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  11. 北条政子

北条政子

ジャパンナレッジで閲覧できる『北条政子』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典のサンプルページ

国史大辞典
北条政子
ほうじょうまさこ
一一五七 - 一二二五
鎌倉幕府初代将軍源頼朝の正妻。父は北条時政。保元二年(一一五七)生まれる。頼朝との出会いの機縁は父時政が平治の乱後伊豆配流に処せられた頼朝の監視役であったこと、また二人が通じ合うようになったのは長女大姫の年齢などから推して治承元年(一一七七)ころであったと考えられている。この時、政子が、平氏の威を恐れる父の反対を押し切り深夜豪雨の中を伊豆山権現で待つ頼朝のもとへ走ったという『源平盛衰記』の話は、史実か否かは別として、政子の人間性と素朴な鎌倉時代地方武士の家に育った女性の一典型を知らせる逸話として有名である。治承二年大姫誕生。ところで当時は全盛を極めた平氏政権が鹿ヶ谷の謀議を直接の契機として衰退への道を歩み始め、全国的規模の反平氏運動の機運が高まりつつあった時代にあたり、頼朝と政子の置かれた環境も急速に変化していった。『吾妻鏡』などの記事によれば源家旧臣たちが頼朝の周囲に集まるのみならず、時政が頼朝を婿として認知、また反平氏・源家再興の後援者となっていったと記されている。治承四年八月頼朝が以仁王の令旨を奉じて挙兵、石橋山での敗戦はあったものの十月には全関東をほぼ制圧し鎌倉に居を定めると正式に御台所として迎えられた。寿永元年(一一八二)長子頼家、文治元年(一一八五)ころ次女三幡、建久三年(一一九二)次子実朝を相ついで出産。鎌倉政権も安定期に入った建久六年、頼朝に随って上洛、東大寺再建法要に列席したほか京都諸寺巡拝、また当時女流宮廷政治家として朝廷内に大きな影響力を有していた後白河院寵姫丹後局(高階栄子)と会見、大姫入内問題について意見を交換している。建久八年大姫死去、正治元年(一一九九)正月には頼朝が急死、間もなく出家して尼となる。その後、二代将軍に長子頼家が就任するとこれを後見、最高権力者頼朝亡き後幕府内部が動揺し、また若年の頼家による専恣的政治が行われることを防ぐ目的から、将軍の訴訟親裁権を停止、宿老御家人十三名による合議制を成立させる一方、父時政・弟義時と結んで幕府内における北条氏の地位向上と実権掌握に努める。このため政子・時政らの処置に不満の頼家との関係が次第に悪化、建仁三年(一二〇三)頼家が重病に陥ると頼家の帯する日本国総守護および総地頭職を頼家の長子一幡と弟実朝に分割譲与。さらにこの処置に不満の頼家の舅比企能員の一族を滅ぼすとともに一幡を殺害。頼家を伊豆修禅寺(静岡県田方郡修善寺町)へ幽閉した。三代将軍に次子実朝が任じられると再び後見役として幕政に参画。元久二年(一二〇五)畠山氏討伐事件を発端として時政と義時の間に隔絶が生じると弟義時と結び時政と対立。同年七月、時政の後室牧の方による陰謀事件(平賀朝雅の乱)が発覚すると、当時、時政邸に居た実朝を自分のもとに引き取り、父と牧の方を伊豆北条(静岡県田方郡韮山町)に幽閉した。またこのころ後鳥羽院を中心として討幕の気運が活発になってきた京都政界との和解工作のため建保六年(一二一八)にはみずから上洛、子に恵まれない実朝の後継将軍として後鳥羽院の皇子を鎌倉へ迎えられるよう画策、当時朝廷内に隠然たる勢力を築きつつあった藤原兼子(卿二位)と会談してその内諾を得ることに成功した。しかしながら翌承久元年(一二一九)正月右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣した実朝が頼家の遺児公暁によって暗殺されると、京都側は前の密約を破棄して親王将軍の鎌倉下向を拒否、やむをえず鎌倉では頼朝の遠縁にあたる左大臣九条道家の四男で二歳の三寅(頼経)を後継者として迎えた。政子はこの幼将軍にかわって簾中で政務を後見、世に「尼将軍」と称されることとなった。