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浅間山

ジャパンナレッジで閲覧できる『浅間山』の日本歴史地名大系のサンプルページ

浅間山
あさまやま

群馬県嬬恋つまごい村と長野県北佐久きたさく軽井沢かるいざわ町・御代田みよた町、小諸市にまたがる第四紀複合成層(三重式コニーデ)型の活火山で、標高二五四二メートル。第一外輪山は西方の黒斑くろふ(二四一四メートル)きつぱ(二〇四〇メートル)けんヶ峰(二二八八メートル)の半分ほどが残っており、第二外輪山の前掛まえかけ(二四九三・四メートル)との間に火口原湯の平ゆのたいらがある。中央火口を取囲んでかま山とよばれる内輪山があり、直径三〇〇―三五〇メートル、深さ一〇〇―二〇〇メートルの火口は「おかま」とよばれる。南斜面の石尊せきそん山、東側の小浅間こあさま山・はなれ山は寄生火山である。浅間高原とよばれる標高八〇〇―一四〇〇メートルの広い裾野をもち、南側を追分おいわけ原、北側を六里ろくりヶ原と称する。上信越高原国立公園の一角を占める。噴煙をあげつつ雄大な姿をみせているが、ときには激しい噴火をした。「日本書紀」天武天皇一四年(六八五)一月条に「是月、灰信濃国に零り、草木皆枯」とみえる。「伊勢物語」第八段に「信濃の国、浅間の嶽にけぶりの立つを見て」として「信濃なる浅間の嶽にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ」の歌が載る。浅間・浅間嶽・浅間山は「能因歌枕」などの信濃にあげられる歌枕で、多くの歌に詠じられた。

雲はれぬあさまのやまのあさましや人の心をみてこそやまめ なかき(古今集)
いつとてかわが恋やまむちはやぶるあさまのたけの煙たゆとも よみ人しらず(拾遺集)

総社本「上野国神名帳」の総社大明神鎮守のなかに従一位浅間大明神が載る。山岳信仰の対象ともされ、とくに信州側では諏訪明神とのかかわりが考えられている。また、赤木文庫本「神道集」(白山権現事)に「抑、白山権現ト(中略)信濃ノ浅間モ同ク此御神ナリ云々」とみえ、「加沢記」によると四阿あずまや(白山)と浅間山の権現は一体であったという。

噴火の際の火山灰は上州側に降り被害をもたらしてきた。天仁元年(一一〇八)七月二一日には大噴火があった。上野国司の解状によって知られる被害は「而従〓治暦間〓峯中細煙出来、其後微々也、従〓今年七月廿一日〓猛火焼〓山嶺〓、其煙属〓天沙礫満〓国、〓燼積〓庭、国内田畠依〓之已以滅亡」(「中右記」天仁元年九月五日条)と国内の田畠が壊滅するほどであった。大治四年(一一二九)二月一七日、上野国から提出された「条事」が朝廷において審議された(長秋記)。上野国司(上野介顕俊)の申請によると、前年灰砂(火山灰)が降り荒廃がはなはだしいので本年の貢納物を免除してほしいとのことであったが、朝廷では前例にないと処理されている。天仁元年の噴火では火山灰による被害が大きかったため、済物免除になっていた。天仁元年の噴火は上野国を疲弊させる結果となり、庄園成立を進展させる原因の一つとなった。安貞元年(一二二七)九月二五日、信濃から京都に帰った藤原定家の使者は「あさまの嵩燃、峰石之焼也、昼黒煙立、夜火気見」(明月記)と述べている。文明一八年(一四八六)七月、上野国からかぶら川の谷を経て信濃に入った聖護院道興は、その途中大蔵だいぞう(現群馬郡群馬町)から杉本坊という山伏の坊に移り、「廻国雑記」に「この所より信濃のあさまの嶽ちかぢかと見え侍ると聞しにもすぎて、その風情すぐれ侍りき」と記し、「今はよに烟をたえてしなのなる浅間のたけは名のみ立けり」の歌を載せる。

