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  11. 九条兼実

九条兼実

ジャパンナレッジで閲覧できる『九条兼実』の国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書のサンプルページ

国史大辞典

九条兼実
くじょうかねざね
一一四九 - 一二〇七
平安・鎌倉時代初期の公卿。月輪殿・後法性寺殿ともよばれた。藤原忠通を父として久安五年(一一四九)に生まれた。早く僧籍に入った者を除くと第三の男子であった。母は太皇太后宮大進藤原仲光女加賀。同母兄弟四人のうちの長子にあたる。保元三年(一一五八)十歳で元服して正五位下となり、左近衛権少将に任じた。その後位階は順調に進み、官職もまた左近衛権中将に播磨介を兼ねるなどして、永暦元年(一一六〇)には従三位、さらに同年中に正三位に昇って権中納言(兼左近衛権中将)、翌応保元年(一一六一)には権大納言に右近衛大将を兼ね、同二年正二位、長寛二年(一一六四)には内大臣(兼右近衛大将)となる。この年父を喪っている。時に十六歳。仁安元年(一一六六)には左近衛大将に転じたがいくばくもなくこれを辞し、随身兵仗を許された。またこの年さらに右大臣に進んでいる。承安四年(一一七四)大臣の労により従一位に昇り、これが兼実終身の位階となる。この間、仁安元年から同三年にわたっては東宮傅を兼ねた。治承元年(一一七七)橘氏是定。この後しばらく官職に異動なく、治承・寿永の乱が落着し鎌倉幕府の覇権が確立する文治元年(一一八五)に至って源頼朝の強い推挽によって内覧の宣下を受け、翌年摂政・氏長者となる。三十八歳。この年右大臣を辞している。同五年太政大臣。翌建久元年(一一九〇)これを辞する。同二年摂政から関白に移り、同七年いわゆる建久七年の政変によって官を追われるまでその任にあった。政変の時四十八歳。この後政界に復帰することなく、建仁二年(一二〇二)出家して円証と称し、承元元年(一二〇七)四月五日五十九歳をもって没した。この履歴からもよみとれるように、兼実の生涯はほぼ三期に分けられる。第一期は文治二年の摂政就任までであって、治承三年末以後一年余の一時期を除いて後白河院政のもとにあり、同時に養和元年(一一八一)の平清盛の死没までの十数年は平氏の専制ともいうべき状態であったが、兼実はこの両者に対してともに批判的態度をとり、特に平氏に対しては非協力的であったから、政局の中枢部から疎外され、政治情勢に対する影響力はほとんどなかった。ただ治承四年に清盛の南都追討を一時的にではあったが抑制しえたことが例外となろう。寿永二年(一一八三)平氏西走後、京都を源義仲、ついで同義経の兵力が制圧した時期には、後白河法皇の諮問に応じて幾つかの重要な建策をしているが、これも後鳥羽天皇の践祚を進言したものが用いられているにすぎない。第二期は建久七年までの、摂政、ついで関白として公家政権を掌握した期間で、このうち建久三年までは後白河法皇が在世して依然強い影響力を政局に及ぼし続けたため、兼実は源頼朝と密接な協力関係を樹立しその強い支援を受けながらも、京都政界では孤立と無力とを嘆かなければならなかった。この間、文治三年頼朝の奏請によって訴訟機関として記録所を設置し、かつその活用につとめたこと、建久元年娘任子の入内を実現したことなどがわずかに注目される。法皇の没後に至って頼朝に征夷大将軍の地位を与え、南都復興事業をやりとげるなど、執政がようやく軌道に乗るかに見えたが、源通親・高倉範季らと対立し、通親養女として入内した在子に皇嗣の出生を見たのをきっかけに政界を追われたのである。しかしながらこの時期、兼実は、弟慈円の仏教界での地位向上に尽力し、また最も期待した長男良通の二十二歳での早世に落胆しつつも、次男良経の育成に心を傾けており、これが後年九条家の地位回復の基盤として生きることになる。第三期は建久七年の政変以後死没までの晩年である。ここで良経・慈円の活躍を再び目にすることができたものの、建永元年(一二〇六)良経の三十八歳での急死に遭い、その遺児道家の成長にすべての希望を託することを余儀なくされる。壮年のころから交渉の深かった念仏門、特に法然房源空への帰依が篤くなるのもこの第三期であり、正治二年(一二〇〇)の良通・良経らの母である藤原季行女の授戒、建仁二年の自身の出家のいずれにも戒師として源空が請じられている。源空の『撰択本願念仏集』は兼実のために述作されたものという。なお兼実は若年から歌道に関心深く、自身詠作があるとともに、藤原俊成・同定家らの当代の代表歌人の庇護者として大きな役割を果たしている。五摂家のうち九条・一条・二条の三家の祖である。没後法性寺に葬られ、その墓は京都東福寺の東、旧く内山と呼ばれた地に現存する。著作としては朝儀典礼の参考として編まれた『魚秘抄』『春除目略抄』『摂政神斎法』などのほか、前後約四十年にわたる大部の日記『玉葉』が伝存する。→玉葉(ぎょくよう)
[参考文献]
『大日本史料』四ノ九 承元元年四月五日条、『大日本史』列伝八四、星野恒「歴世記録考」(『史学叢説』一所収)、多賀宗隼「兼実とその周囲」(同編『玉葉索引』所収)
(龍福 義友)