承久三年後鳥羽院は北条義時追討宣旨を諸国に下し討幕運動を開始。いわゆる承久の乱は結果的には鎌倉方の圧倒的勝利のもとに終結したものの幕府創設以来最大の危機であり、この時政子は頼朝の正妻として諸御家人を前にして頼朝の恩義を説き幕府の結束を促したのである。乱後は仏事供養や一家内の仕事を中心としながらも義時を全面的に支援して乱の終戦処理にあたった。その後元仁元年(一二二四)義時が没すると義時の後室伊賀氏とその実家の陰謀を抑え(伊賀氏の変)、執権職を義時の長子泰時に継がせ、同時に義時の弟時房を連署として泰時の補佐役とするなど執権政治体制の確立に尽力した。嘉禄元年(一二二五)七月十一日没。六十九歳。法名如実。妙観上人とも号した。墓所は当初、勝長寿院御堂(鎌倉市雪ノ下法華堂跡)内に築かれたが、のち寿福寺と高野山にも分骨された。極位は建保六年十月十三日に叙せられた従二位。その人物像については「女丈夫」「嫉妬深い」といった評判があるが、これは後世の戯作者による興味本位のもので、『吾妻鏡』などに語られる数々のエピソードによれば当時の東国女性の一般的姿の一つであったと考えられる。現在の研究は歴史上、政子の役割について武士政権成立の過程で本質的に貴族性を具備する頼朝と、彼を戴いた東国武士団との緩衝剤的意義、また将軍から執権へと幕府の実権が移行する際の潤滑剤的意義を評価することに重点がおかれている。
[参考文献]
『大日本史料』五ノ二 嘉禄元年七月十一日条、安田元久『源頼朝』、渡辺保『北条政子』(『人物叢書』五九)、岡部周三『吾妻鏡の人びと』、奥富敬之『鎌倉北条氏の基礎的研究』、三浦勝男「頼朝と政子」(『国文学解釈と鑑賞』三一ノ六)、杉橋隆夫「北条時政と政子」(『歴史公論』五ノ三)、五味文彦「卿二位と尼二位」(『お茶の水女子大学女性文化資料館報』六)
(並木 優記)


日本大百科全書(ニッポニカ)
北条政子
ほうじょうまさこ
[1157―1225]

鎌倉前期の政治家。時政(ときまさ)の女(むすめ)、源頼朝(よりとも)の妻。2代将軍頼家(よりいえ)、3代将軍実朝(さねとも)の母。伊豆配流中の頼朝と結婚、石橋山の戦いのときは伊豆に隠れていたが、まもなく鎌倉に迎えられた。1182年(寿永1)には頼家を、92年(建久3)には実朝を生んだ。3年後頼朝に従って上京し、長女の大姫入内(おおひめのじゅだい)を意図して、朝廷の実力者丹後局(たんごのつぼね)と面談した。しかしこれは大姫の死によって実現しなかった。頼朝の死(1199)後、尼となり、大江広元(おおえのひろもと)、父時政らの元老重臣の合議制政治を推し進め、頼家の独裁を抑えた。頼家重病に際し、父と謀って頼家を廃して実朝を将軍とした。1205年(元久2)時政が後妻牧方(まきのかた)とともに将軍廃立を謀ったため、弟義時(よしとき)と相談して実朝を守り、父を伊豆へ送った。義時執権時代を通じてつねに政務の中心にあった。18年(建保6)の上京の際、出家の身で従三位(じゅさんみ)に叙せられた。続いて二位に進み、「二位家」と称された。実朝の死後、鎌倉殿の任務を代行、やがて藤原将軍を迎えた。承久(じょうきゅう)の乱(1221)に際して、幕府の恩を説いて東国武士を京に攻め上らせた話は有名である。義時急死後、伊賀(いが)氏の陰謀を抑え、甥泰時(おいやすとき)(義時の子)を執権とし、政子は「尼(あま)将軍」として敬重された。嘉禄(かろく)元年7月11日病死。
[田辺久子]



世界大百科事典
北条政子
ほうじょうまさこ
1157-1225(保元2-嘉禄1)

