1600年(慶長5)9月、徳川家康の率いる東軍と、石田三成(みつなり)を中心とする西軍によって、美濃(みの)国関ヶ原(岐阜県不破(ふわ)郡関ヶ原町)で行われた「天下分け目」の戦い。
[岡本良一]
1598年(慶長3)豊臣(とよとみ)秀吉が死ぬと、豊臣政権はたちまち内部分裂の兆しをみせ始めた。秀吉は生前から、家康の実力が諸大名のそれをはるかに超えているのを憂えて、前田利家(としいえ)を重用して家康に対抗させようとしたり、五大老・五奉行(ぶぎょう)の制度を設けて、自分の死後における家康の独走を阻もうと考えていた。しかし利家も秀吉の後を追うようにその翌年に死んだので、天下の声望はいよいよ家康に集まり、その独走体制はさらに強まり、専横ぶりもまたひどくなってきた。五奉行の一人であり、かねて家康に強い反感を抱いていた石田三成は、打倒家康を図ってひそかに策を練っていた。1600年6月、家康は、会津の上杉景勝(かげかつ)が上洛(じょうらく)の招きにも応ぜず、兵備を整えているというのを口実に景勝討伐の軍を起こし、その前年の9月以来、腰を据えていた大坂城を発して東下した。かねて挙兵の機をうかがっていた三成はこの機をとらえ、毛利輝元(もうりてるもと)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)、小早川秀秋(こばやかわひであき)らを主とする西国諸大名や、小西行長(ゆきなが)、増田長盛(ましたながもり)、長束正家(なつかまさいえ)、大谷吉継(よしつぐ)、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らの文治派諸将を糾合し、7月大いに家康の罪を鳴らして兵をあげ、家康の老臣鳥居元忠(とりいもとただ)の守る伏見(ふしみ)城(京都市伏見区)を攻めた。内心ひそかに三成の挙兵を期待しつつ、江戸を経、会津に向かっていた家康は、7月24日下野(しもつけ)国小山(おやま)(栃木県小山市)で三成挙兵の報を受けるや、すぐさま従軍の諸将を呼び集めて軍議を開いた。諸将のなかには福島正則(まさのり)、池田輝政(てるまさ)、黒田長政(ながまさ)、浅野幸長(よしなが)、山内一豊(かずとよ)ら豊臣恩顧の大名が多くいたが、彼らはかねて三成にきわめて強い反感を抱いていたので、いずれも家康に従って三成と戦うことを誓い、軍議はたちまち決定した。
[岡本良一]
家康は、長男の結城秀康(ゆうきひでやす)や伊達政宗(だてまさむね)を景勝に備えて残し、その他の諸将には反転して西上することを命じ、自らはいったん江戸へ帰り、次男の秀忠をして、榊原康政(さかきばらやすまさ)、大久保忠隣(ただちか)、酒井家次(いえつぐ)ら主として徳川譜代(ふだい)の諸将よりなる一軍の将として中山道(なかせんどう)を進発させ、福島正則、池田輝政、黒田長政、浅野幸長ら豊臣恩顧大名よりなる主力部隊には、軍監として股肱(ここう)の井伊直政(なおまさ)、本多忠勝(ただかつ)両将を添え東海道を西上させた。一方、十数日を費やして8月1日にようやく伏見城を攻略した西軍は、進んで大垣(岐阜県大垣市)に陣して東軍の至るのを待った。中山道を進んだ秀忠軍は、信州上田(長野県上田市)で真田昌幸(さなだまさゆき)にその進撃を阻まれて戦機を逸したが、東海道を進んだ福島、池田、黒田、浅野らは8月23日、織田秀信(おだひでのぶ)(信長の孫)が守る岐阜城を陥れた。それまで江戸に腰を据えて、東海道軍の動向を注視していた家康は、岐阜城陥落の報に9月1日ようやく江戸を発し、14日岐阜の西方赤坂(大垣市)に着陣。一部の兵を残して大垣城に備え、主力をもって三成の本拠佐和山(さわやま)城(滋賀県彦根(ひこね)市)を落とし、さらに進んで大坂城を衝(つ)くという体勢をとり、ただちに行動に移った。これを知った三成らはその夜半、激しい雨を冒して兵を返し、要衝関ヶ原に布陣して東軍を待った。一方、やや遅れて西軍に追尾するように進んでいた東軍もまた関ヶ原に陣した。西軍は、石田隊、島津隊を左翼として北国(ほっこく)街道を扼(やく)し、小西、宇喜多、大谷の諸隊を中央とし、右翼の松尾山に陣する小早川隊とともに中山道を挟み、東方の南宮山(なんぐうさん)に長束、吉川(きっかわ)、毛利隊という陣形。これに対する東軍は、黒田、細川、加藤(嘉明(よしあき))、田中の諸隊と家康麾下(きか)の井伊直政、松平忠吉(ただよし)の諸隊を右翼、福島、京極(きょうごく)、藤堂(とうどう)の諸隊を左翼とし、池田、浅野隊をもって南宮山に備え、家康の本隊は桃配山(ももくばりやま)に陣した。両軍の兵力はともに8万前後でほぼ伯仲であったが、西軍にはかねて東軍に内応していた諸将が多く、いざ開戦となって実際に戦闘に参加したのはようやく3万5000。それにもかかわらず西軍の善戦ぶりはみごとであった。
