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源義経

ジャパンナレッジで閲覧できる『源義経』の国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典のサンプルページ

国史大辞典
源義経
みなもとのよしつね

(一)

一一五九 - 八九
鎌倉時代前期の武将。平治元年(一一五九)に生まれる。幼名牛若丸。のちに九郎判官と称される。父は義朝。母は九条院雑仕常盤。源頼朝の異母弟。平治の乱に父義朝が敗死し、生後間もない義経は母や兄今若(全成)・乙若(義円)らとともに捕われたが、将来の出家を条件として一命を助けられ、洛北鞍馬寺にあずけられた。しかし成長するに及び、当寺を脱出してみずから元服、源九郎義経と称し、奥州平泉の藤原秀衡の庇護をうけた。治承四年(一一八〇)八月、兄頼朝が伊豆に挙兵したとき、その軍門に参加するため平泉を離れ、十月黄瀬川の陣において兄とはじめて対面した。寿永二年(一一八三)末、兄源範頼とともに頼朝の代官として京都に向けて出陣、元暦元年(一一八四)正月、京中に狼藉をくり返していた源義仲を討ち、頼朝配下の武将として、はじめての入洛を果たした。ついで後白河上皇の院宣をうけて、当時摂津一谷に布陣し入京の期をうかがっていた平氏の追討のために出京、いわゆる鵯越(ひよどりごえ)の奇襲戦法により、平氏軍に潰滅的打撃を与えて、これを海上に追い、大きな勲功を挙げた。一谷合戦後、頼朝の命により平氏軍を追走することなく帰洛、そのまま洛中の治安警備の任にあたり、上皇および京都貴族の信頼を得た。しかし上皇による頼朝・義経の離間策にのせられ、義経は頼朝の許可なく検非違使・左衛門少尉に任官したため、頼朝の警戒するところとなり、平氏追討の任を解かれた。文治元年(一一八五)正月、再び平氏追討に起用されると、二月阿波国に渡海し、讃岐国屋島に陣を構えていた平氏軍を背後から奇襲してこれを西走させ、さらに追撃して、三月には長門国壇ノ浦で平氏一族を潰滅させた。現地において戦後処理にあたったのち帰洛したが、この出陣の間に梶原景時以下の関東御家人と対立し、景時の讒訴もあって、赫々たる戦功にもかかわらず頼朝から一層の不信をうけるに至った。この際使者を立てて異心なきことを頼朝に陳じたが許されず、五月、生虜の平宗盛父子を伴って鎌倉に下向したものの、鎌倉入部を拒否され、相模国腰越に滞在して、頼朝に陳訴するため、大江広元にとりなしを依頼する「腰越状」を送ったりしたが、ついに許されず再び囚人宗盛らを伴い帰洛した。八月末伊予守に任官したが、頼朝派遣の刺客土佐坊昌俊の襲撃をうけ、また鎌倉側の挑発が激化したため、ついに頼朝に抵抗する意思を明確化し、以前より頼朝と対立していた叔父行家と結んで、ひそかに上皇の御所に参向、頼朝追討の院宣の発給を要求した。このため上皇は十月十八日に至り院宣を与えることとなる。鎌倉側では義経謀叛にそなえて軍兵の準備を進めていたが、この追討の院宣を知るや、直ちに第一陣を京都に向けて発向させた。その情報を得た京都および畿内は混乱状態となり、そのためか義経のもとには意外に軍兵が集まらず、彼は一旦西海に赴いて軍勢を再興せんと決意、上皇に要請して、義経は九国地頭職に、行家は四国地頭職に補任されたのち、十一月六日大物浜から乗船したものの、暴風雨のため難破し、わずかな手兵も四散してしまった。その後、畿内各地を転々と逃亡したが、鎌倉幕府側の探索が厳しく、危険を感じた義経は、数名の従者とともに再び奥州に逃れて藤原秀衡を頼った。この間鎌倉方では、義経の名が九条兼実の嗣子良経と同訓であることを憚り、義行と改名、さらに義顕と改めている。文治三年に入って義経の所在が判明し、頼朝は再三藤原氏に対して義経の引渡しを要求した。同年十月秀衡が死去すると、その嫡子泰衡は鎌倉側の強圧に屈し、文治五年閏四月三十日義経を衣川の館(岩手県西磐井郡平泉町)に襲撃、義経は妻子とともに三十一歳の生涯を終えた。現在、館跡には天和三年(一六八三)に伊達綱村の建立した祠堂が建つ。また、神奈川県藤沢市藤沢二丁目の白旗神社は、義経の首級を埋めた地と伝えられ、義経を祭神とする。そののち義経の数奇な運命と悲劇的な最期のため、彼を英雄視する伝説や物語が多く生み出されたが、なかでも『義経記』は最も著名な物語として、現在に至るまで多くの人々に訴え続けるものがあり、いわゆる「判官びいき」の心情を育ててきた。→一谷の戦(いちのたにのたたかい),→壇ノ浦の戦(だんのうらのたたかい),→治承・寿永の乱(ちしょう・じゅえいのらん),→富士川の戦(ふじがわのたたかい),→屋島の戦(やしまのたたかい),→義経伝説(よしつねでんせつ)
[参考文献]
『大日本史料』四ノ二 文治五年閏四月三十日条、数江教一『源義経―義経伝と伝説―』(『アテネ新書』五八)、渡辺保『源義経』(『人物叢書』一三三)、安田元久『源義経』(『日本の武将』七)

(二)

生没年不詳
平安時代後期の武将。『尊卑分脈』には源義光の曾孫で、山本義定の子、山本冠者と号し、伊賀守・若狭権守とするが、この官歴は疑問がある。『吾妻鏡』には「義光より以降五代の跡を継ぎ、弓馬の両芸に秀でた」とある。また前兵衛尉としてあらわれ、近江国の有力在地武士と推定される。安元二年(一一七六)十二月に、平家の讒言により佐渡国に配流され、治承三年(一一七九)勅命により赦された。その翌年頼朝の挙兵に際し、義経は弟の柏木義兼とともに、近江国の在地武士を組織し、十一月半ばころから反平氏の活発な動きを始めた。この叛乱勢力は近江国を押え、琵琶湖の水運を支配下に入れ、北陸道の運上物を点じ取るなどの活躍をしたが、平知盛の征討軍に敗れた。義経は逆賊の張本として追及されたが、やがて十二月の初め鎌倉に逃れ、土肥実平の斡旋により、源頼朝に祗候し、ここに頼朝と近江の反平氏勢力との連絡が完了した。これ以後の山本義経の活動は史料の上から消滅し、明らかとなっていない。
(安田 元久)


世界大百科事典
源義経
みなもとのよしつね
1159-89(平治1-文治5)

平安末期~鎌倉初期の武将。源義朝の末子,頼朝の異母弟。母は九条院の雑仕女(ぞうしめ)常盤(ときわ)。幼名牛若,九郎と称す。平治の乱(1159)で父義朝が敗死したのち母および2人の兄今若(のちの阿野全成(ぜんじよう)),乙若(のちの円成(えんじよう))とともに平氏に捕らえられたが,当歳の幼児であったため助けられて鞍馬寺に入れられた。この時期の義経の行動についてはまったく不明で,ほとんどが伝説・創作の域を出ない。

