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  11. 藤原道長

藤原道長

ジャパンナレッジで閲覧できる『藤原道長』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
藤原道長
ふじわらのみちなが
九六六 - 一〇二七
平安時代中期の公卿。摂政、太政大臣。御堂関白・法成寺関白などの別称がある(ただし実際には関白になっていない)。法名は行観、のちに行覚と改める。康保三年(九六六)生まれる。父は藤原兼家、母は藤原中正の女時姫。天元三年(九八〇)正月、従五位下に叙位。侍従・右兵衛権佐・少納言・左近衛少将・左京大夫などを歴任し、永延元年(九八七)九月非参議従三位となる。同二年正月、十一名を超えて参議を経ず権中納言となり、正暦二年(九九一)九月権大納言に進んだ。長徳元年(九九五)四月には、長兄の関白道隆が病により関白を辞し出家ののち死去。この間、内覧の職を代行したのは、道隆の子伊周であったが、道隆の弟道兼が関白に就任。彼が十日後に死去すると、道長はそのあとを襲い五月内覧の宣旨を受け、その地位を確立し、六月には右大臣、氏長者となり、翌二年七月には左大臣に進んだ。関白・内覧の地位をめぐって、道隆の子伊周・隆家の中関白家と道長との間に軋轢が生じ、この年正月の伊周・隆家兄弟が従者に花山法皇を弓で射させた事件、三月の東三条院藤原詮子呪詛事件、四月の大元帥法修法密告事件などがおこり、四月伊周を大宰権帥、隆家を出雲権守に左遷することとなった。二人は翌三年に召還されることはあっても、再び道長の対抗馬とはなり得ず、この事件を契機に中関白家の追い落としが確定することとなった(長徳の変)。長保元年(九九九)十一月には、その女彰子を一条天皇に入内させ、翌二年二月中宮に冊立し、寛弘五年(一〇〇八)九月の敦成親王(のちの後一条天皇)の誕生により外戚としての地歩を固めた。長和元年(一〇一二)二月には妍子を三条天皇の、寛仁二年(一〇一八)十月には威子を後一条天皇の、それぞれ中宮に立て、「一家立三后、未曾有」(『小右記』同年十月十六日条)と評され、この威子立后の宴で詠じた「望月の歌」に象徴される栄華を築いた。しかしこの間、寛弘八年六月の三条天皇即位により、八月には関白就任要請を拝辞することがあり、内覧宣下を受けるが、三条天皇との確執がしばしば生じ、三条天皇の眼疾を理由に譲位をしきりに勧めている。長和四年十月には、摂政に准じて除目・官奏を行なった(『御堂関白記』同年十月二十七日条)が、一方依然として一上の儀を行なったこともみえる(『小右記』同年十二月十日条)。翌五年正月天皇は譲位し、後一条天皇の受禅により、摂政となった。同年六月准三宮、年官・年爵を賜わり、十二月には左大臣を辞し、寛仁元年三月には摂政をも辞したが、同年十二月には太政大臣となった。この間、三条天皇の譲位の際の天皇の意向を無視できず、長和五年正月より東宮には同天皇皇子敦明が立てられていたが、寛仁元年八月、敦明は東宮を辞退し、敦良親王(のちの後朱雀天皇、彰子所生)が立太子することとなった。この背景には、道長が敦明の立太子に際し、「壺切の御剣」を奉らなかった(『小右記』同年八月二十三日条)ことなど、三条天皇・敦明への掣肘が伺える。同二年二月には太政大臣も辞し、同三年三月には院源を戒師として出家し、法名を行観と称し、六月には行覚と改め、九月には東大寺において受戒した。この間、五月には旧のごとく准三宮とされている。万寿四年(一〇二七)十二月四日、法成寺において六十二歳で没した。翌日入棺、七日に鳥辺野に葬送された。道長と源雅信の女倫子(鷹司殿)との結婚は、永延元年十二月、道長二十二歳、倫子二十四歳であった。雅信は、当初この結婚に賛成でなかったらしく、母藤原穆子の力によってまとまったとされる(『栄花物語』三)。倫子所生の子に、頼通・教通・彰子(一条天皇中宮)・妍子(三条天皇中宮)・威子(後一条天皇中宮)・嬉子(東宮敦良親王妃)がある。