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  11. 大江広元

大江広元

ジャパンナレッジで閲覧できる『大江広元』の世界大百科事典・日本大百科全書のサンプルページ

世界大百科事典

大江広元
おおえのひろもと
1148-1225(久安4-嘉禄1)

鎌倉前期の幕府の重臣。式部少輔大江維光の子で,明経博士中原広季の養子となり,鎌倉に下るまでは外記として文筆の職にあった。源頼朝と親しかった,同じ広季の養子親能の関係から頼朝に招かれ,1184年(元暦1)以来,幕府の公文所ついで政所の別当となり,草創期幕府の発展に力を尽くした。なかでも朝廷との折衝に重きをなし,平氏追討の時期には頼朝の意を朝廷に伝える役を果たし,85年(文治1)11月には守護地頭の設置を頼朝に献策している。90年(建久1)に頼朝に従って上洛すると,そのまま京にとどまり,明法博士,検非違使となって,朝幕関係の安定化に努めた。頼朝の死後は,政子の信任を得て,北条氏を中心とする執権政治確立の基礎固めをした。99年(正治1)に将軍頼家の訴訟親裁を止め,13人の有力御家人による合議政治を開始した事件,1203年(建仁3)に比企能員を討ち,頼家を伊豆に退けた事件,それぞれに広元は大きくかかわっていた。北条時政が執権として力を振るうと,いったん政所別当を退くが,05年(元久2)の時政出家と平賀朝雅追討,13年(建保1)の和田合戦では,幕府の長老として政子や北条義時を助けた。16年に再び政所別当になると,大江姓に復帰した。翌年重病により出家して覚阿と称したが,将軍実朝暗殺事件,承久の乱,伊賀氏の変と相次ぐ事件の処理にあたり,執権政治の安泰化に努めた。
[五味 文彦]

[索引語]
中原広季 覚阿


日本大百科全書(ニッポニカ)

大江広元
おおえのひろもと
[1148―1225]

鎌倉幕府前期の重臣。平安時代以来の学問の家柄である大江氏の出身。明法 (みょうぼう)博士中原広季 (ひろすえ)の養子となり中原姓を称したが、1216年(建保4)本姓に復した。初め、京の朝廷において外記 (げき)として局務に携わる中堅官僚であったが、1184年(元暦1)ごろ鎌倉に下向、幕府公文所別当 (くもんじょべっとう)に就任した。91年(建久2)政所 (まんどころ)開設に伴い、その別当となり、明法 (みょうぼう)博士、左衛門大尉 (さえもんだいじょう)、検非違使 (けびいし)に任ぜられ、当時異例の人事といわれた。初期幕府政治に参画した京下り官人を代表する人物といえる。源頼朝 (よりとも)の腹心として京、鎌倉をしばしば往還し、朝幕間の折衝にあたった。頼朝の死後は、北条政子 (まさこ)、義時 (よしとき)と協調し執権政治の基礎を築くのに努力したが、1213年和田義盛 (わだよしもり)が義時の強大化に抗して兵をあげると、広元もまたその攻撃を受けた。17年病により出家し覚阿 (かくあ)と称した。21年(承久3)の承久 (じょうきゅう)の乱に際して、広元の長子親広 (ちかひろ)は当時京都守護の任にあって後鳥羽 (ごとば)上皇方にくみしたが、広元は関東にあって積極的な京都攻撃策を主張し、幕府方を勝利に導いた。嘉禄 (かろく)元年6月10日痢病のため没した。

[近藤成一]