源九郎義経の行動が史実として確認されるのは,1180年(治承4)兄頼朝の挙兵を聞いて奥州平泉より駿河国黄瀬川に参陣してから以後のことである。頼朝の麾下に加わった義経は《吾妻鏡》にも〈九郎主〉と表現されるように,源家一門の御曹司として処遇され,頼朝の代官として,異母兄の範頼とともに平氏追討の大将軍として活躍した。84年(元暦1)1月まず京都にいた木曾義仲を討ってこれを近江に倒し,都の覇権をにぎった。ついで2月には平氏軍を一ノ谷に破ってその入京の勢いをとめた。この合戦における鵯越(ひよどりごえ)の奇襲は有名である。さらに翌85年(文治1)2月には讃岐国屋島の平氏軍を襲って大勝し,海上にのがれた平氏軍を追って関門海峡の壇ノ浦に戦い,これを全滅させた。3月24日のことである。その機知に富んだ戦術で平氏を討滅した義経は一躍英雄として都の内外の人々にもてはやされた。そして当然その功を賞せられるべきであったが,平氏追討戦の間に梶原景時以下の関東御家人と対立したばかりでなく,後白河上皇の頼朝・義経離間策にのせられて頼朝の認可をまたずに検非違使・左衛門少尉になったため,鎌倉御家人体制の組織を破る独断行為として頼朝の不興を買い,疎外されるに至った。義経は腰越状(こしごえじよう)を送って弁解したが,ついに鎌倉に帰ることを許されず,追放の身となった。追いつめられた義経は,叔父行家と結んで反逆を企て,85年10月18日,後白河上皇に強要して頼朝追討の院宣を得た。しかし義経らが結集しえた軍勢は少なく,この計画は失敗した。西海にのがれようとして摂津の大物浦に船出したが難破し,そののちは畿内一帯に潜伏して行方をくらまし,やがて奥州にのがれて藤原秀衡(ひでひら)の庇護を求めた。しかし秀衡の死後,その子泰衡は頼朝の圧迫に抗しえず,89年閏4月30日,義経を衣川の館に襲撃し,これを自害させた。数奇な運命にもてあそばれた悲劇的な義経の生涯は,多くの人々の同情を集め,後世には彼を英雄視する伝説・文学を生む結果となり,世に〈判官びいき〉の風潮を作った。
[安田 元久]

伝承

義経に関する伝説・口碑はきわめて多い。義経伝説のこのような普及は,おそらく御子神(みこがみ)の信仰を背景とした,薄幸の英雄を愛惜するいわゆる判官びいきによるものと思われる。義経の逸話や説話は《平家物語》《吾妻鏡》に見えるが,それは義経が武人としてはなばなしく活躍した世盛りの時代を中心としている。《平治物語》には簡略だが義経の生い立ちについて記し,《源平盛衰記》では断片的だが生い立ちや武蔵坊弁慶,伊勢三郎との関係にまで及んでいる。《義経記》では,その世盛りはむしろ省いて,その生い立ちと没落とを中心として,当時,民間に行われていたらしい伝承を,一代記風に集大成している。能,幸若舞,御伽草子の義経物は,《義経記》に記された義経伝説とかかわるものが多いが,細部で異伝を伝えている。兵法書にも義経伝説に触れるものがあり,なかには義経流の兵法書なども伝わっている。江戸時代には蝦夷の地に渡り大王となったとする説が行われ,明治期には大陸に渡ってジンギスカン(チンギス・ハーン)になったとする説も行われたが,これらは御伽草子《御曹子島渡り》《天狗の内裏》《皆鶴》などの渡島伝説や地獄巡り伝説が歴史的に解釈された結果だと思われる。

今,《平家物語》《義経記》を中心にして,多くの伝説の概略を記す。

生い立ち

義経は義朝の九男(《尊卑分脈》《平治物語》など)とも,六男(《吾妻鏡》など)ともされるが,《義経記》では八男とされ,九郎を称した理由を鎮西八郎為朝の跡を継ぐためとされる。江戸時代の浄瑠璃や草紙類では,常盤腹の3子,今若,乙若,牛若を頼朝,範頼,義経として,義経を三男とするものがある。1159年12月,父の源義朝が平治の乱に敗死すると,常盤御前は牛若ら3人の遺児をつれて大和国宇陀郡にのがれる。この常盤の流離の物語は特に幸若舞《伏見常盤》の素材ともなっている。牛若は幼くして鞍馬寺の東光坊の阿闍梨(あじやり)(覚日阿闍梨,東光坊阿闍梨円(〓)忍,覚円坊阿闍梨円乗とも)のもとにあずけられ,遮那王(しやなおう)と呼ばれた。自分の素姓を知った牛若は,平家打倒を心に秘め,昼は学問を修め,夜は鞍馬の奥僧正ヶ谷(涯とも)で武芸に励んだ。このとき,山の大天狗が憐れんで師弟の約を結び,兵法を授け,小天狗らと立ち合わせて腕を磨かせたとする伝説もある(《平治物語》《太平記》,能《鞍馬天狗》,幸若舞《未来記》など)。たまたま山に登った黄金商人(こがねあきんど)の金売吉次を説いて鞍馬を脱出し,藤原秀衡を頼って奥州に向かう。途中,近江国の鏡の宿で強盗に襲われるが,その頭目,由利太郎,藤沢入道らの首を取り賊を撃退する。異伝では鏡の宿が美濃の国の青墓宿,赤坂宿,垂井宿などともなり,賊の頭目も熊坂長範らとなることがある(能《烏帽子折》《熊坂》《現在熊坂》,幸若舞《烏帽子折》など)。尾張の熱田(あつた)では前大宮司を烏帽子親として元服し,九郎義経と名のる。この東下りの途中にも,無礼を働いた関原与市を牛若が切る伝説があり,場所は京の粟田口,美濃の不破,山中などともされる(《異本義経記》,能《関原与市》,幸若舞《鞍馬出》など)。三河国矢矧(やはぎ)宿では牛若丸は宿の長老の娘浄瑠璃姫と恋に陥る伝説(《浄瑠璃物語》など)などもある。駿河国では兄の阿濃禅師(今若)と会い,下野国では鞍馬で知り合った陵兵衛(みささぎのひようえ)を訪ねて,その冷遇を怒って館を焼き払い,上野国板鼻では伊勢三郎と会って家来とする。ついに奥州に入って吉次の手引きで秀衡に対面する。翌年,義経は単身で東山道を経て京に帰り,一条堀川(今出川とも)に住む陰陽師で兵法家の鬼一法眼(きいちほうげん)の娘幸寿前の手引きで,その秘伝の六韜(りくとう)兵法一巻の書を学びとる。鬼一法眼伝説は他に御伽草子《判官都話》(一名,《鬼一法眼》),《皆鶴》,能の《湛海》にも伝え,法眼の娘の名を皆鶴姫とするなど,異伝を含んでいる。これに似た伝説に御曹子島渡り伝説があり,奥州滞在中に義経は千島とも蝦夷(えぞ)ガ島とも称される島に渡り,鬼の大王の秘蔵する〈大日の法〉と名づけた兵法を大王の娘の手引きで盗み出すというものである(御伽草子《御曹子島渡り》)。この伝説の島が地獄となると牛若丸地獄巡り伝説となるが,これは牛若丸が鞍馬の毘沙門(びしやもん)に祈って,大天狗の内裏に至り,懇願して地獄を巡り,今は大日如来となっている亡父義朝に会うというものである。この時期で特筆すべき伝説は義経と武蔵坊弁慶との出会いを伝えるもので,《義経記》では五条天神と清水寺でのこととなっているが,五条橋での二人の対戦を描くいわゆる橋弁慶伝説は特に有名である(御伽草子《橋弁慶》《弁慶物語》,能《橋弁慶》など)。この伝説では,ふつう太刀1000本を奪う悲願を立てるのが弁慶で,義経と対戦して敗れ家来となることになっているが,1000本の太刀を奪うのが義経となっているものもある(《武蔵坊弁慶絵巻》など)。