また、源高明の女明子(高松殿)とは翌二年に結婚したが、この結婚は姉である詮子の取り持ちがあったらしい(『栄花物語』三)。明子所生の子に、頼宗・能信・顕信・長家・寛子(小一条院女御)・尊子(源師房室)がある。その他に、源重光の女所生の子に長信、猶子に源成信(父致平親王、母源雅信の女)・藤原兼経(父藤原道綱、母源雅信の女)などがある。道長の女子は天皇あるいは東宮の妻として、三代の天皇の母として、道長の外戚としての地位を確立させるとともに、男子は摂関・大臣を輩出する一門として、後世にもその繁栄を引き継いだ。このような道長の栄華は、種々の逸話を生み出したが、若き日の彼の人相を、尋禅の従僧が占い、他の兄弟に比べ限りなく優れており、「とらの子のけはしき山のみねをわたるがごとし」と評したという(『大鏡』五、太政大臣道長上)のもその一つであろう。また、彼の資質を形成した青年時代の剛毅さを物語る逸話も数多く伝えられている。父兼家が、藤原公任を評価し、わが子は公任の影さえ踏めないと口惜しがったところ、兄の道隆・道兼はものも言えないでいたが、道長は「かげをばふまで、つらをやはふまぬ」と言ってのけたという話や、花山天皇の言い出した肝だめしで、兄たちは途中怖じけづいて帰ってきたが、彼は大極殿の高御座の柱を削って帰ってきたという話が同じく『大鏡』(同上)に収められている。道長の精神生活を晩年まで規定することとなった仏教への傾斜は、姉詮子の死去前後の長保年間ころより深まったとされる。寛弘四年八月には、金峯山に参詣し、みずから書写した『弥勒経』『法華経』『阿弥陀経』などを埋経したが、この時の経筒には「寛弘四年(丁未)八月十一日」の年紀が記され、五百余字の銘文が刻まれた経筒として伝存する(金峯神社所蔵、国宝。また、諸寺・諸堂の造立に励み、寛弘二年十月宇治木幡浄妙寺三昧堂供養、同三年十二月法性寺五大堂の供養、寛仁三年七月無量寿院の木造始、翌年三月落慶供養を行い、その後も無量寿院諸堂の造立を続け、治安元年(一〇二一)七月には、後一条天皇・太皇太后(彰子)・皇太后(妍子)・中宮(威子)・東宮(敦良親王)も臨席し、金堂供養が盛大に行われ、引き続き薬師堂・釈迦堂も建立され、一大伽藍を備えた法成寺として発展した。さらに法華三十講などの法会もしばしば催している。このような道長の仏教への帰依は、自身の病気、嬉子・妍子・顕信の死去(それぞれ万寿二年八月・同四年九月・同四年五月)などにより、一層その傾斜を深めたが、臨終に際しても、立て回した屏風の西側を開けて、九体の阿弥陀仏に面し、西向き北枕に臥した、釈迦入滅の姿勢をとったという(『栄花物語』三〇)。道長の政治観・政治運営をみる時、三条天皇時代は内覧の地位にとどまり、一上の事を行なったことにもみられるように、太政官機構の首班として政治機構の運営を行なっていることは注目される。また、彼が長徳元年五月から寛仁元年三月に頼通に摂政を譲るまでの時期、天皇に対する奏上を彼一人に限定する体制をとっていたとされることにも留意すべきであろう。そして、頼通に早く摂政の座を譲ったことは、父兼家やみずからの権力掌握の過程における一族の争いの経験から、それを未然に防ぐことをも意図していたであろう。また道長の地方政治観には、寛仁以前には、国司苛政上訴を行う百姓を追い払った国守を勘当するなど、国司の弾圧を不当とする認識があったが、治安ころからは、国司苛政上訴闘争に対する態度が変化したとされる。その背景として、在地の勢力による国司の国内支配に対する法的手段を採った抵抗、それに伴う太政官の法理の適用による国司の敗退、すなわち前期王朝国家体制の動揺へと帰結することに対する反動として、国司擁護の姿勢が強まったことが考えられるとする見解もある。道長の学問・文芸への造詣の深さは、「作〓棚厨子二双〓、立〓傍、置〓文書〓」(『御堂関白記』寛弘七年八月二十九日条)に際して、「三史・八代史・文選・文集・御覧(『修文殿御覧』)・道々書・日本紀具書等、令・律・式等具、并二千余巻」があったということにも示されている。