鎌倉前期の政治家。伊豆の武士,北条時政の娘。平治の乱(1159)後,源頼朝が伊豆に流されていたおり,その妻となった。1180年(治承4)8月,頼朝が挙兵した際,政子は一時伊豆山に潜んでいたが,10月には頼朝に迎えられて鎌倉に入った。82年(寿永1)に長男頼家,92年(建久3)に次男実朝を産み,ほかに2人の娘がいる。95年頼朝が東大寺供養に上洛した際,政子は子どもたちとともに同行し,京都で丹後局(高階栄子)らと対面した。丹後局は後白河法皇の寵を受け,法皇の没後も隠然たる勢力をもっていた。頼朝夫妻が局と対面したのは,長女大姫(おおひめ)を後鳥羽天皇に入内(じゆだい)させる計画を進めるためであったが,97年に大姫が没し,計画は実らなかった。99年(正治1)頼朝の死により政子は出家したが,同年には次女三幡も病没,政子には悲しみが続いた。頼朝の跡を頼家が継いだが,政子や時政は頼家の外家である比企氏の台頭を嫌い,頼家がみずから訴訟を裁くのを停め,北条時政・義時父子,大江広元,比企能員ら13名の有力御家人の合議によることとし,頼家の独裁を抑えた。1203年(建仁3)頼家が重病になると,関西38ヵ国地頭職を実朝に,関東28ヵ国地頭職と惣守護職を頼家の長男一幡に分与する案を立てた。一幡の外祖父比企能員がこれに不満を示すと,政子,時政は比企氏を滅ぼし,一幡を殺し,頼家を出家させて伊豆の修禅寺に幽閉し,実朝を将軍に擁立し,時政は執権となった。この結果,将軍は完全に実力を失い,時政と政子が実権を握った。

1205年(元久2)時政は後妻牧の方(政子の継母)と謀って実朝を廃し,女婿の平賀朝雅を将軍に立てようとした。政子は弟の義時とともに実朝を守り,父を伊豆に隠退させた。18年(建保6)熊野詣に赴いて都に立ち寄り,後鳥羽上皇の乳母として権勢を振るっていた卿局(藤原兼子)と会見,嗣子のない実朝の後継者として,上皇の皇子頼仁親王を迎える内約を結んだ。京都滞在中,兼子の計らいで政子は従三位に叙せられ,やがて従二位に昇った。翌19年(承久1)実朝が頼家の遺子公暁(くぎよう)に殺されると,幕府はさきの内約に基づき,後鳥羽上皇の皇子を鎌倉に迎えることを望んだが,上皇はこれを許さず,そのかわりに摂関家から,頼朝の遠縁にあたる藤原頼経が鎌倉に下ることになった。しかし頼経は当時2歳であり,実質上の将軍(鎌倉殿)は政子であって,俗に〈尼将軍〉と呼ばれた。21年後鳥羽上皇が討幕の兵を挙げ,承久の乱が起こると,政子は御家人たちに幕府の恩を説いて奮起を促し,都に攻め上らせ,勝利を収めた。24年(元仁1)義時が没し,その子泰時が執権となると,泰時の継母伊賀氏は泰時を退け,子の政村を執権,女婿の一条実雅を将軍にしようとしたが,政子はこの陰謀を抑えて泰時を救い,執権政治を安泰ならしめた。政子と実朝の墓は,政子が栄西を開山として創建した鎌倉の寿福寺にある。
[上横手 雅敬]

[索引語]
高階栄子 尼将軍


新版 日本架空伝承人名事典

北条政子
ほうじょうまさこ
1157‐1225(保元2‐嘉禄1)
 鎌倉前期の女性政治家。北条時政の娘。鎌倉幕府を創設した源頼朝の夫人。頼朝との間に大姫、頼家(二代将軍)、乙姫、実朝(三代将軍)を産んだ。頼朝の死後、父時政や弟の北条義時、あるいは大江広元らと協力して幕政を主導し、「尼将軍」と呼ばれた。北条時政は伊豆に流刑になっていた頼朝の監視役であったが、政子は時政の反対を振り切って頼朝と結婚。一一八〇年(治承四)八月に頼朝が挙兵した際は伊豆山に隠れていたが、同年一〇月に御台所として鎌倉に移った。頼朝の死後は頼家が若かったため、最高実力者として幕府を取り仕切った。頼家の死によって実朝が将軍職を継ぐが、一二一九年(承久一)実朝は頼家の遺児公曉に暗殺され、源氏の将軍が断絶。二一年に後鳥羽上皇はこれを幕府打倒の絶好の機会として執権北条義時追討の院宣を発し、承久の乱が起こった。この最大の難局に際し、政子が鎌倉に集まった御家人に頼朝以来の御恩の意義を説いた「最後の詞」が御家人たちへの檄となり、承久の乱は幕府の圧勝となった。京方の首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島、仲恭天皇は廃され、後堀河天皇が即位した。その結果、後鳥羽上皇の膨大な荘園や公家・武士の所領三千箇所が没収され、幕府方の御家人に分け与えられたという。承久の乱の結果、朝廷は幕府に完全に従属し、政子の力が北条氏を頂点とする執権政治を確立させた。