世盛り

世盛りの時代の義経の活躍は《平家物語》などに見えるが,なかでも摂津国一ノ谷鵯越で,人馬も通わぬ嶮岨な坂を精兵3000を率いて敵陣の背後をついた坂下し伝説,屋島の合戦に海に落とした自分の弓を,叔父為朝の剛弓に恥じて,危険を冒して拾い上げる弓流し伝説,壇ノ浦の海戦に,敵将能登守教経に追われて,次々と8艘の船に跳び移り,これをのがれた八艘飛び伝説,屋島の平家軍を襲うため,船の舳先(へさき)にも艫(とも)にも櫓を立て,進退自由にしようと主張する梶原景時と対立して今にも景時を切ろうとしたとする逆櫓論伝説,生捕りにした平宗盛父子を護送して相模国腰越に到着した義経が,頼朝から鎌倉に入るのを拒まれ,いわゆる〈腰越状〉を書いて弁明したとする腰越状伝説などが有名である。

没落期

京都に帰った義経は堀河の館にしばらくとどまるが,義経の討手を頼朝から命じられ,熊野参詣と称して上洛した土佐坊昌俊(正尊などとも)に襲われる(能《正尊》,幸若舞《堀河夜討》などにも)。北条時政が大軍を率いて討手に向かったとの噂を聞いた義経は,西国に下ろうとして摂津の大物浦から出船すると,にわかに暴風雨が起こって,平家の怨霊があらわれる。弁慶は術や法力でこれを鎮める(船弁慶伝説。能《船弁慶》,幸若舞《四国落》《笈(おい)さがし》などにも)が,結局は難船し吉野山中に逃がれる。吉野法師は義経一行を追うので,最愛の静御前と別れ,佐藤忠信は吉野にとどまって奮戦する。このとき,義経が形見として静に秘蔵の初音の鼓を与えた。その鼓には大和国の狐の皮が張ってあったが,その狐の子が忠信に化けて静の供をする話が《義経千本桜》などに見え,狐忠信伝説として有名である。忠信は吉野法師の追撃を振り切って都に潜入するが,愛人の裏切りで密告され,六波羅勢に囲まれて壮烈な死を遂げる。一方,義経は南都の勧修坊に身を寄せ,吉野法師はこれを襲うが,義経に散々に切られる。捕らえられて鎌倉に連行された静は,義経の子を産むが,その子は由比ヶ浜で殺される。幸若舞《静》などでは,このとき,梶原景時の提案で静の胎内を探って母子ともに殺そうとするいわゆる胎内さぐり伝説を伝えている。追いつめられた義経は,北の方(久我大臣の姫君)や弁慶以下16人の家来とともに,山伏姿に身をやつし,奥州に脱出するために北陸筋にかかる。大津から,大津次郎の献身で,無事に海津の浦に着き,愛発(あらち)山,三の口,平泉寺,如意の渡し,直江津と一行の上に危難がつづくが,そのつど弁慶の機知と胆力によってかろうじて乗り越える。能《安宅》,幸若舞《富樫》などに義経のこの北国落ちの途中,加賀国安宅(あたか)関で,富樫左衛門にとがめられ,弁慶がありもしない勧進帳を読んで富樫の疑念を晴らし無事脱する伝説が見える。義経一行が直江津でも怪しまれ,所持した笈を探される伝説は《義経記》に見えるが,幸若舞の《笈さがし》にも見える。奥州落ちの途中,陸奥国信夫の佐藤庄司の館では佐藤継信,忠信の母の尼公が山伏接待を行い,義経はこの接待を受けるが,身の上をかくして弁慶に継信,忠信兄弟の最期を語らせる。尼公は兄弟のはなばなしい戦死のさまに感泣する(能《摂待》,幸若舞《八島》にも)。秀衡のもとに着いた義経一行はその庇護を受けるが,やがて秀衡が死に,頼朝に屈した子の泰衡は衣川の館に義経を攻める。衣川の館にはるばる駆けつけた鈴木三郎重家,その弟の亀井六郎重清,片岡八郎,鷲尾三郎,増尾十郎,伊勢三郎,弁慶らは奮戦するが,弁慶は立往生をとげ,義経も自害する。この合戦の日の朝には常陸坊海尊が逃走する。この衣川合戦は幸若舞《高館(たかだち)》などにも記されている。伝説によっては,衣川合戦に義経は戦死せず,合戦に敗れ味方がことごとく討死した後,鞍馬の大天狗に助けられ,空を飛ぶ乗物で播磨国野口の里に飛来し,入道して教信上人と号し教信寺を建立したという(能《野口判官》など)ものもあり,蝦夷島に渡ってその地を征服し,オキクルミ大王と仰がれ,後には神としてまつられた(《続本朝通鑑》など)とするものがあり,東北から北海道にかけて義経神社などが多く,青森県東津軽郡外ヶ浜町の旧三厩(みんまや)村には,ここから義経が蝦夷島に渡ったとする伝説がある。また,義経やその家来にまつわる伝説は諸国に数多く残っている。
→義経記 →弁慶
[山本 吉左右]

[索引語]
牛若 今若 乙若 鞍馬寺 鵯越 武蔵坊弁慶 遮那王 鏡宿 幸寿前 皆鶴姫 御曹子島渡り伝説 大日の法 牛若丸地獄巡り伝説 弁慶 橋弁慶伝説 坂下し伝説 弓流し伝説 八艘飛び伝説 逆櫓論伝説 腰越状伝説 土佐坊昌俊 船弁慶伝説 吉野法師 狐忠信伝説 胎内さぐり伝説 鈴木三郎重家 亀井六郎重清 片岡八郎 鷲尾三郎 増尾十郎 衣川合戦 教信


