日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。


 今回は謝罪が必要な内容かもしれない。
 まずは『日本国語大辞典(『日国』)』の「串カツ」の語釈をお読みいただきたい。

 「(カツは「カツレツ」の略)一口大の豚肉と葱、または玉葱とを交互に竹串にさして、カツのようにあげたもの」

 この文章を読んでも、おそらく関東のかたなら特に疑問を感じないかもしれない。私もそうなので。だが、関西のかたはいかがであろうか。大事な何かが足りないとお思いになるのではないだろうか。魚介・肉・野菜などを串に刺して揚げたもの、ソースの「二度づけ禁止」のお店で出すあれのことである。あの食べ物は単独の食材を串に刺して揚げていて、ネギやタマネギを間にはさんではいない。この語釈にはその説明がないのだ。おまけに、『日国』で引用されている用例がかなり怪しい。

*軽口浮世ばなし〔1977〕〈藤本義一〉一二・一「大阪の片隅新世界のジャンジャン横丁あたりで串カツ一本五円、コップ酒(この界隈では一合一勺をもって一杯とする)八十円を胃袋に詰め込んでは」

という例なのだが、著者の藤本義一さんが食べたのは、場所や値段から考えても『日国』に説明のない、単独の食材を串に刺して揚げたもののことであろう。
 だとすると「串カツ」には二種類あることになる。その疑問を大阪ではなく京都でだが、京都で長年修業をした行きつけの割烹料理店の主人にぶつけたところ、実に明快な答えが返ってきた。関西で「串カツ」というと、さまざまな食材を串に刺して揚げたものと、豚肉とネギやタマネギをはさんで揚げたものと両方指すのだという。さらに、東京では前者を「串揚げ」と呼ぶことがあるのだが「串揚げ」との関係を聞いてみたところ、関西で「串揚げ」などと言ったら、「あほ、そんなものあるか!」と板場でしかられたというのである。
 大阪では二種類の「串カツ」があるというのは、喜劇役者だった古川緑波の『古川ロッパ昭和日記〈戦前篇〉』の昭和14年(1939年)の記事からも納得できる。「十月二日(月曜)」の記事だ。

「阪神で梅田へ。堀井と梅田地下のスエヒロで串カツとカレーライス」

 文中の「スエヒロ」は戦前に梅田地下にあった洋食屋だったらしい。現在も新梅田食堂街に「スエヒロ」というビフテキと欧風料理の店があり、私も大阪に行くときはよく寄るのだがそことの関連は分からない。それはそれとして、このとき緑波がカレーと一緒に食べたのは、豚肉と、ネギやタマネギを交互に串に刺した「串カツ」であろう。緑波は東京の生まれだが、何の疑問も感じずに食べているところをみると、店のメニューは「串カツ」だったに違いない。
 冒頭で『日国』の「串カツ」の語釈を引用したが、実は他の国語辞典も私が調べた限りではほとんどが『日国』と同じである。中には関東で言う「串揚げ」を立項しているものもあるが、関西での「串カツ」には触れていない。唯一、『三省堂国語辞典』だけは「串揚げ」も立項して、「串カツ」の②の意味として、「〔関西で〕くしあげ」としている。だが、これだけだと関東目線なので、京都の割烹料理店の主人にしかられそうだ。
 私が謝罪しなければならないというのは、東西で意味の違いがある語は辞書では極力それに配慮すべきで、『日国』も他の辞書もそれが足りないということなのである。

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 まずは以下の文章をお読みいただきたい。

 「おまえ、笑うと普通にかわいいんだよな。どうせならスマイルの練習もしとけ。笑顔が足りねえんだよ、おまえは」(平山瑞穂『マザー』2008年)