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検索コンテンツ
1. 大江広元
日本大百科全書
鎌倉幕府前期の重臣。平安時代以来の学問の家柄である大江氏の出身。明法みょうぼう博士中原広季ひろすえの養子となり中原姓を称したが、1216年(建保4)本姓に復した
2. 大江広元
世界大百科事典
1148-1225(久安4-嘉禄1) 鎌倉前期の幕府の重臣。式部少輔大江維光の子で,明経博士中原広季の養子となり,鎌倉に下るまでは外記として文筆の職にあった。源
3. おおえ‐の‐ひろもと【大江広元】
日本国語大辞典
鎌倉幕府の重臣。大江匡房の曾孫。中原広季の養子。文章道・明法道を修めて学問・法律に通じ、事務官僚として活躍。はじめ朝廷に仕えたが、源頼朝に招かれて公文所別当とな
4. おおえのひろもと【大江広元】画像
国史大辞典
一一四八―一二二五 鎌倉幕府草創期の重臣。初代の政所別当。父は式部少輔大江維光。一説には、父藤原光能、母大江維順女で、後に母の兄弟大江維光の養子となったとする
5. おおえの-ひろもと【大江広元】
日本人名大辞典
1148−1225 鎌倉時代の幕府官僚。久安4年生まれ。中原広季(ひろすえ)の養子。父は大江維光(これみつ)(一説に藤原光能)。学問や法律にくわしく,源頼朝にま
6. 大江広元[文献目録]
日本人物文献目録
【図書】:2件 【逐次刊行物】:1件 『日本百傑伝 第二編』松井広吉(編)『頼朝をめぐる人々』新田英治『大江広元』草間蔵人
7. 中原広元・大江広元
日本史年表
1184年〈元暦元(4・16)(寿永3) 甲辰〉 10・6 頼朝, 公文所 を設け, 中原(大江)広元 を別当とする(吾)。 1225年〈嘉禄元(4・20) 
8. 大江廣元承久役與軍議 (見出し語:大江廣元)
古事類苑
兵事部 洋巻 第1巻 149ページ
9. 大江廣元爲政所別當 (見出し語:大江廣元)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 679ページ
10. 大江広元花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
11. あいこうぐん【愛甲郡】
国史大辞典
る。平安時代に毛利荘が立てられ、鎌倉時代には愛甲荘(熊野山領)もあった。毛利荘は建久のころ、大江広元の所領であり、その子季光は毛利を号し、その子孫は中国地方に移
12. あいこうぐん【愛甲郡】神奈川県
日本歴史地名大系
云々」とあり、この頃毛利庄と改めたものと考えられる(→毛利庄)。建久(一一九〇―九九)の頃は大江広元の支配下にあったと考えられ、のち第四子の季光が所領を継いで毛
13. あかなべのしょう【茜部庄】岐阜県:岐阜市/旧厚見郡地区
日本歴史地名大系
代わって地頭の名がみえるようになるのが、承久の乱以後のことである。さて乱後地頭に補任されたのは幕府の有力者大江広元の第二子長井時広であった。貞応二年(一二二三)
14. 茜部荘
日本大百科全書
ん77町4反240歩と畠はたけ30町となった。1221年(承久3)の承久じょうきゅうの乱後、大江広元の第2子長井時広が地頭職に補任ぶにんされ、以後その子孫が地頭
15. あかなべのしょう【茜部荘】
国史大辞典
この荘の年貢は東大寺の学生の衣装料にあてられ、毎年絹百疋・綿千両を納める定めになっていた。鎌倉時代には大江広元の第二子長井時広に始まる長井氏が地頭になっているが
16. あがわぐん【吾川郡】高知県
日本歴史地名大系
源頼朝は京都の六条左女牛にあった六条判官源為義の遺跡に石清水八幡宮を勧請して六条若宮(左女牛八幡)をたて、大江広元の弟の季厳阿闍梨を別当とし、土佐国吾川郡地頭職
17. あきのくに【安芸国】広島県
日本歴史地名大系
応仁の乱でも東西に分れて争うという状態が生じたが、そこへ大内氏や尼子氏の勢力が侵入した。毛利氏は、大江広元の四男季光に始まる相模国の武士で、鎌倉幕府から祇園社領
18. あげのしょう【安下庄】山口県:大島郡/橘町
日本歴史地名大系
下庄辺りにあった妙法院(現京都市東山区)領の荘園。文治二年(一一八六)一〇月源頼朝によって、大江広元が地頭に補せられた大島三ヵ荘(建久三年六月三日付「前右大将家