 一方、頼朝の弟源義経は平氏打倒に尽力したが、平氏滅亡後に頼朝と不和となり、義経追討の院宣を出されたため、陸奥に落ち延びて行った。その過程で、義経の妾の静御前が捕えられ、鎌倉の鶴岡八幡宮で舞を舞い、義経を恋しく思う気持ちを謡った。これに対し頼朝は激怒したが、政子は静を貞女として褒め、頼朝の怒りを静めたという。政子は頼朝と国難を越えて結ばれてから、当時当たり前であった一夫多妻制を認めず、頼朝の浮気相手の家を壊させるほどの嫉妬の持ち主であった。このことと静を庇護したことは矛盾するようだが、義経を慕う静の姿に、政子は自分が頼朝に向ける同じ思いを見て、心打たれたのであろう。
[安宅 夏夫]
いゝ夢を政子御前は買あてる
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):40‐27
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
右兵衛さんよしなとお政初手ハ言
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):99‐114
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
第一句、政子の妹が夢を見て姉に話し、政子は吉夢であることを看破して、鏡を代償に与えて夢を買ったことにより、征夷大将軍の妻となった、という説話による。第二句、江戸庶民の世界に卑俗化した趣向。伊豆蛭ヶ島ひるがしまに配流となった右兵衛権佐(頼朝)も古川柳では北条家の居候あつかいで、時政の息女政子に求愛したとき「初手しょて」(はじめのうち)は……。
ほそひ手で尼将軍ハ世をにぎり
編者/評者:編者未詳
出典:『柳多留拾遺』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):5‐16
刊行/開き:1796~97(寛政8~9)(刊)
帳箱に尼将軍ハひぢをつき
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):智‐3
刊行/開き:1762(宝暦12年)(開き)
第一句、女の細腕などと侮るなかれ。第二句、「帳箱」は商家で帳簿を入れておく箱。この尼将軍は、夫の亡きあと商売の采配をふるい頑張っている後家。
あつけない右大臣だと政子泣
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):鶴‐1
刊行/開き:1771年(明和8)(開き)
「右大臣」すなわち三代将軍実朝(次男)。頼朝没後、頼家が将軍職につくが、これを廃し、実朝を立てたものの、一二一九年(承久一)正月、鶴岡八幡宮社頭において、頼家の次男公曉の手で暗殺された。
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1. 北条政子
日本大百科全書
鎌倉前期の政治家。時政(ときまさ)の女(むすめ)、源頼朝(よりとも)の妻。2代将軍頼家(よりいえ)、3代将軍実朝(さねとも)の母。伊豆配流中の頼朝と結婚、石橋山 ...
2. 北条政子
世界大百科事典
1157-1225(保元2-嘉禄1) 鎌倉前期の政治家。伊豆の武士,北条時政の娘。平治の乱(1159)後,源頼朝が伊豆に流されていたおり,その妻となった。118 ...
3. ほうじょう‐まさこ【北条政子】
日本国語大辞典
鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の妻。北条時政の娘。伊豆配流中の頼朝に嫁し、頼家、実朝を生む。頼朝死後、幕政に参加。実朝死後、京都から九条頼経を迎えて将軍とし、執権政治 ...
4. ほうじょうまさこ【北条政子】
国史大辞典
いる。 [参考文献]『大日本史料』五ノ二 嘉禄元年七月十一日条、安田元久『源頼朝』、渡辺保『北条政子』(『人物叢書』五九)、岡部周三『吾妻鏡の人びと』、奥富敬之 ...