新版 日本架空伝承人名事典

源義経
みなもとのよしつね
1159‐89(平治1‐文治5)
 平安末期~鎌倉初期の武将。源義朝の末子、頼朝の異母弟。母は九条院の雑仕女ぞうしめ常盤ときわ。幼名牛若、九郎と称す。平治の乱(一一五九)で父義朝が敗死したのち母および二人の兄今若(のちの阿野全成ぜんじょう)、乙若(のちの円成えんじょう)とともに平氏に捕らえられたが、当歳の幼児であったため助けられて鞍馬寺に入れられた。この時期の義経の行動についてはまったく不明で、ほとんどが伝説・創作の域を出ない。
 源九郎義経の行動が史実として確認されるのは、一一八〇年(治承四)兄頼朝の挙兵を聞いて奥州平泉より駿河国黄瀬川に参陣してから以後のことである。頼朝の麾下に加わった義経は『吾妻鏡』にも「九郎主」と表現されるように、源家一門の御曹司として処遇され、頼朝の代官として、異母兄の範頼とともに平氏追討の大将軍として活躍した。八四年(元暦一)一月まず京都にいた木曾義仲を討ってこれを近江に倒し、都の覇権をにぎった。ついで二月には平氏軍を一ノ谷に破ってその入京の勢いをとめた。この合戦における鵯越ひよどりごえの奇襲は有名である。さらに翌八五年(文治一)二月には讃岐国屋島の平氏軍を襲って大勝し、海上にのがれた平氏軍を追って関門海峡の壇ノ浦に戦い、これを全滅させた。三月二四日のことである。その機知に富んだ戦術で平氏を討滅した義経は一躍英雄として都の内外の人々にもてはやされた。そして当然その功を賞せられるべきであったが、平氏追討戦の間に梶原景時以下の関東御家人と対立したばかりでなく、後白河上皇の頼朝・義経離間策にのせられて頼朝の認可をまたずに検非違使・左衛門少尉になったため、鎌倉御家人体制の組織を破る独断行為として頼朝の不興を買い、疎外されるに至った。義経は腰越状こしごえじょうを送って弁解したが、ついに鎌倉に帰ることを許されず、追放の身となった。追いつめられた義経は、叔父行家と結んで反逆を企て、八五年一〇月一八日、後白河上皇に強要して頼朝追討の院宣を得た。しかし義経らが結集しえた軍勢は少なく、この計画は失敗した。西海にのがれようとして摂津の大物浦に船出したが難破し、そののちは畿内一帯に潜伏して行方をくらまし、やがて奥州にのがれて藤原秀衡ひでひらの庇護を求めた。しかし秀衡の死後、その子泰衡は頼朝の圧迫に抗しえず、八九年閏四月三〇日、義経を衣川の館に襲撃し、これを自害させた。数奇な運命にもてあそばれた悲劇的な義経の生涯は、多くの人々の同情を集め、後世には彼を英雄視する伝説・文学を生む結果となり、世に「判官びいき」の風潮を作った。
[安田 元久]
伝承
 義経に関する伝説・口碑はきわめて多い。義経伝説のこのような普及は、おそらく御子神みこがみの信仰を背景とした、薄幸の英雄を愛惜するいわゆる判官びいきによるものと思われる。義経の逸話や説話は『平家物語』『吾妻鏡』に見えるが、それは義経が武人としてはなばなしく活躍した世盛りの時代を中心としている。『平治物語』には簡略だが義経の生い立ちについて記し、『源平盛衰記』では断片的だが生い立ちや武蔵坊弁慶、伊勢三郎との関係にまで及んでいる。『義経記』では、その世盛りはむしろ省いて、その生い立ちと没落とを中心として、当時、民間に行われていたらしい伝承を、一代記風に集大成している。能、幸若舞、御伽草子の義経物は、『義経記』に記された義経伝説とかかわるものが多いが、細部で異伝を伝えている。兵法書にも義経伝説に触れるものがあり、なかには義経流の兵法書なども伝わっている。江戸時代には蝦夷の地に渡り大王となったとする説が行われ、明治期には大陸に渡ってジンギスカン(チンギス・ハーン)になったとする説も行われたが、これらは御伽草子『御曹子島渡り』『天狗の内裏』『皆鶴』などの渡島伝説や地獄巡り伝説が歴史的に解釈された結果だと思われる。
 今、『平家物語』『義経記』を中心にして、多くの伝説の概略を記す。
生い立ち
 義経は義朝の九男(『尊卑分脈』『平治物語』など)とも、六男(『吾妻鏡』など)ともされるが、『義経記』では八男とされ、九郎を称した理由を鎮西八郎為朝の跡を継ぐためとされる。江戸時代の浄瑠璃や草紙類では、常盤腹の三子、今若、乙若、牛若を頼朝、範頼、義経として、義経を三男とするものがある。一一五九年一二月、父の源義朝が平治の乱に敗死すると、常盤御前は牛若ら三人の遺児をつれて大和国宇陀郡にのがれる。この常盤の流離の物語は特に幸若舞『伏見常盤』の素材ともなっている。牛若は幼くして鞍馬寺の東光坊の阿闍梨あじゃり(覚日阿闍梨、東光坊阿闍梨円(蓮)忍、覚円坊阿闍梨円乗とも)のもとにあずけられ、遮那王しゃなおうと呼ばれた。そこで自分の素姓を知った牛若は、平家打倒を心に秘め、昼は学問を修め、夜は鞍馬の奥僧正ヶ谷(涯とも)で武芸に励んだ。このとき、山の大天狗が哀れんで師弟の約を結び、兵法を授け、小天狗らと立ち会わせて腕を磨かせたとする伝説もある(『平治物語』『太平記』、能『鞍馬天狗』、幸若舞『未来記』など)。たまたま山に登った黄金商人こがねあきんどの金売吉次を説いて鞍馬を脱出し、藤原秀衡を頼って奥州に向かう。途中、近江国の鏡宿で強盗に襲われるが、その頭目、由利太郎、藤沢入道らの首を取り賊を撃退する。異伝では鏡宿が美濃の国の青墓宿、赤坂宿、垂井宿などともなり、賊の頭目も熊坂長範らとなることがある(能『烏帽子折』『熊坂』『現在熊坂』、幸若舞『烏帽子折』など)。尾張の熱田あつたでは前大宮司を烏帽子親として元服し、九郎義経と名のる。この東下りの途中にも、無礼を働いた関原与市を牛若が切る伝説があり、場所は京の粟田口、美濃の不破、山中などともされる(『異本義経記』、能『関原与市』、幸若舞『鞍馬出』など)。三河国矢矧やはぎ宿では牛若丸は宿の長老の娘浄瑠璃姫と恋に陥る伝説(『浄瑠璃物語』など)などもある。駿河国では兄の阿濃禅師(今若)と会い、下野国では鞍馬で知り合った陵兵衛みささぎのひょうえを訪ねて、その冷遇を怒って館を焼き払い、上野国板鼻では伊勢三郎と会って家来とする。ついに奥州に入って吉次の手引きで秀衡に対面する。翌年、義経は単身で東山道を経て京に帰り、一条堀川(今出川とも)に住む陰陽師で兵法家の鬼一法眼きいちほうげんの娘幸寿前の手引きで、その秘伝の六韜りくとう兵法一巻の書を学びとる。