19. あさくらのしょう【朝倉庄】兵庫県:養父郡/八鹿町
日本歴史地名大系
寺として京都岡崎(現京都市左京区)に建立された寺院で、当庄は皇室領の一。地頭は関東御家人で、大江広元の曾孫、六波羅評定衆の長井因幡守頼重(法名実円)である。当庄
20. あざかのみくりや【阿射賀御厨】三重県:松阪市/大阿坂村
日本歴史地名大系
有其沙汰、被停止件非儀云々、是併被賞歌道之故也、とみえる。世事に疎い定家の年来の愁訴であったが、大江広元消息によって幕府への愁訴を要請されるに及んで、土民の歎を
21. あしづむら【蘆津村】鳥取県:八頭郡/智頭町
日本歴史地名大系
岩山に芦津関山城跡がある。「因幡志」は虫井神社の正中元年(一三二四)の棟札などをあげ、因幡守大江広元の支族が住んだものではないかと推測している。北股川上流を芦津
22. あすかいのりさだ【飛鳥井教定】
国史大辞典
―一二六六 鎌倉時代中期の歌人。二条教定ともいう。父は『新古今和歌集』の撰者の雅経。母は鎌倉幕府の重臣大江広元の娘。侍従、少・中将、右兵衛督を経て、建長五年(一
23. あすかい-のりさだ【飛鳥井教定】
日本人名大辞典
鎌倉時代の公卿(くぎょう),歌人。承元(じょうげん)4年生まれ。飛鳥井雅経(まさつね)の子。母は大江広元の娘。文応元年左兵衛督(さひょうえのかみ)となる。正三位
24. あすかいまさつね【飛鳥井雅経】
国史大辞典
豆に配流され、兄宗長も解官されたが、雅経は鎌倉に在って、蹴鞠を好んだ源頼家のもとで厚遇され、大江広元の女を妻とした。建久八年(一一九七)後鳥羽上皇の命によって上
25. あつぎし【厚木市】神奈川県地図
日本歴史地名大系
小野神社がある。平安末期、市域には毛利庄・愛甲庄があった。毛利庄は建久(一一九〇―九九)頃は大江広元の所領となり、のち広元の第四子季光が跡を継ぎ、同庄内に住して
26. あまぐん【海部郡】愛知県
日本歴史地名大系
承久の乱で京方となったため没収されて御家人小山氏が地頭となった(小山文書)。海東郡の一部には大江広元の子忠成が地頭に入って海東氏を名乗っている(「元弘三年内蔵寮
27. あみごう【阿弥号】
国史大辞典
教化のなかにとり込んだことに意味がある。鎌倉時代以後は、旧仏教教団の僧はもとより、藤原俊成の釈阿や大江広元の覚阿など、出家入道した公武をはじめ、庶民にもひろまっ
28. いせさきし【伊勢崎市】群馬県
日本歴史地名大系
姻関係を結ぶなどして、家を継承していった。すなわち淵名庄には中原季時が入って淵名氏を名乗り、大江広元の子宗元も那波郡を与えられ那波氏を継承している。隣接する玉村
29. いちしぐん【一志郡】三重県
日本歴史地名大系
に比定)などがみえる。これらの庄の地頭・預所はほとんどが工藤・市河・渋谷といった東国御家人や大江広元・中原親能らの幕府の要人で占められている。これに先立つ元暦二
30. うきしまいなりじんじゃ【浮島稲荷神社】山形県:西村山郡/朝日町/大沼村
日本歴史地名大系
真言宗の広がりとともに農耕神としての稲荷信仰を生み出したのであろう。建久四年(一一九三)には大江広元の推挙により源頼朝が社殿を再建したと伝える。以後寒河江庄の大
31. うしだじょうあと【牛田城跡】愛知県:知立市/牛田村
日本歴史地名大系
[現]知立市牛田町 中新切 猿渡川北岸高地に築かれた中世の平城跡。「牛田古記」に、源頼朝の臣大江広元が建久三年(一一九二)牛田城を築いたとあるが、当時の城は字湯
32. えがらてんじんしゃ【荏柄天神社】神奈川県:鎌倉市/二階堂村地図
日本歴史地名大系
「吾妻鏡」によると建仁二年(一二〇二)九月一一日、将軍頼家は当社の祭(「風土記稿」は道真三百年忌という)に大江広元を奉幣使として派遣、建保元年(一二一三)二月二
33. えちごのくに【越後国】新潟県
日本歴史地名大系
最北の小泉庄には武蔵国秩父郡出身の平姓秩父氏がそれぞれ地頭職を与えられた。また刈羽郡佐橋庄では幕府政所別当大江広元の一門毛利氏、蒲原郡福雄庄では池氏が地頭となっ
34. 江戸温泉紀行 215ページ
東洋文庫
しになん有ける。右の方へ壱丁ばかり行ば、嶋津忠久のみ墓、矢倉のうちに有。十杖ばかりはなれて、大江広元のみ墓、是も矢倉の内に有。この君は、其ころの博士にて、鎌倉の
