日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。


 「遺憾」という語は、「今回の決定に対して遺憾の意を表明する」といった言い方で、おなじみだと思う。だが、意外と本来の意味は知らないという人が多いのではないだろうか。政治家がよく使うが、だからと言って政治用語ではない。簡単に言えば、残念に思う、という意味である。この残念だという意味から、釈明をしたり、抗議や非難をしたりする意味になったのである。
 『日本国語大辞典(日国)』によれば、「遺憾」の語が文献に登場するのは室町時代からである。室町時代中期の国語辞書である『文明本節用集(ぶんめいぼんせつようしゅう)』に「遺憾 イカン」とあるのだが、残念ながら意味の説明はない。ついで『日国』では以下のような『信長記(しんちょうき)』(1622年)の、
 「功あって洩れぬる人、其遺憾(イカン)いかばかりぞやとおもふままに、かつかつひろひもとめ、これを重撰す」(起)
という例を引用している。「起」は前書きのことで、執筆の動機などが書かれている部分である。『信長記』は小瀬甫庵(おぜほあん)が太田牛一(おおたぎゅういち)の『信長公記』をもとに物語風に加筆、潤色を加えた織田信長の伝記である。
 ここで使われている「遺憾」は、残念という意味である。功があったのに(『信長公記』で記載が)漏れてしまった人の残念に思う気持ちはいかばかりであろうかと思うままに、ともかくも(そういった人たちの功績を)探し求めて拾い出し、以前に著わした書物を見直してもう一度書くという意味であろう。
 やがてこの残念だという意味に、抗議や非難をするという意味が加わっていく。だがそれがいつの頃からなのか、残念ながら私の力では特定できない。その意味だと思われるいちばん古い文献の例が、見つけられないからである。ただ、1945年以降の国会の会議録を見ると、抗議の意味で使っているものが散見されるようになる。
 こうして最近では、「社員の過失に対して心から遺憾の意を表します」「遺憾ながら本日は欠席させていただきます」のように、自分の側の行為について残念な結果となって申し訳ないと謝罪する場合と、「領海侵犯に対して遺憾の意を表する」「いまだお返事をいただけず遺憾に存じます」のように、相手の側の行為についてそのようなことをされては残念だということから抗議する意味合いを持たせた場合と、2つの意味で使われるのである。
 この2つの意味の違いは、文章をぱっと見ただけではけっこう判別が難しい。政治家や企業の経営者が使っているときも、相手と自分のどちらの行為について言っているのかすぐに判断できないこともある。多分それは私だけではないであろう。ひょっとするとそれを狙っているのではないかと勘ぐってしまうことすらある。
 このようなことばは、決まり文句に近いので、そう言っておけば間違いない、皆もなんとなく分かってくれるという安心感はある。だが、それで真意が伝わるだろうかという気がしないでもない。
 なんでもかんでも「遺憾」を使えばいいということではなく、このことばを使うときは、どちらの意味で使っているのか相手にすぐにわかるようにするという配慮も必要なのではないだろうか。別のことばに置き換えることも、選択肢のひとつだと思う。

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 タイトルを見て、「おもわく」に決まっているだろう、と思ったかたの方が多いかもしれない。だが、「思惑」を「しわく」と読む人がいるらしいのだ。そう読む人の割合がどれくらいかは不明だが。
 インターネットで検索すると、「思惑」を「おもわく」と読むのと、「しわく」と読むのとではどう違うのかという質問も見つかる。アナウンサーが「しわく」と読んでいたと、わざわざ報告しているものもある。
 結論から言えば、「思惑」は通常は「おもわく」と読むべきもので、「しわく」と読むと別のことばになってしまう。
 先に「しわく」を説明しておく。これは仏教語で、仏道を修めることによって断ち切られる煩悩のことをいうのである。
 一方の「おもわく」は、動詞「おもう(思)」のク語法から生じたことばである。ク語法とは、活用語の語尾に「く」がついて全体が名詞化されるものをいう。「言はく(=言うこと。言うことには)」「語らく(=語ること。語ることには)」「悲しけく(=悲しいこと)」「老いらく(=年をとり老いてゆくことや老年のこと)」などである。
 「おもわく」の用例はかなり古く、日本最古の歌集『万葉集』にも見られる。たとえば『万葉集』には七夕を歌った歌が130首以上収録されているのだが、その中の1首、

 「ま日(け)長く川に向き立ちありし袖(そで)今夜(こよひ)まかむと思はくのよさ」(巻10・2073)

