九位》《六義(りくぎ)》《拾玉得花》《五音曲条々》《五音》《習道書》《夢跡一紙》《却来華》《金島書》《申楽談儀》の21種である。そこに展開されている世阿弥の芸論の主題は,主要な書の名が示すように〈花〉であった。花とは能の魅力の比喩で,面白さ・珍しさと同意であると彼は説明する。その花の理想的なものとして重視したのが幽玄美(少年の可憐さや貴婦人の優美さがその典型)で,花や幽玄の論はさらに妙花・冷え・無文(むもん)の論へと深められ,そうした高級な芸術美を発現するための習道論にも,二曲三体説,初心不可忘説,却来説などのすぐれた理論が展開されている。生硬な造語や難解な文脈のため読みやすくはないが,道に命を賭した芸人の体験に裏打ちされた真摯(しんし)な所説は,おのずと迫力ある高度の演劇論・芸術論となり得ており,今や世界的に高い評価を受け,外国語訳が続出しているほどである。

以上に略述したように,自作の能を自身が演じて自己の理想とする美を舞台上に現出し,その体験に基づく芸論をも残したのが世阿弥である。演者と作者と理論家とを一身に兼ねたわけで,世界の文芸史上にも稀な天才と評して過言ではあるまい。世阿弥以後の能は,さまざまの変革を重ねたものの,ついに世阿弥の歌舞幽玄能を超えることはできず,彼の志向した路線に沿って発展してきたと認められる。600年後の現代の能の繁栄や魅力が,世阿弥の偉大さを雄弁に語っているといえよう。
→能
[表 章]

[索引語]
観阿弥 藤若 観世三郎(元清) 結崎(ゆうざき)座 足利義満 琳阿弥 二条良基 犬王 道阿弥 増阿弥 観世大夫 音阿弥 三道 足利義教 拾玉得花(しゆうぎよくとつか) 習道書(しゆどうしよ) 夢跡一紙(むせきいつし) 却来華(きやくらいか) 金島書 補巌寺 夢幻能 風姿花伝 花鏡 至花道 却来華 申楽談儀 花(能)
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35. 阿漕(能)
日本大百科全書
能の曲目。四番目物。五流現行曲。伊勢(いせ)に非業の死を遂げたわが子を悼む世阿弥(ぜあみ)の作ともいうが未詳。伊勢参宮の男(ワキ。旅僧にする場合もある)が阿漕の ...
36. あこぎ【阿漕】
日本国語大辞典
く網もたびかさなれば顕れぞする」とあるように諸書に現われている。〔二〕謡曲。四番目物。各流。世阿彌作。伊勢国阿漕ケ浦で密漁をして海に沈められた漁夫の亡霊が地獄の ...
37. あこやのまつ【阿古屋松】
日本国語大辞典
謡曲。脇能物。廃曲。世阿彌作。陸奥の阿古屋の松に案内された藤原実方の夢の中に塩釜の明神が現われ、松の徳をたたえる。 ...
38. 阿古屋松
世界大百科事典
越えて見に行ったという(〈中音・初重(しよじゆう)〉)。(2)能の曲名。四番目物。非現行演目。世阿弥作だが古作の改作か。シテは塩竈(しおがま)明神の神霊。陸奥に ...
39. 阿古屋松(あこやのまつ)[イミダス編 文化・スポーツ]
イミダス 2018
現行の能の演目の多くは世阿弥作と言われる。「阿古屋松」は、理由はわからないが、観世流宗家に伝わる世阿弥の自筆脚本11作品の中で唯一上演記録がない。2013年が世 ...
40. あこやのまつ【阿古屋松】[能曲名]
能・狂言事典
番外曲 世阿弥(ただし古作の改作らしい) 四番目物・特殊物・太鼓物 前ジテ・木樵の老人・[着流尉出立か]後ジテ・塩竈(しおがま)明神・[初冠狩衣大口出立か] ...
41. あ‐ごう【阿号】
仏教語大辞典
浄土宗・時宗の僧や、画工・仏師・能役者などの名の下に「阿弥陀仏」「阿弥」「阿」などと付けたもの。世阿弥・辨阿・然阿など。 忍辱雑記 下・蓮社号 「誉号〈又阿号者 ...
42. 足利義満
世界大百科事典
妙葩(しゆんおくみようは)らの禅僧を重用したほか,自身和歌,連歌,楽,書に秀で,猿楽を好んで世阿弥を愛し,中国渡来の文物を愛玩するなど,文化の面でも傑出した指導 ...
43. 足利義満
日本史年表
1374年〈【北朝】応安7・【南朝】文中3 甲寅〉 この年 足利義満 ,今熊野社で観阿弥・世阿弥の猿楽を見る(申楽談儀)。 1378年〈【北朝】永和4・【南朝 ...
44. 芦刈(能)
日本大百科全書
能の曲目。四番目物。五流現行曲。世阿弥(ぜあみ)の作、あるいは田楽(でんがく)系の古能を世阿弥が改作したものか。『大和(やまと)物語』などによる伝説を素材とする ...
45. 蘆刈
世界大百科事典
能の曲名。四番目物。現在物。世阿弥作。シテは蘆売り,実は日下左衛門(くさかのさえもん)。左衛門の妻(ツレ)は大家へ奉公していたが,久しぶりに故郷の難波を訪れる。 ...
46. あしかり【蘆刈】[能曲名]
能・狂言事典
観世・宝生・金春・金剛・喜多 世阿弥改作 四番目物・男物狂物・大小物 シテ・蘆売りの男・日下(くさかの)左衛門・[水衣男出立(大口)のちに掛直垂大口出立]ツ ...
47. あし‐かり【葦刈・蘆刈】
日本国語大辞典
~1862〕「あしかり、文選江賦に蘆人とみゆ、蘆を採る者をいふ」【二】謡曲。四番目物。各流。世阿彌作か。「大和物語」などによる。落ちぶれて葦売りをしている摂津国 ...
48. 蘆刈説話
世界大百科事典
》,《源平盛衰記》巻三十六,また釜の神の本縁として《神道集》巻七にも見える。この系列に連なる世阿弥作《蘆刈》では,再会した男女がめでたく結ばれるが,男に日下左衛 ...
49. あしや・あしやのつ【葦屋・葦屋津】福岡県:遠賀郡/芦屋町
日本歴史地名大系
、湊町としての賑いを見せていた様子などがうかがえる。なお「これは九州芦屋の某にて候」で始まる世阿弥の謡曲「砧」は、訴訟のため京に上ったまま帰らない夫某の帰りを待 ...
50. あしよわ‐ぐるま【足弱車】
日本国語大辞典
車。また、一説に、足の弱い牛の引く、進みの遅い車。人の歩みがおぼつかないさまにもたとえる。*世阿彌筆本謡曲・弱法師〔1429頃〕「げにもそのみはこつじきの、まう ...
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上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
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真田昌幸(国史大辞典)
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本多正信(国史大辞典)
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