5. 北条政子
日本史年表
1217年〈建保5 丁丑〉 6・20 北条政子の計により,源頼家の子 公暁 を鶴岡八幡宮別当とする(吾)。 1218年〈建保6 戊寅〉 2・21 北条政子,熊野 ...
6. ほうじょう-まさこ【北条政子】
日本人名大辞典
1157−1225 平安後期-鎌倉時代,源頼朝(よりとも)の妻。保元(ほうげん)2年生まれ。北条時政の娘。伊豆(いず)配流中の頼朝と結婚,源頼家・実朝と2女を生 ...
7. ほうじょうまさこ【北条政子】
日本架空伝承人名事典
鎌倉前期の女性政治家。北条時政の娘。鎌倉幕府を創設した源頼朝の夫人。頼朝との間に大姫、頼家(二代将軍)、乙姫、実朝(三代将軍)を産んだ。頼朝の死後、父時政や弟の ...
8. 北条政子[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:4件 【逐次刊行物】:5件 『平政子論』山路愛山『北条政子』渡辺保『北条政子』橋本公作『北条政子』海音寺潮五郎『尼将軍平政子』小林知治 ...
9. 源賴朝與北條政子(見出し語:源賴朝)
古事類苑
禮式部 洋巻 第1巻 1351ページ ...
10. 足利氏画像
世界大百科事典
その子どもたちのうち,義清は源義仲に従って水島で平氏に討たれるが,義兼は早くから頼朝の御家人となり,北条政子の妹を妻として信任される。以後足利氏嫡流は代々北条氏 ...
11. 足利義氏
日本大百科全書
家して正義と称した。高野山(こうやさん)の金剛三昧(こんごうさんまい)院に大仏殿を造立し伯母北条政子(まさこ)の菩提(ぼだい)を弔った。なお、最後の古河公方(こ ...
12. あしかがよしうじ【足利義氏】画像
国史大辞典
東海道を上り、乱後恩賞として美作新野保以下数ヵ所を賜わった。暦仁元年(一二三八)伯母にあたる北条政子十三回忌には、追善のために高野山金剛三昧院内に大仏殿を建立し ...
13. あしかがよしうじ【足利義氏】 : 足利義氏/(一)
国史大辞典
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14. あのときもと【阿野時元】
国史大辞典
賜わって東国を管領しようと企てていると報じた。将軍源実朝が公暁に殺された日の十数日後のことである。尼将軍北条政子は執権北条義時に命じて金窪行親以下の御家人を駿河 ...
15. あの-ときもと【阿野時元】
日本人名大辞典
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16. 尼将軍
日本大百科全書
北条政子 ...
17. あましょうぐん【尼将軍】
国史大辞典
北条政子(ほうじょうまさこ)  ...
18. あましょうぐん【尼将軍】
日本人名大辞典
北条政子(ほうじょう-まさこ) ...
19. あま‐みだいどころ【尼御台所】
日本国語大辞典
〔名〕尼になった御台所。貴人(大臣、大将、将軍など)の妻で尼になった人の尊称。特に、北条政子をさしていうことが多い。*吾妻鏡‐正治元年〔1199〕七月六日「今日 ...
20. あま‐みだいどころ【尼御台所】
仏教語大辞典
尼になった御台所。大臣・大将・将軍の妻で尼になった人の尊称。特に、北条政子をさしていうことが多い。尼御台とも。 慶長見聞集 三・古無僧、母のために修行の事 「尼 ...
21. あわのつぼね【阿波局】
日本人名大辞典
?−1227 鎌倉時代,源実朝(さねとも)の乳母。北条時政の娘。北条政子の妹。正治(しょうじ)元年一族の結城朝光(ゆうき-ともみつ)を梶原景時(かじわら-かげと ...
22. 安養院
日本大百科全書
宗の寺。「あんにょういん」ともいう。祇園(ぎおん)山長楽寺安養院という。1225年(嘉禄1)北条政子(まさこ)が夫源頼朝(よりとも)の菩提(ぼだい)を弔うため阿 ...
23. あんよういん【安養院】神奈川県:鎌倉市/大町村地図
日本歴史地名大系
[現]鎌倉市大町三丁目 逆川橋の東、北側にある。祇園山長楽寺と号し、浄土宗。開山願行房憲静、開基北条政子。本尊阿弥陀如来。もと名越派の本山。初め律宗で、嘉禄元年 ...