[岡本良一]
家康は機嫌の悪いときには爪をかむ癖があったが、この日も勝敗の帰趨(きすう)が定まらなかった午前中、しきりに爪をかんでいらいらしていた。しかし午後になって、かねて内応を約しながらも、去就を明らかにせず形勢を観望していた小早川秀秋が、家康からの厳しい催促にようやく寝返りを決し、にわかに大谷隊の側背に攻撃をしかけたのを境に、西軍はみるみる総崩れとなり、午後4時ごろ東軍の地すべり的大勝が決定した。三成は伊吹山(いぶきやま)に逃れたが潜伏中を捕らえられ、後日、小西行長、安国寺恵瓊らとともに京都で斬(き)られたほか、西軍の主将として大坂城にあった毛利輝元は安芸(あき)(広島県)など9か国112万石から周防(すおう)、長門(ながと)(山口県)2か国36万石に大減封されるなど、西軍に加わった諸大名は取潰(とりつぶ)し、減封などいずれも厳しい処分を受けた。それに伴い豊臣秀頼(ひでより)も摂津、河内(かわち)、和泉(いずみ)(兵庫県、大阪府)で65万石の一大名に成り下がり、徳川氏の覇権が事実上確立するに至った。
[岡本良一]
1600年(慶長5)9月,徳川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍が美濃関ヶ原で行った合戦。全国のほとんどの大名がまき込まれたこの合戦に勝ったことで,家康は事実上全国の支配者となり,さらに3年後に征夷大将軍となったので,〈天下分け目の戦〉ともいわれる。
1598年8月の豊臣秀吉死後の政権は,家康を筆頭とする五大老と三成を筆頭とする五奉行によって運営されることとなった。秀吉の遺言によれば,家康,前田利家,毛利輝元,上杉景勝,宇喜多秀家の五大老が秀頼を後見し,〈御法度,御置目〉などの天下の政治は長束正家,石田三成,増田長盛,浅野長政,前田玄以の五奉行が合議によって推進し,太閤蔵入地その他の中央政権を支える財政の〈算用〉は,家康,利家の2人が総攬することになっていた。このことは,8月から9月にかけて五大老,五奉行の間で交換された多数の誓書によって確認され,秀吉の死で緊急の課題となった朝鮮からの撤兵も,この体制によって実施された。この間,五大老は撤退する軍の集結地の指定から船の手配にいたる全般の指令を連署の書状で通達し,また同様な連署状によって寺社,大名,武士に対する知行の安堵・発給が行われ,ときに五奉行の目録が添えられるという形式が翌年の8月ごろまでとられている。これらのことは,秀吉の遺言が表面上は守られたことを示している。
99年正月に入ると,五大老,五奉行内部の対立がしだいに表面化してきた。正月19日,家康を除く大老と五奉行は,家康が伊達政宗,福島正則,蜂須賀家政らと婚姻を予約したことを,秀吉の遺言違反として難詰した。この事件は家康と4大老,五奉行が遺言遵守の誓書を交換して収まったかに見えたが,閏3月3日利家の死をきっかけに細川忠興,蜂須賀家政,福島正則,藤堂高虎,黒田長政,加藤清正,浅野幸長らの7大名が三成を襲い,三成は大坂を脱出して伏見に逃れ,家康の軍勢に守られて居城の佐和山に帰るという事件が起きた。この事件は,秀吉の側近として事実上天下を切り回してきた三成などの吏僚派と,秀吉の御前から遠ざけられて戦場で使役された武将派の対立とも,また家康が三成を庇護したのは,後日に三成に挙兵させて一挙に天下を奪う意図によったものとも評されている。しかし真の対立は,武士の権力を維持する路線の問題にあった。三成が推進したのは,武士をはじめとする全国民を絶えまなく戦争に動員することで体制を強化する路線であり,朝鮮出兵もこれに基づいていた。しかしその破綻は朝鮮における軍事的敗北によって証明され,無事を求める声は諸階層に充満していた。