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  11. 北条時頼

北条時頼

ジャパンナレッジで閲覧できる『北条時頼』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
北条時頼
ほうじょうときより
一二二七 - 六三
鎌倉時代中期の執権。幼名戒寿丸。北条五郎と称す。北条時氏の次男。母は安達景盛の娘松下禅尼。安貞元年(一二二七)五月十四日辰刻、京都六波羅で生まれる。寛喜二年(一二三〇)四月十一日、父時氏の六波羅探題北方離任により鎌倉帰着。嘉禎三年(一二三七)四月二十二日、執権祖父北条泰時邸で元服、加冠の将軍藤原頼経の一字を受け五郎時頼と称す。暦仁元年(一二三八)九月一日左兵衛少尉。延応元年(一二三九)十一月二日毛利季光の娘と結婚。寛元元年(一二四三)閏七月二十七日左近将監。同二年三月六日従五位上。同四年三月二十三日、重病の兄経時の譲りを得て家督と執権職を嗣立。『吾妻鏡』のこの日の記事に、のち寄合衆に発展する「深秘御沙汰」の語初見。同五月、前将軍頼経・名越流北条光時らの陰謀を探知、同二十四日に兵をもって頼経御所と鎌倉中を制圧して未然に抑え、直後に評定衆の後藤基綱・藤原為佐・千葉秀胤・三善康持(問注所執事も)を罷免、光時を伊豆江間郷に、千葉秀胤を上総一宮に配流、頼経を京都に追却した(宮騒動)。ついで同十月、頼経の父前摂政九条流藤原道家の関東申次罷免と西園寺実氏の同職任命を京都に要求、実現させた。これにより九条家の勢威は落ち、かわって以降代々関東申次を世襲した西園寺家の地位があがり、同十一月後嵯峨院政にも実氏を中心とした院評定衆が創設され、朝政刷新にもなった。宝治元年(一二四七)四月、幕初以来の雄族三浦氏の討滅を図り、外祖父安達景盛を高野山より招いて三浦氏を挑発、同六月五日異心なきを誓う三浦泰村を奇襲して滅ぼし、同七日千葉秀胤も上総一宮で滅ぼして実権を確立、専制化を強めた(三浦氏の乱)。この時点を得宗専制の成立と見る説もあるが、建長元年(一二四九)六月十四日相模守に任じ、同十二月九日、訴訟の公正迅速を目的として評定衆の下に引付衆を付設したことをもって、合議制の進展、執権政治の最盛期とする見方もある。同三年十二月、自由出家のかどで足利泰氏の所領一所を没収。謀叛の疑いで了行法師・矢作左衛門尉らを追捕処断。両事件の背後に九条一族の陰謀を探知するや、翌年春、将軍藤原頼嗣を廃立京送して、後嵯峨上皇の第一皇子宗尊親王を将軍に迎えた。時頼の政治には、宝治元年十二月に京都大番役を六ヵ月から三ヵ月勤番に減じ、同二年閏十二月に寒中の的調べを止めるなどの御家人擁護、建長三年六月に地頭・農民間の訴訟の法を定め、同五年十月の十三条の新制で撫民のことを定めるなどの農民保護があり、特に質素倹約を勧めて、沽酒の一屋一壺制、過差・博奕・鷹狩の禁、薪・炭・蒿などの物価の統制などが有名。全体に北条氏得宗家に対する外様御家人、地頭に対する領家と農民、惣領に対する庶子などの弱者の救済を図ったので、善政と謳われて人気があり、ついに変装して諸国を廻国し勧善懲悪を行なったという廻国伝説が生じた。この伝説が最初にみえるのが『増鏡』九草枕であるが、ほかにも『弘長記』にもあり、謡曲「鉢の木」「藤栄」「浦上」などの話を生んだ。この伝説を時頼が廻国使という密偵を諸国に派遣したことの反映と見る説と、伝説のある地域が多く得宗領であることから、この時期に得宗領がもっとも増加したという解釈がある。康元元年(一二五六)十一月二十二日、赤痢により執権職を極楽寺流北条長時に譲り、翌日出家して最明寺入道覚了房道崇と号す。長時の地位は家督時宗の幼稚の間の眼代でしかなく、直後平癒した時頼は実権を回復して後見政治を行なった。その権力は執権職に由来せず、得宗たるの地位によっていたことは明白で、この時点より以前に得宗専制が成立していたと見るべきであろう。弘長三年(一二六三)十一月二十二日戌刻、最明寺北亭で死没。三十七歳。前後十八年間に及ぶ時頼の政治は、泰時の政治と並んで鎌倉幕府中興の仁政と謳われたが、反面、北条氏得宗家の権力のより強度な伸張を図ったことも否定できない。神奈川県鎌倉市の明月院に墓がある。
[参考文献]
奥富敬之『鎌倉北条氏の基礎的研究』、同『鎌倉北条一族』、同「北条時頼の回国説と密偵組織」(『鎌倉武士』所収)、安田元久「北条時頼」(『鎌倉幕府―その実力者たち―』所収)、阿部征寛「執権北条時頼」(安田元久編『鎌倉将軍執権列伝』所収)、川添昭二「北条時頼の信仰」(『法華』六五ノ四)、豊田武「北条時頼の廻国伝説」(『中世史研究』一)、三浦周行「北条時頼の廻国説批評」(『史学雑誌』二四ノ六)、同「北条時頼廻国論批評」(『歴史地理』二二ノ四)、八代国治「北条時頼の廻国説を論ず」(同二二ノ二)、長沼賢海「時頼廻国の説を評してその信仰に及ぶ」(『仏教史学』三ノ二)
(奥富 敬之)