世界大百科事典

九条兼実
くじょうかねざね
1149-1207(久安5-承元1)

平安末~鎌倉初期の公卿。藤原忠通の三男。母は家女房藤原仲光女。同母弟に慈円らがおり,異母兄弟姉妹に藤原基実(近衛),同基房(松殿),聖子(皇嘉門院),呈子(九条院)らがいる。兼実は父忠通から九条の地を譲られ,ここに邸を構えて九条を家名とした。1160年(永暦1)従三位・非参議となってから,同年権中納言,翌年(応保1)権大納言,64年(長寛2)内大臣,66年(仁安1)右大臣と累進した。しかし後白河院と平氏との権力争いの中で,巧みにこれらと結んだ松殿基房,近衛基通(基実の子)に対し,兼実はそのどちらとも結ばず,また平氏に代わって源義仲が入京してからも,その短命を見通して兼実は終始静観しつづけた。そのような兼実に対し,鎌倉幕府を開いた源頼朝がしだいに接近をはかり,やがて兼実自身もこれと提携するに至った。頼朝に支持された兼実は,1185年(文治1)議奏公卿に補せられ,かつ内覧宣旨をうけ,翌年には兄基実の子基通に代わって摂政,氏長者,さらに91年(建久2)には関白となった。そして翌年後白河法皇が死去するに至り,関白としての兼実の実権が確立して,その全盛期を迎えた。しかし源通親が外戚の地位を利して政権をにぎるに及んで96年(建久7)廟堂を追われ,以後は隠棲生活を送った。1202年(建仁2)出家して円証と称し,九条の地に月輪殿を営んで月輪関白と呼ばれた。07年(承元1)没して父と同じく九条の地の法性寺(ほつしようじ)に葬られて後法性寺関白と呼ばれた。室は藤原季行女(良通・良経の母),その他藤原頼輔女,高階盛章女らが女房として知られている。兼実は教養・趣味の広い人であり,またその念仏信仰も有名で,法然上人源空の《選択(せんちやく)集》は兼実の求めによってあらわされたという伝えがある。兼実の日記は《玉葉》と呼ばれている。
[新田 英治]

[索引語]
月輪関白 後法性寺関白


日本大百科全書(ニッポニカ)

九条兼実
くじょうかねざね
[1149―1207]

鎌倉前期の政治家。月輪関白 (つきのわかんぱく)、後法性寺入道 (ごほうしょうじにゅうどう)関白などの称がある。関白藤原忠通 (ただみち)の三男。母は藤原仲光 (なかみつ)の女 (むすめ)加賀局 (かがのつぼね)。1166年(仁安1)より右大臣。86年(文治2)摂政 (せっしょう)となり、91年(建久2)から96年まで関白。