35. おおえのちかひろ【大江親広】画像
国史大辞典
生没年不詳 鎌倉時代前期の武将。左近将監、遠江守、武蔵守、正五位下。父は大江広元、北条義時の女を妾とする。源姓を称した。広元の長子として早くより将軍の使、側近
36. おおえの-ちかひろ【大江親広】
日本人名大辞典
?−1242* 鎌倉時代の武将。大江広元の長男。将軍源頼家(よりいえ)・実朝(さねとも)の側近として重用される。建保(けんぽ)7年(1219)実朝の死後出家。同
37. おおえの-まさのり【大江匡範】
日本人名大辞典
1140−1203 平安後期-鎌倉時代の官吏。保延(ほうえん)6年生まれ。式部少輔大江維光(これみつ)の長男。大江広元の兄。太皇太后宮大進(たいこうたいごうぐう
38. 大岡政談 1 169ページ
東洋文庫
。これに加えて直助権兵衛や煙草屋喜八など『大岡政談』の中の主人公達も登場して来る。大岡忠相は大江広元、吉宗は頼朝に置き替えてある。講談本の『大岡政談』の形成過程
39. おおくら【大倉】
国史大辞典
二日条に、源頼朝が大倉郷の新亭に移ったことがみえる。これがいわゆる大倉幕府である。大倉には、大江広元・北条義時ら幕府の重臣の亭館が多く、また頼朝建立の二階堂永福
40. おおしまぐん【大島郡】
国史大辞典
日前(ひくま)保・由良保などの公領に分かれ、公領の地頭に江所高信、さらに三ヵ荘・公領の地頭に大江広元が補任されたことがあるが、公領は室町時代末期まで存続した。瀬
41. おおしまぐん【大島郡】 : 大島郡/(一)
国史大辞典
日前(ひくま)保・由良保などの公領に分かれ、公領の地頭に江所高信、さらに三ヵ荘・公領の地頭に大江広元が補任されたことがあるが、公領は室町時代末期まで存続した。瀬
42. おおしまぐん【大島郡】山口県
日本歴史地名大系
大勧進俊乗房重源の管理下に入ったが、それは国衙領のみで、大島では三保のみであった。鎌倉幕府は地頭職として三荘に大江広元、三保へは江所高信を補任。鎌倉期を通じて地
43. おおづまち【大津町】熊本県:菊池郡/大津町/大津村
日本歴史地名大系
産していた(郡村誌)。平町に西光寺跡があり、「国誌」に「浄土宗府ノ源空寺末庵ナリ当寺開基山号等不分明、里俗説大江広元建立ト云ヘトモ不審」とあり、貞享年中(一六八
44. おきたまぐん【置賜郡】山形県:出羽国
日本歴史地名大系
平泉の藤原氏であった。〔中世〕文治五年(一一八九)の奥州合戦後、前出三庄を含む当郡の地頭職は大江広元が拝領、広元から次男時広に譲られ、時広を祖とする大江長井宗家
45. おぎのふくろむら【荻袋村】山形県:西村山郡/大江町
日本歴史地名大系
きた山・を見渡・ひちら木・はゝきてんが記される。また明応年間(一四九二―一五〇一)と思われる大江広元寄進状(同文書)によれば「うるし川前」の「おきのふくろのうち
46. おやまとごう【小倭郷】三重県:一志郡/白山町
日本歴史地名大系
知広元〓畢」とあり、鎌倉初期には大江広元が預所であった。建武三年(一三三六)二月二一日の石塔義慶奉書(熊野速玉神社文書)には「御山戸」と記され
47. かいとう-ただしげ【海東忠成】
日本人名大辞典
?−1265 鎌倉時代の幕府官僚。大江広元の5男。尾張(おわり)(愛知県)海東荘に本領をもつ。左近衛将監(さこんえのしょうげん),刑部権少輔(ごんのしょう)をへ
48. 花押 31[別刷図版]画像
国史大辞典
大内惟信 594 大江親広 595 大江広元(一) 596 大江広元(二) 597 大江広元(三) 598 大江広元(四) 599 大江広元(五) 600 大江
49. かさいきよしげ【〓西清重】
国史大辞典
向に供奉した。同三年までのころに入道。承久の乱には小山朝政らとともに宿老として鎌倉にとどまり大江広元らと軍議に参画し、元仁元年(一二二四)伊賀氏の乱の鎮圧にも老
50. かじわらかげときのらん【梶原景時の乱】
国史大辞典
網羅した六十六名は、十月二十八日鶴岡八幡宮の廻廊に集まって、同心を誓い、弾劾文に連署し、頼家にさし出すべく大江広元に托した。景時排斥の連署状を受け取った頼家は、
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