天明三年(一七八三)七月八日には二千五〇〇人以上の死者を出す大噴火が起きた。世にいう浅間焼けである。吾妻川中流の三島みしま(現吾妻町)の義珍法印が記録した同年の浅間焼出大変記(写、一場文書)はら(現同上)の富沢久兵衛の同四年浅間山津波実記(富沢家蔵)によると、同三年四月九日噴火が始まり、それ以来絶え間なく噴火を繰返していた。「七月三日四日別而焼事甚敷、軽井沢・碓氷・坂本・安中・高崎、武州児玉郡榛沢郡三拾余里之間灰砂弐尺三尺、碓氷笹が峠五尺六尺ふり、人馬の通路なく、上り下りの大名・小名甲州廻り、軽井沢火石ふり三拾軒余焼失、碓氷社人の家拾四軒砂之重りニて潰、右村々山々諸草木迄皆埋まり、冬山のごとし」、四日の夜は「火石五拾丈モ高ク打上ケ」、四日・五日は上州碓氷うすい郡・群馬郡、武州児玉こだま郡・榛沢はんざわ郡地方は、浅間の噴煙が太陽を遮断したため昼間でも闇夜のようになり、行灯をつけ提灯をともした(浅間焼出大変記写)。七日の夜から八日の朝にかけて噴火は一層激しくなり、「拾里四方ニ而戸かぎもはづるゝ程にゆれわたり、大地ニひゞき焼ル、八日之四ツ時既ニ押出ス、浅間山煙り中ニ廿丈計り之柱ヲ立たるごとく、まつくろなるもの吹出スと見る間もなく、直ニ鎌原ノ方へぶつかへり、鎌原より横三里余り押ひろがり、鎌原・小宿・大前・西久保四ケ村、一度にづつと押はらひ、それより芦生田・赤羽・半出来・今宮・袋倉・古森・羽尾・坪井・与喜屋・中居・長野原迄、竹木ハ不及申ニ、土蔵家壱軒も無之流失、大前は半分流失、半分は火石ニ而焼、(中略)横かべ・上湯原・下湯前・河原畑下タ村・林下タ村通りハ、不残流レ」(津波実記)という大災害となった。被害状況を絵図を添えて幕府代官宛に報告しているが、被害村高合せて一万六千六八一石余、泥押し五千三七八石余(幕府領・旗本領)、流失家屋一千八二軒・流死人一千六七四人・残家総人数飢人三千一五二人とある(大変記写)。被害の最も大きかったのが泥流の直撃を受けた鎌原かんばら(現嬬恋村)小宿こやど(現長野原町)であった。鎌原村では高約三三〇石のうち三〇〇石ほどが泥押し、家屋九三・寺一はすべて流失、流死者は四六〇人を超え、生存者は九〇余人であった(大変記写・津波実記)。昭和五四―五五年(一九七九―八〇)発掘調査が実施され、観音堂の石段の下で女性の二遺体が発見された。

七月八日、信じられないような速さで噴出した溶岩・火山灰などが吾妻川に流れ出し、山麓の村を押流した。吾妻川に流れ込んで川を堰止めたため吾妻川流域は大洪水となり、泥流は利根川に流れ込んでいる。浅間山より約四〇キロも離れた吾妻川中流の原町立石たついし川原を流れる泥流を見た富沢久兵衛は、「津波実記」に次のように記す。「川より煙り立といふ、直ニ飛出て見、扨は浅間焼貫ケ押出したるニ無違と中里まで飛来テ見れバ、平井土より立石両向一面ニ成り、水火流レくる、跡より五丈も高ク如山すゝ色成ルもの煙立テ押来ル、(中略)本川通り之すゝ色なる山ハ、泥ニ火石交り押出シたると見へ、原町之囲木より高ク、くろき山煙立テ、矢ヲつくごとく流レ通ル、勢力如何成ル家蔵大木大石成り共けもなく押払、火石流ルルノすさまじさ、たとへハ小家くらいノ火石ニ酒樽油樽ノくらいなるも有、数限りもなく浮て流レ、五間拾間程宛煙ヲ引テ流レル、其中ニハ、二階作り之大家、其まゝかへらづ流レしも有り、土蔵抔も其通り流レルも有り、一さかりはかや家ノ屋ね計り見へて廿軒もつゞいて町ノ如くニ見へて流レルもあり」という有様であった。川越藩前橋陣屋から川越藩宛に注進状が届いており(「松平藩日記」天明三年七月一三日条)、前橋付近の利根川では「昼前ニ至利根川満水、流れ家多、火ニ成相流候、(中略)追々水の様子承候所、虎ケ渕一盃ニ押込、既ニ土手も押上候、右ニ付而者、柳原御門内ニ住宅之者共は家財相仕廻立退、町方ニ而も向町・竪町を始、下之町辺之者共、織部小屋前坪呂岩口逃去候由」という状況であった。前橋より約二〇キロほど下流の伊勢崎藩国家老関重嶷の「沙降記」によると、七月二日・五日・六日と連日のように火山灰が降り、霜や浅雪のようである。七日には雷とともに砂が降って暴雨のごとくで、砂のために暗くなり通行人は灯をもち、傘をさしていた。利根川は洪水で水中に烈火があり、泥汁は熱湯となって近づくことができないほどであった。浅間山の噴火についての記録は、直接泥流の被害にあった吾妻川・利根川流域を中心に数多く残されている。噴火による火山灰は上野国一円に降っており、とくに著しかった碓氷郡・群馬郡においても高崎藩儒者川野辺寛の「癸卯災異記」(本多家蔵)菅原すがはら(現甘楽郡妙義町)の長左衛門著「浅間山大焼一件記」(同家蔵)などがある。