 兼実の政治的生涯は3期に分かつことができる。第1期は16歳から34歳まで、平氏政権下にあったときである。初め公家 (くげ)政権との協調に努めた平氏は、摂政の近衛基実 (このえもとざね)と血縁を結び、同じ触手を弟松殿基房 (まつどのもとふさ)、兼実にも及ぼそうとした。しかし公武対立の激化に伴い独裁化してゆく平氏権力は摂政基房を追放して未曽有 (みぞう)の屈辱を与えた。摂関家の誇りに生きた兼実は極力平氏との接触を警戒した。その結果、兼実は終始右大臣にとどまることとなり、摂関就任の念願は阻まれた。しかし、この雌伏の間に彼が得た政治の体験は将来の飛躍の原動力となった。平氏政権は清盛 (きよもり)の死に衰兆を示し、源義仲 (よしなか)の進攻に崩壊し、頼朝 (よりとも)の新政権にとどめを刺された。この都の破局の収拾と公家政治の再建の仕事は、衆目のみるところ、いまや摂関家中、見識、実力、年齢において最長老であった兼実にもっぱら期待された。清盛、義仲において武家を危ぶんだ兼実は、かくして頼朝に賭 (か)けるほかない立場に置かれたが、それがたまたま兼実を政権の座につける結果をもたらした。平家滅亡後、頼朝の弟義経 (よしつね)追及に対する兼実の全面協力が2人を確実に結び付けたのである。兼実はここに頼朝の支持によって摂政となった。かくて年来の宿望を達成して彼の政治の第2期が開ける。それは平和回復の時代の到来であった。この情勢を象徴する歴史的事業として朝廷は東大寺復興に全力をあげた。その完成に際して頼朝も上洛 (じょうらく)して敬意を表したが、その機会に頼朝と兼実とは相語って盟約を固めている。しかし一方、兼実のこの立場は疑惑の的となり、朝廷への反逆者をもって目せられることは兼実をもっとも苦しめた。またその女子を後鳥羽中宮 (ごとばちゅうぐう)とすることができたが、ついに皇子の誕生なく外戚 (がいせき)政治の望みも断たれた。一方、朝廷内部の反武家勢力を代表する源通親 (みちちか)は九条家の競争者近衛家を擁して、1196年兼実打倒の政変に成功。兼実はかくて48歳で政界を去り、第3期すなわち隠棲 (いんせい)期に入る。兼実は早く長男良通 (よしみち)を失い、のちには次男良経 (よしつね)に先だたれ、晩年は良経の子道家 (みちいえ)の成長を楽しみつつ子孫と没後のみに心を砕く身となった。一方つとに親しんできた仏教の信仰は年とともに深く、当時専修 (せんじゅ)念仏の教えを開いた法然房源空 (ほうねんぼうげんくう)を邸に請 (しょう)じて法を聞き、源空の主著『選択 (せんちゃく)本願念仏集』成立も兼実の請が機縁となったという。『法然上人 (しょうにん)行状絵図』はこれらの経緯を伝えている。晩年、法性寺の傍らに月輪殿を営んで住んだ。建永 (けんえい)2年4月5日没。兼実の日記は『玉葉 (ぎょくよう)』といい66巻、ほかに柳原本1巻が現存している。記事は40年にわたり、彼の生きた変革期を活写して、数多い公家日記中で高く評価されるものの一つである。

[多賀宗隼]