鬼一法眼伝説は他に御伽草子『判官都話』(一名、『鬼一法眼』)、『皆鶴』、能の『湛海』にも伝え、法眼の娘の名を皆鶴姫とするなど、異伝を含んでいる。これに似た伝説に御曹子島渡り伝説があり、奥州滞在中に義経は千島とも蝦夷えぞヶ島とも称される島に渡り、鬼の大王の秘蔵する「大日の法」と名づけた兵法を大王の娘の手引きで盗み出すというものである(御伽草子『御曹子島渡り』)。この伝説の島が地獄となると牛若丸地獄巡り伝説となるが、これは牛若丸が鞍馬の毘沙門びしゃもんに祈って、大天狗の内裏に至り、懇願して地獄を巡り、今は大日如来となっている亡父義朝に会うというものである。この時期で特筆すべき伝説は義経と武蔵坊弁慶との出会いを伝えるもので、『義経記』では五条天神と清水寺でのこととなっているが、五条橋での二人の対戦を描くいわゆる橋弁慶伝説は特に有名である(御伽草子『橋弁慶』『弁慶物語』、能『橋弁慶』など)。この伝説では、ふつう太刀一〇〇〇本を奪う悲願を立てるのが弁慶で、義経と対戦して敗れ家来となることになっているが、一〇〇〇本の太刀を奪うのが義経となっているものもある(『武蔵坊弁慶絵巻』など)。
世盛り
 世盛りの時代の義経の活躍は『平家物語』などに見えるが、なかでも摂津国一ノ谷鵯越で、人馬も通わぬ険阻な坂を精兵三〇〇〇を率いて敵陣の背後をついた坂下し伝説、屋島の合戦に海に落とした自分の弓を、叔父為朝の剛弓に恥じて、危険を冒して拾い上げる弓流し伝説、壇ノ浦の海戦に、敵将能登守教経に追われて、次々と八艘の船に跳び移り、これをのがれた八艘飛び伝説、屋島の平家軍を襲うため、船の舳先へさきにもともにも櫓を立て、進退自由にしようと主張する梶原景時と対立して今にも景時を切ろうとしたとする逆櫓論伝説、生捕りにした平宗盛父子を護送して相模国腰越に到着した義経が、頼朝から鎌倉に入るのを拒まれ、いわゆる「腰越状」を書いて弁明したとする腰越状伝説などが有名である。
没落期
 京都に帰った義経は堀河の館にしばらくとどまるが、義経の討手を頼朝から命じられ、熊野参詣と称して上洛した土佐坊昌俊(正尊などとも)に襲われる(能『正尊』、幸若舞『堀河夜討』などにも)。北条時政が大軍を率いて討手に向かったとの噂を聞いた義経は、西国に下ろうとして摂津の大物浦から出船すると、にわかに暴風雨が起こって、平家の怨霊があらわれる。弁慶は術や法力でこれを鎮める(船弁慶伝説。能『船弁慶』、幸若舞『四国落』『おいさがし』などにも)が、結局は難船し、吉野山中に逃れる。吉野法師は義経一行を追うので、最愛の静御前と別れ、佐藤忠信は吉野にとどまって奮戦する。このとき、義経が形見として静に秘蔵の初音の鼓を与えた。その鼓には大和国の狐の皮が張ってあったが、その狐の子が忠信に化けて静の供をする話が『義経千本桜』などに見え、狐忠信伝説として有名である。忠信は吉野法師の追撃を振り切って都に潜入するが、愛人の裏切りで密告され、六波羅勢に囲まれて壮烈な死を遂げる。一方、義経は南都の勧修坊に身を寄せ、吉野法師はこれを襲うが、義経に散々に切られる。捕らえられて鎌倉に連行された静は、義経の子を産むが、その子は由比ヶ浜で殺される。幸若舞『静』などでは、このとき、梶原景時の提案で静の胎内を探って母子ともに殺そうとするいわゆる胎内さぐり伝説を伝えている。追いつめられた義経は、北の方(久我大臣の姫君)や弁慶以下一六人の家来とともに、山伏姿に身をやつし、奥州に脱出するために北陸筋にかかる。大津から、大津次郎の献身で、無事に海津の浦に着き、愛発あらち山、三の口、平泉寺、如意の渡し、直江津と一行の上に危難がつづくが、そのつど弁慶の機知と胆力によってかろうじて乗り越える。能『安宅』、幸若舞『富樫』などに義経のこの北国落ちの途中、加賀国安宅あたか関で、富樫左衛門にとがめられ、弁慶がありもしない勧進帳を読んで富樫の疑念を晴らし無事脱する伝説が見える。義経一行が直江津でも怪しまれ、所持した笈を探される伝説は『義経記』に見えるが、幸若舞の『笈さがし』にも見える。奥州落ちの途中、陸奥国信夫の佐藤庄司の館では佐藤継信、忠信の母の尼公が山伏接待を行い、義経はこの接待を受けるが、身の上をかくして弁慶に継信、忠信兄弟の最期を語らせる。尼公は兄弟のはなばなしい戦死のさまに感泣する(能『摂待』、幸若舞『八島』にも)。秀衡のもとに着いた義経一行はその庇護を受けるが、やがて秀衡が死に、頼朝に屈した子の泰衡は衣川の館に義経を攻める。衣川の館にはるばる駆けつけた鈴木三郎重家、その弟の亀井六郎重清、片岡八郎、鷲尾三郎、増尾十郎、伊勢三郎、弁慶らは奮戦するが、弁慶は立往生をとげ、義経も自害する。この合戦の日の朝には常陸坊海尊が逃走する。この衣川合戦は幸若舞『高館たかだち』などにも記されている。伝説によっては、衣川合戦に義経は戦死せず、合戦に敗れ味方がことごとく討死した後、鞍馬の大天狗に助けられ、空を飛ぶ乗物で播磨国野口の里に飛来し、入道して教信上人と号し教信寺を建立したという(能『野口判官』など)ものもあり、蝦夷島に渡ってその地を征服し、オキクルミ大王と仰がれ、後には神としてまつられた(『続本朝通鑑』など)とするものがあり、東北から北海道にかけて義経神社などが多く、青森県東津軽郡三厩みんまや村(現、外ヶ浜町)には、ここから義経が蝦夷島に渡ったとする伝説がある。また、義経やその家来にまつわる伝説は諸国に数多くある。
金売吉次、→鬼一法眼、→熊坂長範、→佐藤忠信、→静御前、→浄瑠璃姫、→常盤御前、→常陸坊海尊、→弁慶
[山本 吉左右]
 しやうもんに逢ひ給ひて後は、学問の事は跡形なく忘れはてて、明暮謀反の事をのみぞ思召しける。謀反起す程ならば、早業をせでは叶ふまじ。まづ早業を習はんとて、この坊は諸人の寄合どころなり。如何に叶ひがたきとて、鞍馬の奥に僧正が谷といふところあり。(中略)
 牛若かゝる所のあるよしを聞き給ひ、昼は学問をし給ふ体にもてなし、夜は日ごろ一所にてともかくもなり参らせんと申しつる大衆にも知らせずして、別当の御護りに参らせたるしきたいといふ腹巻に黄金作りの太刀帯きて、たゞ一人貴船の明神に参り給ひ、念誦申させ給ひけるは、「南無大慈大悲の明神、八幡大菩薩」と掌を合せて、「源氏を守らせ給へ。宿願まことに成就あらば、玉の御宝殿を造り、千町の所領を寄進し奉らん」と祈誓して、正面より未申にむかひて立ち給ふ。四方の草木をば平家の一類と名づけ、大木二本ありけるを一本をば清盛と名づけ、太刀を抜きて、散々に切り、ふところより毬杖の玉の様なる物をとり出し、木の枝にかけて、一つをば重盛が首と名づけ、一つをば清盛が首とて懸けられける。かくて暁にもなれば、我方に帰り、衣引かづきて臥し給ふ。