世界大百科事典
北条時頼
ほうじょうときより
1227-63(安貞1-弘長3)

鎌倉中期の執権。父は北条時氏,母は安達(あだち)景盛女(松下禅尼)。幼名戒寿。1230年(寛喜2)時氏が死去して祖父泰時に養育され,37年(嘉禎3)元服,43年(寛元1)左近将監従五位下。46年閏4月の兄経時の死没にさきだち3月23日執権となった。その直後,一族の名越光時を誅し,将軍藤原頼経を追放(宮騒動),47年(宝治1)には安達景盛と計って三浦泰村一族を滅ぼした(宝治合戦)。49年(建長1)引付衆(ひきつけしゆう)を設けて訴訟制度を改革し,52年には将軍藤原頼嗣を追放して後嵯峨天皇の皇子宗尊(むねたか)親王を将軍に迎え,西園寺実氏を太政大臣につけるなど,執権政治と北条氏の権威の増大を計った。その政治は術策にとみ独裁的であったが,大番役(おおばんやく)の6ヵ月から3ヵ月への短縮,地頭の一方的在地支配の抑制など土民保護の姿勢から,のち諸国の民政を視察したという回国伝説が生じた。深く禅に帰依し,宋から来朝した蘭渓道隆を鎌倉に迎え,建長寺を建てて開山としたほか,兀庵普寧(ごつたんふねい)にも参禅した。そのほか弁円,忍性,叡尊などとも接触があった。56年(康元1)病気となり,11月22日執権職を退き,翌日最明寺(さいみようじ)で出家した。戒師は道隆,法号は覚了房道崇。しかし出家後もなお政治を左右し,63年9月22日最明寺北亭で没した。墓所は鎌倉の明月院。
[工藤 敬一]

伝説

政治家として高い評価が与えられたため,出家後諸国を行脚して民情を視察したとの伝説が生まれた。当時全国を遊行していた時衆(じしゆう)がその伝説を語りひろめたようである。いま滋賀県守山市勝部にある時宗の最明寺は鎌倉山と号し,北条時頼開基という寺伝がある。千葉県御宿(おんじゆく)町にも最明寺があり,時頼が足をとどめたので御宿の名があるという。《越中志徴》巻二の礪(砺)波郡西明寺村,《淡路名所図会》巻一の西明寺村,《下野国誌》芳賀郡益子郷西明寺,《新編相模国風土記稿》足柄上郡金子村最明寺,《〓門精舎旧詞》巻二十五の信濃更級郡真島村最明寺,《越前国名蹟考》巻四の今立郡水海の最明寺堂など,いずれも時衆や遊行者の語りひろめた伝説の痕跡である。《増鏡》《太平記》に最明寺入道時頼の回国伝説がみえるが,謡曲《鉢木》は特に名高い。旅僧に姿をやつした時頼が上野の国佐野で大雪に道を失い,佐野源左衛門常世の零落した家に泊めてもらう。常世は秘蔵の鉢の木をたいてもてなした。後年鎌倉に軍勢を集めた時頼は,はせ参じた常世の所領を復活し,雪の夜の鉢の木の礼に三ヵ所の土地を与えるというのである。
[金井 清光]

[索引語]
宮騒動 宝治合戦 蘭渓道隆 最明寺 最明寺入道 鉢木
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27. あおとふじつな【青砥藤綱】
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28. 青砥藤綱[文献目録]
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30. 青森(県)画像
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39. あだち‐かげもり【安達景盛】
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40. あだちし【安達氏】画像
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介となって以来、その職を世襲、ために城氏とも称した。景盛・義景のとき三浦氏と権勢を争い、執権北条時頼を動かして三浦氏討滅に成功したが、泰盛の代に、権勢ある唯一の ...
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42. 安達泰盛
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43. あみだじ【阿弥陀寺】茨城県:岩井市/長須村
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清・有国・国綱の六兄弟の世代に至って、後鳥羽院御番鍛冶の列に加わると伝えられ、なかでも国綱は北条時頼のために名刀「鬼丸」を制作したことで名高い。更に国友の孫吉光 ...
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鎌倉前期の刀工。国頼の孫。通称藤六。左近将監。後鳥羽上皇に従って隠岐に行き、御番鍛冶となる。のち北条時頼のために名刀「鬼丸」を制作。長寛元~建長七年(一一六三~ ...
46. あわたぐちは【粟田口派】画像
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久国は院の指南役であったと伝えている。国綱はのちに北条家に召されて鎌倉に下向して作刀し、名物鬼丸は北条時頼の注文打と伝えており、明治天皇以来御物となっている。彼 ...
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48. 安東〓
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鎌倉後期西国で活躍した得宗被官。平右衛門入道と通称する。1262年(弘長2),西大寺叡尊のもとへ北条時頼の使者としておもむいたのが史料上の初見。文永ごろ京で山僧 ...
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50. あんよういん【安養院】東京都:板橋区/上板橋村地図
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本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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