家康がこの声を代表したことは,同じ3月に起きた伊集院幸侃(こうかん)(忠棟)の事件によって天下に明らかとなった。薩摩島津氏の家老であった幸侃は,三成と結んで島津氏の家臣と領民を際限ない戦争に駆り立てる先頭に立った人物であった。その幸侃を当主の家久が伏見の島津屋敷で斬り殺したのがこの事件であるが,これは体制に対する公然たる反逆であり,三成は家久を問責しようとした。ところが家康は家久をかばい,また幸侃の子忠真が事件を知って国元で起こした反乱にも家臣を派遣して平和的解決に努めさせた。家康は,三成の路線に反対であることを行動によって天下に明らかにしたのであり,このことによって家康は武将派の大名の支持を集めたのであった。
これらの事件の直後に家康は秀吉の築いた伏見城本丸に入ったが,これは〈天下殿になられ候〉と当時評されたような意味をもつ行動であった。さらに8月を過ぎると他の4大老が前後して帰国し,ひとり中央に残った家康は大坂城西丸に入り,五大老の権限を事実上一人で振るうこととなった。一方,会津に帰国した上杉景勝は城の修築や道路の補修など領内の整備に努めたが,このことは当時は一般に戦争の準備と受けとられた。
家康は1600年4月,使者を派遣して弁疏のために上洛するよう景勝に要求し,他方では上洛拒絶に備えて諸大名に会津攻めの動員令を下し,島津家久に伏見城の留守を命じた。景勝は上洛を拒絶し,家康は福島,池田,細川,黒田,浅野,加藤(嘉明),藤堂,山内などの諸大名を率いて東下し,7月21日江戸を出陣し,同24日下野小山で三成挙兵の報に接した。三成は,家康東下の間に他の4奉行と申し合わせ,五大老の一人毛利輝元を盟主として,7月17日家康を糾弾する〈内府ちがひの条々〉を明らかにして挙兵し,東軍の拠点伏見城を攻略して近畿を勢力下に収めた。西軍はさらに濃尾に進出を図り,これに対して東軍は福島,浅野,黒田,加藤,山内などの諸大名が先発して8月中旬には尾張に達し,同23日に木曾川を渡って西軍の守る岐阜城を攻略した。8月5日小山から江戸に帰り,9月1日に江戸をたって西上した家康は9月13日に岐阜に入り,翌14日に長良川を渡って美濃赤坂で軍議を開き,東軍の主力は三成の近江佐和山城を攻略し,大坂に向かうことを決定した。この動きを察知した西軍は,これを阻止するために15日午前1時ごろ,雨をついて主力を関ヶ原に進出させた。
戦闘は午前7時過ぎから始まったが,この東軍9万余,西軍8万余が東西4km,南北2kmの小盆地で激突した大会戦は,小早川秀秋の裏切りもあって,午後2時ごろ東軍の勝利に終わった。石田三成,小西行長,安国寺恵瓊などはまもなく捕らえられて10月1日京都六条河原で処刑され,毛利輝元,島津義弘らは軍勢をまとめて国に帰った。九州,北陸,東北の各地で行われていた東西諸大名の間の戦闘も,関ヶ原の結果が伝わるとともに,一部を除き急速に終息した。
9月15日の戦闘の経過を見ると,西軍の側には小早川の裏切りや,島津隊が攻撃の要請を受けながら戦況を傍観するなど,意思の不統一を感じさせる動きが多い。これは島津氏には伊集院幸侃をめぐる上述のような事情があり,島津氏内部の西軍派と東軍派の対立が戦闘に際して島津隊を動けなくしたと考えられる。してみれば,秀吉の死後から合戦にかけて家康が天下に明示した政治路線が諸大名に支持されたことが,家康に勝利をもたらした理由であったといえよう。こうした支持によって家康は早くも9月27日には大坂城に入り戦後処理を開始したが,その中心は諸大名の大移封であった。西軍に参加したことを理由に所領を没収された大名は90人,438万石,減封されたのは毛利輝元(安芸など10ヵ国120万石から防長2国36万石に),上杉景勝(会津120万石から米沢30万石に)など4人,220万石であり,全国2000万石弱のうちにできたこの660万石の空白地の大部分を,旧豊臣系の諸大名に加増として配分した。これには大規模な転封が伴っており,彼らが移動したあとにできた新たな空白地には,それまで関東で知行を与えられていた徳川譜代の部将が加増されて転封した。江戸の周辺や全国の要地に親藩や譜代大名を置き,外様の有力大名は遠隔の地方に置くという,江戸時代の大名配置の原型がここに完成した。
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