義経記巻一「牛若貴船詣の事」
「是より平家の城〓一谷へおとさんと思ふはいかに」。「ゆめ〓〓かなひ候まじ。卅丈の谷、十五丈の岩さきなンど申ところは、人のかよふべき様候はず。まして御馬なンどは思ひもより候はず」。「さてさ様の所は鹿はかよふか」。「鹿はかよひ候。世間だにもあたゝかになり候へば、草のふかいにふさうどて、播磨の鹿は丹波へこえ、世間だにさむうなり候へば、雪のあさきにはまうどて、丹波の鹿は播磨のゐなみ野へかよひ候」と申。御曹司「さては馬場ごさむなれ。鹿のかよはう所を馬のかよはぬ様やある。やがてなんぢ案内者仕つれ」とぞの給ける。此身は年老てかなうまじゐよしを申す。
平家物語巻九「鵯越」
判官ふか入してたゝかふ程に、舟のうちより熊手をもツて、判官の甲のしころにからりからりと二三度までうちかけけるを、みかたの兵ども、太刀長刀でうちのけ〓〓しける程に、いかゞしたりけん、判官弓をかけおとされぬ。うつぶしで、鞭をもツてかきよせて、とらうとらうどし給へば、兵ども「たゞすてさせ給へ」と申けれども、つゐにとツて、わらうてぞかへられける。おとなどもつまはじきをして、「口惜き御事候かな、たとひ千疋万疋にかへさせ給べき御たらしなりとも、争か御命にかへさせ給べき」と申せば、判官「弓のおしさにとらばこそ。義経が弓といはば、二人してもはり、もしは三人してもはり、おぢの為朝が弓の様ならば、わざともおとしてとらすべし。尫弱たる弓をかたきのとりもツて、「是こそ源氏の大将九郎義経が弓よ」とて、嘲哢せんずるが口惜ければ、命にかへてとるぞかし」との給へば、みな人是を感じける。
平家物語巻十一「弓流し」
凡そ能登守教経の矢さきにまはる物こそなかりけれ。(中略)判官を見しり給はねば、物の具のよき武者をば判官かとめをかけて、はせまはる。判官もさきに心えて、おもてにたつ様にはしけれども、とかくちがひて能登殿にはくまれず。されどもいかゞしたりけん、判官の船にのりあたツて、あはやとめをかけてとんでかゝるに、判官かなはじとやおもはれけん、長刀脇にかいばさみ、みかたの船の二丈ばかりのいたりけるに、ゆらりととびのり給ひぬ。
平家物語巻十一「八艘飛び」
梶原申けるは、「今度の合戦には、舟に逆櫓をたて候ばや」。判官「さかろとはなんぞ」。梶原「馬はかけんとおもへば弓手へも馬手へもまはしやすし。舟はきツとをしもどすが大事に候。ともへに櫓をたてちがへ、わいかぢをいれて、どなたへもやすうをすやうにし候ばや」と申ければ、判官の給けるは、「いくさといふ物はひとひきもひかじとおもふだにも、あはひあしければひくはつねの習なり。もとよりにげまうけしてはなんのよからうぞ。まづ門でのあしさよ。さかろをたてうとも、かへさまろをたてうとも、殿原の船には百ちやう千ぢやうもたて給へ。義経はもとのろで候はん」との給へば、梶原申けるは、「よき大将軍と申は、かくべき所をばかけ、ひくべき処をばひいて、身をまツたうして敵をほろぼすをもツてよき大将軍とはする候。かたおもむきなるをば、猪のしゝ武者とてよきにはせず」と申せば、判官「猪のしゝ鹿のしゝはしらず、いくさはたゞひらぜめにせめてかツたるぞ心地はよき」との給へば、侍ども梶原におそれてたかくはわらはねども、目ひきはなひききらめきあへり。判官と梶原と、すでにどしいくさあるべしとざゞめきあへり。
平家物語巻十一「逆櫓論」
(ワキ)扨々教信上人とは、いかなる人にて候御物語候へ。(シテ)語て聞せ申べし。扨も六条の判官為義の実子、義朝の末の御子、大夫判官義経は、奥州衣川たかたちの城にこもらせ給ひし事、さだめてかたりぞつたふらん。(ワキ)中々それは高たちの城にて、御腹めされし名大将。(ワキ)いや御腹めさるべかりしを、こくうより黒雲たち来り、彼高館に引おほひ、義経をこくうにいざなひ、せつなが程にはりまがた、(シテ)野口に遁れ来て、〓〓、もとゆひはらひすみぞめの衣川の波ときえし、らうじうの跡とひ教信と号すいにしへを、語れば今更に忍びて落るなみだ哉。(シテ)かくて上人滅後にいたり、はだのまもりをひらきて見れば、けいづたゞしき義経と、人々やがて注集す。
謡曲野口判官
〓さてもやしまのひよどりごへに、こゝにのこりしいちのたに、むさしぼにべんけいをさきとして、なかによしつねきよろ〓〓と、けんれいもんいんをちよいととこへしなだれかかれば、うしろからまおとこみつけたとのりつねが、こへにびつくりぎやうてんし、かけいだしなんのくもなくちよい〓〓と、みがるのはやわざはつそふとんで、よふ〓〓こゝろがおちついた
大津絵節
 檀の浦の軍やぶれて、女院もうみにおちいらせ給ひ、そこのみくずとなり給ひなんとしけるを、源のむつるからうじて引あげ奉りて、うしほにいたくしほたれさせ給ふける御そを奉りかへて、はうぐはむの船におくり奉るに、女ゐんはうつし心もおはしまさず、こはいかさまにするにかと、むくつけうおそろしく、めいどのごくそつにいざなはれて、ゑんまの庁にいたらむも、かくやとばかりおもひみだれさせ給へば、たゞ御袖を御かほにおしあててむせび給ふより外なし。はうぐはんうけとり奉りて、かしこまりつゝねんごろにいたはりかしづき参らすれど、さらになぐさみ給ふべくもあらず、此ほどの御物おもひにいたくやつれさせ給ひながら、うつくしうなつかしげなる御有さまにて、なきしをれさせ給ふ御かたちは、梨花一枝雨を帯たりといひけん、もろこしのなにがしはいざしらず、たゞ天人のこのよにあまくだりたらんこゝ地して、またよそふべきかたぞなきや、はうぐはんはもとよりいろめかしきよのすき人におはしければ、たゞひとめ見奉るよりほれ〓〓としてぞゐられける。
波津葉奈
義経は船の内にてびろ〓〓
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):満‐2
刊行/開き:1766年(明和3)(開き)
義経も母をされたで娘をし
編者/評者:似実軒ら(編)
出典:『末摘花』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):1‐12
刊行/開き:1776~1801年(安永5~享和1)(刊)