噴火がその後の異常気象の原因となったものか、天明四年から同七年にかけて飢饉となった。災害の復興と飢饉の救済のため、吾妻地方では大戸おおど(現吾妻町)名主加部安左衛門、大笹おおざさ(現嬬恋村)名主黒岩長左衛門、干俣ほしまた(現同上)名主干川小兵衛などが私財を投じている(干川文書・鎌原文書ほか)。災害の直後幕府役人も出張し、幕府領村々の飢人救済として男一日米二合・女一合を六〇日間支給し、救助につとめた(津波実記)。幕府は同年八月災害復興のために御救御普請を実施、役人を渋川総支配所(現渋川市)に置いて大笹・原町・金井かない(現吾妻町)に役所を設置している(大変記写)。しかし一村全滅に近い鎌原村・小宿村などもあり、幕府の救済普請のみでなく、加部安左衛門・黒岩長左衛門など近郷の有力者の支援や借金などによって辛うじて生活をつなぐという状況で、復興には長い年月を要した。天明以降の浅間山の噴火は小規模なものであり、明治四四年(一九一一)日本で最初の火山観測所(軽井沢町)の設置、昭和八年峰の茶屋みねのちやや(同上)に浅間火山観測所の開設、同三〇年東大地震観測所小諸支所(小諸市)の開設などによって浅間火山の科学的研究が進められつつあり、噴火の危険度を予測するようになっている。なお火山灰層を上層からA、B、Cとし、天明三年の層を浅間A、天仁元年の層を浅間B、四世紀前半のものを浅間Cと区分する。遺跡などの年代判定の資料に利用されている。

浅間山の東側と北側の広大な高原は古くは源頼朝が巻狩をしたと伝え、近世には南木なぎ山などとよばれる入会地であった。裾野の森林は爆発のため標高一六〇〇メートル前後でなくなっている。北斜面は大部分が畑地で、第二次世界大戦後は入植者によって開発された。北東山麓の長野原町には県営の浅間牧場もあるが、近年は観光開発に力が入れられている。北から北東にかけての嬬恋村に天明の噴火によって形成された溶岩流鬼押出しが残り、北西方(同村)には四五〇以上の溶岩樹型(国指定天然記念物)もある。北東麓を通る浅間白根火山ルートは回遊観光客の利用が多い。