また同記には、天皇や貴族たちとの書籍や書の贈答が数多くみられ、土御門第・宇治別業などで作文の会もしばしば催し、長保五年には「太政大臣殿三十講歌合」を主催するなど、学問・文芸を愛好した。歌の贈答を通じての交遊関係も多岐にわたり、公任(『前大納言公任卿集』に採録)・赤染衛門(『赤染衛門集』に採録)をはじめとする多数の人々との贈答歌が勅撰集や家集に残されている。彼の日記である『御堂関白記』は、永久五年(一一一七)には、自筆本三十六巻の所在が推定される(陽明文庫所蔵『旧記目録』『御堂御暦記目録』)が、そのうち自筆本十四巻のほか、藤原師実の筆になるとされる古写本十二巻、『御堂関白記』を抄出した『御堂御記抄』(ともに同文庫所蔵)などの写本の形で現在に伝えられている。これは道長を中心とした藤原氏の全盛期を知る格好の史料である。また、家集に『御堂関白集』があり、『拾遺和歌集』以下の勅撰集にも入集している。道長の邸宅としては、東三条殿・土御門殿(上東門第・京極殿とも)・枇杷殿・小二条殿と称される京内の邸宅のほか、宇治の別業もみられる。→金峯山経塚(きんぶせんきょうづか),→御堂関白記(みどうかんぱくき)
[参考文献]
中村匡男『道長の栄華』(『若い世代と語る日本の歴史』一一)、赤木志津子『御堂関白』、北山茂夫『藤原道長』(『岩波新書』青七六四)、目崎徳衛『王朝のみやび』、土田直鎮『王朝の貴族』(中央公論社『日本の歴史』五)、山中裕『藤原道長』(『歴史新書』四五)、同「藤原道長」(『平安人物志』所収)、坂本賞三「国司苛政上訴と中央貴族の地方政治観」(『日本王朝国家体制論』所収)、同「「御前定」の出現とその背景」(『史学研究』一八六)
(加藤 友康)


世界大百科事典
藤原道長
ふじわらのみちなが
966-1027(康保3-万寿4)

平安中期の公卿。摂政兼家の五男。母は摂津守藤原中正の女時姫。986年(寛和2)一条天皇が践祚し,父兼家が摂政となるや,翌年従四位上から3階を越えて従三位に昇り,以後累進して,991年(正暦2)権大納言に任ぜられた。995年(長徳1)疫病が流行し,兄の関白道隆・道兼が相ついで没したため,その後継をめぐって,道隆の男伊周(これちか)と激しく争ったが道長の姉で,天皇の生母である東三条院詮子の強力な後援によりこの争いに勝ち,内覧(ないらん)の宣旨をたまわり,右大臣に昇り,翌年左大臣に進んだ。以後,一条・三条両朝にわたり,関白に準ずる内覧の臣として天皇を補佐し,一上(いちのかみ)(首席公卿)として廷臣を率いて公事・政務を奉行し,その権勢は摂政・関白と異ならずと評された。〈御堂関白〉の称の生まれたゆえんである。一方,999年(長保1)女彰子(上東門院)を一条天皇の後宮にいれ,すでに兄道隆の女定子が后位を占めていたにもかかわらず,翌年彰子を皇后に立て,2人の妻后が併立する新例を開いた。ついで1016年(長和5)三条天皇に強請して彰子が生んだ後一条天皇に位を譲らせ,外祖父として摂政の座に就いたが,翌年には早くも摂政を長男頼通に譲った。しかし権勢は少しも衰えず,世人は〈大殿〉と呼んで恐れはばかった。道長は三条天皇の後宮にも女の姸子(けんし)をいれ,さらに後一条天皇の後宮に女威子(いし)をいれたが,18年(寛仁2)10月16日には威子を皇后に立て,姸子は皇太后に転上したので,太皇太后彰子とともに,3人の女子が三后に並び立つという未曾有の盛観を呈した。かの有名な〈この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば〉の歌は,この日の威子の立后を祝う公卿の宴席で,道長がみずから十六夜の月にかけて詠んだ歌である。しかしそのころから道長は病気がちになり,翌年3月出家して行観(のち行覚)と称し,ついで法成寺の造営に力を傾け,20年には無量寿院が完成し,9体の阿弥陀仏が安置された。さらに22年(治安2)には金堂も建ち,法成寺の名も定められ,引き続いて薬師堂や釈迦堂なども造立された。これがすなわち御堂で,道長の別称にもなった。この間,やや健康をとりもどしたが,27年(万寿4)に入ると急速に心身の衰えを見せ,12月4日,無量寿院の九体阿弥陀仏から引いた糸を手にして生涯を終えた。