江戸期の文芸では悲劇の英雄として庶民の人気を得たが、いっぽう、壇ノ浦の合戦では人並みの好色漢としても扱われる。『波津葉奈』のほか『平太后快話』『大東閨語』等にその反映がある。右二句の古川柳もその一端で、第一句、「びろびろし」は「びろつく」、でれでれする意。第二句は、母常盤御前が清盛のちょうをうけたため、建礼門院(清盛の次女徳子)へ復讐ふくしゅうとして、の意。
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源義経の関連キーワードで検索すると・・・
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検索コンテンツ
1. 源義経
日本大百科全書
平安末~鎌倉初期の武将。源義朝(よしとも)の九男、源頼朝(よりとも)の弟。幼名牛若(うしわか)丸、遮那(しゃな)王丸、九郎。検非違使(けびいし)に任ぜられて九郎 ...
2. 源義経
世界大百科事典
1159-89(平治1-文治5) 平安末期~鎌倉初期の武将。源義朝の末子,頼朝の異母弟。母は九条院の雑仕女(ぞうしめ)常盤(ときわ)。幼名牛若,九郎と称す。平治 ...
3. みなもと‐の‐よしつね【源義経】
日本国語大辞典
平安末期から鎌倉初期の武将。義朝の九子。母は常盤。幼名牛若。平治の乱で平氏に捕えられ鞍馬寺に入れられたが、ひそかに陸奥藤原秀衡の下におもむいて庇護をうけた。治承 ...
4. みなもとのよしつね【源義経】
全文全訳古語辞典
[人名]平安末期の武将。一一五九年(平治元)~一一八九年(文治五)。義朝の九男で、頼朝の弟。俗に九郎判官とも。幼名は牛若。平治の乱で父を失い、幼くして鞍馬寺(= ...
5. みなもとのよしつね【源義経】画像
国史大辞典
』四ノ二 文治五年閏四月三十日条、数江教一『源義経―義経伝と伝説―』(『アテネ新書』五八)、渡辺保『源義経』(『人物叢書』一三三)、安田元久『源義経』(『日本の ...
6. 源義経
日本史年表
8・6 義経 ,検非違使・左衛門少尉となる(山槐記・吾)。 1187年〈文治3 丁未〉 2・‐ 源義経 ,陸奥国の藤原秀衡のもとに逃れる(吾)。 1189年〈文 ...
7. みなもとの-よしつね【源義経】
日本人名大辞典
1159−1189 平安後期-鎌倉時代の武将。平治(へいじ)元年生まれ。源義朝の9男。母は常盤御前(ときわごぜん)。平治の乱での義朝の敗死後,捕らえられて京都の ...
8. みなもとのよしつね【源義経】
日本架空伝承人名事典
平安末期~鎌倉初期の武将。源義朝の末子、頼朝の異母弟。母は九条院の雑仕女(ぞうしめ)常盤(ときわ)。幼名牛若、九郎と称す。平治の乱(一一五九)で父義朝が敗死した ...
9. 源義経[文献目録]
日本人物文献目録
精一『源義経』大森金五郎『源義経』桜木史郎『源義経』重野安繹『源義経 義経記』山下宏明『源義経の偽文書』坂本正典『源義経の最後を陳べて安徳天皇及び豊臣秀頼の最後 ...
10. 源義經一谷戰 (見出し語:源義經)
古事類苑
兵事部 洋巻 第1巻 644ページ ...
11. 源義經元服 (見出し語:源義經)
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 351ページ ...
12. 源義經兵法 (見出し語:源義經)
古事類苑
兵事部 洋巻 第1巻 4ページ ...
13. 源義經北國落 (見出し語:源義經)
古事類苑
宗教部 洋巻 第1巻 1094ページ ...
14. 源義經善劍術 (見出し語:源義經)
古事類苑
武技部 洋巻 第1巻 27ページ ...
15. 源義經屋島戰 (見出し語:源義經)
古事類苑
兵事部 洋巻 第1巻 1209ページ ...
16. 源義經幼時居鞍馬寺 (見出し語:源義經)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 734ページ ...
17. 源義經忍耐 (見出し語:源義經)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 142ページ ...
18. 源義經於相州腰越款状於源賴朝 (見出し語:源義經)
古事類苑
政治部 洋巻 第3巻 188ページ ...
19. 源義經等通過三口關 (見出し語:源義經)
古事類苑
地部 洋巻 第3巻 672ページ ...
20. 源義経(一)花押[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
21. 源義経将棊経(著作ID:505317)
新日本古典籍データベース
みなもとのよしつねしょうぎきょう 義経将棊経 近松門左衛門(ちかまつもんざえもん) 浄瑠璃/義太夫 宝永三初演 ...
22. 源義経拝賀次第(著作ID:1021461)
新日本古典籍データベース
みなもとよしつねはいがしだい 記録  ...
23. 文貨古状揃(著作ID:1679578)
新日本古典籍データベース
ぶんかこじょうそろえ 源義経腰越状 往来物  ...
24. 靜(しずか)[源義経妾]
古事類苑
人部 洋巻 第1巻 1129ページ ...
25. 靜〈源義経妾〉 (見出し語:靜[源義経妾])
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 859ページ ...
26. あいあげむら【相上村】埼玉県:大里郡/大里村地図
日本歴史地名大系
井の井戸があり、明治初年までは方四尺ばかりの一枚石に丸い穴をあけて水をくんでいた。この井戸は源義経が亀井六郎清重に命じて掘らせたものといわれ、この水に浴すると病 ...
27. 愛知(県)画像
日本大百科全書
救った地蔵といわれている。岡崎市は徳川家康の生誕地であるだけにゆかりの伝説が多い。また、世に知られているのは源義経(よしつね)と浄瑠璃姫(じょうるりひめ)の悲恋 ...
28. あおがさき【青崎】石川県:金沢市/旧石川郡地区/粟崎村
日本歴史地名大系
関連の絵図も作成されている。室町期の流通ルートを反映した「義経記」巻七の記述では、井上左衛門の配下が源義経主従に教えた逃走経路として「加賀国宮腰に出でて、大野の ...
29. あおもりし【青森市】青森県