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浅間山の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 845
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検索コンテンツ
1. 浅間山
日本大百科全書
震災予防調査会が設け、1922年(大正11)創設の軽井沢測候所(その後、軽井沢特別地域気象観測所と浅間山火山防災連絡事務所に改組)と、1933年(昭和8)創設の ...
2. 浅間山[百科マルチメディア]
日本大百科全書
日本の代表的活火山。三重式の成層・円錐(えんすい)火山で、標高2568m。山麓(さんろく)には天明の大噴火(1783年)による溶岩流群「鬼押出し」が広がり、鬼神 ...
3. 浅間山
世界大百科事典
東縁に沿い,西から東に順次噴出した多数の火山体から成り,浅間山の形成はその中でもっとも新しく,絶えず噴煙の見られる活火山である。浅間山の中では黒斑山,前掛山,釜 ...
4. あさま‐やま【浅間山】地図
デジタル大辞泉
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5. あさま‐やま【浅間山】
日本国語大辞典
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6. あさまやま【浅間山】
国史大辞典
『日本書紀』天武天皇十四年(六八五)三月条に、「灰信濃国に零り、草木皆枯る」(原漢文)とあるのが、浅間山噴火の史料にみえる最初と考えられる。また天仁元年(一一〇 ...
7. あさまやま【浅間山】群馬県:吾妻郡
日本歴史地名大系
直径三〇〇―三五〇メートル、深さ一〇〇―二〇〇メートルの火口は「おかま」とよばれる。南斜面の石尊山、東側の小浅間山・離山は寄生火山である。浅間高原とよばれる標高 ...
8. あさまやま【浅間山】長野県:北佐久郡
日本歴史地名大系
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9. 浅間山
デジタル大辞泉プラス
群馬県、浅間酒造株式会社の製造する日本酒。 2012年04月 ...
10. せんげんやま【浅間山】群馬県:北群馬郡/伊香保町
日本歴史地名大系
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11. あさまやま【浅間山】[標準語索引]
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12. あさまさんそう‐じけん[あさまサンサウ‥]【浅間山荘事件】
日本国語大辞典
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13. 浅間山の断面模式図[百科マルチメディア]
日本大百科全書
〓Shogakukan ...
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日本歴史地名大系
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日本歴史地名大系
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17. せんげんやまこふん【浅間山古墳】栃木県:宇都宮市/石井村
日本歴史地名大系
[現]宇都宮市石井町 南流する鬼怒川西岸の河岸段丘上の縁部を占める。北西面する前方後円墳で、墳丘全長三三―三五メートル、後円部の径約二一メートル、高さ約三・五メ ...
18. せんげんやまこふん【浅間山古墳】栃木県:足利市/小曾根村
日本歴史地名大系
[現]足利市小曾根町 矢場川北岸の低台地に位置し、北北西方に前方部を向ける前方後円墳と推定される。後円丘が大きく高く、前方丘が狭く低い。すでに西側の墳丘が相当に ...
19. せんげんやまこふん【浅間山古墳】群馬県:高崎市/倉賀野村
日本歴史地名大系
造と考えられ、密接な関係が推定される大鶴巻古墳・小鶴巻古墳が周濠を接するように所在している。浅間山古墳を中心としたこれら大型前方後円墳の一群は、五世紀を通じて相 ...
20. 天狗温泉浅間山荘
デジタル大辞泉プラス
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21. 浅間山天明噴火史料集成[文献解題]群馬県
日本歴史地名大系
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22. 渓斎英泉『木曽海道六拾九次 第四 支蘇路ノ駅浦和宿浅間山遠望』[百科マルチメディア]
日本大百科全書
国立国会図書館所蔵 ...
23. たけしたせんげんやまこふん【竹下浅間山古墳】栃木県:宇都宮市/竹下村
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24. 富士浅間山
デジタル大辞泉プラス
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イミダス 2017
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27. 亜欧堂田善
日本大百科全書
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30. あかいわむら【赤岩村】長野県:佐久市
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32. あかだむら【赤田村】神奈川県:足柄上郡/大井町地図
日本歴史地名大系
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33. アカマツ
世界大百科事典
るが,中には通直な幹の木肌の美しい林が見られるところもあり,青森県上北郡の甲地(かつち)松,浅間山ろくの霧上(きりうえ)松,霧島山の霧島松などのように地域名を冠 ...