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検索コンテンツ
1. 九条兼実
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鎌倉前期の政治家。月輪関白つきのわかんぱく、後法性寺入道ごほうしょうじにゅうどう関白などの称がある。関白藤原忠通ただみちの三男。母は藤原仲光なかみつの女むすめ加
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1149-1207(久安5-承元1) 平安末~鎌倉初期の公卿。藤原忠通の三男。母は家女房藤原仲光女。同母弟に慈円らがおり,異母兄弟姉妹に藤原基実(近衛),同基房
3. くじょう‐かねざね【九条兼実】
日本国語大辞典
平安末期、鎌倉初期の公卿。摂政、関白、太政大臣。従一位。藤原忠通の三男。慈円の兄。九条家の始祖。月輪(つきのわ)関白、月輪殿、法性寺殿ともいう。源頼朝の後援で摂
4. くじょうかねざね【九条兼実】画像
国史大辞典
一一四九―一二〇七 平安・鎌倉時代初期の公卿。月輪殿・後法性寺殿ともよばれた。藤原忠通を父として久安五年(一一四九)に生まれた。早く僧籍に入った者を除くと第三
5. 九条兼実
日本史年表
)(寿永4) 乙巳〉 12・28 頼朝の要請により, 九条兼実 を内覧とする(玉葉)。 1196年〈建久7 丙辰〉 11・25 九条兼実 の関白・氏長者を罷免し
6. くじょう-かねざね【九条兼実】
日本人名大辞典
1149−1207 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう)。久安5年生まれ。藤原忠通(ただみち)の子。九条家の祖。仁安(にんあん)元年右大臣,承安(じょうあん)4
7. 九条兼実[文献目録]
日本人物文献目録
『藤原兼実建立の御堂二、三について』杉山信三『九条兼実における法然教受容過程』高橋正隆『九条兼実の春日社と南円堂信仰』亀田孜『興福寺再興と九条兼実の国体観』中上
8. 九条兼実花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
9. あいごう【安威郷】大阪府:摂津国/島下郡
日本歴史地名大系
る(いずれも現茨木市)。「玉葉」によると文治四年(一一八八)正月一一日、時の藤原氏長者である九条兼実が安井庄を訪れて、庵室で宿泊している。したがってこの時期も藤
10. あいのしょう【安威庄】大阪府:茨木市/安威村
日本歴史地名大系
古代の島下郡安威郷の地に立庄された庄園で、江戸期の安威村一帯を庄域とした。文治四年(一一八八)正月一一日、関白九条兼実が安井庄にある藤原宗頼の庵室に宿しており(
11. あかさきむら【赤崎村】兵庫県:城崎郡/日高町
日本歴史地名大系
。また中世前期には当地一帯に赤崎庄が成立していた。〔赤崎庄〕元久元年(一二〇四)四月二三日の九条兼実譲状案(九条家文書)に、家領のうちに「但馬国赤崎庄」とみえ、
12. あさぎのほう【浅黄袍】
国史大辞典
之黄衣〓」と解すに至り、九条兼実は『玉葉』建久二年(一一九一)十二月十四日条に、これを正説として「不
13. あずまかがみ【吾妻鏡】
国史大辞典
編纂に用いられた材料のうち、今日残っていてそれと指摘されている書物には、京都の公家の日記として九条兼実の『玉葉』や藤原定家の『明月記』、鎌倉に下り将軍に近侍した
14. あそうだむら【浅宇田村】三重県:上野市
日本歴史地名大系
まもなく旧に復した。元久元年(一二〇四)には最勝金剛院の堂舎とともに浅宇田庄は宜秋門院に譲られ(四月二三日「九条兼実置文」九条家文書)、建長二年(一二五〇)には
15. あそうむら【麻生村】茨城県:行方郡/麻生町
日本歴史地名大系
「和名抄」にいう麻生郷の本郷の地(新編常陸国誌)で、建久二年(一一九一)一一月日の摂政前太政大臣家九条兼実政所下文(鹿島神宮文書)に麻生郷の名がある。中世は大掾
