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  11. 北条時宗

北条時宗

ジャパンナレッジで閲覧できる『北条時宗』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
北条時宗
ほうじょうときむね
一二五一 - 八四
鎌倉時代中期の執権。父は北条時頼、母は時の連署北条重時の女。建長三年(一二五一)五月十五日、時頼の母松下禅尼の居宅である甘縄の安達邸で生まれた。幼名は正寿。庶兄に時輔がいた。康元元年(一二五六)十一月父時頼が出家して執権を重時の子長時に譲った。時宗が幼いための中継ぎとしての措置である。翌年二月将軍宗尊親王の御所で元服し時宗と命名された。七歳である。文応元年(一二六〇)二月、小侍所に入った。小侍所は将軍出行の際の催促や弓始射手の選定などをつかさどった。別当は北条氏一門の好学で知られる金沢実時で、時宗は形式的には副別当格であったが、以後四年間連署になるまで実時について幕府儀容面を中心に政務教育を受けた。時宗の文事関係の中国系の教養はこの期間を中心に蓄積されたとみられる。弘長元年(一二六一)四月、十一歳の時、安達義景の娘で十歳になる堀内殿と結婚した。彼女はのちに駆込寺として有名な東慶寺の開山になる。同年十二月従五位下左馬権頭となる。同三年十一月二十二日、父時頼が三十七歳で死去。文永元年(一二六四)七月、執権長時が出家し、翌月死去。連署の政村が執権となり、十四歳の時宗が連署となった。翌年正月従五位上、但馬権守となり、同年三月相模守となる。同三年七月、政村・時宗・実時・安達泰盛らの主導によって将軍宗尊親王が廃され、京都に送還、親王の王子で三歳の惟康王が将軍となった。同五年正月、モンゴルの国書が日本にもたらされ、日本はいやおうなしにモンゴルの対高麗・南宋政策の環の中に組み込まれることになった。同年三月、時宗は執権となり、モンゴル問題の真正面に立つこととなった。以後、弘安七年(一二八四)に没するまでの十六年間は、まさに時宗政権の時代といってよい。その時宗政権の前後を分けるのが文永九年の二月騒動(北条教時の乱)である。これは、評定衆で一番引付を兼ねる名越時章と、その弟で同じく評定衆である北条(名越)教時を鎌倉で誅殺し、庶兄の六波羅探題南方の時輔を同北方の北条義宗に誅殺させた事件である。時宗はこの事件を通して北条氏一門をほぼ完全に掌握し得宗としての地位を安定させた。モンゴル問題の外圧は幕府内部の反得宗的因子の粛清を正当化したのである。文永十一年十月、モンゴルは国書を拒絶した日本に攻め込んだ。いわゆる文永の役である。モンゴル軍は対馬・壱岐を経て博多に上陸し合戦を展開するが撤退し、撤退途上いわゆる「神風」にあう。建治年間(一二七五―七八)幕府は時宗を中心に防御体制を諸方面にわたって積極的に整備し、元使杜世忠を竜ノ口に斬り、モンゴル(元)の日本侵攻の基地高麗を逆攻撃しようという異国征伐を企てた(不実行)。弘安二年南宋を完全に滅ぼした元は同四年東路・江南両軍をもって日本を攻めた。いわゆる弘安の役で、閏七月一日、またもやの「神風」で壊滅的打撃を受けた。元はこのあと日本招諭を試みるが、結局成功しなかった。同五年、時宗は無学祖元を開山として鎌倉山内に円覚寺を建立した。主旨は両度蒙古合戦の戦死者・溺死者らを弔うためであった。しかし元の三征に対する防備の手をゆるめるわけにはいかず、長期間にわたる防御態勢の維持、合戦その他による社会の矛盾は激化しつつあった。安達泰盛らによる政治改革案が練られている最中の弘安七年四月四日、時宗は三十四歳の若さでその生涯を閉じた。法号は法光寺殿道杲(どうこう)。墓堂は円覚寺仏日庵である。異国防御に関連しながら、国内政治では文永十年思い切った御家人所領回復令を出している。翌年、亀山天皇の院政開始のあと、後宇多天皇の東宮に後深草上皇の皇子煕仁(ひろひと)親王を推戴して持明院統・大覚寺統両統迭立の端緒を作っている。禅宗を崇敬して大休正念・無学祖元らに参じ、詩文にも相応の力量をもっていた。→得宗専制政治(とくそうせんせいせいじ),→文永・弘安の役(ぶんえい・こうあんのえき)
[参考文献]
関靖『史話北条時宗』、黒田俊雄『蒙古襲来』(中央公論社『日本の歴史』八)、網野善彦『蒙古襲来』(小学館『日本の歴史』一〇)、工藤敬一『北条時宗』(『日本を創った人びと』九)、渡辺晴美「北条時宗の家督継承条件に関する一考察」(『政治経済史学』一一〇・一一一)、同「得宗専制体制の成立過程」(同一二五・一三九・一六二・一六五)、川添昭二「北条時宗の研究」(『松浦党研究』五)、村井章介「執権政治の変質」(『日本史研究』二六一)
(川添 昭二)


世界大百科事典
北条時宗
ほうじょうときむね
1251-84(建長3-弘安7)