日本歴史地名大系
虫と久栗坂の間の善知鳥崎であるとする説もあるが、詳しいことは不明である。藤原氏滅亡に関連する源義経北行伝説が、野内の鈴森にある貴船神社その他にある。源頼朝のいわ ...
30. あかいわどうくつ【赤岩洞窟】北海道:後志支庁/小樽市/祝津村
日本歴史地名大系
長の娘が立向かい、退治した。その祟りを恐れる者により洞窟に白竜大権現を祀ったという。あるいは源義経を慕ったアイヌ首長の娘がその悲恋を嘆き、海に身を投げ、時を経て ...
31. あかさきじんじゃ【赤崎神社】山口県:吉敷郡/秋穂町/大海村
日本歴史地名大系
祭神は田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命。旧村社。社伝は神亀四年(七二七)の鎮座といい、寿永四年(一一八五)源義経が平家追討の時、この浦に着船し、当社に詣でて朝敵退 ...
32. あき-さねみつ【安芸実光】
日本人名大辞典
平安時代後期の武士。土佐(高知県)安芸郷の人。三十人力であったとつたえられる。壇ノ浦の戦いに源義経にしたがって出陣。元暦(げんりゃく)2年3月24日平教経(のり ...
33. あきし【安芸市】高知県
日本歴史地名大系
地で、地割東端の玉造と上中村の地域で土師器・須恵器が出土している。平安時代の末期、源平の戦で源義経の下に戦った者に安芸太郎実光と次郎実俊がいる(平家物語)。この ...
34. あげわしんでん【上輪新田】新潟県:柏崎市
日本歴史地名大系
半路の普請を行っている。鎮守神明社と応安元年(一三六八)日翁の開基という日蓮宗妙泉寺がある。源義経の北の方と伝える亀御前が出産した場所という亀割坂には茶屋が二軒 ...
35. あさかわむら【浅川村】山形県:米沢市
日本歴史地名大系
山・野銭・掛銭など三貫二一六文余・漆木役四六五文。溜井・切樋など普請所があった。本山修験宗大学院は、源義経に仕えた亀井六郎に縁ある修験坊慶元が開山と伝える。亀井 ...
36. あさがけ の 釜(かま)の焦(こ)げ
日本国語大辞典
物事の容易であることのたとえ。*浄瑠璃・源義経将棊経〔1711頃〕四「明朝錦戸が何万騎にてよする共、あさかけのかまのこげ、このむ所ぞ弁慶がゆの子共思はぬ」 ...
37. 朝駆(あさが)けの釜(かま)の焦(こ)げ
故事俗信ことわざ大辞典
物事の容易であることのたとえ。「駆け」と「焦げ」の語呂合わせ。 浄瑠璃・源義経将棊経(1711頃)四「明朝錦戸が何万騎にてよする共、あさかけのかまのこげ、このむ ...
38. あさひのしんめいぐうあと【朝日神明宮跡】大阪府:大阪市/東区/松山町地図
日本歴史地名大系
当社は逆櫓社とも通称された。「平家物語」巻一一(逆櫓)には、元暦二年(一一八五)二月一六日平家追討に向かう源義経軍が摂津渡辺で船揃えの際、義経と梶原景時が船を後 ...
39. あしおじんじゃ【足尾神社】茨城県:新治郡/八郷町/小屋村
日本歴史地名大系
れたとき当社に祈願したところ平癒したので、勅額を賜るという。また文治年間(一一八五―九〇)に源義経の家臣常陸坊海尊が度々参詣して武運長久を祈願したともいい、修験 ...
40. あしざきむら【芦崎村】秋田県:山本郡/八竜町
日本歴史地名大系
男鹿街道の夫伝馬などの負担が浜田・大口・芦崎三ヵ村の高割で割り当てられた。菅江真澄の「男鹿の秋風」には、芦崎に源義経と鞍馬山でともに修行した鈴木宗因がおり、義経 ...
41. あすかいまさつね【飛鳥井雅経】
国史大辞典
母は大納言源顕雅女。侍従・左中将・右兵衛督などを経て、建保六年(一二一八)正月非参議従三位。父頼経は源義経に同心の科で文治五年(一一八九)伊豆に配流され、兄宗長 ...
42. あすかい-まさつね【飛鳥井雅経】
日本人名大辞典
れ。藤原頼経(よりつね)の次男。母は源顕雅の娘。飛鳥井家の祖。蹴鞠(けまり)にすぐれる。父は源義経にくみし流罪となるが,雅経は蹴鞠をこのむ将軍源頼家(よりいえ) ...
43. 安宅
世界大百科事典
能の曲名。四番目物。現在物。観世信光作。シテは武蔵坊弁慶。安宅関の関守富樫(とがし)(ワキ)は,源義経捕縛の命を受けている。兄頼朝に追われている義経は,家来の弁 ...
44. あたか【安宅】
国史大辞典
、「作者不分明能」に分類されており、作者不詳。寛正六年(一四六五)観世大夫演能の記録がある。源義経(子方)は頼朝と不和になり、弁慶(シテ)その他の郎等(ツレ)を ...
45. あたか【安宅】
国史大辞典
勝家がこれを焼くまで、しばしば戦場となった記録がある。能楽の「安宅」は、『義経記』に描かれた源義経一行の受難の場面を、一幕に集めたもので、すでに幸若にその原型が ...
46. あたか【安宅】石川県:小松市/旧能美郡地区/安宅町
日本歴史地名大系
「阿多賀」などを焼払っている。室町時代成立の「義経記」巻七(平泉寺御見物の事)によれば、北陸を逃避行中の源義経は「斎藤別当実盛が手塚の太郎光盛に討たれけるあいの ...
47. あたか【安宅】[能曲名]
能・狂言事典
喜多 不明(観世信光とも) 四番目物・侍物・大小物 シテ・武蔵坊弁慶・[山伏出立]子方・源義経・[山伏出立]ツレ(立衆)・随行の郎等・[山伏出立]ワキ・富樫 ...
48. あたかまち【安宅町】石川県:小松市/旧能美郡地区
日本歴史地名大系
空珍坊円金が蓮如に帰依し、文明一七年(一四八五)安宅に寺を建立、一時兵火にかかり越後に移っていた。源義経一行を供応して贈られたと伝える法螺貝、蓮如親筆の背負名号 ...
49. あだち-きよつね【安達清経】
日本人名大辞典
?−? 鎌倉時代の雑色(ぞうしき)。源頼朝につかえ,御家人監視や源義経の探索などにあたる。文治(ぶんじ)2年(1186)静御前の子をすてる使いや押領(おうりょう ...
50. あっぱれ【天晴・遖】
日本国語大辞典
懸「あ(っ)ぱれ剛の者かな。是をこそ一人当千の兵ともいふべけれ」*謡曲・八島〔1430頃〕「源義経と名のり給ひしおん骨柄、あっぱれ大将やと見えし」*三体詩素隠抄 ...
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
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