16. 安倍泰親
世界大百科事典
平安末期の陰陽家。生没年不詳。藤原頼長や九条兼実に重用され,1182年(寿永1)4月陰陽頭に任じたが,翌年正月をもって記録類から消えており,このころ没したとみら
17. あべの-やすちか【安倍泰親】
日本人名大辞典
1110−1183 平安時代後期の陰陽師(おんようじ)。天永元年生まれ。安倍晴明(せいめい)の子孫。藤原頼長や九条兼実に重用され,雅楽頭(うたのかみ),陰陽権博
18. あべのやすちか【安倍泰親】
日本架空伝承人名事典
平安末期の陰陽家。生没年不詳。藤原頼長や九条兼実に重用され、一一八二年(寿永一)四月陰陽頭に任じたが、翌年正月をもって記録類から消えており、このころ没したとみら
19. あべのやすちかていあと【安倍泰親邸跡】京都市:下京区/有隣学区/西橋詰町地図
日本歴史地名大系
天文博士安倍晴明(九二一―一〇〇五)の五代の子孫。卜占の才能に秀で、左大臣藤原頼長に重用されたが、源頼政や関白九条兼実にも信頼が厚く、寿永元年(一一八二)に陰陽
20. あまぐん【海部郡】愛知県
日本歴史地名大系
目寺町森)が海東郡に成立し、頼長の兄忠通の息女皇嘉門院領となり、女院は治承四年(一一八〇)に九条兼実の子良通に譲っている(九条家文書)。「延喜式」神名帳に登載さ
21. あまべぐん【海部郡】大分県:豊後国
日本歴史地名大系
になった。同庄は、治承四年(一一八〇)五月宗子の娘で崇徳天皇皇后でもあった皇嘉門院聖子から兄九条兼実の子良通へ譲られている。しかし臼杵庄から最勝金剛院さらに皇嘉
22. いいののまき【飯野牧】山梨県:南巨摩郡/身延町
日本歴史地名大系
しかし同月一四日には憲基の嫌疑は晴れたようで(同書同年一〇月一二日・一四日条)、憲基はその後も九条兼実宅へ出入りしている。憲基が下司と結んで不正を働いており、召
23. いくしまのしょう【生嶋庄】兵庫県:尼崎市/旧川辺郡地区
日本歴史地名大系
備進することで忠通の下文を得たとされる(正応四年七月日「覚照重申状案」九条家文書)。皇嘉門院の所領はのちに弟九条兼実の子良通に譲与されていることから、当庄も同様
24. 意見封事
日本史年表
意見封事 を奏上させる(玉葉文治三年五月二三日条)。 1187年〈文治3 丁未〉 5・23 九条兼実,公卿らの 意見封事 17通を法皇に奏上(玉葉)。
25. いずみし【和泉市】大阪府地図
日本歴史地名大系
争論の際の天永三年(一一一二)の証拠文書中に主税頭領宮村がみえる。長寛二年(一一六四)摂関家九条兼実により立庄され、奈良春日社に寄進された春木庄をはじめ、おそら
26. いずみのくに【和泉国】大阪府地図
日本歴史地名大系
櫛造供御人をも編成した。また大鳥郡大鳥郷(現堺市)居住の摂関家大番舎人に対する支配はより強化された。九条兼実は久米田寺(現岸和田市)を九条家の菩提寺である九条御
27. いたのしょう【井田庄】静岡県:田方郡/戸田村
日本歴史地名大系
嘉門院惣処分状(九条家文書)に「いつ みつのミくりや 井た」とみえるのが早い。皇嘉門院聖子(九条兼実の姉)から兼実に譲られた庄園の一つで、京都の最勝金剛院(現京
28. いちじょう-かねふゆ【一条兼冬】
日本人名大辞典
三位。右大臣にすすみ,22年関白,左大臣となる。従一位。和歌,連歌をこのみ,絵も上手で先祖の九条兼実(かねざね),一条実経(さねつね)などの肖像をかいたという。
29. いちじょうたかよし【一条高能】
国史大辞典
同七年十二月参議、翌八年正月従三位となる。高能が参議に任ぜられたのは、幕府と関係の深かった関白九条兼実が源通親の陰謀により失脚した直後のことで、この任官は通親が
30. 一条能保
日本大百科全書
非違使別当けびいしべっとうとなり、名実ともに洛中警察権を掌握した。また同年6月摂政せっしょう九条兼実かねざねの嫡子良経よしつねを女婿じょせいに迎え、権勢を振るっ