その日記は自筆本の14巻をはじめとして,《御堂関白記》などの名称で伝えられている。また道長は左大臣源雅信の女倫子との間に上記の三后および頼通,教通らを生み,左大臣源高明の女明子との間に頼宗,能信らを生んだ。その子孫は御堂の子孫と称して一流を形成したが,やがてその御堂流の嫡流に摂関職が定着し,家柄としての摂関家が成立し,さらに五摂家に発展したのである。
[橋本 義彦]

[索引語]
御堂関白 藤原威子 法成寺
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36. 総角(源氏物語) 305ページ
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38. 蘆屋道満
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39. あしや‐どうまん【蘆屋道満】
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40. あしや-どうまん【蘆屋道満】
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平安時代中期の伝説上の陰陽師(おんようじ)。藤原道長に呪いをかけて安倍晴明(せいめい)にみやぶられ追放されたといい,また晴明と術くらべをして敗れ弟子となり,のち ...
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物として登場することが多い。『古事談』『宇治拾遺物語』『十訓抄』に、道摩法師が藤原顕光の命で藤原道長に妖術をしかけるが、道長の犬と晴明に見破られ、本国播磨国に追 ...
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平安時代にはそれもほとんど廃された。古都への郷愁は飛鳥巡礼となって現れ、清和天皇・藤原道綱の母・藤原道長などが当地を訪れている。和銅三年庚戌の春二月、藤原宮より ...
43. あすかでら【飛鳥寺】奈良県:高市郡/明日香村/飛鳥村
日本歴史地名大系
、一〇月一五日に万灯会を修することが恒例とされた(続日本後紀)。治安三年(一〇二三)一〇月、藤原道長が当寺を訪ねた時、「日本霊異記」上巻三話の道場法師の説話にみ ...
44. あすかべのつねのり【飛鳥部常則】
国史大辞典
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45. あせ-は・つ【褪せ果つ】
全文全訳古語辞典
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46. 敦明親王
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47. 敦明親王
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母は皇后娍子(じようし)(藤原済時女)。三条天皇は後一条天皇(一条天皇皇子)への譲位に際し,藤原道長の意に反して親王の立太子を実現したが,道長は東宮に伝えるべき ...
48. 敦明親王
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49. あつあきらしんのう【敦明親王】
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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