という歌にもある。「ま日(け)長く」は長い間、「まかむ」は「枕にするだろう」ということで、歌全体の意味は、長い間川に向かって立っていた妻の袖を、今夜枕するだろうと思うことのうれしさよ、というもの。なぜこの歌が七夕の歌になるのかというと、1年に1回しか会うことのできない、牽牛(けんぎゅう)星と織女(しょくじょ)星のことを、牽牛星の思いとして歌った歌だからである。
 この思うことという意味の「おもわく」が転じて、考え、意図や見込み、あるいは評価、評判の意味で使われるようになるのである。従ってこの語の語構成は「おも‐わく」ではなく「おもわ‐く」で、「思惑」と書くのは当て字ということになる。「思惑」の表記がいつごろから生まれたのかは不明だが、残された文献例からすると、どうも江戸後期以後のようである。
 「思惑」を「しわく」と読んでしまう人は、たぶん仏教語の影響ではなく、ワクは「惑」の字音なので、それの類推から「思」も字音でシと読んで、「しわく」と言ってしまうのであろう。
 新聞の表記は「思惑」としているが、「思わく」と書いた方がいいことばなのかもしれない。

神永さんがジャパンナレッジ講演会に登場!
私たちが国語辞典を引くとき、意味をチェックするだけで、どうしても【用例】を飛ばしがち。でも辞書づくりにおいてはしっかりとした根拠、つまり【用例】が辞書づくりの“命”なのです。神永さんが最近話題になっている言葉を用例を見ながら解説します。辞書を読むことの楽しみがわかる90分です。

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「ことばって面白い。辞書って楽しい。~辞書編集者を悩ます、日本語⑥」
■日時:2018年11月28日(水)19:00~20:30(18:30開場)
■会場:日比谷図書文化館4階スタジオプラス(小ホール)
■定員:60名
■参加費:1000円
■お申し込み:ホームページの申し込みフォーム、電話(03-3502-3340)、来館(1階受付)のいずれかにて、①講座名、②お名前(よみがな)、③電話番号をご連絡ください。
くわしくはこちら→日比谷図書文化館

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「借金をなし崩しにする」というときの「なし崩し」だが、皆さんはどういう意味で使っているだろうか。
 少しずつ返していくという意味だろうか、それともなかったことにするという意味だろうか。実は「なし崩し」は、借金を一度に返済しないで少しずつ返してゆく、が本来の意味なのである。ところが、なかったことにするの意味だと思っている人がかなりいるらしい。
 先ごろ文化庁が発表した2017年(平成29年)度の「国語に関する世論調査」でも、なかったことにするだと思っている人が、65.6パーセントもいることが分かった。一方の少しずつ返していくの意味で使う人は19.5パーセントなので、本来の意味はかなり分が悪い。
 「なし崩し」の「なし」は「済し」で、「済す」からきているのだが、「済す」は借りたもの、特に借金を返す、少しずつ返済して借金を減らすという意味である。「崩し」はくだいてこわすことをいう。つまり、少しずつ返して、借金をこわす、なくすという意味になる。
 ところがこれを従来なかったことにするの意味で使うのは、勝手な類推ではあるが「なし」を「無し」、つまり何もないという意味でとらえたのではないだろうか。何もないように崩してしまうと。だから、なかったことにするの意だと思ってしまうのかもしれない。
 また、この語は本来の意味から派生して、物事を一度にしないで、少しずつすませてゆくという意味でも使われる。というよりも、最近ではこちらの意味で使われることの方が多いかもしれない。例えば、『日国』で引用している、夏目漱石の『吾輩は猫である』(1905〜06)の例、

 「町内中悉(ことごと)く苦手かも知れんが〈略〉漸々(だんだん)成し崩しに紹介致す事にする」

もこの意味である。
 小型の国語辞典では『三省堂国語辞典』だけが、「ずるずると時間をかけてだめにすること。」といった、少し異なった表現ながら新しい意味を載せている。だが、『岩波国語辞典』は、「転義例〔筆者注:物事を少しずつすませること〕などの誤解に発したのだろうが、急に形を失って無くなる意に使うのは誤用。」としていて、辞書でも意見が割れている。
 私は、「なし崩し」の本来の意味である、少しずつ借金を返済するの意味は次第に分からなくなっていて、『吾輩は猫である』の例や「企画がなしくずしに変更される」のように、少しずつ徐々に行うことという意味で使われることが多くなり、さらに意味が転じて、なかったことにするの意味で使われるようになったと考えている。
 それがたとえ「誤解」であったとしても、誤用とは言い切れず、この意味はさらに広まるのではないだろうか。

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 「このカゴには洗ってキレイなコップが置かれてます。各自、使ったコップは洗って直してください。」