31. いちじょう‐よしやす【一条能保】
日本国語大辞典
鎌倉初期の公家。藤原通重の子。従二位権中納言。源頼朝と親しく、九条兼実とともに、京都における親幕派の中心人物。後に対立する源通親に追われた。法名保蓮。久安三~建
32. いちじょうよしやす【一条能保】
国史大辞典
頼朝は彼の活躍に期待するところが多かった。翌三年七月能保の妻は後鳥羽天皇の乳母となり、またその女の一人は関白九条兼実の嫡子良経と結婚したが、これらはいずれも頼朝
33. 一休ばなし(仮名草子集) 284ページ
日本古典文学全集
やぶりたるとはえいふまじき也  初期の天台宗の僧。慈円。吉水の僧正と通称する。関白藤原忠通の子。九条兼実の弟。天台座主を五度つとめた。『愚管抄』『拾玉集』がある
34. いつくしまじんじゃ【厳島神社】広島県:佐伯郡/宮島町/厳島
日本歴史地名大系
今又立鳥居、仍可打額」とあり、この鳥居がどこの鳥居かは不明であるが、もし大鳥居の前身であるとするなら、九条兼実が額の神名を書いて安元三年に送っている。厳島社再度
35. いなげのしょう【稲毛庄】神奈川県:川崎市
日本歴史地名大系
と新庄が成立しており、ともに摂関家の九条家に伝領されていた。元久元年(一二〇四)四月二三日の九条兼実置文(県史一)によれば稲毛新庄は娘の宜秋門院任子に譲られ、本
36. いなづみのしょう【稲積庄】鳥取県:倉吉市
日本歴史地名大系
が停止され、翌年当庄は一時的に国衙領となった。同年一二月に後白河院政が復活し、同五年三月には九条兼実が当庄を後白河院領に戻すことと、然るべき者に支配を委任するこ
37. いのうえほんしょう【井上本庄】和歌山県:那賀郡/粉河町
日本歴史地名大系
紀ノ川北岸の河岸段丘上にあった荘園で、長田庄ともいう。東は粉河庄、西は井上新庄。古くは摂関家領荘園であったが、山城随心院に寄進され、室町時代に粉河寺領となった。
38. いわたのしょう【石田庄】岐阜県:岐阜市/旧山県郡・各務郡地区/岩田村
日本歴史地名大系
る当庄は、平安末に皇嘉門院領となり、その後九条家領になった。元久元年(一二〇四)四月二三日の九条兼実譲状に女院庁分御領として「美濃国宇多勅旨衣斐・石田」とみえ、
39. いんせいじだい【院政時代】
国史大辞典
制の保持を図ったが、守護・地頭を設置し、在庁官人の進止権を東国に承認し、さらに頼朝の推薦する九条兼実を関白に任命することを拒むことができなかった。兼実は後白河法
40. いんでむら【位田村】滋賀県:神崎郡/五個荘町
日本歴史地名大系
思われ(神崎郡志稿)、小字にも位田と称する一町余の地がある。元久元年(一二〇四)四月二三日の九条兼実置文(九条家文書)に「小幡位田」とみえる。永正一六年(一五一
41. いんぷもんいん【殷富門院】
国史大辞典
建保四年(一二一六)四月二日七十歳で没した。建久三年春、後白河法皇より金剛勝院および押小路殿を伝領。なお九条兼実の子良恵、後鳥羽天皇の皇子長仁親王・守成親王(の
42. いんぼう‐か【陰謀家】
日本国語大辞典
企てる人。よく、謀反、悪事などを計画する人。*安吾新日本地理〔1951〕〈坂口安吾〉飛鳥の幻「九条兼実という九条家始祖の関白は藤原氏歴代の中で特に実利派の陰謀家
43. 宇治拾遺物語 113ページ
日本古典文学全集
僧正の疲労回復の治療法。これについて新大系が紹介している『明月記』元久元年十一月二十九日条の九条兼実からの次の伝聞記事は、それが覚猷個人の奇習でなかったことを証
44. うすきのしょう【臼杵庄】大分県:臼杵市
日本歴史地名大系
徳天皇皇后であった皇嘉門院藤原聖子(藤原忠通の娘)に譲られており、聖子はこれを養子九条良通(九条兼実の子)に譲り渡している。文治年中(一一八五―九〇)に原図が作
45. えしん【慧信】
日本人名大辞典
1124−1171 平安時代後期の僧。天治(てんじ)元年生まれ。藤原忠通の子。九条兼実の兄。保元(ほうげん)2年興福寺別当となり,同寺一乗院にはいる。延暦(えん