24. あんらくのみくりや【安楽御厨】三重県:亀山市/安楽村
日本歴史地名大系
一二二一)八月七日条によれば、承久の乱によって幕府に没収され、やがて世情の平穏化を契機として北条政子より伊勢神宮(内宮)へ寄進され、新たに御厨が設定された。「神 ...
25. いいのはちまんぐう【飯野八幡宮】福島県:いわき市/旧平市地区/北目村
日本歴史地名大系
大須賀胤信が預所となる。元久元年(一二〇四)社殿の造営を始め同三年完成。建永元年(一二〇六)北条政子が本願となって社殿を遷宮、承元三年(一二〇九)経蔵が完成。建 ...
26. 伊賀氏
日本大百科全書
執権にし、女婿(じょせい)一条実雅(いちじょうさねまさ)を将軍に立てて幕府の実権を握ろうとしたと北条政子より嫌疑をかけられ、伊賀氏一族は幕政から一掃された。これ ...
27. 伊賀氏の変
世界大百科事典
雅(一条能保の子)を将軍に立てて幕府の実権をにぎろうとし,義時の長子泰時を執権にしようとする北条政子と対立した。伊賀氏らは幕府最大の豪族三浦義村を味方にして野心 ...
28. いがしのへん【伊賀氏の変】
国史大辞典
握ろうとし、幕府内最大の豪族三浦義村をだきこんでその実現をはかった。一方、これに対して尼将軍北条政子は、義時の長子泰時を執権にしようとし、六・七の両月、鎌倉では ...
29. いが-ともみつの-むすめ【伊賀朝光女】
日本人名大辞典
兄の伊賀光宗(みつむね)とはかって娘婿の藤原実雅(さねまさ)を将軍に,子の政村を執権にしようと画策。対立する北条政子に機先を制され,計画は失敗し幽閉された。義時 ...
30. いじりのみくりや【井後御厨】三重県:亀山市/井尻村
日本歴史地名大系
これは同年五月に起こった承久の乱で幕府に没収され、鎌倉方が勝利を収め世上が平穏に復したことを奉謝するために、北条政子によって井後村が伊勢大神宮(内宮)に寄進され ...
31. 伊豆山[温泉]
世界大百科事典
にここで歌を残し,谷崎潤一郎はここを舞台に戯曲《腕角力》を書いた。温泉街の中央には,源頼朝が北条政子とあったといわれる逢初橋,岡田茂吉の収集した日本,中国などの ...
32. いずさんじんじゃ【伊豆山神社】静岡県:熱海市/伊豆山村
日本歴史地名大系
惟鑑は走湯山の東谷「上松尾谷」で某書を書写している(「某書奥書」金沢文庫蔵)。治承四年(一一八〇)八月一八日、北条政子は伊豆山の法音尼に対し、走湯権現や「雷電」 ...
33. いずのくに【伊豆国】静岡県
日本歴史地名大系
とに変りはなかった。やがて時政は後妻である牧の方の娘婿平賀朝雅を将軍に立てようと企てて失敗、北条政子と北条義時によって元久二年(一二〇五)閏七月二〇日伊豆国に幽 ...
34. いせじんぐう【伊勢神宮】三重県:伊勢市
日本歴史地名大系
止め神宮直轄とし、同年五月には三河国薑御厨・橋良御厨(現豊橋市)の地頭職を止めた。承久の変に際し北条政子が神宮に願文を捧げ、戦勝後内宮に伊勢国安楽村・井後村(現 ...
35. いどがやむら【井土ヶ谷村】神奈川県:横浜市/南区地図
日本歴史地名大系
らない。高野山真言宗乗蓮寺は、慶安二年(一六四九)三石六升の朱印地を与えられた。寺伝によると北条政子の開基、境内仏堂に尼将軍御影堂(坐像安置)がある。住吉社は鎮 ...
36. 稲毛氏
世界大百科事典
。なお重成の娘は他家に嫁して健在であり,重成には孫娘になる綾小路師季の娘が重成誅殺後まもなく北条政子の猶子となり,重成の遺領武蔵国小沢郷を与えられている。外岡  ...