 手書き文字でこう書かれた注意書きの写真をいただいた。送ってくださったのは、奈良県大和郡山市のかたである。
 写真をよく見ると、この注意書きは食器戸棚のガラス戸に貼られていて、中にざるらしきものが見える。家庭内でこんな紙をわざわざ貼り出す家はあまりないだろうから、共用の場のものと思われる。そして、ここを使っている人たちには、洗ったコップを「直す」という意味が、全員理解できることが前提になっているのであろう。
 今でこそ私もこの「直す」の意味は分かるのだが、以前だったらかなり驚いたに違いない。使ったコップは汚れてしまうので、洗って新品の状態にしろということなのか?などと勝手な想像をしたかもしれない。
 ご存じのかたも大勢いらっしゃるだろうが、この場合の「直す」は片付ける、しまうの意味である。そしてこの意味の「直す」は、主に西日本で使われる方言なのだ。『お国ことばを知る 方言の地図帳』(監修/佐藤亮一 2002年)によれば、
 「『片付ける』や『しまう』ことをナオスという地域は、近畿の中央部にまとまって見られる。同時に中国西部の山口から九州にかけてもまとまっていて、これは琉球列島に連続する。また、関東周辺にも散在し、東北や北海道にも見られる。」
とある。西日本だけでなく、東日本の一部などけっこう広い範囲で使われているらしい。
 『日本国語大辞典』ではこの片付ける意味の「直す」には、江戸時代の文献から以下の2例を引用している。

*洒落本・色深狭睡夢(いろふかみそらねのゆめ)〔1826〕下「清さんから請取った五十両はなをしておゐて」
*大阪江戸風流ことば合せ〔1830〜44〕「大坂にて、直しておく、江戸にて、しまっておく」

 「色深狭睡夢」の「直す」は、「しまっておく」という意味である。
 「大阪江戸風流ことば合せ」にも記載されているように、江戸時代から「直す」の意味は東西で違いがあることが知られていたようだ。
 冒頭の張り紙のように、西日本では今でも片付けるの意味で「直す」が使われている。そのため、小型の国語辞典の中には、『三省堂国語辞典』『明鏡国語辞典』のように、この片付けるの意味を主に西日本で使われるとして、意味を載せる辞典が出てきている。さらに踏み込んで、三省堂の『例解新国語辞典』第九版のように、
 「西日本では、『ひきだしに直す』のように、『もとの場所にしまう』という意味でも使う。方言だと気づいていない人が多い。」
と説明している辞典もある。
 共通語と語形が同じであるにもかかわらず、意味が異なり、多くの人が方言だと気づいていないことばは、積極的に辞書に載せるべきなのかもしれない。

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 いやだと思う気持ちが起こることを、「イヤキがさす」「イヤケがさす」のどちらで言っているだろうか。どちらも使われていると思うのだが、私は「イヤケがさす」の方である。
 漢字で書くと「嫌気」「厭気」だが、この語は『日本国語大辞典(日国)』以外のほとんどの辞書は、「いやけ」を本項目にしている。なぜ『日国』だけ「いやき」が本項目なのであろうか。
 また、今でも「いやけ」ではなく「いやき」としか言わないこともある。取引相場で使われているのだが、相場の動きが思うとおりにならなくて悲観的気分になることや、悪材料が出てこれをきらうことを「いやき」と言う。なぜこれは、「いやけ」とは言わないのだろうか。
 これは以前書いたことがあるのだが、「味気ない」を「アジキナイ」と読むか「アジケナイ」と読むかと言う問題とまったく同じなのである。かつては、「○○気」の語は「○○キ」と読むのが本来の形だとされていた。
 今から半世紀以上も前のことだが、第五期国語審議会(1959~61年)でこの問題について審議を行っている。国語審議会は国語の改善、国語教育の振興などに関して調査・審議を行った、専門家や学識経験者で構成された当時の文部大臣の諮問機関である。現在では、文化庁の文化審議会へと引き継がれている。
 この第五期国語審議会の場で、「威張る」を「イバル」と言うか「エバル」と言うかという問題を取り上げた際に、これは母音「イ」「エ」の音が互いに通い合う現象で、「イボ・エボ(疣)」「シッキ・シッケ(湿気)」「アジキナイ・アジケナイ(味気無い)」「イヤキ・イヤケ(厭気)」なども同様の例であるとした。そして、関東・東北をはじめ、「イ・エ」の音の区別をしない地方は諸所にあり、これは一般的に「なまり」と考えられていることから、「イ」音の「イバル」を標準形としたのだが、この説明からすれば「イヤキ」の方が標準形ということになる。相場で使われる「いやき」も「いやけ」ではないことから、「いやき」の方が本来の形だったことがわかる。
 それほど昔のことではないにもかかわらず、現在の語感とはかなり違うことに驚かされる。「イバル」はいいとしても、「アジキナイ」「イヤキ」を現在では「なまり」と感じる人の方が多いのではないだろうか。この「イヤケ」も「アジケナイ」同様、かつては「なまり」とされながら、むしろこちらの方が主流になってしまった。
 このような傾向を無視することができなくなったからであろう、NHK『日本語発音アクセント新辞典』も「イヤケ」で示し、「イヤキ」を許容としている。
 『日国』が「いやき」を本項目としているのは、伝統派というか、引用している用例がそうだからなのだが、項目の扱いを見直す必要がありそうだ。

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