34. 吾妻川
世界大百科事典
紀末~第四紀前半に活動した南北に並ぶ古期火山列によって二分される。西方の上流域は四つの火山,浅間山,烏帽子山,草津白根山,四阿(あずまや)山のゆるやかなすそ野か ...
35. あがつまがわ【吾妻川】群馬県:吾妻郡
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合せてからを山田川ともいう)、吾妻郡の東端で、沼田市との境権現峠からの名久田川を合せる。南側からは浅間山に源をもつ地蔵川などの諸川、浅間隠山と榛名山より北側へ流 ...
36. あがつまぐん【吾妻郡】群馬県
日本歴史地名大系
深く険しい峡谷をつくり、国指定名勝吾妻峡として知られる。数多い山々のなかで浅間山と白根山の二大火山は西吾妻の観光の中心でもあり、浅間山の広大な裾野の標高一〇〇〇 ...
37. 秋山記行・夜職草 329ページ
東洋文庫
水中に生へ、少なる稲虫杯群りて実に奇峯なり」(左下)「此山(苗場山)より上毛草津の一面の焼山と、浅間山の煙眼下に見へる。実に連山波濤の如し。此峯より諸邦の名ある ...
38. あさしなむら【浅科村】長野県:北佐久郡
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五郎兵衛新田村・南御牧村(旧八幡村・蓬田村・桑山村・矢島村)が昭和三〇年(一九五五)に合併、浅間山と蓼科山の中間に位置する意味で浅科村とした。 ...
39. あさま【浅間】
日本国語大辞典
【一】「あさまやま(浅間山)」の略。*山家集〔12C後〕中「いつとなくおもひに燃ゆる我身哉あさまのけぶりしめる世もなく」*曾我物語〔南北朝頃〕五・浅間の御狩の事 ...
40. あさまおび【浅間帯】[方言]
日本方言大辞典
浅間山にかかる帯状の雲。 長野県佐久「浅間帯に平尾頭巾は晴れ」493東信濃方言集(上原邦一)1976 ...
41. あさま‐が‐だけ【浅間ケ岳】
日本国語大辞典
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42. 浅間高原
日本大百科全書
長野・群馬県境にある浅間山の南・北麓(ろく)に展開する高原。標高900~1500メートルほどの間に展開する浅間火山の噴出物が厚く堆積(たいせき)した土壌からなる ...
43. あさま‐こうげん[‥カウゲン]【浅間高原】
日本国語大辞典
長野県と群馬県の境にある、浅間山の南麓と北麓一帯に広がる高原。標高一〇〇〇〜一五〇〇メートル。南麓面に軽井沢、小諸の町があり、北麓の北軽井沢には浅間牧場などがあ ...
44. あさま‐ざえもん[‥ザヱモン]【浅間左衛門】
日本国語大辞典
〔名〕浅間山を信州の象徴としてつくられた、信濃者をいう擬人名。*雑俳・柳多留‐七〔1772〕「かぶ汁であさま左ゑ門五はい喰」 ...
45. あさまじんじゃ【浅間神社】
国史大辞典
最近では「せんげん」という。ちなみに富士山への信仰に基づく社頭に、何故に浅間神社と呼称してきたのかは、浅間山の存在とも併せて考察を要する点であろう。 (一) 静 ...
46. 浅間砂
日本大百科全書
長野県の浅間山周辺に産する火山砂礫(されき)で、園芸用土とされる。砂礫には稜角(りょうかく)があり、凹凸面もあるので、排水、水分の保持力などに優れ、灰黒色または ...
47. あさまだち【浅間立】[方言]
日本方言大辞典
浅間山の方向から来る夕立。 長野県佐久493東信濃方言集(上原邦一)1976 ...
48. あさま‐の‐たけ【浅間岳】
デジタル大辞泉
浅間山  ...
49. あさま‐の‐だけ【浅間岳】
日本国語大辞典
「あさまやま(浅間山)」に同じ。*新古今和歌集〔1205〕羇旅・九〇三「しなのなるあさまのたけに立つ煙をちこち人のみやはとがめぬ〈在原業平〉」*書言字考節用集〔 ...
50. あさまの森オートキャンプ場
デジタル大辞泉プラス
長野県小諸市にあるキャンプ場。標高約1130mの浅間山麓に位置する。 2013年03月 ...
「浅間山」の情報だけではなく、「浅間山」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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大岳山から北に延びる御嶽尾根にある高山。御岳山は標高九二九メートル。金峰山・武州御嶽山ともいう。北の大塚山の東手を大沢川が流れ、南西の鍋割山の手前に奥院があり、東に日の出山がそびえる。古くから御嶽山信仰の山として知られ、山頂に吉野金峰山より蔵王権現の分霊を勧請した
乗鞍岳(日本歴史地名大系)
飛騨山脈(北アルプス)に沿い、北から立山(三〇一五メートル)・焼岳(二四五五・四メートル)・乗鞍岳(三〇二六・三メートル)・御嶽山(三〇六三・四メートル)と連なる乗鞍火山帯の主峰で、裾野は大野郡高根村・朝日村・丹生川村と吉城郡上宝村、長野県南安曇郡安曇村にまたがる。
立山(日本歴史地名大系)
県の南東部に位置し、北アルプス(飛騨山脈)の北部にあたる。雄山(三〇〇三メートル)・大汝山(三〇一五メートル)・富士ノ折立(二九九九メートル)で立山本峰を構成する。また立山本峰・浄土山(二八三一メートル)・別山(二八八五メートル)<を総称して立山三山という。
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富士山宝永噴火(国史大辞典)
宝永四年(一七〇七)十一月二十三日に始まり、十二月八日まで続いた富士山南東側中腹付近での大噴火。大量の火山弾、火山灰が降ったため「宝永の砂降り」ともよばれる。被災地域は駿河・相模・武蔵三国に及び、江戸でも降灰があり雪が降るようであったという(新井白石
伊吹山(世界大百科事典・日本大百科全書・日本歴史地名大系)
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アルデバラン(日本大百科全書・世界大百科事典)
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