 文中にある「普通にかわいい」だが、かわいいのかどうか疑問に感じなかっただろうか。「普通」という語には、名詞・形容動詞としての用法と、副詞としての用法があるのだが、名詞・形容動詞としての「普通」は、ごくありふれている、珍しくない、特に変わりがなく平均的、一般的であるという意味で使われる。つまり、ニュートラルな意味合いか、時として「変わりがない」「平均的」というマイナスの意味で使われてきた。
 ところが引用文の「普通にかわいい」は、ニュートラルの意味合いどころかプラスの意味で使っているように見受けられる。このようなプラスの意味合いで使われた「普通に」の例を探してみると、「普通にきれい」「普通においしい」「普通に面白い」などが見つかる。また、「普通に気持ちが悪い」などという例もあるので、意味としては「とても」に近いのかもしれない。
 「普通」がこのよう意味で使われ始めたのがいつごろからなのか、特定はできないのだが、2000年以降に使用例が多くなるようだ。冒頭で引用した文章も2008年に発表されたミステリ小説である。
 新語に敏感な『三省堂国語辞典(三国)』(第7版)は他の辞書に先駆けてこの意味を載せているのだが、「二十一世紀になって広まった言い方」と注記している。ちなみに『三国』ではこの新しい「普通に」の意味を、「べつに変なところがなく。とても」と「当然(であるかのように)」と説明している。「普通に」が「とても」の意味になったのは、『三国』にもある「べつに変なところがなく」という意味から、変なところがないのだから「とても」とか「非常に」とかいった意味に変化していったのかもしれない。
 なぜこのような「普通に」の意味が広まったのであろうか。私は、この「普通に」自体は、ごくありふれている、珍しくないという本来の意味でも日常的に頻繁に耳にすることばであり、さらに同じ「とても」の意味で若者の間で使われている「ブチ」「オニ」「デラ」などと違って俗語的な用法ではあっても俗語っぽさを感じさせないところから、簡単に受け入れられたのではないかと考えている。今後さらに広まりそうな気がする。

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「一富士(いちふじ) 二鷹(にたか)三茄子(さんなすび)」は、夢に見ると縁起が良いとされているものを順にならべた文句である。正月二日に見る初夢について言われる。
 実は私は子どものころからこの文句が不思議で仕方がなかった。といっても、なんで富士と鷹と茄子なのかということではない。なぜ「なす」ではなく、「なすび」なのかということである。勝手に、「さんなす」と言うよりは、5音の「さんなすび」と言った方が据わりがいいからそう言うのだろうかなどと思っていた。私の周りには、八百屋でこの野菜を見たとき、「なす」とは言っても「なすび」と言う人は誰もいなかったからである。
 「なす」を「なすび」とも言うと知ったのはたぶん中学生になってからで、さらに「なすび」の方が古い言い方だと知ったのは辞書編集者になってからである。
 ナスの起源地はインド東部らしいのだが、西域(せいいき)を通って中国に入り、さらに日本に伝わったらしい。『日本国語大辞典(日国)』によると、『本草和名(ほんぞうわみょう)』(918年頃)という日本最初の漢和薬名辞書に「茄子 和名奈須比」とあり、この「奈須比」が「ナスビ」の例としてはもっとも古い。
 一方の「なす」はというと、やはり『日国』で引用されている、

*御湯殿上日記‐文明一五年〔1483〕五月一五日「松木よりなすの小折まいる」

という例がもっとも古い。『御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)』は、室町時代、禁中の御湯殿(宮中にある天子の浴室)に奉仕する女官が交代でつけた日記で、かな文で書かれている。その中には女房詞が多数見られ、「なす」も女房詞だった可能性が高い。ただ、なぜ「なすび」が「なす」になったのかはよく分からない。
 なお、『日国』は、古くはナスビといったその語末のビは、「アケビ(木通)、キビ(黍)などの植物名に通じるものか」と推測している(「なす(なす)」の語誌)。ではこの「ビ」とは何だろうと思うのだが、残念ながらそこまでは言及していない。だが確かに他にも「アセビ」「ワラビ」など、語末が「ビ」の植物はある。
 また『日国』は、「女房詞の『ナス』が全国的に広まり、近代以降はナスが主流となる。ただ、現在でも西日本ではナスビ、東日本ではナスの形を用いる傾向が見られる」とも述べている。千葉県出身の私が「なすび」を不思議に思っていたのは、このようなわけだったようである。皆さんはいかがであろうか。

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 今年の9月25日に平成29年度の「国語に関する世論調査」の結果が発表された。そのとき、TBSテレビの朝の情報番組から取材を受け、今回の調査項目にあった「なし崩し」「檄を飛ばす」「ほぼほぼ」などに関して、なぜ従来なかった意味や言い方が生まれたのか、かなりくわしく解説した。ところが発表と同じ日の夕方に、大相撲の貴乃花親方の引退記者会見があったものだから、放送時間の枠が予定の3分の1ほどになってしまい、収録した分もかなりカットされてしまった。
 中には、収録中に時間枠が減らされることがわかり、収録すらできなかったテーマもあった。それが今回取り上げた「外来語」と「カタカナ語」の違いについてである。
 文化庁の調査項目の中に「外来語や外国語などのカタカナ語の意味がわからずに困ることがあるか」というものがあったために、そもそも「外来語」と「カタカナ語」は同じものなのかどうか解説してほしいと、ディレクターさんから頼まれたのである。
 「外来語」と「カタカナ語」の違いに関しては諸説あるのだが、辞書にかかわっている人間としては、一応使い分けをしている。ただそれはあくまでも各辞書独自の考えなので、一般のかたには確かにわかりにくいかもしれない。
 この2語の違いは、2語とも項目のある『デジタル大辞泉』の解説がわかりやすい。