46. えちごのくに【越後国】新潟県
日本歴史地名大系
源頼朝らが東国に平氏追討の反旗を掲げると、平家は地方豪族を起用して反平家軍を押えようとした。九条兼実の「玉葉」にも越後から信濃の木曾義仲軍を攻めた城資永の風聞が
47. えびのしょう【衣斐庄】岐阜県:揖斐郡/大野町
日本歴史地名大系
九条家領。現大野町大衣斐・小衣斐に比定される。元久元年(一二〇四)四月二三日の九条兼実譲状(九条家文書、以下同文書は省略)に「美濃国宇多勅旨衣斐・石田」とある。
48. おおいずみのしょう【大泉庄】大阪府:和泉市/府中村
日本歴史地名大系
宿の雑事は九条家領大泉庄と八条院領宇多庄(現泉大津市)が奉仕している。元久元年(一二〇四)四月二三日の九条兼実置文(九条家文書)によれば、当庄は兼実から娘後鳥羽
49. おおいずみのしょう【大泉荘】
国史大辞典
にみえるのが初見で、この時養子良通に譲ることを条件にその実父九条兼実に処分されている。良通は早世のため、元久元年(一二〇四)九条兼実置文(『九条家文書』)で宜秋
50. おおいずみのしょう【大泉荘】 : 大泉荘/(二)
国史大辞典
にみえるのが初見で、この時養子良通に譲ることを条件にその実父九条兼実に処分されている。良通は早世のため、元久元年(一二〇四)九条兼実置文(『九条家文書』)で宜秋
「九条兼実」の情報だけではなく、「九条兼実」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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武田勝頼(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五四六-八二戦国・安土桃山時代の武将。甲斐の武田信玄の四男。母は諏訪頼重の娘。天文十年(一五四一)六月、父晴信(信玄)が武田家当主となり、翌十一年信濃国諏訪郡を攻め、諏訪頼重を誅殺した際、その娘を側室として同十五年勝頼が生誕した。四男なので諏訪氏の
松平広忠(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五二六-四九戦国時代の三河国の武将。徳川家康の父。千松丸、仙千代、次郎三郎。父は清康、母は青木貞景女。大永六年(一五二六)岡崎生まれ。天文四年(一五三五)十二月に清康が尾張守山で死んだ時は十歳。織田信秀の来襲は撃退したが、桜井松平家の信定に追われて
松平信康(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五九-七九戦国時代の武将。竹千代、次郎三郎。永禄二年(一五五九)三月六日駿府で誕生。徳川家康の長男。母は関口義広女(築山殿)。桶狭間の戦後も駿府に抑留されていたが、同五年人質交換で母とともに岡崎へ引き取られた。六年三月、織田信長の女五徳(徳姫)と
平岩親吉(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五四二-一六一一戦国時代末期徳川家康に仕えた武将で、江戸時代初頭に譜代大名となる。天文十一年(一五四二)三河国に生まれる。父は松平宗家譜代の親重。母は天野清右衛門貞親の女。幼時より徳川家康に仕え、家康が幼名竹千代のころ、人質として駿府の今川義元のも
鳥居元忠(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五三九-一六〇〇戦国・安土桃山時代の武将。天文八年(一五三九)生まれ。鳥居忠吉の子で、徳川家康が今川氏の人質となったとき駿府に随従し,のち,家康の三河統一、遠江経略の戦に従軍する。元亀三年(一五七二)の三方原の戦で負傷して跛になったという。天正十年
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