37. いなげし【稲毛氏】
国史大辞典
戦死に至らしめたと咎められて殺され、子息小沢重政・弟榛谷重朝も同日に殺された。重政の名字の地小沢郷は北条政子の養女となった重成の外孫に与えられた。 [参考文献] ...
38. いなせがわ【稲瀬川】神奈川県:鎌倉市/長谷村
日本歴史地名大系
稲瀬河の耳に陣を取り、赤旗天に輝ける」とみえ、また「吾妻鏡」に散見する。治承四年一〇月一一日条には北条政子が伊豆阿岐戸郷から鎌倉に入る際、日次が悪いため稲瀬川川 ...
39. うきたのしょう【浮田庄】宮崎県:宮崎市
日本歴史地名大系
下文案」東京大学文学部所蔵東寺文書)。一方、承久三年(一二二一)には宇佐宮社家の訴えを受けて北条政子により別相伝領を全体として否定し、宇佐宮の直接支配に組込む命 ...
40. うつのみやよりつな【宇都宮頼綱】
国史大辞典
牧氏と謀り将軍源実朝を殺し女婿平賀朝雅を将軍にたてようとした隠謀事件に加担したとの嫌疑をうけ北条政子に討手をむけられた。頼綱は陳弁につとめ宇都宮において一族郎従 ...
41. 栄西画像
日本大百科全書
たちまち将軍、幕府の歓迎を受けて祈祷(きとう)を依嘱(いしょく)され、1202年(建仁2)には北条政子(ほうじょうまさこ)は栄西のために寿福寺を建てて住持せしめ ...
42. 栄西
世界大百科事典
をたたえ,これに対比して出家の持戒を督励しているのが注目される。99年(正治1)鎌倉に下向,北条政子と2代将軍源頼家の帰依をうけ,翌年寿福寺に請ぜられて開山とな ...
43. 江戸繁昌記 2 87ページ
東洋文庫
これが後世見事な茶山となって富春茶園と呼ばれた。この年将軍源頼家の命によって京都に建仁寺を開き、また頼朝の後室北条政子の招きに応じて相州鎌倉に寿福寺を開いてこれ ...
44. 扇ヶ谷
日本大百科全書
水神を祀(まつ)る所が多い。南部にある寿福寺(じゅふくじ)は、鎌倉五山の第三位、尼(あま)将軍北条政子(まさこ)が栄西禅師(えいさいぜんじ)を開山として創建、国 ...
45. 大江広元
日本大百科全書
源頼朝(よりとも)の腹心として京、鎌倉をしばしば往還し、朝幕間の折衝にあたった。頼朝の死後は、北条政子(まさこ)、義時(よしとき)と協調し執権政治の基礎を築くの ...
46. 大国魂神社
世界大百科事典
ヤキ苗1000株を植えたと伝承し,源頼朝が鎌倉に入って以後は本社を崇敬,1182年(寿永1)北条政子の安産を祈願のため使者を派遣,以後関東武士の崇敬が続いた。1 ...
47. おおくら【大倉】神奈川県:鎌倉市/雪下村地図
日本歴史地名大系
ったという(「北条九代記」「叡山行幸記」など)。大倉に幕府が構えられたことから、この地域には北条政子・義時・時房などをはじめ後藤基綱・足利義氏・伊賀時家などの有 ...
48. おおせんばむら【大仙波村】埼玉県:川越市地図
日本歴史地名大系
〇月二四日条に、鎌倉勝長寿院供養の際の随兵として仙波二郎、建久元年(一一九〇)一一月七日条に北条政子入洛時の随兵として仙波平太、同六年三月一〇日源頼朝の東大寺供 ...
49. おおたのしょう【太田庄】兵庫県:出石郡/但東町
日本歴史地名大系
、次いで北条泰時の上洛軍に合流したという(「吾妻鏡」承久三年八月一〇日条)。昌明のこの行動が北条政子と同義時に激賞され、乱後但馬守護に抜擢された。以後太田氏を称 ...
50. おおはらほ【大原保】岡山県:英田郡/大原町
日本歴史地名大系
なお前掲年貢目録には市場屋敷が記されている。紀州高野山金剛三昧院領。嘉禎四年(一二三八)三月二五日、足利義氏は北条政子十三回忌に建立された金剛三昧院大仏殿に大原 ...
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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エジソン(世界大百科事典)
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ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
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山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
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