鎌倉後期,モンゴル襲来のときの執権。父は北条時頼,母は同重時女。幼名正寿。7歳で将軍宗尊(むねたか)親王の手で元服,相模太郎時宗と称す。幼少より時頼の正嫡として執権となるべく育てられ,60年(文応1)小侍所(こさむらいどころ)別当,61年(弘長1)安達(あだち)義景女(泰盛養女)の堀内殿と結婚,左馬権頭従五位下,64年(文永1)連署,65年従五位上相模守。68年高麗使藩阜の来訪ののち,3月に18歳で執権に就任した。71年モンゴル使趙良弼が筑前今津に至り,時宗は鎮西に所領をもつ御家人に鎮西下向を命じ,翌年には一族の名越時輔,教時らを誅した(二月騒動)。74年10月元軍が来寇(文永の役),その後も時宗は翌75年(建治1)には元使杜世忠を竜ノ口に斬るなど一貫して対モンゴル強硬政策をとり,高麗進攻計画,防塁築造,非御家人の軍役動員などをすすめ,幕府を事実上の全国政権たらしめてゆくと同時に,舅の安達泰盛,得宗被官(御内人(みうちびと))の平頼綱らによる寄合(よりあい)を政治の中心におき,西国の守護職や重要所領を北条一門で独占する,いわゆる得宗専制を強化していった。81年(弘安4)には再度の元軍の来寇を退け,幕府の権威も大いに強化された。時宗は若くして蘭渓道隆,大休正念に深く師事し,79年にはその招きで無学祖元が来朝し建長寺の住持となった。82年には円覚寺を建て祖元を開山とした。さらに日〓や一遍らとの交渉もあった。84年4月4日没。法名は法光寺殿道杲,廟所は円覚寺内仏日庵で法体座像がある。
[工藤 敬一]

[索引語]
二月騒動 無学祖元
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3. ほうじょう‐ときむね【北条時宗】
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22. いしかわぐん【石川郡】福島県
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23. 伊豆国
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24. いまりし【伊万里市】佐賀県
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27. 雲巌寺画像
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(めいさつ)。1281年(弘安4)高峰顕日(こうほうけんにち)(仏国国師)が開創、83年執権北条時宗(ときむね)により建立された。朱塗りの反り橋から山門へ石段が ...
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元亨釈書)。開堂の翌年、北条時宗は将軍家祈祷所となし、尾張国富田庄・同富吉加納、上総国畔蒜南庄内亀山郷を寄進(同年三月二五日「北条時宗加判執事奉書」・同七月日「 ...
31. 円覚寺(神奈川県)
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神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済(りんざい)宗円覚寺派の大本山。山号は瑞鹿山(ずいろくさん)。1282年(弘安5)北条時宗(ときむね)が怨親平等(おんしんびょうど ...
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鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の大本山。山号は瑞鹿山。北条時宗が弘安の役直後の1281年(弘安4)に建て,翌年無学祖元を開山に迎えて開堂の法要を営んだ。中国の ...
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日本国語大辞典
神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派大本山。山号は瑞鹿山。鎌倉五山第二位。弘安五年(一二八二)北条時宗の創建で、宋僧無学祖元の開山。一重裳階付入母屋造りの舎 ...
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35. えんがくじ【円覚寺】 : 円覚寺/(一)
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36. えんがくじぶぎょう【円覚寺奉行】
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42. おおさとのしょう【大忍庄】高知県:香美郡
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43. かいのくに【甲斐国】山梨県
日本歴史地名大系
尉跡・室伏六郎次跡があげられ、甘利庄(現韮崎市)は北条得宗領であるなど(文永八年四月二七日「北条時宗下文」紀州三浦文書)、他氏族の足跡も少なからず残されている。 ...
44. 花押 38[別刷図版]画像
国史大辞典
732 北条義宗 733 北条宗頼 734 北条義政 735 北条時宗(一) 736 北条時宗(二) 737 北条時宗(三) 738 北条時宗(四) 739 北 ...
45. かくおんじ【覚園寺】神奈川県:鎌倉市/二階堂村地図
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寛元元年(一二四三)二月二日火災に遭ったが本尊は無事であった。弘長三年(一二六三)三月一〇日、北条時宗は当堂を修造し、遠江僧都によって真言供養が行われた(吾妻鏡 ...
46. かくさん【覚山】
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一二五二―一三〇六 鎌倉幕府執権北条時宗夫人、臨済宗の尼僧。秋田城介安達義景の女、母は北条時房の女。建長四年(一二五二)七月四日誕生。堀内殿、のち潮音院殿とよ ...
47. かくさんに【覚山尼】
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鎌倉時代の尼僧。建長4年7月4日生まれ。安達義景の娘。母は北条時房の娘。臨済(りんざい)宗。弘長元年北条時宗にとつぎ,嫡男貞時を生む。弘安(こうあん)7年夫とと ...
48. かさがけ【笠懸】画像
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其体〓、」として北条時宗の射技の名誉を伝えている。かように疏の間近に的を立てた小笠懸に対して、笠懸はきわめて遠距離に的 ...
49. かさはらのまき・かさはらのしょう【笠原牧・笠原庄】静岡県:小笠郡
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当庄の地頭はまず平重盛、次いで一条忠頼、十郎左衛門尉、毛利季光、安達義景、安達泰盛、潮音院(泰盛娘、北条時宗夫人)と相承される。正治二年(一二〇〇)六月、笠原庄 ...
50. かじまのしょう・かじま【加島庄・加島】静岡県:富士市
日本歴史地名大系
、源頼朝が当地に到着し、平氏軍と富士川を挟んで対陣している。文永五年(一二六八)三月二三日付北条時宗下文案(北山本門寺文書)に「駿河国賀嶋庄」とみえ、庄内の三社 ...
「北条時宗」の情報だけではなく、「北条時宗」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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