外来語:他の言語から借用し、自国語と同様に使用するようになった語。借用語。日本語では、広義には漢語も含まれるが、狭義には、主として欧米諸国から入ってきた語をいう。現在では一般に片仮名で表記される。[補説]外来語と外国語との区別は主観的なもので、個人によって異なることがある。

カタカナ語:片仮名で表記される語。主に外来語を指すが、和製英語についてもいう。

 つまり、「外来語」と「カタカナ語」を比較して考えた場合、「外来語」は、主として欧米諸国から入ってきた語で、自国語と同様に使用するようになった語ということがポイントである。これに対して、「カタカナ語」は現在の日本で、カタカナで表記される語を指す。「外来語」は「自国語と同様」、すなわち日本語の中に取り込まれて使われることばであるのに対して、「カタカナ語」は普通カタカナで表記される語で、それは必ずしも日本語の中に同化して使われている語ではないということになる。
 この違いはけっこう大きく、それによって「外来語」「カタカナ語」の意味の違いもかなり鮮明になるのではないだろうか。この考え方からすれば、例えば、「ゴールイン」「スキンシップ」「バックミラー」などの「和製英語(日本で英語の単語をもとに、英語らしく作った語)」はカタカナ語ではあっても厳密な意味で外来語とは言えないことになる。また、今回の文化庁の調査にもあった「ガイドライン」「コンソーシアム」「インバウンド」といった語は、確かに日本語に同化しているかと聞かれると疑問である。私もそうであるが、それぞれ「指針」「共同事業体」「訪日外国人旅行者」と日本語で言われた方が理解しやすいのではないだろうか。あくまでも辞書編集者としての私の個人的な意見だが、これらの語は外来語ではなく、カタカナ語と考えられるのである。

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 不平、不満などを解消して、気を晴らすことを「溜飲(りゅういん)」という語を使って「溜飲を―」と言うが、この「―」の部分をなんと言っているだろうか。
 結論から先に述べると、本来の言い方は「溜飲を下げる」である。ところが、「溜飲を晴らす」と言う人がかなりいるようなのである。
 文化庁は「国語に関する世論調査」で、この言い方について、2007(平成19)年度と今年9月に結果を発表した2017(平成29)年度の2回調査を行っている。
 その結果を比較すると、本来の言い方である「溜飲を下げる」を使う人の数がわずかではあるが減少し、新しい言い方である「溜飲を晴らす」を使う人が逆に増えている。そして2017年度の調査では、前者が37.4パーセント、後者が32.9パーセントとそれぞれの割合の差はかなり迫っていることがわかる。
 「溜飲」とは胃の不調による胸焼けなどのことである。それを「下げる」と胸がすっきりするという意味で、「溜飲を下げる」と言い方になった。ただ、日常会話の中で普通に使う語ではないせいか、「溜飲を下げる」という言い方自体よく知らないという人もけっこういそうである。
 文化庁の調査でも、どちらも使わないという人と、わからないという人とを合わせると28.6パーセントもいる。「溜飲を晴らす」と答えてしまった人の中にも、よくわからないままなんとなくこちらの意味だろうと思って、そう答えてしまった人がいるかもしれない。また、「溜飲を晴らす」はふさいだ気持ちを発散させるという意味の「気を晴らす」と意味が似ているので、「晴らす」を使うのではないかと類推した人もいそうである。今年発表された調査でも、10代では56.6パーセントの人が「溜飲を晴らす」を使うと答えているのも、実際に使っているわけではなく、とっさにそのように類推してしまったように思えてならない。
 もしその推察通りだとすると、別の問題も見えてくる。年配者の間ではまだ普通に使われることばを、若い世代にどのように伝えていくかということである。私には従来無かった言い方の「溜飲を晴らす」の割合が増えることよりも、こうしたことばを若者にどうつなげていくかという問題の方が大きいような気がする。

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